Azure Diary 平成二十四年 睦月 ■2012/1/1 日 大晦日の夜8時ちょっと前に部屋を出る。白いウィンドブレーカーの上下を着ているものの、歩くと暑そうなので中は薄着。その代わり、リュックにフリースやネックウォーマーを携行してゆく。 リュックのサイドポケットにポータブルラジオ、肩の部分にLEDライト。ポケットには文庫版の東京地図。そうしてひたすら、歩く。目標は東京タワー。 年越しを控え閑静な街中を、リュックのポケットに挿したラジオで紅白歌合戦を流しながら歩いてゆく。一応、最短距離になるよう歩いているのだけど、途中の田端で落ちていた定期券を拾い、交番を探して一駅分ほど回り道。その他は途中の公園に寄ったりしたくらいで、東大の赤門、皇居、日比谷公園、と順調に歩いてゆく。 流しているのが紅白なので、歩いていても、休憩していても、近くの人が耳を傾けているのがわかる。直接のやり取りはない。けれど、何となくわかる。特に、長渕剛の歌の時と紅白最後の結果発表の時は休憩間だったのだけど、そういう感じで聴いている人がいたので、区切りのいい所までは立たず、去り際にだけ互いに会釈して去る。そんなことがあった。こういう時のラジオには何か、何かゆるく人を結びつける力がある。 日比谷を過ぎた辺りで、ライトアップされていた東京タワーの灯が突然消えた。それまで現物を目印にしていたので、何だ。せっかく着いても灯りなしか、と思う。 そうして、紅白も終ってもう間も無く今年が終る、という頃。東京タワー近くになってくると、同じ方向に向かう沢山の人の列が現れた。走っている人もいる。ああ、そうか。カウントダウンやるから灯消したのかぁ。と。その時気づく。 人が溢れる東京タワーの足元に到着。時計を見ると、狙ってきた訳でもないのに23時58分という奇跡。タワーにはチラチラと星のような光が点滅し、明滅は速度を上げ会場のテンションを上げてゆく。タワーを見ていると、やがて新年を…迎えたらしい。展望室の所に「2012」の文字が現れ、再びタワーに、歩いていた時に見ていたのとは違う色が灯った。歓声と共に。 歓声と指笛に包まれて。そうして、どこかの外人がぶっ放したシャンパンシャワーを顔前で喰らう。そんな年明けだった。本当はもっとひっそりと東京の象徴たる東京タワーに挨拶するつもりだったのだど、これはこれでよし。自宅から東京タワーまで歩いた距離、18.1km。 で、ここからまた歩いて帰るのである。ただでは帰らない。東京を歩き倒す。まず、途中で見つけた虎ノ門の金比羅さんへ。甘酒(甘酒はアルコール分ないので飲める)をいただいて、ポケット地図を開きルート選定。人一人いない霞ヶ関ビルの前を通り、国会議事堂へ。こちらはさすがに警備のお巡りさんがいたのだけど、断って正門の柵に張り付いて見させてもらう。 それから皇居の半蔵門を経て、行けども行けども塀ばかり、のイギリス大使館を過ぎ、3時頃に靖国神社へ。そこそこの人出の中、参拝。資料館の遊就館が営業していたので、1時間ほど観覧。 そこでまたルートを選定。高校の修学旅行の自由時間に一周したことがあるだけの東京ドームへ4時半頃着。こちらは閑散としており、真っ暗な中を一周。 それから上野方面へ。ガラガラのアメ横を通り、雷門の浅草寺へ。この辺りでもう朝6時。もう結構な人出だったけれど、並ぶこともなく参拝。揚げまんじゅうを頂き、おみくじも引く。しかし、凶。 その後、夜が明けてゆく中をひたすらてくてくと。8時頃に荒川の堤防の上で、ようやく太陽が姿を見せる。そうして9時頃に帰宅した。年が明けてから歩いた距離は24.7km。合計42.8km。お、フルマラソン超えた。 ※参考 今回の経路図 (クリックで拡大図。自宅付近は省略) あちこち寄りながらの所要時間は13時間。赤が旧年中の往路、青が今年の復路。と、いうわけで。これまでの人生で最も辛い年越しでした。 まぁ何にしろ、42.8kmの道程も一歩から。大切なのは、まず、最初の一歩を踏み出すこと。明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。 ■2012/01/09 月 青い鳥。 成人の日なので休日。仕事も休み。スズメは今年も相変わらず。 元旦の遠足で翌日はさすがに膝にきた。歩いた距離、というよりも、13時間立ち続けだったのがこたえたみたいだ。元旦は年賀状を回収してそのまま爆睡。けれども昼に大きな地震で目覚めた。この揺れはちょっと危ない、ここでこの揺れなら震源近くはかなり大きい、と。 起き出してテレビを点ける。震度4。震源が東北なら…と緊張したのだけど、震源は太平洋かなり沖合いで津波もなし。これで震源が近くで津波なら、元旦から出勤だった。安心してそのまま寝て、翌日まで足は痛かったのだけど、4日には完全回復して無事に初出勤。そこからはフル活動。そんな正月だった。 実家がパソコンを新調したとのことで、古いのを使うかどうか訊いてきたので、今使っている自分のよりは新しいはず、と送ってもらったのを受領。性能自体は似たり寄ったり。 デスクトップが2台になるのでどうしよう、と。並べて置くか、トイレにでも置くか、と考えた末、2台をLAN接続して新しく来た方をロフトの寝床に置くことに。必要LANケーブルは10メートル。当然持ってないので、電器屋へ。 途中、帰省したのでお土産がある、という人と合流し、まだ初売りムードの電器屋へ行きLANケーブルを買う。10メートルも15メートルも価格があまり変わらなかったので、15メートルを買う。その後、しゃぶしゃぶ食べ放題へ行き、帰ってからLAN構築。そうして部屋内LANが完成した。これで寝ててもパソコンが…しないな。多分。ちなみに、貰ったお土産は九州某エリア限定のカップ麺「焼豚ラーメン」。 実家から送られたパソコンの箱の中には、隙間に(緩衝材がわりに)棒ダラが10本くらい入っていた。なので、パソコンが若干魚臭い。 ■2012/01/15 日 年が変わってから、雪は降らず、雨も降らない。乾ききった日々。先日、年末から続けてきた仕事のひとつの結節を迎える。いよいよトリガーが引かれ、弾が飛んでいった、というところ。けれども、終わりではない。単発ではない。機関銃なのだ。むしろ、スタートしたばかり。しかし、規模の割に全体的には思ったよりスムーズで。場数を踏んだのだな、と思う。自分も、組織も。 年度の四半期の、最後の期がスタートした。三年目の仕事。つまり、この職場での一任期を終えるまで、あと3ヶ月を切った、ということ。職場ではそのことが時々話題になる。「異動の話、何かない?」と。今の所は具体的な話はない。なので、また遠くへ行くことになるのかも知れない。先は見えない。何度も経験してきたこの時期なのだけど、こればかりは、やはり、馴れない。いつもながら、あずましくない。 昨日は週の〆に荒川河川敷を駆け足してきて、疲れてもいたので昼まで寝るつもりで寝ていたのだけど、10時前に地震により揺り起こされる。震度は2。地震に起こされたのは今年2回目だ。 まぁ起こされたのも幸いなので、それから洗濯と掃除。窓を開けて掃除をしていると、また例によってスズメたちが。あらあら。 スズメは適当にあしらって、洗濯機が回っている間に公園をふらっとしてきた。そういえば。公園には銀杏の木がたくさんあるのだけど、その中のいくつか。葉が落ちておらず、枝に葉をつけたまま枯らせた銀杏がいくつかあった。 秋にも、同じ公園内なのに葉が落ちる時期がバラバラなのが少し気になっていた。その後はバタバタしていたので気に留めていなかったのだけど、まさかこの時期になっても落葉していなかった…落葉できなかった木があったとは。 今季はちょっと銀杏が変だ。年末に訪れた国立の銀杏並木も、一昨年に見られたような見事な色付きでもなく、明らかにくすんでいた。ちょっと何かが狂っているのかも知れない。空梅雨のせいか猛暑のせいか。秋の気候があたたか過ぎたせいなのだろうか。それとも。 こうした異変を震災やそれに関連する事態にすぐ結びつけてしまうつもりはない。 例えば。今年は7月の半ばくらいから、今夏は蝉が鳴かない、という話をよく聞いた。震災の影響では。千葉では液状化の影響で蝉が絶滅してしまったのではないか、と。しかし、そうした話は8月を迎えるとぴたり、と聞かなくなった。 実際に、「蝉がいない」と検索をしてみると、そういう内容の記事は多数ヒットするのだけど、その日付は7月半ばから7月末にかけての記事ばかり。8月以降の記事に、同様のものは全くではないが見つからない。「千葉 蝉 絶滅」でも同じで、むしろ「蝉うるさいから絶滅してほしい」といった記事が出てくるくらい。そして、「蝉が少なかった」という事実も、公式なニュースとしては確認していないし、今回の検索でも確認不可能だった。 考えて見ると、全ての土地が液状化した訳ではなく、液状化が発生した土壌というのは、何と言うのだろう。無理をした土壌、なのだ。そして、根に蝉を養うような木はそうした無理をした土壌には根付かない。液状化する土と木がしっかりと根付く土とは、全く異なるもの。そういう仕組みを経験的に知っていれば、影響が皆無とは言わないが、耳でわかるほど蝉の発生量に影響があると言ってしまうにはかなり無理があることが判るだろう。 自分は現地へ行って確認したわけではないが、こちらに限れば蝉の大量羽化を観察した日記を書いたのは、8月5日。7月半ばから7月末に蝉が少ないのは、当然といえば当然だった。つまり、噂にするのが早すぎたのだ。ただ、それは人々の言い様の無い不安の現れでもある。どうこう言うことではない。 しわしわに枯れた葉をつけたままの銀杏に、ふとそんなことを思う。 同じ公園内、別の木には幹にしがみついたままの今夏の蝉の抜け殻。まだ同じ場所で二つ、形を変えることなく幹に残っている。よく見たら、蝉の抜け殻の腹の部分と幹の間の隙間が、いつの間にか細い細い蜘蛛の糸で繋がれていた。この細い糸が、この抜け殻が落ちずにこれまで残っている、理由なのだろうか。それにしてはか細い糸なのだけど。 この抜け殻が消えるのが早いか、自分がここからいなくなるのが早いか。それとも。 とにかく。結構、いい勝負になってきたのかも知れないなぁ、と。そんなことを思う。 ■2012/01/23 月 夜半に雪。積もり出す。薄く積もった雪の上を自転車で、二本の線を引きながら帰ってくる。帰ってから自転車を置いて、この街最初の本格的な雪の中をふらり、と歩く。融けぬように必死に路面に積もってゆくような、そんな雪。重たい雪。蝉の抜け殻の公園を一周して、帰る。夏の名残と冬が交錯する不思議な光景。 ■2012/01/29 日 夕方、車検に車を預けにゆく。店には昨日訪れ話は済ませてあるので、置いてくるだけ。それにしても平成7年車、ということは、今年17歳になる車。高校生じゃないか。車にしてはかなりの年季なので、しっかり診てもらうことに。平日はどうせ車に乗らないので、今週一週間丸々診てもらうことができる。代車も無用だ。 車を預けて、普段は自転車で走っているのだけど、なかなか入った事の無いエリアをぶらぶらしてくる。民主党政権下の事業仕分けで話題になっている「スーパー堤防」が既に完成している地区なので、どんなものか、と。予想以上の規模だった。手っ取り早く言えば、堤防の川と反対側の斜面が、数百メートルに渡ってなだらかに傾斜するように造成されており、その上にマンション群がある。堤防の上にマンションがあるのだ。 堤防ではなく、もうこれは丘の次元。これを全国に何百キロだか知らないけれど、整備するというのは。これはやるにしても、数世紀単位先のビジョンが必要な事業かも知れない。 夕陽の時刻が近づいて、今日なら富士山も見えそうなので、と、橋を戻って船着場の近くの堤防の上へ。この辺り、今月の17日には富士山の頂に夕陽が載る「ダイヤモンド富士」が見られる日、だったらしい。平日だったので見えたかどうかは判らないのだけど。 着いた頃には紅く熟れた陽が富士山の上空に。ダイヤモンド富士からもう10日以上経つので、陽はかなり富士山の右に寄って沈んでゆく。人が何人か、堤防の上に集まっている。そして何人かは三脚を立てカメラを構え。隣に立っていたおばちゃんが話しかけてくる。「あら、ダイヤモンド富士見られると思ってきたんだけど、大分離れてるわねぇ」と。「もう過ぎたみたいですね、でも、そうですね。海に向かって下ってゆけば、どこかで見られますよ、ダイヤモンド富士!」といった話をする。 そんなこんなしているうちに陽はどんどん落ちて、夕陽を見詰める人々。街並み。そうしたものを、影絵に変えて行く。 富士に沈む夕陽は、富士山を目の前にして、何度も見てきた。富士山があるおかげで、日没が早かったくらいだ。けれど。ああ、あそこに住んでいたんだなぁ、と。こうして遠く遠く離れて見ると。とにかく。いい所に住んでいたんだなぁ、と思うと同時に。その富士山が、ここからでも同じ形で見える、ということが嬉しく。 春には、また別の街へ行くのかも知れない。けれど。例えどこに住むことになろうと。その場所は自分の人生にとって、住むことが必要な場所なのだ。自分はもう、この点において、ゆるぎはない。 街の地平に沈む夕陽。消える間際、手を合わせて見送った。 |