Diary


平成二十年 皐月


■2008/05/06 火
 ドライブから先日帰宅。今回は九州と紀伊三県(和歌山、奈良、三重)を除く西日本をくまなく走ってきた。詳しくはまた後日。
 そういえば。昔の距離の単位で、「一里」は3.927Km。なので、「千里の道も一歩から」の「千里」は千倍して3,927Kmになる。で、今回の自分の走行距離が3,980キロ。

 お、千里越えた。


■2008/05/11 日
 記憶というのはまるで川の流れのようなもので、思い出というのは、その川が行きつく海のようなもの。川は流れたり澱んだり、曲がりくねったり渦を巻いたり。自分の中でそんなことを繰り返しながら、ぐるぐると。そうして経験が川にあるうちは、まだ経験は記憶なのだ。記憶の領域にある。でも、そんな記憶もいづれ海に出る。広い広い、青く深い、海へ。そして記憶はそこで思い出に変わる。海は思い出の領域。そんな感じなのだと思う。
 川を流れていた記憶が、いつ、どの時点で思い出の海へ出るのか。その境目はどこにあって、どの時点で、記憶はその境目を越えるのだろう。今の自分には、それが何となくイメージできる。記憶が思い出になる、その「瞬間」は、わからない。けれど、今まで「記憶」だったものが「思い出」に変わった、という、その変化だけは、何となく。規則というか定義というか、そういうものがあるような…と、思えるようになった。
 痛みや辛さ、悲しみを伴う経験がある。その後しばらく、その事を思い出すだけで、そうした痛みや辛さ、悲しみが蘇る。感情だけではない。思い出すと、お腹の辺りがきゅうっとしたり、動悸が激しくなったり、指先が冷たくなっていたり、ぼうっとして、気が付いたら赤信号の横断歩道を渡っていてクラクションを鳴らされたり、と。そんな体の反応も伴う状態が続く。
 けれど、そうした状態を繰り返し、その間にも自分は新たな経験と、新たな時を重ねてゆく。そうしてゆくうち、やがて、その経験のことを思い出しても、何と言うのだろう。思い出したそのことに、体が、反応しなくなるのだ。

 そこ、なんだと思う。記憶が思い出に変わる。その境目というのは。
 それでも、思い出した時に辛さや悲しみという「感情」は、その時点でも確かに伴う。けれど、その境目を越えた時。その辛さや悲しみ、というのは、体の反応を伴う辛さや悲しみ、とは、違うものになっている気がする。思い出すのは、確かに辛くて、悲しいこと。それでも、そのことで実際に泣いたり、胸がきゅっと締め付けられたりする。そういう肉体的な感覚は、伴わなくなる。辛い悲しいは同じでも、それに体が反応するのとしないのとでは、全然違うものなのだ。

 川と海との境目。川の長さにも色々あるけれど、どんな川にもその境目は必ずある。そして、海に注がない川なんて、ない。川は必ず海に注ぐ。どんな川であっても。どんな大河であっても。と、自分はそう信じる。


■2008/05/21 火
 雨のち曇り、のち霧、のち晴れ。霧と晴れの境目のとき、久しぶりに風を見た。
 日付ももう変わろうか、という時刻にベランダへ出ると、月が丸かった。最初は夜空の天幕…暗幕に空いた穴のようにしか見えない、白い円かな月。見続けているうちに月の模様が見えるようになって、それが宙に浮かぶ物体だということが、そういう事前の知識がなくとも判ってくる。そうして。ベランダに肘をついた手で顔を固定したまま、煙草一本分くらいの時間、月を見続ける。すると、月が動き出す。ゆっくりとした月の動きが見えるようになる。月のリズム。

 アナログ式の時計があるとする。文字盤の上には3本の、それぞれ廻る速度が違う針…時針、分針、秒針がある。仮に文字盤をそのそれぞれの針の一生だとする。0時の位置からスタートし、一周して12時でゴールする、その一回転がその針の人生だと。そうすると、それぞれ3本の針の人生は、時針が12時間、分針が1時間、秒針が60秒、となる。つまり、秒針よりは分針が、分針よりは時針が、より長く、より多く人生を生きた、ということになる。
 ただし、それはあくまでも「時間」という尺度を用いた時の話。「秒針の一生は60秒」「分針の人生は1時間」というように、人生を「時間」という尺度で計ると、それぞれ人生というものにも「長い」「短い」といった差異が生じる。

 でも、その「時間」という尺度を取っ払ってみるとどうだろう。人生とは文字盤を一周するのに何時間何分かかるか、ということが大事なのではなく。かかる時間など関係なく、一周すること。文字盤をきちんと周り切ることが大切なのだと。
 人生で大切なのは、その人生を生き切ることであり、何年生きたか、ということではない。時間は長くても、周り切らずに人生を終える人もいるし、時間は短くても、きちんと周りって人生を終える人もいる。まだ巧く表現できないのだけど、何となく、今の自分はそんな気がしている。

 そういえば。ひとつだけ持っていた腕時計。普段殆どしないのだけど、この間ふと見たら壊れていた。裏蓋が持ち上がっていたので、どうしてだろうと思って開けてみたら、竜頭の付け根の辺りの内部が錆びており、その錆びの盛り上がりが裏蓋を持ち上げていた。北海道時代から長年使っていた腕時計。こちらの湿気のせいなのだろうか。

 まぁ、というわけで、今自分は腕時計というものを持っていない。


■2008/05/23 金
 昨日、片道5キロちよっと、標高差200メートルという恐怖の駆け足コースを久しぶりに(今年初めて)走ってきたら、もう今日は足がガクガクの状態。筋肉痛、というより、一部確実に痛んでいる気がする。まぁ、この痛みが取れたらまた走って、期間を置いてまた走って、を繰り返し、走りきっても痛みがでなくなる段階までくれば大丈夫だろう。
 何が大丈夫か、というと、また今年も計画している富士登山。過去2回登って、どのくらいの体力を維持しておけば、富士山から帰ってきてもノーダメージでいられるかが、大体わかってきた。自分の場合、事前にそのくらい走り込んでおけば大丈夫。だと思う。
 昨年も何人かで登る予定だったのだけど、都合がつかずに自分だけで登ってきた。今年はどうなるかは知らないが、今のところ意欲を示しているのが3〜4人。危なっかしいのもいるのだけど、頂上まで駆け足で登って行きそうな猛者も加わっているので、その人をリーダーにしていけば、まぁ大丈夫だろう(自分が率いていくつもりはないので)。と思う。

 あとは、当日。その人のペースをいかに抑えるか…になる。と思う。


■2008/05/31 金
 何か人生の目標のようなものはあるのか、なんて訊かれると、そう問うてきた人が期待するような具体的な回答なんてものは持ってはいない。けれど、漠然としたものはある。それは自分の本当の奥底にあって、うまく言葉にできるようなものではない。それでも無理して言うなら、自分が目指したいのは、より人間らしい人間。昨日より今日はより人間らしく、今日より明日はより人間らしく。より人間らしい人間を目指す…なんて、そんな感じで生きていけたら理想だな、と思う。
 ただ、そう書いても、自分が実際にイメージしていることと、いま言葉にしたものとでは、かなりかけ離れている気もする。言葉が足りない。特に「人間」という言葉。日本語の「人間」という言葉は、何というか。あまりにも包括的というか。ようするに形が人間のそれであれば、すべてひっくるめて「人間」になる。そして「人間らしさ」という時。それには愛情や優しさも含まれるけれど、悪意や嫉み、恨み。欲も理性も善悪も、すべてひっくるめて「人間らしさ」とされる。
 だから、自分が「より人間らしい人間を目指して…」と言っても、人によっては「人間らしく理性的に生きる」とも「人間らしく欲のままに生きる」とも、どうにでもとられてしまうのだ。でも、自分のイメージにあるのは、全然そんなものではない。いやー本当にうまく書けない。

 ちょっと間をおいて。多分自分は、その時点で自分が理解するところの「人間らしさ」を、その時々で様々に変えながら、そこを目指して生きたいのだと思う。目指すところは曖昧なのだけど、それはそれで、自分にとってはいいことなのだと思う。例えば「何々を得る」だとか、具体的な達成可能なものを目標にしてしまうと、それは達成したその時点で終わり。達成するのが目的で、手段は問われないのならば、自分なんて目標を達成するのに何をしでかすかわからない。だから、自分にはそういうのは向かない。届きそうになると遠ざかってゆく。そういったものを目標にして、辿り着くことを目的とするよりも、そこへ向かう姿勢が常に問われるような。そんな感じのものの方が自分には向いている…というよりは、相応しいのかも知れない。


 生きる目的がみつからないなら。
 昨日より今日は、より人間らしく。
 今日より明日は、より人間らしく。
 それを目指して、生きてごらんよ。

 何をもって「人間らしい」とするかは、
 その時々の君に、任せるから、さ。


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