Azure Diary


平成二十三年 皐月


■2011/05/07 土
 そういえば、自分の存在理由について。ずっと昔に辿り着いたひとつの結論がある。格好よく言えば、自分の信念と言ってもいい。それは、

 自分は自分が存在する理由を世界の側には求めない。自分は世界の中の何かしらに望まれたから、存在している訳ではない。自分は己自身の望みによってこの世界に産まれ、己自身の望みによってこの世界に存在しているのだ。

 ということ。これは、当時の自分の状況において、自分の存在を納得させるために編み出した「思考法」と言うのが正しいのかも知れない。とにかく自分は、この考え方に至ることにより拓けた道を歩いて、ここまで生き続けている。
 ただし、他の人に同じ考え方を当てはめるようなことはない。この考え方には長所もあり、短所もある。長所は、どんなに苦しい状況においても、その状況を他の誰のせいにしなくてもよい、ということや、自分が存在する意味づけのために、誰の望みも評価も必要としない、ということ。
 そして短所は、どんなに苦しい状況においても、その状況を他の誰かのせいにすることは決してできない、ということ。ことの結果は全て自己責任、ということ。
 そういうものだから、これはあくまでも当時その状況下にあった自分にとって必要だった思考法であり、世の中の理といった類のものとして思い至ったものでは決して無い。誰にも望まれていないのなら、自分で望んだことにしてしまえ、えいっ! というような自分の人生観のお話。

 まぁそれはそれでよし。それで今まで何とかなってきたのだから。
 この先も、自分は自分の望みによってこの世界にいるのだ。例えどんな状況においても。



■2011/05/08 日
 新しい部屋に越してきて、最初の知り合いができた。
 その相手は玄関からではなく、ベランダからやってきた。
 それは先日、二階にある部屋のベランダで煙草を吸っている時に初めて出会った相手。
 最初は自分がそこにいたことを知らずにベランダにやってきて、自分の目の前の柵の手すりの上に止まってしまい、びっくりしてつかの間硬直した後、遠くの建物まで逃げていってしまった。

 別に何もしねーから、怖がらなくてもいいよ。

 けれど、何度も姿を見せているうち、次第に警戒が解けてきたよう。
 そのうちに、自分がベランダに出ても逃げるのはすぐ向かいの木の枝までとなり、ベランダのすぐ脇にあるトタン造りの小屋の屋根の上までとなり。その距離が次第に縮まってくる。

 意外と好奇心ある奴だな、と想ったところで、ふと思い立つ。
 そうだ、ちょっと待ってな。

 そうして部屋に戻り、米粒をひとつまみ。ひょっとしたら子供の頃のようにできるだろうか、と。
 まぁ当然、餌で釣るのだけど、トタン屋根の上から徐々に、ベランダの柵の手すりの上、ベランダに重ねて置いてあるタイヤの上へと、近い所に誘ってみる。

 食うか? 別に怖かねーよ。

 そんなことを想って伝えてみるのだけど(言葉は通じない相手なので)、相手は想いにしろ態度にしろ、微塵のごまかしも通用しない野生。果たして今の自分に気を許してもらえるのだろうか。自分は人間相手ですら…なのに、と。ふと自分の方が何かを試されているような気分になる。

 そんなことから始まって、そんなこんなで、でも次第にその距離を詰めて行き。
 相手は目の前で置かれた米粒を咥えるようになり、煙草を吸う自分と並んで手すりに止まるようになり、やがて指先で挟んで差し出した米粒を受け取るようになり。

 そして、今日の夕方になってようやく。
 またそれからカメラに慣れてもらうまで時間がかかったのだけど。


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 キミはわたしが怖くないんだね。
 …ありがとう。



■2011/05/15 日
 洗濯物を干し終わって部屋に戻った背後で羽音。ベランダに出ていた自分の姿を見つけたのだろう。振り返ると先週の来訪者が再びやって来ていた。
 雀は、開け放たれたベランダの窓の傍までは飛んでくるのだけど、ベランダの物干し竿で揺れる洗濯物が気になるのだろう。窓の傍でパタパタ…とやっては向かいの木に戻り、またやってきてパタパタしては、再び向かいの木に戻り、と。そんなことを繰返している。
 ベランダに出て、掛けていた洗濯物を脇に寄せる。そうするとしばらくしてこちらへ飛んできて、ベランダの手すりの上にちょん、と止まる。仕事の日は朝バタバタ、帰りは夜なので姿を見るのは一週間ぶりだけど、雀の時間ではもっと長かっただろう。雀にとっては一、二ヶ月ぶりくらいの感覚になるのだろうか。
 カメラを取り出す。前回、カメラに慣れてもらうのに少し時間が掛かったのだけど、雀が気にしていたのはカメラ本体よりも、揺れるカメラのストラップだったようなので、ストラップを隠すように。

 カメラ本体やフラッシュなどは全く恐れていないよう。ただ、雀は動き回るのでピントを合わせるのが大変。カメラを向けてシャッター半押しでピントを合わせて…などとやっていると、ピントが合う前にカメラの上に乗ってしまったりする。なので、あらかじめ手すりや何かでピントを合わせておいて、その距離に雀が入ったところでシャッターを切る、という撮り方しかできない。で、上手く収まっても雀は常に動き回っているので、ピンボケの写真ばかり量産することに。
 ちょっと遊んだところで、餌付けのコメを取りに部屋へ戻る。洗濯物が無くなったので、雀はベランダで遊び放題。ベランダに積んで置いてあるタイヤに掛けてあるカバーの上、雀の体重でも乗るとペコッと凹んだりするのが面白いのだろうか。その上でずっと跳ね回っている。
 そしてコメを持って戻ってくると。タイヤの上からベランダ入口の窓の下まで降りてきて、何かを期待する様子でこちらを見上げて待っている(キラキラ光線出しながら)のがすごく可笑しい。


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 この雀は、どうやら向かいの木の更に奥にある電柱の上、配電盤か何かの箱の中に巣を作り子育て中のつがいのうちの一羽のよう。こうやってベランダで遊んではゆくのだけど、そちらの方に他の雀が来たりすると、チチチとやりながらそちらに向かってゆき、他の雀を追いかけまわしたりしている。
 ただ、自分には。この雀がそのつがいのオスの方なのかメスの方なのか。それとも、入れ替わって両方来ているのか。その辺りが判らなかったりする。…雀って本当にどれも見分けがつかない。



■2011/05/21 土
 朝帰り。普段は早朝と夜遅くしか走ることのない商店街の中を、ちょうど店々が開店準備をしている時間に自転車で走り抜ける。ここ、こんなに賑やかだったんだな、と思う。当番制の夜勤だったけれど、一ヶ月二ヶ月前に比べると最近は落ち着いたもので、深夜に電話が鳴り響くこともなく。おかげで寝ることもできていたので、今日は早く帰って睡眠をとる必要はない。そのまま回り道をし、自転車であちこちの路地、普段の通勤では通ったことのない道を走り回る。
 Tシャツの上に半袖のワイシャツという格好でも、走っているとじわっ、と汗ばんでくる陽気。それなのにふと、街中に秋の風景を感じて立ち停まる。街中には小さな羽虫がたくさん舞っており、その中に、お尻に白い綿毛を付けた雪虫が混じっていることに気付いたのだ。
 それは北海道の晩秋を舞う雪虫よりはもっと小さなもので、お尻の綿毛もそれよりずっと薄いもの。けれどその僅かに青みを帯びた白い躰と綿毛は、紛れもなく雪虫。これと同じような雪虫をそういえば昨秋も見かけた。同じ種類のものがこの時期にも飛ぶのか、それとも秋に見たものとは違う種類なのか、その辺りはよくわからない。
 こちらでは恐らく「雪虫」と呼ばれることもないのだろうけれど、とにかく。この時期に雪虫が飛んでいるのを見たのは初めてのことで。最初は何かの種の綿毛が飛んでいるのかと思った。

 北海道では、就職して車を買うまではずっと自転車生活だった。北国の晩秋の雪虫乱舞は、それはなかなかいい風景でもあるのだけど、自転車で走る者にとっては天敵のようなものだった。
 雪虫の飛び方は空中をふわふわ漂っているだけで、向こうから人を避けたり、ということはない。比較的目立つ虫でもあるので、なるべくこちらが躱すように走るけれど、群れにあたると到底避けきることもできず。服に付いたり髪についたり袖口に入ったり、目や口の中に飛び込んだり。
 だから、片道10キロの自転車通学をしていた高校時代などはその時期、結構大変だった。走り終えた後の紺色の制服に雪虫の白い衝突痕が点々と、それこそ無数に残されていたのを憶えている。

 そうして白い痕跡を残して、消えて行く雪虫たち。
 季節が違うとはいえ、久しぶりに自転車で雪虫に出会いながらそんなことを思い出していた。
 その後、スカイツリーを背にしながら荒川の河川敷を走り、いつもとは違う橋で川を渡り。普段4キロの道のりを2時間かけて帰宅する。帰宅してから、熱気のこもった部屋の窓を開ける。やがていつもの雀がベランダにやって来たけれど、今日はその口がずっと半開きのままだった。暑いものね。


>>その他の写真(2枚)

 洗濯物がよく乾いた一日。



■2011/05/29 日
 「頑張れ」という言葉を検索してみるとわかるのだけど、この言葉には常に批判がつきまとっている。そうした「頑張れ」は、座り込んでいる相手を立たせようとする時、立ち停まった相手を前に進ませようとする時。そんな時によく使われているような気がする。それは、相手の現状に変化を求める意味で用いられているのだろう。
 適否はともかく、励ましの意味であることには違いない。そうして「頑張れ」と言われて「よっしゃ、頑張るか」と立ち上がることもあるだろう。ただ、受け手の状態によっては、そうした意味での「頑張れ」は、重圧、あるいは「余計なお世話」となってしまうこともある。その「頑張れ」が相手の現状に変化を求める意味で使われたのなら、その「頑張れ」は「今のままでいたら駄目」「ほら、立ちあがって前に進まなきゃ」といった、相手の現状を否定するニュアンスも含むことになるから。
 「頑張れ」に対する否定的な意見は、恐らくその言葉がそういった意味で使われ、そういった意味で受け取られたことにあるのだろう。こっちは疲れ切って休んでいるのだ。立ち上がれる状態ではないのだ。どうしてそっとこのまま休ませてくれないのか、と。

 けれど、そうした「頑張れ」は、自分がイメージするところの「頑張れ」とは違う。これは個人的なことなのだけど、同じ言葉について、世間で広まっているその言葉に対するイメージと自分の持っているイメージが何となく、乖離してきているような状態。
 「頑張れ」という言葉の意味。自分はそれを「相手の現状に変化を求める」のではなく「相手が現状を維持することを求める」というような意味だと思っている。なので、駆け足をしている相手を応援する時には「頑張れ!」と叫ぶし、乗っている車のエンジンが不調で息をつきながらも何とかエンストせずに回り続けているような時には、そのエンジンに対して「…が、頑張れ〜!!」と念じることもある。
 それは「よーしその調子で!」「…と、停まるなよ!」といった意味合いなので、それをもし駆け足中に故障や疲れ切って座り込んでしまった相手や、力尽きてエンストしてしまったエンジンに言ってしまうのは、自分の中でものすごく違和感があるのだ。
 座り込んでしまった相手が再び立ち上がることを望むなら、かける言葉は「立って!」だし、停まってしまったエンジンが動くことを期待してエンジンをかけるのであれば念じる言葉は「動け!」や「かかれ!」で、自分にとっては現状維持の意味合いである「頑張れ!」ではない。

 「頑張る」という言葉の語源は幾つか説があるようだけど、自分は「我を張る」が転じた「頑張る」だと思う。その「我」とは「意志」であり、「張る」は緩めないこと、つまり「持続する」こと。なので、「頑張っている状態」というのは「自分の意志、または自分の意志に基づく行動を持続している状態」と捉えている。
 そしてその「行動」というのは、「動いている状態」に限らない。意識的に立ち留まっているのなら、その動かない状態もまた「行動」だからだ。だから例えば「あの人頑張ってるねー」という場合、それは走り続けているランナーのような人に限らず、サウナの中で何十分も座り続けている人や、周りからどんなに批判されても自分の意見を変えない人を指したりもする。
 つまり、自分にとって「頑張っている人」とは、動いている、いないに関わらず「自分の意志によりその状態を持続している人」であり、「立ち停まっていた人が歩き出した」「倒れていた人が立ちあがった」といった相手の何らかの状態の変化を指して「頑張っている人」とは言わない。それは「歩き出した人」であり、「立ち上がった人」なのだ。
 自分は「頑張る」「頑張れ」の本来の意味はそういうものだと思っているので、「頑張って歩き出しなさい」や「頑張って立ちあがりなさい」といった感じの使い方は変だなと感じる。「疲れている人になぜ頑張れと言ってはいけないのか」という疑問とそれに対する色々な(複雑な)回答を目にするのだけど、自分にしてみればそれは「用法が正しくないから」というだけの話になる。

 頑張れ、という言葉には批判があり、その批判に対する批判もある。それを見ていると自分は、その応酬がその言葉の本来の意味とは全くかけ離れたところで行われているような気がして、複雑な気持ちになってしまう。
 本来の意味とはかけ離れた意味で放たれ、本来の意味とはかけ離れた意味で受け取られ、そして批判され。言葉というのは使い手次第。使い手次第、というのは、使い手がどこまでその言葉の本来の意味を理解して話しているか、だ。そして、言葉の大切さとは、その使い方だけにではなく。その意味にもある。本来の意味からかけ離れてしまうと、形だけは生きていても、その言葉は死んでしまう。

 万一、この先。そうした理由で「頑張れ」という言葉。そしてそれに付随して「頑張る」「頑張ろう」といった言葉が駆逐されてゆくようなことがあったら。そんなことがあったら、自分は悲しい。



■2011/05/31 火
 そっと朝が寄り来る汀に君は降り立ち、両手を広げ遥か海原を渡ってきた風を全身にはらませる。水平線のあそこが明るくなってきたよ。太陽が出ようとしているね。そろそろ出ようとしているね。世界を満たしていた青が朱に破られてゆく。水平線の下から湧き出してきた朝陽に染められた君の髪を風がなびかせる。その時、ぼくはその風の運命を知る。いまこの瞬間、君の髪をなびかせるためにこの風は産まれてきたんだ。その証拠にほら、産まれてからずっと何に当たることもなく海原を渡ってきた風が、いまはじめて君に当たりその髪をなびかせている。輪郭を現しはじめた低い太陽が海原に光の道を敷き渡す。君を迎えるために風はやってきた。君を迎えるためにその風はやってきたんだ。今の君ならばその道を歩いてゆけるだろう。風の導きと君の心の中に確かに燈った輝きの随に、光の方へと。汀で永遠に混じりあう波と砂の歌がさざめいた。そっと朝が寄り来る汀に君は降り立ち、両手を広げその身を遥か海原を渡ってきた風に任せてゆく。君を迎えにきた、その風に。


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