diary 2003.02
■2003.02.01 土
さほど雪が降った、という訳ではないのだが、昨夜は風が強く、車の周りには雪が吹き溜まっていた。流線型の車の屋根から「ひさし」のように30センチほど張り出した雪の形が、昨夜吹き荒れていた風のままの形をしていて可笑しい。その張り出した雪をハイキック1発でドサッと纏まめて落とす。さて、それをスコップで片付けよう…と思ったが、スコップを置いてあるはずの玄関先をいくら捜してみても、それが見つからない。玄関先には他の戸の除雪道具もまとめて置いてあるのだが、どうも自分のだけが無くなっているようだ。さては昨日の風でぶっ飛んでいったか。プラスチックのスコップ(柄は木製)だし…と思って隣近所に落ちていないか、他の玄関先に紛れ込んでいないかと捜して見たが、それでも見つからない。何故。
とにかく、こちらも出掛けなくてはならなかったので、アイドリングしながら車の中で様々な理由を考えてみた。
仮説その1:昨日の風で果てしなくぶっ飛んでいった。
…これは違うな。同じ所に置いてあった他の戸のスコップはそのまま置かれている。
仮説その2:路上までちょっと飛ばされた後、除雪車に持っていかれた。
…「路駐していた車を持っていかれた」という人がいる(これは実話。しかも車の半分だけもっていかれた)くらいだから、除雪車が駐車場の最奥に積み上げている雪山の中に埋もれていて、春になったら出てくる、という可能性も無い訳ではない。ただ、これも違う。昨夜除雪車が入ったという、その形跡が無かった。
仮説その3:誰かがちょっと借りていった。
…借りていくのならこの近所の住人に違いないのだが、近所には無かったし、そのスコップを使って除雪している人物もいなかった。除雪用のスコップなんて誰でも持っているものだし、わざわざ遠くから来てスコップを持ち出してゆく者がいるとも考えにくい。
仮説その4:盗まれた。
…これが一番可能性が高そうだ。ここに来てからは既に自転車を1台やられている。都会は怖い所だ。昨日除雪を終えたのが夜の7時くらいだったから、それから今日のこの昼までの間にふらりとやって来た誰かが、どういう理由か自分のスコップに目を付けて持っていった。所詮スコップだから、盗んだところで騒ぎにはならないだろう、と。
という結論に達した所で無性に腹が立った。てめぇこら今夜大雪になったらどうしてくれるんじゃいこのたくらんけ! …という感じである。でもまぁ無くなってしまったものはしょうがない。かと言って本当に今夜大雪になっても困るので、出掛けついでに新しいスコップを買ってきた。880円だった。
そうして帰って来てから玄関先を見ると、無くなっていたスコップは昨日置いた玄関先のその場にちゃんと戻ってきていた。本当に誰かが黙って「借りていった」だけのようだった。新しく買ってきたスコップをその隣に立てながら思わず呟く。
…誰じゃい、このたくらんけ!
■2003.02.02 日
千切った綿のような雪が鈍色の空から次々と舞い降りてくる。様々な大きさの雪がそれぞれ様々な速度で舞い降りてくる。そしてその速度は、視界の奥へゆくほどゆっくりになる。スローモーション。雪を見続けている自分も、次第にそのゆっくりとした時間の中へと引き込まれてゆく。空を見上げると、雪は空の1点から降ってくるように見える。空の中心から放射状に。そう。まるで雪の結晶そのものの形をなぞるように、放射状に拡がりながら舞い降りてくる。降る雪を真上から見たらどう見えるのだろう。地上から見上げるのとは反対に、まるで地上の1点へと吸い込まれてゆくように見えるのだろうか。そんな事を考える。通りを走る車の音と、交差点の横断歩道が青になった事を知らせる音が突然耳に飛び込んできて、それまでゆっくりと流れていた時間を掻き消した。話し声と共に、会館の玄関からは黒服の人々が続々と現れてくる。そうして雪降る中を人々は、乱れた列となって進む。黒服を着た自分もまたその列に加わって歩く。前を歩く母の黒服の肩に、雪が次々と舞い降りる。黒服の上、雪の白さは一瞬映えるだけで、それからすぐに幾つかの小さな水玉へと、その姿を変えてしまう。水玉同士はくっつき合って、やがて少し大きくなると、肩からコロンと転がり落ちる。そうして、涙の跡のような1本の濡れた筋を母の背中に残すだけで、消えてしまう。でも雪は涙と違って、乾いても白い跡を残さない。
■2003.02.06 木 (祖母の命日)
月曜からの立て続けの出張が終ってようやくひと息。今日は昨年亡くなった母方の祖母の命日にあたるのだが、皆で集まって坊さんを呼んで、という行事的なことは日曜日に既に終っている。なので今日は、表向きは普段の1日と何も変わらない。ただ、心の中はやはり少し違う。違うのだけれども、よく判らなくもある。もう残り僅かな今日1日を、どういう気持ちで過ごせばいいのだろう。正確な日数で数えた1年とはさほど関係なく、前の日曜日で「一周忌」という気持ちの区切りは、何となくついてしまっている。
昨日行っていたのはあるドラマで有名な道央のとある町で、キンと冷えた夜の空気の中を少し歩いた。盆地の町の外周になった遠くの山麓にスキー場の明かりが点々と灯り、そのゲレンデの麓にはホテルの明かりが塊となってぼうっと灯っていた。頭上には欠けた月が昇っていて、札幌の街では望めない星々が幾つも輝いていた。
人は死んだら夜空の星のひとつになり、星になった命はやがて流れ星となって、再び地上に戻ってくる…という、幼い頃に出会った物語が好きだ。勿論、今この歳となってその物語をそのまま信じている訳ではない。だが、体を去った命の行き先を思う時。その居場所はそんな星達の位置と似たような所かも知れない、と思う事がある。天国だとか地獄だとか、あの世だとかに行く訳ではないのだ。去った命もまた、この世にあり続ける。見上げるとすぐそこにあり続けるのだけど、その場所は遠く離れていて、触れる事はできない。そして、青空に隠される星々のように、日の光の元からは姿を隠し、夜空の中に輝く存在へと変わる。でも、そうした命が思い出の中で輝いているのなら、その命はもうその人の一部になっているとも言えるのかも知れない、などと。
何だかよく判らない事を書いているが、ついでだからもうひとつ。人間や他の生き物には「生きた死んだ」があるけれど、命そのものにはそういったものは無く、ただ状態の違い…のようなものがあるだけなのだと、そう思う。
こんな事を書いている間に、携帯電話のメール着信音が2度響く。ここ1ヶ月くらいで急増した例の広告メール。件名は…まぁどうせ皆周知の内容だから伏せる必要もないだろう。『一発やりたい人…云々』というもの。ふと思う。このメールを見てその気になる人の数よりは、このメールを送ってくる張本人を捕まえて一発どころか数発ぶん殴ってやりたい、と思っている人の方が多いだろう。個人的な好き嫌いを言うなら、コミュニケーションを売り物にするこうした人達は、大抵嫌いだ。
■2003.02.10 月
平日だが休暇を取って連休にしていた。友人の所に内地から来た人物が遊びに来ていたので、一緒に雪祭り見物へ。昨日は雪が融けていたので、街中の道路はグシャグシャになっていた所も多かったが、歩き易いといえば歩き易かった。だが、今日は道が悪かった。昨日融けていた所が凍れてカチカチのツルツル路面。でも、さすがに雪祭り会場となっている大通り周辺の道路は、完璧な除雪がなされていた。ロードヒーティングになっている所も多い。なので内地(四国)から来ていた彼も靴はスニーカーのみで苦もなく歩けたのだが、行き帰りの郊外の歩道は結構辛かったようだ。
そうした歩道、というのがどういう状況か。極端にいうと、その横断面は路面の中央部が盛り上がった「カマボコ型」をしている。まず雪が降り積もる。積もった新雪の上を、まずひとりの人が歩いて足跡を付ける。後から来る人は皆、その足跡を辿って歩き、やがて歩道の真ん中に1本の「踏み分け道」ができあがる。その後で機械の除雪が入り道は平らに均されるのだが、その「踏み分け道」があった歩道の真ん中の雪だけは、周りの雪と比べると硬く踏みしめられている。圧縮されて氷に近い状態になっているのだ。なので、歩道の雪が融けてゆく際。雪はまず両脇から嵩を減らし、真ん中の踏み固められた雪だけがなかなか消えずに残る。そうしてゆるやかな傾斜を持った「カマボコ型」路面が形成される。
今日はそのカマボコ路面が、空の色を映すくらいにツルツルだった。盛り上がった中央部を歩いていると、時折足がツルッと両サイドに取られてしまう。「こんなの人間が歩く所じゃない」 彼が言う。こちらにとってもそれは同じなのだが、やはりどちらかというと地元の人間の方が上手く歩いている。「どうしてそんなスタスタ歩ける?」と。
歩くコツねぇ…何かある? 友人に振る。「人間ドリフト走行じゃねえの?」と、彼が訳の判らない答えを言う。「…だそうです。判りましたか?」 「全然」。
じゃあ、私がコツを教えましょう。まず右足を地面に付く。そうしたら右足が滑らないうちに今度は左足を前に付く。後はそれの繰り返しだ。常に片足が滑る前に次の足を地に付ける。そうすればオッケー。
「できるか、そんなん」
…いやいや。かつては「のび太くん」だって、片足が地面に付く前に反対の足を出す、という方法で空中を歩いていたし。
「そうそう。それと同じ…」と、友人も割って入る。夕暮れの帰り道。「同じだって!」 「…違うってば!」 などと言い合いながらの、楽しい帰り道になった。
■2003.02.13 木
昇りのエスカレーターと階段が併設されている。階段を昇ると地下のバスターミナルの開けた空間へ出る。モザイクの床。まもなく発車するバスの乗り口に、人々が長い列を作っている。その脇を抜けて壁に貼られた時刻表の前へ行く。自分が乗るバスの発車まで、後15分。別室になっている待合室へ向かう。2列に並んだプラスチックの椅子。紙コップの温かい飲み物を売る自販機が1台。100円でコーヒーを買い、空いていた椅子に腰を降ろす。目の前に灰皿がある。灰皿の上には、ゴミ箱へ捨てる手間を惜しまれた空の紙コップと清涼飲料水の瓶が、並べ立てて置かれている。ガラスの向こう。バスが到着して人の列が流れ出す。やがて人々の列は消え、残るのは疎らになった数人だけとなる。待合室の中に目を移す。幾つか並べ置かれた椅子の一番端の壁際に、ひとりのホームレス。腕を組んで足を投げ出した姿勢のまま動かない。起きているのか、寝ているのか。目深に被った毛糸の帽子に隠され、その表情を窺うことはできない。
待合室に人が何人か出たり入ったりを繰り返す。新たな人が何人か、周りの席に腰を降ろす。時折人が自販機の前に立ち停まり、飲み物を買ってゆく。その度にそれまで静かだった自販機はヴーンと唸りを上げて、紙コップの中に飲み物を注ぎ落とす。ふと隣を見ると白いコートの女性が、反対の隣を見ると黒いコートの女性が、それぞれ同じような姿勢で手にした携帯電話の画面を見詰めている。それからもずっと、やがて乗車の時間が近付き、彼女達が次第に長く伸びてゆく乗車待ちの列に加わるため席を立つ、その時までそこから目を逸らさない。
こんなにも辺りをキョロキョロしているのは自分だけだと気付いて、ふと可笑しくなる。周りを見ると皆どこか1点にその目を留めている、そんな人達ばかりのような気がした。
その瞳は何を見詰めているのだろう。動かぬ外の世界の1点を、本当に見詰めているだけなのか。それとも目はそこに置いたまま、自分の内側の世界を見詰めて続けているのか。
時折感じる。外の世界より遥かに広い、内側の世界を持つ人々がいる。己すらも易々と、その内に包み込んでしまう、そんな広い内側の世界を持った人達。そうした人達にとってこの外の世界。とりわけ殺風景な地下のこんな場所には、目を留めるような場所など存在してはいないのかも知れない。メール機能付き携帯電話のもたらした大きな功績のひとつ。それはそうした人達に、こうした場所での「目を留める場所」を与えたことだろうか。
でも俺は、駄目だな。俺の内側の世界は自分が篭れるほど広くない。判っている。だからこうしてキョロキョロと外を見回して、外の世界に身を置いている事を感じていないと、自分を上手く保てそうにない。両手を頭の後ろで組んで天井を見上げる。真っ黒な綿埃を被ったスプリンクラーが並んでいる。再びガラスの向こうを見る。乗車待ちの列が次第に長くなってゆく。コーヒーを飲み干した後の紙コップを手に、その席を立つ。
■2003.02.16 日
今日が満月だろうか。それとも明日だろうか。そう思わせるほどまん丸な月が、空の高いところ。雲の隙間から顔を覗かせ、その雲の隙間の形を曇り空の中に明るく浮かび上がらせている。薄雲1枚透かして柔らかく拡がる月の光はどことなく温かく感じられるから不思議だ。反対に雲ひとつ無い寒空に凛と輝く月の光は、冷たいものに感じてしまう。冷たい光など存在しないのに、その事が可笑しい。
ふと、満月の熱さを思い出した。始めて天体望遠鏡で満月を覗いた、子供の頃の記憶。天体望遠鏡の視界の中に陽炎う月の姿を捉えた、その瞬間に瞳が感じた、あの灼けるような熱さ。その事が当時の自分にとっては物凄く衝撃で、それからしばらく、満月を見てはそれに向けて、満月を掴むように夜空へ手をかざしていた。満月の温度を感じようと。
コートの前面のファスナーを全開にしたまま、手袋も無しに、それでもさほど寒さを感じない夜の家路。厚い雪を載せた家々の軒から滴る水音は、気温のせいだろうか。それとも、屋根のすぐ内側まで届いた室内の暖房のせいだろうか。上の屋根から落ちた滴が下の屋根を打つ。チッチッタンタンチッタタン。薄雪がふわっと積もった夜の静けさの中に、快いリズムが響く。
次の満月の頃には、もうすっかり春らしくなっているのだろう。
■2003.02.20 木
さすがにもう、この日付の西暦を「2002」と打ってしまってハッとする、というような事は無くなっている。2月もとっくに半ばを過ぎた。寒気は相変わらず引き締まったり緩んだりを繰り返しているが、冷え込んだ時の寒さはやはりまだまだ厳しい。2月は寒さが一番厳しい月だ。でもその寒さが逆に春を予感させる、そんな月でもある。人々はもうあちこちで雪の駆逐を始めている。除雪の雪山が一番大きくなるこの月は冬の月の中で、寒さも一番だけれど、春にもまた一番近い月だ。
今年春にひょっとしたらあるかも知れないと言われていた転勤話は、どうやら無くなりそうだ。という事は、これまで今年40パーセント、来年60パーセントだった転勤する確率が、来年はほぼ100パーセントになったという事でもある。あと1年か。とまぁ、そんな感慨にふける間もなく、春からの職場の新体制が示される。自分が属するところは、本当は3人編成なのだが、現在、上司と部下が1人づつ欠員となっている。でもその紙の上の新体制を見ると、これまで空欄だったその上司の所に名前があった。おおっ、と思ってよく見ると、でもそれは自分の名前だった。格上げである。ただ、これまで自分がいたところとその下のポストに名前は無し。つまり、人数とやる事はこれまでと何も変わらないという事。やれやれ。
綿のような、ではなく、今日はガラスの粉のような夜の雪が降っていた。街灯や街明かり、車のヘッドライトの光を背にすると、その光の中でだけキラキラと輝く雪。でも、光の無い空を仰いで見ると、降っているはずのその姿は見えない。顔には確かに雪が当たっているのだけど。
■2003.02.21 金
いつも7時少し前に玄関を出るのだが、その通勤経路でようやく朝陽と出会えるようになった。ようひさしぶり、だとか何とか、思わず挨拶でもしてみたい気分になる。太陽と反対側のやや高いところには、満月からやや欠けはじめた、やがて徐々に濃くなって行く青に薄れてゆく月の姿。
切ない時には青空の中の月がよく見える。そう感じる事がある。身の回りに無数にある風景の中、そういう気分の時にはどうしてそういうもの…薄れゆくもの、消えゆくもの、去りゆくもの、落ちてゆくもの…などに目に留まるようになってしまうのだうろ。
と書いているが、別に今朝がそういう気分だったという訳ではない。朝に見たその月の姿が今になって、そういう気分を連れてきたのだ。何にしろ今朝は朝陽に挨拶したい気分だったのだから。
■2003.02.23 日
移転したついでに、以前別のところで書いていた文章もこちらに引っ越そうと思い立ち、夕方からはずっと過去に書いたその文章の整理をしていた。書いていたものは、無理やり分類するなら日記…というよりはエッセイだろう。2年間書き溜めたものなので、ひとつの文1000字〜2000字程度のものが244編。一応書かれた日付の順に並べてゆくつもりなのだが、書いた日付はあったりなかったりなので、それだけでも大変な作業になりそうだ。
そして、これは自分の癖でもあるのだが、こうした整理や片付けの際、それに伴って出てきたものにいちいち立ち停まってしまって、なかなか先に進まない。先程まで目を通していたのは2年半前に書いた文章だ。それだけ時が空いてしまうと、逆に驚くほど新鮮だったりもする。
こうして過去に書いたものを整理していると、もう2年以上前に送り出したその文章が久しぶりに自分の所に戻ってきたような、そんな気分がして不思議だ。「ホームページ」というけれど、例えばここに文章を載せる事に対して「ホームに置いた」という、そういう意識をあまり持っていない。ここに載せたものは載せられた時点で自分の手を離れ、勝手にどんどん旅立ってゆくのだと、自分はそう感じる。誰かがここに来訪して置いてあるものを読んで行く、のではなく、ここは常に外に向けて電波を発信しているアンテナのようなもので、チャンネルの合った誰かが、漂うそれを拾ってくれている、そういう感覚なのだ。ここに載せた文章は載せられた瞬間に自分の元を離れ、誰かに受信された瞬間、その人の下へ旅立ってゆく。
だから、なのだろう。興味があるのは自分のページを何人の人が訪れた…という事よりも、一度自分の元を離れたものがどこをどういう旅をして、どんな人との出会いをしてきたのか、ということだ。
その全てを書き手が知る事はできない。でも、もし。これら自分が過去に書いてきたひとつひとつの文章が、これまでどんな旅をしてきたのか、その事を語る口を持っていたとしたら。それらからは一体どんな物語を聞くことができるのだろう。
■2003.02.24 月
じゃ、明日からとーさんと沖縄行ってくるから、という母からのメールが昨日届いた。でも、「じゃ」って何じゃ。初耳である。日程や宿泊先については姉貴の家へFAXしてあるから、という。いつ帰ってくるのやら。
ちなみに、勧めてはいるのだが両親はどちらとも携帯電話を持っていないので、旅行中は殆ど連絡不能になる。必要な場面は結構あると思うのだが、母は「基本料金が高い」、親父は「操作が判りそうにない」などと言って結局いつも見送りになる。
でも、基本料はともかく後者は理由にはならないだろう。旅行に行くといえば親父はデジタルカメラとデジタルビデオカメラの両方を持ち歩き、帰ってからは実家のパソコンで、写真はフォトアルバムに纏めCDRに焼き付け、撮った映像の方はビデオカメラとパソコンとビデオデッキを接続して、モニターを見ながらのマウス操作だけで編集とダビングを行っている。「最近こっちがやりたいことにパソコン(のスペック)が追いついてこないんだよな」などと言っている人間である。携帯電話ごときの操作ができない、そんな訳があるはずない。
さて。今度の帰省の際にはどんな写真と映像を見せられるだろう。それを延々と見せられる時間は苦痛でもあり、また楽しくもある。
■2003.02.25 火
帰宅途中、アパートの自分の棟の玄関口まであと少し、というところで背後から「あ、あの人にきいてみよう」と、ふと子供の声。振り向くと小学校低学年くらいの子供が6人、こっちに向かって駆けてくる。そして驚く間もなく囲まれる。そして「すいません」と、その中で一番番お兄ちゃんらしい子供が言ってきた。
「この辺でタナカさんという家、しりませんか?」
知らないよ、じゃ。
…ともいきませんな。6人が皆こっちを見上げているんだもの。さて…と、3棟並んでいるうちの子供達が駆けてきた方向の2棟を指す。
「あっちはもう回ったのか?」 「うん。」
それじゃあ、この棟片っ端から潰していくか。棟の一番端の玄関の戸をカラカラと開け中に入る。子供達がついて中に入ってきて、玄関が満員になる。たなかたなか…それにしても何でタナカなんだ。幾つあるか判ったモンじゃない…と、入り口に並ぶ新聞受けの名札を順に見て行く。空振り。次の玄関へ。同じようにたなかたなか…と新聞受けを見て行く。お、あった。これかな? どうだろう。誰か判る奴ぁいないのか? …いないらしい。顔を見合わす子供達。うーん。4階か、取り合えず行ってみるか! と言ったところで、外に溢れていた子供のひとりが言った。
「ここだよ、ここ!」 と、玄関前の駐車スペースに停まっている1台の車を指している。 「この車、そうだもの」 状況は良く判らないが、それがタナカさんとこの車だったらしい。
「じゃ、もう大丈夫だな」 「うん!」 「4階のこっち側だぜ?」 「うん!」 「じゃ、ね」 「ばいばい、おにーちゃん」 「ほいほい」 手を振り返す。子供達はガヤガヤと階段を昇ってゆく。最初に声をかけてきた子供が「ありがとうございました」と。ちゃんとそう言って頭を下げて階段を駆け昇ってゆく。
別に何もしてないんだがなぁ、と玄関を出ようとする。その時、コンクリの階段内に響く子供の声が、ふと耳に届いた。「いいお兄ちゃんでよかったね」 と。どういたしまして。そのひと言で今日一日の色ががらっと変わったよ。
■2003.02.26 水
午前中、ふわふわの雪が降り続けた。新雪が10センチほど全てを覆った。それまでの雪面のギザギザしたところもデコボコしたところもすべて真新しい雪に覆われて、景色がふんわりと、滑らかになった。雪が降り止んだばかりの午後一番は、久しぶりにそんな冬らしい風景になっていた。
雪の事を書こうとすると、いつの間にか、その雪が別の何物か…気分や心情や記憶など…と結びついてしまう。そうして、そんな雪以外の何か別のものを、その真っ白なキャンパスの上に描き始めてしまう。
そういう事は、自分が書いている時にも多くあるし、他人が書いているものを読んでいても多くある。前にもこういう事を書いたかも知れない。外の世界に視線を置きながら、見詰めているのは自分の内側の世界、という話。等しく雪の降るこの街の中。意外と多くの人が、自分だけの雪を見詰めているのかも知れない。
■2003.02.27 木
ここ最近、額にぽつらぽつらと吹き出物が。何だろう。ニキビか。若いな。
…ではなく。生活のどこかが乱れているのだろうか。生活習慣だとか、食生活だとか、睡眠時間だとか。いや、特に変わったことはない。変化があるとすれば、今は煙草を殆ど吸わなくなっている、というくらいか。でもそれは結構なこと。仕事のストレスか? でも、仕事具合は上等だ。慌しい時期だとはいえ、その慌しさも帰ってから部屋に引きずるほどのものではない。
と、ざっと身の回りを見返して見た。体に起こるこうした変化、というものは、何かの折に自分を見詰めなおす切欠を自身に与えるための、自分の内側からのサインなのかも知れない。
身体的な不調や変調…病気や怪我…といったものも、そんなものかも知れない。自分の今の生活のどこかが綻んでいるよ、そこをみつけて縫いとめる必要があるよ、というメッセージ。それを、この体の中のどこか奥深いところにいる自分が、この体を取り仕切っている自分に対して送って来ているのだ。もう少し自分を気遣いなさいよ、と。言葉ではなく、その唯一の伝達手段。この躰を通じて。
でもまぁそうして周辺を見詰め返してみても、そのニキビの理由がちょっと思いつかない。思春期でも迎えたのだろうか。
■2003.02.28 金
ひとつだけ誰かに近付き、ひとつだけ誰かを引き離す。
そして、ひとつ前にいた誰かと肩を並べる。
そんな事が同時に起こったこの日に感謝。
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