Azure Diary 平成二十五年 神無月 ■2013/10/06 日 北海道にはいなかったが、こちらにはアメリカザリガニがいるので、是非一度はザリガニ釣りをしてみたい、と思っていた。が、さすがにこの歳になると難易度が高くてなかなかできない。 けれど、考えてみたら先月たまたま釣ったイセエビもザリガニみたいなもので、これは充分にザリガニ釣りの代わりになるのではないか、と、本格的に狙ってみようかと考える。職場の釣りをする人々に「狙って釣れるものなのかねー」と不審がられつつも、仕掛けを作り続けて一週間。作った仕掛けを持って先日土曜の夜7時に出撃し、日付が変わって朝の7時に帰ってきた。12時間耐久、大人のザリガニ釣り。結果はこうなった。 意外と釣れるものである。ふははは釣れたぞーと職場の釣りをする人を呼んで驚かせて、ついでに一匹おすそわけ。台所の流し台の上でわしゃわしゃ動いている残った一匹(といっても30センチ以上ある)を、さてどうしようか、と。悩んだ結果、とりあえず旅行の本の宿の食事の写真なんでみかける姿盛りにしてみた。 でも、この姿にしたのは写真を撮るまでで、サイズ的に乗る器もなかったので、写真を撮ってすぐに頭も解体して味噌汁に。そして晩御飯でごちそうさま。そして、このくらいのサイズって買ったら幾らくらいするんだろう、と思ってネット通販の値段を調べてみると、2匹で1万円超。…エ、コンナニタカカッタノカ。 ただ、これに味をしめてこれから通いつめるか、というと、微妙。なぜなら、徹夜で夜の海に釣り糸を垂れて、12時間で釣れたのが2匹。ということは、1匹あたり6時間。時間コスト的になかなか辛い、大人のザリガニ釣りでした。 ああ、でもまたこのくらいの釣って、実家に送るのもいいかも。 ■2013/10/16 水 朝に台風が通過のため、カッパを着て出勤。ここらでは大きな被害はなかったものの、伊豆大島で大きな土石流災害があったため、職場には若干の動きがある模様。ただ、現在の職場は前の職場のように、こうした時に大わらわする部門ではない。入ってくる情報量がそもそも違うし、ニュースの情報に対する関心や反応も、こちらの職場の人は薄い。同じ組織でも仕事はそれぞれなので、それがいいとか悪いとかは全くないのだけど、やはり多少の違和感は感じるものだな、と。前の職場はこういう時大変だったな。今頃大変だろうな、と。そんなことを思っていた一日。 ■2013/10/17 木 職場で、自分がその仕事をやることの意味を、自分は職場に求めるべきなのか。それとも、自分自身の中に見出すべきものなのか、ということを。ふと考える。 職場全体という大きな視点から見るなら、自分が現在やっている仕事も、それをやるのが別に自分ではなく他の誰かであれ、まずその仕事が片付けばいいわけで。その仕事をやるのが自分である必要はない。だから、職場にとってその仕事を自分がやる、いうことに意味はないこと。 そうして、自分がその仕事をやる、ということの意味を職場に求めることができないのなら。その仕事をやるのが自分である、ということに、自分自身が意味を与えなければ、ならないのだな、と。 前に似たようなことを考えたことがあった。目の前に、水をやらないと今にも枯れてしまいそうな花があるとする。そして、その花に自分が水を与えるとする。そういう場合。水をやらないと今にも枯れてしまいそうな花にとっては、必要なのはあくまでも水であり「誰の水であるか」はどうでもいい。水を与えるのが私であろうが他の誰かであろうが、雨であろうが。そういうことは花には関係ないことで。 だからそういう時、花に水をやるのが自分だとしても、自分が花に水をやる、ということの意味を、花(与える相手)に求めてしまっては、ならない。自分がその花に水をやる、そのことの意味は、あくまでも。自分自身が持つものなのだ、と。 もし、折々に自分が人を助ける局面が訪れるとしても。相手の状況が、誰かの助けが緊要な状況であればあるほど、自分が相手を助ける、ということの意味を、相手に求めてしまってはならないのだと思う。相手にとって必要なのは助かることであり。自分がするべきことは、相手が助かるために最善の手段を取ることで、助けるのが自分である必要はない。 自分が助ける、ということの意味は、相手に求めるものではない。 自分が助ける、ということの意味は、自身の内に、見出すもの。 それが本当の意味で、助ける、ということ。 というより。そんくらいでなきゃ、人は助けられないよね。 ■2013/10/20 日 自分の満たされない部分を、取りあえず満たしてくれるもので満たすか。それとも、満たされない部分を抱えて生きてゆくか。それは自分自身、もそうなのだけど、例えば。恋人がいない、という状況や。週末や連休の予定が空白で、だとか。そういうことにも言えるかも知れない。 そういう自分が「満たされない空白」と感じる部分を、取りあえず満たしてくれるもので満たすか。それとも、満たされない部分を抱えて生きてゆくか。ということ。それはひとそれぞれだけど、いつも取り合えずのもので満たしていると、本当にそこに満ちるべき大切なものに出逢った時に入るスペースがなくなってしまうような気がする。 自分の中の満たされない部分も、いづれそこを満たす大切なものに出逢った時にそれを受け容れるためのスペースとして、取っておく。そういう考え方も必要なのかな、と。そんなことをふと思う。 そういう考え方に立ったとき。それは自分の中の「満たされない部分」ではなく「余裕」になるのかも知れない。満たされない部分に取り合えずのものを詰め込み過ぎて、ある時大切なものに出逢ったけれどそれを受け入れるスペースがなかったり、本当はそれがそこに満ちるべき大切なものであることに気付かなかったり、というようなこと。そういうことも、結構あるのかも知れない。 自分に満たされない部分があるのなら、それを許さないのではなく。自分にはそういう部分があるのだと、認めてしまうこと。そうすればその満たされない部分は、大切なものに出あった時にそれを受け入れるためのスペース。余裕、に変わる。そうだな。自分なんか、空っぽで穴だらけだからこそ。様々なものに満たされてきたんだったな。だから、それで。いいじゃ、ないの。 ■2013/10/21 月 オリオン座流星群の極大日なれど、薄曇りで星は見えず。夜中にベランダへ出てみたけれど、雲越しの月が見えただけ。けれど、オリオン座流星群、ということは。まだ昇ってくる時間は遅いけれど、夏の間は昼の星座だったオリオン座が、いつの間にか。夜の星座に戻ってきたんだな、と。 ■2013/10/22 火 職場で「駐車場に停まっているキミの車、パンクしているよ」と教えられ、帰宅して確認すると、まだ多少空気が残っていたものの、助手席側後輪が確かにパンク。事故車のバンパーの破片のようなプラスチック片がタイヤの溝に食い込んでおり、びくともしない状態。日曜に車に乗ったのが最後だったがその時気付かなかったので、帰りがけにそれを踏んで、空気が残っているうちに帰宅。それから駐車場で空気が抜けた模様。まだまだ履ける夏タイヤなのだけど、修理はできるだろうか。 そういえば、これが人生2度目のパンクで。最初は静岡にいる時にやはり後輪のサイド部分で縁石を踏んでのこと。あの時はタイヤが裂けたのでバーストに近かったけれど、今回こういう「何か刺さった」というパンクは、運転歴の割に実ははじめてだったりする。貴重な経験。何より、空気が抜けたのが駐車場でよかった。 また幸いなことに、ベランダに冬タイヤがあるので、夜の駐車場でカチャカチャと4本とも冬タイヤに交換する。しながらふと思う。この時期に冬タイヤに交換するって、何か北海道みたいだな、と。最近は通年冬タイヤのまま、だったりもするけれど。思えばかつてはこの時期のタイヤ交換、毎年やっていたことだったなぁ、と。 エアコンがあるので不用になっていた電気ストーブを、上の階の「暖房持っていない」という人がもらってくれることになり、本日その人のところへ嫁入り…婿入りか。していった。 前に、これも静岡に住んでた頃の上の階の住人から「エアコンがあるので余っている」という除湿機をもらったことを思い出す。今回は自分が上の階の住人へ全く反対の立場で「エアコンがあるので余っている」電気ストーブをあげたことになる。 何だかこういうことって、巡っているのかも知れないな、と。そんなことをふと思う。不用になっているものなので、それは当然、無償でひとにあげる(ひとからもらう)もので、代わりになにかお返しを貰う(お返しをする)、ということもないし、そういう期待もないもの。あげたものはもうその瞬間にその人のもので、自分にとっての意味を失うものであり、むしろ、もらってくれたことに、感謝すべきもの。 そういうレベルの、例えば自分が人から貰ったもの、というのは。貰った時に貰った相手に相応のお返しをして完結、というのではなく。その貰った分のお返し、は。その貰った相手ではなく、その後の人生の長い時間の中のどこかで、別の誰かに、返してゆくもの。そういうものなのかも知れないな、と。 だから、自分は以前に除湿機を貰った当時の部屋の上の階の住人からもらったものを、今回電気ストーブを貰ってくれた今の部屋の上の階の住人に「返した」だけ、なのかも知れないなぁ、と。そんなことを。 そうか。あげた、んじゃない。 返した、だけなんだな。こういうことは。 自分はただ、あげたものを相手が貰ってくれた。そのことに感謝を。 ただ、また他の誰かに返すべき借りをひとつ、一緒に渡したかも知れないけどね。 ■2013/10/25 金 先日は仕事を早く上がって、パンクしたタイヤを積んで車屋(タイヤ屋)へ。ピットがまだ開いていたので、これ直せるべか、と持ちこんでみる。で、お店の方が刺さったものを取り合えず抜いてみよう、とあれこれしていたのだけど、かなり深い刺さりのようで色々やっても抜けず。タイヤをホイールから外してみると、タイヤを貫通して裏側2センチほど突きだしていた。それを裏から押し出してやっと刺さっていたものが抜けたけれど、穴が大きくて「塞ぐことはできなくはないですが、高速走行はおろか通常走行も全くおススメできません」とのことで、事実上の修理不能判定。「最近の台風で色々なものが飛んだんでしょうね。パンク修理の持ち込みが最近多いんですよ」とのこと。ありがとうございました、と、そのまま持ち帰ることに。 この中途半端な年数での修理不能、というのも、ちょっと困る。以前のパンクの時は不幸なことに買い換えたばかりの新品の状態だったのだけど、逆にそれが幸いして、1本新品を買えばよかった。しかし今回は買って3年のタイヤ。1本だけ新品にするとそのタイヤ1本だけ他のタイヤと溝の具合が異なることになる。なので、買い換えるなら「同じ年式で同じくらの減り具合の中古を1本探して買い換える」か「2本を新品または中古で買い換える」か、全数交換になる。のだけど、全数買い換えるにはまだもったいない。店頭にはなかなか無いサイズのタイヤ(買う時は取り寄せ)なので中古もなかなか見つからない。2本新品にしても、他の2本と溝の差が大きいしなぁ、と。はぁ。 このまま冬タイヤを履き潰すつもりで使い続ければ当面はしのげるのだけど。夏タイヤどうするかな、と、いろいろ考える。そうして、ふと思う。もし、夏タイヤ全数買い換えたとしたら。その買い替えがこの車、最後のタイヤ買い替えに。ひょっとしたらなるかも知れない。もうすぐハタチに手が届きそうな、平成7年車。もうそろそろ、そういうことも考えなきゃならないの、かな。 ■2013/10/27 日 例えば恩だとか、ある時人から受けたものを、その時その人に相応のものをお礼して返すのではなく。ずっと後になってその人とは全く別の誰かに返すようなこと、人生には結構多いような気がする。 大人のザリガニ釣りへ土曜の夜に出撃、徹夜で夜釣りをして、本日の日の出を見て帰る。釣果はクロアナゴたくさん、ヤドカリ、イソガニ、そして20センチくらいのイセエビ1匹。クロアナゴ1匹とイセエビだけ持って帰る。イセエビも釣れるは釣れるのだけど、丸一晩で1匹か2匹なので、相変わらず効率は悪い。ただ高級魚(エビ)なので、元が取れてる感はある。 でも、今がちょうどイカ釣りシーズンで夜も防波堤にはそこそこ人がおり。イセエビ釣りなど自分だけなので釣りあげるとかなり注目を浴びてしまうのが、欠点といえば欠点で。本当はもう少し大人しくやりたいのだけど。とにかく。大分イセエビ釣りもわかってきたので、そろそろ実家に送るミッションをやってみようかな、と思う。来週は3連休もあるし。でもその前に、どうやって活きたまま送るか調べなければ。 今回もまた、エビは活き作りと味噌汁、アナゴはかば焼きにしてアナゴ丼で頂きました。ごちそうさま。 |