Azure Diary


平成二十五年 弥生


■2013/03/10 日
 2月からは仕事がバタバタ。ここではじめて迎える年度末なので、そちらに集中するため日記はお休み。そちらもヤマはひとつ越えて、2月以降、今日はじめて土日連続で休みが取れた、という感じの近況。先月も一度ちょろっと降ったけれど、さすがにもう雪など降る気配はない。すっかり春の陽気。
 仕事も連日上がるのが23時だとか、日付が変わったり、という状態だったけれど、さほど苦にならないのは、住んでいる場所が職住隣接で通勤時間が何と徒歩10分ほどである、ということ。つまり、終電など気にする必要はない(逆に、そういうリミットが無い分気楽に残ってしまうのだけど)。
 そして何より。前の職場でこれに勝る状態を何度も経験しているからだろう。特に。あの震災以降の修羅場に比べたら、今の状態など屁みたいなもの。

 はじめてそれが立ち現れ、対峙した時は、壁としか思えないものがある。けれど、人生において時折立ち現われてくるその壁にしか思えないものは、実は大概が扉であるのだと。自分はそう思う。
 闇の中で城門のような扉に立ちはだかられたら、それは壁としか思えない。でも、それに手で触れて確かめる。あるいは、夜が明けるまで待ってみる。すると、壁としか思えなかったものが、扉であることに気付く。
 壁であると思っているうちは、先に進むことはできない。大切なのは、それが壁ではなく、扉であることに、気付くこと。気付いてしまえば、開く手段は意外と見つかるもので。そうすると、その立ちはだかっていたものが、自分の行く手を遮る壁ではなく、自分が次のステージに進むための扉だ、ということにもまた気付く。
 そして、真に自分の前に立ちはだかるのが越えられぬ壁であるのなら。越えられぬ、とあきらめるのではなく、壁に沿って進んで扉を探してみること。まぁ、越えられる壁なら越えてしまってもいいし、壊せる壁なら壊してしまってもいいのだけど。その辺は柔軟に。怪我しない程度に。

 風の強い一日だった。そして、黄砂やら煙霧やらで、関東地方一円に濃い霞がかかった一日。そのニュースを見て、ふと想う。
 終戦の年の今日、日付が変わった頃から未明にかけて行われた東京大空襲。その日も、来襲する爆撃機編隊は探知しつつも迎撃すべき戦闘機が飛び立てないほどの強風だったという。その折からの強風と、日本の木造家屋に最適化された焼夷弾による攻撃は下町を中心に街を火の海と化した。
 そして翌朝。生き延びた人々が目にした街の光景。それも今日のような。いや、今日よりは遥かに黒く濃いだろうけれど、いまだ燃え尽きぬ焔と巻き起る煙に霞んだ、焼けた街並みだったのではないか、と。そんなことを。

 都民として生活していた時も、この東京大空襲の日、というのは特に話題にもならない日、だったのだけど。東京もまた、大火、震災、空襲と、幾度となく瓦礫の山と化した中から立ち直ってきた街なのだ。そういう点では、さすが範となるべき首都なのだ、という。そのことは、もっと広く知られていても、いいことだと思う。
 東京大空襲による死者は、正確な数字は不明となるけれど、一夜にして10万人以上。そして明日は。今日明日と、鎮魂の日が続く。


■2013/03/24 日
 先週から桜が咲き始めて、この土日がちょうど見頃。ベランダ下の山桜もほぼ満開になる。昼過ぎに車で出てみると、どこも八分咲きから満開の桜。山肌にもぽつぽつと桜の姿。桜の季節。ということは、そろそろ。この町での生活も、一年になる。
 桜、かぁ。とふと思って、夏にダイヤモンド富士を見に行った海岸へ行ってみる。浜には一隻の漁船が打ち上げられていた。状況はよくわからないけれど、座礁、という状態ではなく、傾いた状態で完全に浜に上がっている。その漁船を横目に、ひょっとしたら打ち上げられているだろうか。と、猫の額ほどの砂浜海岸の汀、打ち寄せられた貝の帯に沿って下を向きながら歩く。
 あ、これそうかな。あ、違った。これ本物の桜の花びらだ。あ、これそうだ。と、まず、ツメタガイに開けられたであろう穴の開いた桜貝を一枚。それから、立て続けに左右揃った二組みの桜貝を拾う。前に見つけた時は一枚だけだったけれど、今日は多い。桜貝もやはり、桜の季節が旬なのだろうか。
 ここは湾内で桜貝も寄せるのだけど、ガラス石も他の海岸より多く打ち上げられているように感じる。ちょっと集めてみると、半径10歩くらいの範囲で、水色や緑、茶色や青などカラフルなガラス石が、両手いっぱい集まる。それを波打ち際にじゃらっ、と置いて、ふと。人間って、これまでに一体どれだけの量のガラスを、海に撒いてきたんだろう、と。そんなことを想う。たまたま、ここに打ち寄せられたガラスだけでこれだけの量なのだから。ひょっとしたら海の底なんかもうガラスだらけで。まるでガラスのタイルを敷き詰めたように。なっているのかも知れない。

 浜辺にもかかわらず、付近からは鶯の声。その声と口笛で戯れながら、少しふらふらして帰宅。そういえば、両手いっぱいのガラス石を波打ち際に、撒いてきたままだった。後から来た人が見たら、これ何だろう、と。思うだろうな。いや、その前に、波に浚われて。一度打ち上げられたガラス石は再び海へと。己を磨きに還ってゆくのかも知れない。

 もしそうならば、今よりもっと。
 まぁるくなって、戻っておいで。


<< 睦月   目次  皐月 >>
Kaeka Index.