Azure Diary


平成二十五年 葉月


■2013/08/02 金
 7月は前半が休みなく出勤。後半に余裕が出たので蛍場へ行ってみたけれど、もうゲンジボタルは終わり、ヘイケボタルの季節になっていた。そしてもう、蛍のシーズンも、終わりを迎え、8月。
 そういえば、先月まで蛍を観察していて、気付いたことがある。ゲンジボタル、ヘイケボタルにかかわらず、蛍の光というのは明滅しているのだけど、時に明滅せずに灯りっぱなしになっている光を見つけることがある。それが気になって、普段は消している照明で照らしてみると、そこには動かない。または、動いても、ごく僅かにしか動けず、せいぜいどこかに止まっているのが精いっぱい、という状態の弱った蛍がいる。
 蜘蛛の巣にかかって、糸はぐるぐる巻きにされたまま巣の上に放置されている蛍というのも、そうなのだ。明りを消すと闇の中、星のように灯りつづけたままで空中に静止している。そうした蛍は灯り続けるだけで、明滅もしていない。正しく判断はできないけれど、そうした蛍は瀕死、もしくは、もう既に死んでいる蛍なのだ。けれど、その灯はむしろ、飛んでいる蛍よりも明るく灯り続けていたりする。
 そういう蛍を幾匹か見てきて、ふと思った。蛍の灯は蛍の生命の象徴のようなもので、生命が弱ると暗くなり、尽きるとすっと消えそうな。そんなイメージを抱いていたけれど、違うのかも知れない。ひょっとしたら、生命が尽きても体内の発光成分が尽きるまで灯り続けるもので、蛍は弱ったり死んだりするとその光をむしろ「消すことが」できなくなるのでは、ないのかな、と。
 生きている蛍は、光を当てたり驚かしたりしたら、かなり敏感に反応し、灯していたその光を消してしまう。けれど、弱るとそうした光の制御ができなくなり、灯りっぱなしになってしまうのかも知れない。だとすると、蛍とは本来灯るもので、生きている蛍が意識的にすることは明りを灯すことではなく。放っておけば灯りっぱなしになる明りを絞ったり、消したりする。そういうことの方なのだろう。
 というようなことを。これはあくまでも、仮の話で。少し調べてみたけれど、蛍の光がそういうものだ、というような話が、あるわけでもなく。専門の人が聞いたら笑われるような話なのかも知れない。けれど、そうした蛍を見ていて、自分はただ、そう感じた。それでいい。

 とにかく。光を扱う者は、その消し方も、ちゃんと心得ておくこと。


■2013/08/03 土
 言葉とは、網のようなもので。その網の細かさとは、語彙の豊かさなのだろう。言葉にする、とは、様々なものが入り混じった想いをその網にとおすこと。殆どの想いは網をそのまま通過して流れていってしまうけれど、その中のほんの僅かな想いが語彙の網目に引っかかり、想いは言葉と結びつく。

 死蔵したままの釣り道具を整理したので、夕方に海へ行ってちょっとルアーを投げてみた。しばらく海から離れていたのと、震災後は足が向かなかったこともあって、本当に久しぶりにリールを巻いた。けれど、お魚さんにはかすりもせず。
 防波堤で釣りをしていた人と話してみると、もうシーズンは終わりだけど、アオリイカというものが釣れるらしい。仕掛けをみると「エギ」を沈めてはしゃくり、鎮めてはしゃくり、という釣り方のようなので、ひょっとしたら、釣り道具にそのまま入っていた鮭釣り用のタコベイト仕掛けでも、釣れるかも知れない。この辺り何がいるのかは知らないが、海も近いし、そろそろ、再開するにはいいかも知れない。今度やってみよう。

 夜になって遠くの江ノ島方面で花火が上がっていた。小さな小さな花火を、眺めて帰宅。


■2013/08/10 土
 灼熱の陽気の中、港へ釣りへ行く。タコベイトに針を仕込んだだけの鮭釣り仕掛けに、ナス形重り6号を付けて投げてみる。底をチョン、チョンと這わせながら引いてくる。手ごたえ。グッと重くなるが、アタリはない。根に当たったか。引いてみる。何か付いてる。巻いてくると重いが引きはない。海藻とかゴミとかかな…あれ、引いた。何か知らんが生き物だ! と、巻いて巻いて釣りあげたそれは、タコさんでした。そうして小ぶりなタコさん三匹。しばらくぶりに釣りを再開して最初の獲物は魚ではなく、タコでした。鮭釣りの仕掛けで釣れるとは。タコさんチュ。

 日焼けで肌が茹でダコのようになった。


■2013/08/12 月
 今年のペルセウス座流星群、ピークは明日13日の午前3時。関東方面は所々雷雨なるも概ね天気良し。体調よし。難があるとすればひとつ。一昨日日焼けした腕から肩から首筋がヒリヒリのピークを迎えていて、リュックを負うと負い紐が擦れて痛いくらいか。ただ、どうせ長袖の上着を重ね着することになる。リュックもその上から負うのでクッションになるだろうから、ヒリヒリもそう問題あるまい。
 荷物をまとめて15時前に出発。順調に高速を走り、御殿場インターで降りる。そして買い物。飲み物と食べ物、ホッカイロを買う。それから山へ向かって走り、17時半頃に富士登山道御殿場口に到着。標高1400メートル。頂上までの標高2400メートル。距離10キロ。このルートは辛いとさんざん聞かされて知ってはいるのだが。今年は富士山(世界遺産登録で)ものすごく混むと予測し、ここなら空いてるに違いない、と。今年は御殿場口から初めて登ることに。


 18時過ぎに駐車場発。人はまばら。ひたすら踝まで埋まるような砂の道。六合目はまだかいな、と歩き続ける。やがて日没を迎える。五合目と六合目の間が、とにかく長い。体力的にはともかく、歩きにくい(一歩進んで半歩下がる感じ)のと距離が長いのとで、これは確かに。辛いというより、だるい。何よりも、登山道から見える富士山が遠く、あぁ、あそこまで行くのかー。という気分に。これなら夜か霧かでゴールが見えない方がかえって気楽かも知れない。


 登り口は曇りだったが、そのうち雲を抜けて晴天に。20時頃に標高2000メートル地点に到着。他の登山道だとこのくらいの標高がスタート地点になるが、ここまで既に2時間歩いて600メートル登っていることになる。これは確かに。普通の登山者がここから登らないわけだ(登山道で出会ったのは数グループのみでガラガラ)。
 月の無い夜道。流星があちこちへ流れる。時折、チッチッと空で音がする。姿は見えないが、夜空を飛ぶコウモリの声。富士登山ではよく飛んでいるコウモリの声を聞くけれど、こんな樹木もない標高のある所に虫飛んでいるんだろうか、といつも思う。
 23時半、七合目到着。標高3030メートル。

 六合目以降、足場が砂礫から岩場になって歩きやすくなる。体調も異状なし。スタート地点の標高が低いのと、登るのに時間がかかる(急激に高度が上がらない)分、御殿場ルートは高山病にはかかりにくいルートかも知れない。
 なお、御殿場ルートの六合目付近に宝永山経由で富士宮口からのルートに連結する道がある。以前、皇太子さまが富士宮口からその連結ルートを経て、六合目からこの御殿場ルートで登頂している。なので、同じルートで登ろうという人もいるのか、六合目から若干登山道に人が増えてくる感じ。それでもガラガラなのは同じだけど。

 やがて日付が変わって1時半頃に、八合目着。標高3400メートル。
 看板には英語や中国語などの記載もあるけれど、世界遺産に登録されたからだろうか。時々出会ういくつかのグループも、やはり外国人が多い印象。ただ「もうムリ」という感じのグループや登頂を断念して引き返していると思われるグループも、道中ちらほら。

 後に調べた所では、昨年度の富士山登山者全体に占める御殿場ルートからの登山者の割合は、5%とのこと。なお、あまりまめにチェックしていないが、自分のスマホ(sb)は五合目途中から七合目まで、ほぼ圏外になっていた。


■2013/08/13 火
 空は晴天、いつもの通り、ため息ものの星空。時折、流星。眼下は雲海。関東方面に目を向けると、所々で雷雲が光る。地上に落ちる稲妻が見えるのではなく、雲の間を横に走る稲妻で雲が輝いている。雷雲も高度はありそうなものだけど、地球が丸いからかどうか、この高さから見ると眼下か同じくらいの高度で光っているように見える。実際の高度差はどうなのだろう。
 やがて、御殿場ルート終点の山頂に到着。他のルートから登ってきた登山者がいっぱい。そろそろ流星群のピークの午前3時近くになってきたけれど、人が多いので場所を変える。そのまま時計周りにお鉢を周り、星を見ながらのんびりと馬の背の向こうの頂上を目指す(この時間が寒さのピークなので、動いていないと寒い。登頂後、下手に座り込んで寒い思いをするよりは、疲れていても体を動かし続けていた方がいい場合もある)。そして旧富士山レーダ施設跡や富士山最高地点がある、剣が峰へ。

 富士山の最高地点は、最高峰の標識がある所や三角点のある所ではなく、そこから少し離れた岩の頂になる。写真上の赤でマーキングされた部分が実際の最高地点で、お賽銭?がばらまかれている。ただ、時折タッチしてゆく人がいるくらいでこの場所は意外と知られていないらしく。大概の登山者もツアーも最高峰の標識がある三角点付近に集中するので、この岩の辺りは割と空いている。自分はその最高地点のすぐ脇に座って流れ星を見ながら日の出を待つことに。
 東の空に、久しぶりに見る冬の星座オリオン。そしてシリウス。空が青くなりはじめて来ても、空には流星。時に二個三個、同時に空を流れたりする。そうしてやがてBluehourを経て、明けてゆく空。

 去年は山頂で雲が発生しており望めなかった日の出も、今回は拝むことができた。6回目の富士登山達成(日の出は6回中5回)。でも、今日は四方が雲に覆われており、ひそかに狙っていた「富士山頂からスカイツリーを見る」は、また次の機会に。


 所々、雲から南アルプスやら高い山が顔を出しているだけで特に眺望もなく、影富士を見たりしながらそのままお鉢を時計周りに一周する。ここはまさに荒野だな、と、来るたびいつも思う。荒野という、言葉はよく耳にするけれど、富士山に何度も登っているうち、自分は荒野と聞くとまず、ここの風景が浮かぶようになった。

(剣が峰と山頂レーダ跡。左の斜面が「馬の背」と呼ばれる、直立して歩くことが不可能なほどの超急斜面。各登山道から時計周りに剣が峰を目指すと、距離は近いが山頂を前にこの急斜面が立ちはだかることになる。ゆえに自分は馬の背を「ラスボス」と呼んでいる。右側は比較的緩斜面なので、反時計周りに剣が峰を目指せば距離は伸びるがラスボスは回避可能)

 一周終えてそのまま下山開始。御殿場ルートは巨大なアリ地獄のような宝永山に向かって、まさに落ちてゆくようなルートになる。右のとんがりの部分が、宝永山。

 御殿場ルートは、登山道としては利用者が少ないが、下山道としては人気がある、というこで、下山は結構な人。人気の理由が途中にある「大砂走」で、視界の果てまで延々と、深い砂の直線コースの下り坂になっている。なので、名前のとおり一気に駆け下りることができる。
 のだけど、砂走が始まる七合目付近に来てみたら、眼下の砂走、だれも走っている人がいない。さすがに登り疲れた後だし、荷物もあるし、で、走る人はいないのかな、と。思いつつ。自分は走る。もう漫画のように豪快に砂埃を巻き上げながら駆け下りる。途中で歩いている人を追いこしてゆく際に砂埃を浴びせることになるけれど、惰性が付き過ぎて減速も難しく。なるべく人の風下側に寄るようにだけ心がけて走る。
 やがて麓に近付くと砂の層が薄くなり、それまでのペースだと足の負担に耐えられなくなる。その辺りで砂走、あっという間に終了。何キロあったのかはわからないのだけど、平地でこのペースなら凄いタイムになるな、というペースだった。砂走は俗に「一歩2メートル」と言われるけれど、まさにそんな感じ。

(山腹に見える道が砂走。雲の層を突き抜けて駆け下りる形になったため、適度な湿り気でそれでも砂埃はマシな方だった)

 走っている間は何ともなかったけれど、走るのを止めて歩き出すと、何か上手く歩けなくなっていた。長時間泳いだ後で陸に上がると何だか歩くのに違和感がある、あの時のような感じで。平地を走ってもそんなことはないので、砂走を走る時は使っている筋が違うのかな、と思う。足に震えもある。自分は普段、週1〜2回は10キロ以上の駆け足をしているけれど、普段からそのくらい走っていても、登山に続けて砂走を全力で走る(というより、下り勾配がきつすぎて走りはじめたらスピードの制御ができないため、全力で走るしかない)とこんな感じになる。砂走を一気に駆け下りることができるのが御殿場ルートの魅力、というけれど。これはちょっと鍛えている人じゃないと走るの無理なんじゃないかな、と思う。

 そうして、行きは7時間半ほどかかった行程を、下りは2時間半ほどで降りてくる。砂走の後の下りがまた中途半端な砂の層になり、また距離も長くてさすがに足にきた。駐車場で砂を落として、温泉に寄り。いつものとらや工房で氷あんみつを食べて帰宅。
 そういえば、ニュースで今年から入山料を取る、と言っていたけれど、全くそんなことはなかった。どうやら今年はまだ試行段階で、御殿場口からの登山者は対象外らしい。来年はどうなるかわからないけれど、今年に限れば御殿場口は入山料もないし、他の登山口で実施されているマイカー規制もないし、駐車場もタダで混雑するというほどでもない。さすがに山頂は混むけれど、登山道はガラガラ。それを考えると不人気ナンバーワンの御殿場ルート登山も意外といいのかも…。

 と思ったけれど、もう一回御殿場から登るか、と言われると、やっぱり微妙。


■2013/08/14 水
 今日は特に何もせず。徹夜で36時間行動したので、睡眠も丸々12時間。起きてからは洗濯祭り。特に持ち越すような体のダメージはないのだけど、日焼けしてヒリヒリになった肩にずっと負っていたリュックのせいで、その辺りがとっても触れたくない感じになっている。
 夜になってから、北海道時代のタコベイトと鮭釣りの針を使って、タコ釣りの仕掛けを作ってみる。タコは外道として釣れることはあるけれど、狙って釣ったことはない。でも前回の感じだと狙えば釣れるものなのだろう。針金ハンガー軸にタコベイトを通して、重りを下に付け、針は常に上を向くように固定。こちらでは使い道がなさそうな鮭釣り用の針を全量消費する。
 これでタコ釣れるのだろうか、と思ったが、実際にタコベイトだけで釣れているので、釣れるのだろう。でもそれって共食いのような気もするが。

 そんなことをしながら、ふと思う。最初に何もせず、と書いたけれど。山に登ってきて、埃まみれになった衣類やらリュックやらを洗ったり干したり、後片付けをしている時間。それも、山登りの時間、なのかも知れない。準備もそうだ。山登りとは、山に行って登ったり降りたりしている時間、だけのことではない。準備しているのも、現地へ向かう道のりも、帰ってくる道のりも。そして後片付けしている時間も。それは「登山」なのだ。
 釣りも同じ。海へ行って竿を振るうだけが釣りなのではなく。こうして部屋で仕掛けを作っている時間。そういうのもまた、釣り、なのだな、と。

 なので今日は何もせず、ではなく。部屋にいながら登山と釣りをしていた。そんな、夏休み中盤。
 ベランダから星を見た。日本で一番星空に近い場所から見る星空と、ここから見る星空。本来夜空にどれだけ星があるかを知っていると、ここから見上げる星空なんて、殆ど無いようなもの。それはそれでいとしいものではあるけれど、何というか。もし天の川を見たことがない、という人がいたなら、富士山頂までは行かなくても、一度は見ておいてもいいんじゃないかな、と。

 星の数ほど、って、人によってどう違うのだろう。
 昨日の星空を見ると、星の数ほど、って。無限ではないけれど、数え切るのはちょっと無理だな、と思う。けれど、ここからの星空なら、数えられるくらいの数になる。

 あなたにとって、星の数ほど、は。どれくらいの数ですか。
 そんな質問を、色々な人にしてみたら。おもしろいかも知れない。


■2013/08/25 日
 夏休みからずっと一滴の雨も降っていなかったが、本日ようやく久しぶりの雨が降り、地面を湿らせた。休み明けでぱたぱたした週の週末の雑事をこなしていたら15時になっていたのだけど、雨も上がって曇りになっていたので、そのまま釣り竿積んで出かけることに。
 結果は大き目のタコが2匹。釣ったタコは巾着のように口を絞るタイプの網に入れて、港の岸壁から吊るしておいたのだけど、しばらく放置してから見てみたら自力で袋の口を開けて脱出していた。おお、さすがタコさんやりおるわ、と感心。でも自作の仕掛けでもそこそこ釣れることがわかったので、今後に期待。


■2013/08/29 木
 例えば。あることをそう感じた、という。そのあることを忘れてしまっても、そのあることをそう感じた自分は残り続けるものだと思う。何かをすることも同じだ。したことそのものが残ることは無くても、その時何を思ってそれをしたか。それをした思い。そう思った自分は、残り続けるもの。
 自分は何をしたか。結果がどうなったか。それも大切ではあるのだけど、それには多少なり、相手にとってそれはどうだったか、というような客観的な評価を含んでいる。じゃあ、本当に自分が自身で評価すべきもそこなのか、というと。それは少し違うような気がする。

 本当に自分が自身で評価すべきこと。
 何をして、その結果がどうなったか。は、他人や他人目線の自分が評価するものだ。自身が自身で評価すべきは、したことそのものよりも、自身が何を思いそれをしたか。それをした時の、思い。そちらの方ではないのか、と。
 そして、それはけして他人や他人目線の自分には評価できないこと。己自身でしか、評価できないこと。自分は何をしたのか、ではなく、自分はどうしてそれをしたのか。それをした思いは自分自身で評価しないと、他の誰もしてくれないものだから。それは自身で目を向け、評価し、磨いてゆかなければならず。そして大切にしなければならないもの、なのだと思う。

 いや、ひょっとしたら自分以外にも。もし神さまというのがいたなら。神さまはきっと、その人が何をしたから、ではなくて、その人はどうしてそれをしたか。何を思ってそれをしたか。その思いの方を、見ているのかも知れない。

 そんな存在が、神さまと、いうものなのかも知れない。
 そんなことを考える、夏の終わりに。


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