Azure Diary


平成二十六年 水無月

■2014/06/01 日
 朝早くにイカ釣りへ行き、タコを二匹釣って帰ってきた6月の始まり。


■2014/06/5 金
 あじさいが咲いていた。本日、梅雨入りしたとのこと。職場にある梅の木で梅の実が収穫される。もう熟した梅なので、ひと袋とってきた人に梅酒にするのか訊いたら「いや、梅干し」とのこと。
 冬から春へとめまぐるしく変化し走り続けてきた季節が、夏を前にしばし佇む。その佇む季節が梅雨なのだと思う。梅雨は夏の繭だ。梅雨の繭に包まれた中には蛹化した夏が静かに育まれており。やがてその中から夏が羽化をし飛び立ってゆく。梅雨明けの日射しの中へと。


■2014/06/8 日
 週末の6日から7日にかけて大雨。市内では何箇所かでがけ崩れが発生。近所でも大きながけ崩れが発生し、土砂に埋まった道路が閉鎖されている。ただし未明だったので怪我人はない。
 全国放送されたようで地元ほか何件か「そちら酷かったみたいだけど大丈夫」という内容の連絡を受ける。ただ、被害的には全国放送されるような規模の災害ともいえない。それでもなぜ報道が全国に回るのか、というと、この辺り。中央のテレビ局が取材しやすいから、なのだと思う。ヘリもすぐに飛んでこられるし、地上からも都内から高速で1時間少々。言い方は悪いけれど、短時間でいい映像が撮れる、という。その点につきるのだろうな、と。


■2014/6/10 火
 ベランダにくるスズメの羽が生えかわっている。先週、紫陽花が咲いて梅雨がきて、そろそろ蛍の季節になる。この土地での生活が三年目となり、ようやくこの土地の季節の流れがわかってきた。流れがわかるようになってきた、ということは。自分も三年目にしてようやくこの土地に定点を得たのだな、と思う。
 定点、というのは。流れを観察したり見極めたりすることのために必要な、動かない場所や心の在り処、のこと。移ろい流れ続ける様々なものの、動きや流れや時間。それと共に自らも流されてばかりいては、その流れを観察したり見極めたりすることは難しい。風の中に佇めば吹いている風があることを知ることができるけれど、その風と共に走ってみるとその風を感じることはできなくなる。そういうのと同じ。その場の流れを感じるために必要なのは、その場に佇むこと。それが何というか。自分にとっては「定点を得る」ということ、なのだ。
 場が流れており自分も共にそれに流されている。そんな時にふと、流れるのを止めると、その場の流れの様相がよく見えるような。そんなことがある。例えば、都会の駅などで人波の中を歩いているような時。それまで共に流れていた人波を外れて、佇んでみる。そうするとそれまで一緒になって流れている時には気付かなかった、その場を流れる人波の、中のひとりひとりがどん表情で歩いているのか。そういう所に気付いたり。自分もそういう顔で歩いていたのか、というところに気付いたり。そういうこともある。
 定点を得る。実際には難しいのかも知れない。例えば、地球の自転だとか。時間だとか。物理的時間的に佇むことが不可能な流れ、というのもある。けれど。自転であれば空の星だとか。時間であれば記憶だとか。そうした流れていることを気付かせてくれるものを手がかりに。自分が実際に動いている、流れているということに関わらず、意識を一点に留めつづける。そういう形での、心の定点はどんな時でも、自分は持つことができるのだと思う。


■2014/06/13 金
 蛍場へ行ってみる。明るいうちはこんな感じ。

 左側はかつて棚田であっただろう湿地、右側に細い水流がある。日が暮れると真っ暗になるうえ、特に観察用の通路があるわけでもないのであまり人が訪れない場所。

 日が暮れると蛍が飛びはじめる。蛍場入口付近の街灯が灯る辺りにも結構飛んでいたりする。自分はその道路を駆け足中に路上へ出てきた蛍を見つけたことで、たまたまこの蛍の生息場所を見つけた。


 草葉の上、時折明滅をせずに明るく灯り続けている蛍を見つけることがある。揺らしてみても突ついてみても、そういう蛍は動きもしないし、灯を消すこともない。それは、蜘蛛の巣に捕らわれて死んだ、あるいは瀕死の蛍。

 蛍の光はその命と連動しており、生きている間にその灯をともし、死ぬとその灯は消える、というのではなく。こうして弱ったり死んだりすると逆にその光を制御できなくなり、その光源が尽きるまで灯りっぱなしになってしまうよう。これは昨年この場で発見したこと。

 川というほどでもない水流の中にはこんな巻貝がごろごろ。これが蛍の幼虫の餌になっているのだろうな。



■2014/06/26 木
 黒猫ってなんだか音譜みたいで、五線譜の上にいても違和感なさそうだな、と先日ふと思う。なので、こちらの詩のページから生まれて、いまはツイッターのアイコンになっている「空猫」を流用して五線譜の上に置いてみた。ら、思ったより違和感が無かった。


 そうして生まれた命名「音猫」。その生態は次のとおり。
 ・音猫は五線の上を歩いているのではなく、音猫のゆく所が五線となる。
 ・音猫が足を置いたところからはその音が流れる。
 ・音猫は五線の上を右にも左にも行くので足音はあまり音楽にはならない。
 ・でも時々足音が「猫ふんじゃった」になることがある。

 なんてね。


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