Diary 平成十九年 如月 ■2007/02/01 木 ん…、壁か? いや、違う。こんなものはこれまで、いくらでも乗り越えてきた。もはや、障害ではない。公園の入口にある車止めの柵を、飛び越えるようなものだ。でも、油断すると躓いたりする。鈍っていないかどうか、確かめるために現れた、小テストのような小さなハードルだ。ひょい、っとな。 今そう超えられるのは、かつて必死になってこの壁を乗り越えたからで、その時その時に壁を避け続けていたら、この小さなハードルも、超えられそうにない大きな壁として自分の前に立ちはだかっていただろう。 働くこと、について。それは金のためにやるものじゃない。自尊心のためにやるものでもない。それは、ひとのためにするものだ。ひとは、ひとのために働く。その、ひとの働きの積み重なり…組織、の目的がどうあれ、個人個人としての「ひと」は、自覚するしないに関わらず、「ひと」のために働いているのだと思う。 「働く」について、今の自分はそれがベストだと思う。…というよりは、そこから外れてしまうと、自分の「働く」の概念からちょっとズレてしまう。 ■2007/02/02 金 善し悪しは別にして、言ったことよりも、何を思ってそれを言ったのか。そちらにもっと関心をもっていい、と思う。誰が、って訳じゃない。世の中、全てだ。 ひとつの発言のみを捉え、相手の全てを否定し、ひとつの逃げ道も残さずに相手を100パーセント叩きのめそうとする。そういう行為は、やがて自分にも返ってくると思う。 繰り返すが、善し悪しとは、別の話だ。ただ。ひとつの発言だけで人は計れない。それだけは、自分は確かに思う。良い言葉、優しい言葉だって、時にはものすごい罪となることもある。様々な人々と、その人々が発する様々な言葉に出会い続けて、それは気づいたこと。 簡単に人を批判してしまうけれど、人を批判するということは、実はすごく難しい。自分とその相手を、比べてみればみるほど。自分が批判しているのは、相手なのだろうか。本当は、自分が批判したいのは、自分も持っている、相手のある部分、なのではないのだろうか。…そういうことを、時々思う。 …と、なんだか。こういう事を書くと何を書いても軽率な、そんな気がする。 やめやめ。批判も止め、だ。当面、自分はそういう「気に入らねェこと」に遭遇した時、批判したい気持ちは保留して、受け入れない、それだけの姿勢に徹することにしよう、か。 批判はしない。だが、決して受け入れない。 自分の心の施し方としては、それでいい、と思う。 月が満ちた。一緒に帰った人が月を見て「おーっ明るい」と。続けて「まぁ、自分で光っているわけじゃないけどね」と。 ふふっ。まぁ、違いないね。 ■2007/02/03 土 神様が全ての人を平等に愛することができるのは、ひょっとしたら神様ってものは、人間を個人個人としてではなく、「人間」という一括りでしか、見ていないからかも知れない。一人一人に個性を見ていたら、全てを愛するなんて難しいだろう。まぁ、それができるから神様なのだ、と言ってしまえばそれまでなのだけど。 もしも神様が人間を創ったとして、最初に創ったのが一組の男女だったとしたら、何で今はこんなにバラバラになってしまったのか、神様だって首を捻っているかも知れない。でも、宗教的にも科学的にも元々は一組だった、と考えるのなら、人間ってのはやはりひとつ、というか共通なのかも知れない。てことは、世の中には「われら」と「かれら」がいるわけではない。ただ、われら、がいるだけだ。 個々を繋ぐ技術がここまで発達した今、そしてこれから。ひょっとしたら「われら」から始まった人は、「われら」「かれら」の時を経て、また元の「われら」に戻ってゆくかもしれない。 あー。ここでいう「われら」とは、皆が同じになるってことじゃない。うまく言葉にならないけど、個々の考えることだとか見た目だとか、そういうのはバラバラなままで。それを踏まえた上での「われら」の世界だ。まぁ当然それは簡単だとも思わないけれど、不可能だとも思わない。何と言うか、理解とか尊重とか、人のそういう姿勢に触れたとき、それを見たとき。その向こうにちらりと、そういう世界が見えるような気がする。 日付が変わってしばらく経った頃、夜中のベランダで柵に肘をついて、高い所にある月を見上げていたら、下の駐車場に車が入ってきた。自分の部屋の上に住んでいる人だ。自分のすぐ斜め下の駐車スペースにその車が入って、その人が降りてくる前に、そそくさと部屋へ引っ込む。 でも、見られちゃったかな。 ■2007/02/07 水 去り行く人ひとり、皆で見上げて見送った夕暮れ。 週明けから職場は波乱含みで慌しかった。 世代間ギャップの話を聞いていて、ふと思う。 なんぼ経験済みのことだからって、10代の自分を20代の人が書けるわけではなく、20代の自分を今40代の人が書けるわけではない。その世代の自分を書くことができるのは、今、その世代の人だけだ。まぁ、世代という括りにも大きな意味があるわけでもないだろうが。 とにかく、その世代、というのは、今、その世代にいる人々のものだ。 My Stuffを載せているスペースを通じて、以前より様々な世代が書くものに触れるようになった。多くの方が自分の歳なんて明かしてはいないが、自分がよく巡る範囲では、下は十代から上は…ン十代まで様々なようで、そうした様々な目線の文に触れていると、そういうことをよく思う。 違う世代のことを、よく、理解できない、という。世代といっても人それぞれだし、ひとり理解するのにも、ものすごく時間がかかる。理解そのもの、というのは、それほど重要ではないのかも知れない。全てを理解しようとして四苦八苦するより、本当に必要なのは、尊重。なのかも知れない。 自分より長い人生を歩んでいる人の経験は、自分は尊重すべきだと思う。そして、自分が既に歩んできた世代であれ、いまその世代を生きている人の経験も、自分は尊重すべきだと思う。同じ世代を歩んでいる者の経験は、今、同じ世代を共有する仲間として、尊重すべきだと思う。 て、結局みんな尊重することになっちゃうね。 ■2007/02/09 金 仕事が終わってから惰性で残っていた職場で、数人が集まって何故だか血液型の話をしていた。O型多勢の中にB型が一人いて、耳を傾けていると、B型はヘンだのボケっとしているだの、何かあまりよく言われていない様子だったので、「黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって!」と話に乱入した自分はB型。 自分は職場ではあまりB型には見られないことが多いが、B型だと知るとマイペースなところは確かにB型、と納得される。あまり血液型診断には詳しくないけれど、B型ってのはマイペース、らしいことは知っている。それはそれで、自分にも、他のB型にも、当てはまっているような気もする。まぁ、自分のペースを持っている人に限って言えば、なのだが。 残ってパソコンをカタカタやっていた班長に、話が飛び火する。 その中のひとりが「ちなみに…はんちょ、何型ですか?」 そう訊かれた班長が、手を止めて一言。「黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって!」 仲間だった。 ■2007/02/10 土 てくてくと歩いて近所の郵便局へ用事を済ませに行って、ついでにコンビニへ寄って電話料金を振り込んでくる。雑誌の所で自分と同じ棟に住んでいる人が立ち読みしていたので、脇から声をかける。彼女は出張先から帰った途中、ということだったので、大きなバッグを床に置いて雑誌を開いていた。少し雑談して、ちょろっと店内で買い物してからレジに立つ。彼女も買い物を終えて自分の後ろに並ぶ。出るタイミングが同じになりそうだったので、「あー、じゃあ一緒に帰りますか」と言う。けれど「いや、私ゆっくり歩いて帰るんで…」と断られる。 歩いて5分もかからない道のりなのに、何でかな、と思ったけれど、まぁそう言われたので、レジを済ませてその場で別れ、店を出て歩いてゆく。そうして自宅近くまで歩いて、ふと見るとすぐ後ろに彼女がいて、手を振っている。あぁ、そうか。彼女が断った理由に、ふと気づく。追いついた彼女が言う。 「車で来てると思ったんで…。わざわざ乗せてもらうの悪いかな、って」 ふたりで笑う。ここまで来るのに車なんて出さないよ。 けれど、ひょっとしたら。人間って結構色んな所で、こんな些細な切欠からはじまる、本当のすれ違いを繰り返しているのかも知れない。 ■ 2007/02/13 火 暦では、一年で最も寒くてもおかしくないはずなのだが。春風でも吹き出しそうな、からっとした陽気の一日。今冬、富士山の積雪もこちらから見ると五合目よりは下らず、むしろ日々、裾から次第に黒い部分が登って行っている。 こちらの冬がまだ2回目で、その様相も著しく異なるので、まだイマイチこちらの冬が掴めない。なので、こんなものさ、と言われれば鵜呑みにしてしまいそうなのだが、地元の人に言わせれば、やはり異常だという。最近はもう異常ばっかりだ。これが珍事なのか警鐘なのかはわからない。ただ、自分の感覚的にはやはり、季節の秩序が乱れているような気がする。 同僚が苦しそうだった。けれど、自分にはその苦しみがわからない。 苦しみを理解できない自分は、慎重に言葉を選び、その人に告げる。 「ごめん。俺は君のその苦しみ、共有することはできないんだ…」 だって、30年間杉の無い世界で育ったんだもん。 ■2007/02/15 木 昨日は大荒れ。一夜明けて風は残っていたけれど、晴天になる。青空の青がものすごく濃かった。少しはなれて、こんな青を透かして見ると、ここからは近すぎる富士山も、絵に描かれているような青色に見えるのだろう。 その青空の中、飛行機がすうっと一本の綺麗な線を引いてゆく。その飛行機雲がやがて風に流され、崩れ広がって、やがて消えてゆく。朝は歩きながらずっとそれを眺めていた。星でも見えねぇかなぁ。と、そんな足元に、もうすでに開いているフキノトウをみつけた。 「ものごとを篩(ふるい)にかける」という時、それは余分な物を落として、必要な何かを残すために篩にかけるのか。それとも、均質な粒を得るために、必要な何かを落とすために篩にかけるのか。ふと気になった。 土を篩にかけて大きな石を取り出すこともできるし、同じことをして、細かい土だけを取り出すこともできる。落とすか残すか。でも、どちらも得られることには変わりない。けれど、「残す」と「落とす」では、何と言うか、イメージに大きな差がある。 ■2006/02/16 金 全ての命には、存在する意味がある。そう思う。ただし、信念ではなく、感覚的なもの。在る無しのどちらを信じたいか、と言われれば、ある方を信じたい。 身の回りにいる様々な命。そのひとつひとつを取り出して、それぞれに「意味」を見つけてゆくのは難しい。仮に意味を見つけたつもりになっても、それは自分にとって都合のいい意味を見つけ出したにすぎない。「牛はなんのためにいるの」「人間に食べられるためだよ」といった感じの。 真の意味があるとしたら、それはもっと大きなことだろう。例えば。土中の微生物はなんのために存在するか。それは無機の大地と、有機の土を調和させるため。植物はなんのために存在するのか。光と土と、空気と水を調和させるため。 森はそこで生まれた養分を、川を通じて海へと贈る。その贈り物で、海では様々な生き物が育つ。ただし、それはいつまでも一方通行じゃない。海もまた、森から贈られたものを、川を通じて贈り返す。その役目は、秋になると群れを成して川を遡る鮭鱒たちが担っている。 そうした意味は、それだけ、ではなく、命が無数に持つ意味の、ほんのひとつだ。けれど、人はその多くの意味のうち、ほとんど自分とそれとの関わりのなかでしか、それを見つけられない。人が見つけた意味なんてごくごく一部に過ぎない。けれど、意味は他にも無数にあると思う。 つまり、意味の見出せないものには、意味がないわけではなく。人がまだそれを見つけていないだけ、なのだと思う。それをもっと良く知るためには、あらゆるものの、もっと大きくて複雑な繋がり、関わりを知ることが必要だ。んでも、その繋がり、関わりだって、人はその中のほんの一部しか見つけていない。 命の意味なんて、まだまだ人にとっては、解き明かされていない神秘。それでも、それは確かにあると思う。自分はそう信じる。 人もそう。あなたもわたしも、生きていることには生きている意味がある。解かるものもそうでないものも、色々あるだろうし、本当にあるのかどうかさえ、説明しようとするとかなり怪しい。けれど、自分はひとまずそれを「ある」と前提する。理解なんてものは後回しだ。 全ての命には、意味があるんだよ。 何でもかんでも「ある」ことを信じるために、理由や理屈が必要なわけではない。 全て「ある」ことを信じるために、そうした理由付けをするのも苦しいことだろう。 理屈抜きで「ある」ことを信じる必要があることも、まぁ世の中にはあるのだと思う。 ■2007/02/19 月 ある所で、図書館から借りてきた本の間に、航空券の半券が挟まっていた、という文を見つけて驚く。一瞬、自分があの時同じように見つけて、元の本に戻した半券では…と。まぁそんなはずは無いのだけど、あの時残した半券は、今どうなっているのだろう、と、ふと思った。 自分はきっと、誰かの悪戯に手を貸すような気分で、その半券を元の本に挟んだまま返したと思う。その後借りていった人がそんな人ばかりなら、半券は元の本に挟まったままかも知れないし、違う本に挟まれて、本から本へと旅を続けているのかも知れない。 それとも、あれ以来誰にも借りられずに、自分が挟んで返した時のままか。あるいは、後に借りて行った人が見つけて捨てたか。 なんだか気になってしまった。まぁ確かめるためにはちょっとあの図書館に行って、その本を開いてみればいいことなのだけど。遠いしなぁ。そんなことしたら確か羽田便だった半券一枚のために、羽田〜新千歳便に乗ることになり、今度は自分が半券残す番になってしまう。 気軽に行けないだけに、余計気になってしまう。何かを残してくると、何かしら思いも残るもんだ。 あの半券、自分が使い切っておけばよかったのかも知れない。そうしたら今、確かめようも無い状態で気にすることもなかっただろう。半分はその人のフライトのため。残り半分は、それを偶然手にした自分が、自由に思い巡らすフライトをさせてもらった…ってことで。 ■2007/02/20 火 昨日の半券の話を、そういえば日記に書き残していなかっただろうか…と過去の日記をほじくり返していたら、あった。半券を見つけたことが2003年の5月19日、返したことが31日に書かれていた。4年近く前だ。書いたことは忘れていたのに、思いだした事は大体書かれていたとおりで、よく憶えていたもんだと思う。公式なんてすぐ忘れるのに、こういう事はよく憶えている。素敵な頭だ。 ただ、当時の自分は、あとでこの券がそのままかどうか、確かめにくるつもりだったらしい。そんなことは当時すっかり忘れて引っ越したくせに、今頃思い出して気にしている。なんて素敵な頭だ。 記憶ってひょっとしたら経験したことの全て、残っているんじゃないかな。ただ、鍵のバラバラなどこかの引き出しにしまわれているだけで。で、ふとその鍵穴にあう鍵に出逢った時、その記憶がふと引き出される。何かそんな気がする。引き出されて初めて、その記憶が自分の内にあったことに気付く。そんな事もある。 忘却は、その記憶をしまった引き出しが二度と開かれないこと。なのかも知れない。 そう考えると、忘れている、とは記憶がしまいこまれたままでいる、ということ。 関係ないが、仕事で片付けるべき書類に手をつけないで、机の中にしまいこんだり、抱え込んだままにしておく。そういう状態のことを北海道では「書類をあっためる」ということがある。忘れた、と思いつつ、しまいこまれたままの記憶も、ひょっとしたらどこかで「暖められて」いて、自分が意識しないうちにそこから何か産まれてきて、今の自分に影響しているのかも知れない。 朝から雪。今年三度目だろうか。昼過ぎには雨に変わった。 そういえば。書類をあっためる、という表現の話をこちらでしていたら、「じゃあ、暖めた書類は孵化するの?」と訊かれたことがある。そういう表現はないけれど、近い状態はあるかも知れない。 …ただ。ピヨピヨ、とヒヨコが出てくるなら可愛くていい。けれど、暖めた時間が長いほど、孵化した書類はギャオスとかラドンとか、手のつけられないものになっている、ような気がする。 ■2007/02/23 金 とにかく他人を批判したりけなしたりする人、というのは、何と言うか。ふと気づいたのだけど、それは相手を見て、相手の何かが解かってそうしているのでは無いな、と。ひょっとしたら、よく解かってもいない他人に、自分自身を重ねて見てしまっているんじゃないか。そんな気がした。 その人の目には相手がそう見える、というだけで、それは批判を受ける相手の問題ではなく、他人をそう見てしまう目の持ち主、の側の問題なのかも知れない。 他人を少しでも理解していれば、たやすく批判したりけなしたりなどできないだろう。それができてしまう、ということは、結局、その人はその相手のこと、大して理解してはいない。そんなよく解からない相手の、ちょっとした仕草、言動。そういうものが、批判する側には気に入らなく映る。 その批判など全くの的外れかも知れないのに、その人の目にはなぜそう見えてしまうのか。 極論。それは、自分が「そう」だから、だ。書いていて、自分でも痛いけれど。 人は自分の目でものを見る。自分の目で見る、ということは、見るものに自分の想いを重ねて見ることだ。月に感じる想い。雨に感じる想い。その想いは、自分の内にあるもの。なら、そういうものに、人は自分自身を重ねて…自分自身を「映して」見ている、のだと思う。 他人を見るときもそうだ。よく理解している相手なら、その相手。その人そのものが見えるだろう。けれど、そうではない相手。よく知らない相手に対して、その些細な行動から自分が見出すものは、ひょっとしたら月や雨に見るものと同じ。その相手に、自分自身を「映して」見ているだけなのかも知れない。 だから、他人を批判したりけなしたり。そういう時。自分がその相手に見出しているのは、自身が持っている「批判したりけなしたり」したい部分、のような気がするのだ。 自分が誰かを批判してしまいたくなった時、そこでちょっと立ち停まってみようか。それは本当にその相手が持っているものなのか。己の内にあるものを、相手に見出してしまっているのか。 そして、自分が誰かから批判されたり、けなされたり。そういうことをされた時。それは本当に自分の問題なのか、相手の問題なのか。考えてみることにしようか。 見ているのは、鏡に映った自分なのかもしれない。って。 ■2007/02/24 土 暖かい日が続いていたので、Tシャツの上にコート、という格好で外へ出ると、今日は意外と寒かった。ので、戻って一枚重ね着して出掛ける。車を走らせていると、しばらくして疎らな水滴がガラスに付きはじめる。降り始めた。けれど、歩いている人は気にしている様子もない。その程度の雨。 出掛けついでに立ち寄ったスタンドで、給油中に窓を拭いてくれていたおじさんが、その水滴を見て「ああ、降ってきましたか」。そして、この寒さに「雪ですかね」と。まだ雨ですよ。でも、夜は雪かも知れないっすね。そんな話をしていたら、いつの間にか今年の暖冬の話題になる。 今年は冬タイヤ履いてない人もいますよねぇ。そんな話をしていたら、おじさんが「いやぁ、でも夜は路面凍るから。ほら、ブラックアイスバーンって言って、濡れてるだけに見えて凍っていることあって、危ないから」 で、そこから『おじさんの冬道講座』になる。他に客もいなかったので、その他いくつか講義を受け、最後に「…だから、気を付けてくださいね」と、締め括られる。はい、わかりました。と、何故か素直に聞いてしまっている自分。 給油を担当していた若い方の店員さんをふと見ると、彼は少し離れた清算機のパネルを操作しながら、ちら、ちら、と、こちらの車のナンバーを気にしている。結局その後は会話もなく出てきたのだけど、自分が出て行ってから二人の間ではどんな会話がされただろう。 …**さん、今の人、ナンバー北海道でしたよ? …えっ! 雨はすぐ止んで、夜になっても雪は降らなかった。 そういえば、今冬はまだ一度もABS作動していないな。 ■2007/02/26 月 風が冷たかった。朝陽を背中に受けて歩いている。前に影が伸びている。風は右から吹いてくる。後ろが東で前が西。ということは、北風か。何だか秋のような気分。 例年有給休暇が消化しきれていないので、今年は計画的に、最低月に一度は取ってやる、と思っていたのだけど、結局、先月から使われないまま、今月も末になってしまった。よし、来月まとめて取るぞ。春分の日にぶつけて5連休だ。…って、出張ですか。その前の週全部。じゃあ次の週に休み取る、なんて無理ですね。年度末だし。じゃあ、4月以降。年度変わってからにしますか。 え、4月から一名減員ですか。 一名異動するのは順当。でも、補充が無い…のね。 異動といえば、この間のドライブのついでに実家まで千何百キロだか送っていった職場の同僚も、今春の異動が濃厚だ。ので、ここは是非、送別会など企画しなければ。でも、企画と言ってもなぁ…特に思い付かないから思い付きで行くか。 「…というわけで、お前の送別会やるから」 「はぁ」 「自分で企画してください」 「へっ?」 「今回はセルフ・プロデュースでお送りします。…あぁ安心しろ。参加はしてやるから」 「自分で、なの。…お金は出るの」 「あーそんなモン気にしなくていいから!」 と、いきなりの企画発表。 しかし本人、少しやる気である。 |