Diary


平成十九年 弥生


■2007/03/02 金
 机を挟んで相手は目を潤ませているけれど、泣かせたのは自分じゃない。午後の休憩室。開け放たれた窓から春の風。部屋を吹き抜けてゆく。
 どちらかというと、自分は語り手よりは聞き手だ。人の悩みを聞かされる時も、自分からああだこうだはあまり言わない。殆ど聞いているだけだ。なので、あらかじめこう断る。「聞くのは幾らでも聞くけど、聞くだけだよ。喋ってもどうせロクなこと言わないから」と。
 でも、そうして相槌を打ちながら話を聞いているだけで、大抵は話しているうちに相手が勝手に気持ちの整理をつけて、問題点を見つけて、時には自分で解決策もみつけてゆく。それは時に、話を聞いている自分が全く思いも付かなかったものだったりもする。
 必要なのは多分、心配の種も問題点も良く解からないまま得られる助言、ではないのだろう。誰かに自分を語ってゆく、その過程で自分自身を、そして自分自身の今の状況を見つめなおしてゆく。語るとは、聞き手に自分を映すこと、なのかも知れない。って、俺は鏡かよ。

 そうやって自分はただ話を聞いていただけ。そうして相手は自分の今の立ち位置を見つめなおし、歩いてゆく道を見つけ出す。いつも大体そうなのだ。人はそれほど強くもない。けれど、弱くもない。自分自身さえちゃんと掌握できれば、あと進むべき方向は自分で決められる。

 「人生ってグンといい時もガクッと悪い時も、プラスの時もマイナスの時もあるけれど、
  それを差し引きすると。平均すると、最後には絶対『ゼロ』になるんですよね」

 ジェスチャー交じりのそんな話を聞きながら、黙って頷く。
 そろそろ、切り上げていい頃だね。


■2007/03/03 土
 もう夜中なのに何だか騒がしいな。遠くで低くて重い音が響き続けている。眠れない部屋からは明かりと音楽が漏れている。月が一番高い所にきて、ようやく見上げられるようになったベランダのコンクリートの床に、月明かりが柵の縞模様の短い影を落としている。
 見上げると月はただ白く眩しく、見続けてやっと模様が見えてくる。その周りの滲んだような光の円は、本当にそこにあるの。それともこの目が見せてるの。
 満ちた月の明るさに、星の疎らになった夜空を見る。飛行機が飛んでゆく。星と同じ明るさの明滅になって、何処へゆくんだろう。

 月明かりに照らされた富士山の方角から、風がそよそよと吹いている。
 再び月を見上げたら、月の周囲に滲んだ光は消えていた。
 満ちた月。明日はもっと、満ちてるだろうね。


■2007/03/07 水
 ネコヤナギの芽は弾けたけれど、桜の芽も少しづつ膨らんできている。芽はたくさんあるけれど、成長のペースはそれぞれで、一本の木の中でも一緒ではないみたいだ。やはり、陽射しをよく受ける枝の芽は、成長が早いのだろうか。
 とはいえ、朝はまだ霜柱が立つくらい冷え込む。風も冷たい。
 でも、何と言うのだろう。陽射しの暖かさが変わったような気がする。気がするだけで具体的にはよくわからないのだけど、草木にはそのあたりの変化が良くわかっているだろう、と思う。
 草木は何というか、気温の変化というよりは、陽射しの変化によって、春モードにスイッチが切り替わる、というか。そんな気がする。だから草木は、気温の変化によって春モードに切り替わる人間よりも、季節の移り変わりに敏感なのかも知れない。
 …敏感? いや、それは共感なのかも知れないな。
 とにかく、草木はいつも、人のファッションより季節を少し、先取りしている。

 ネコヤナギの芽、と書いているけれど、実際は花芽というか蕾なのだろう。どこまでが蕾でどこからが花になるのかよくわからないが、もう少し経つと、いまはぴったりと纏っている毛皮も膨らんで、花になる。毛皮を脱ぎ捨てるのは桜の後だったか。ネコヤナギの種は綿毛となって空を飛んでゆく。そういえば、札幌の豊平川の河川敷には、ネコヤナギの木が沢山あった。そこから綿毛が飛んで、建物の中まで綿毛が舞っていたっけ。
 そういえば、以前にその綿毛のことを書いていたことがある。(参照:褐色に浸る時間「綿毛の魔法」)日付を見ると、5月29日だった。記憶よりも意外と遅い。
 こちらでは何時になるのだろう。ネコヤナギが綿毛を飛ばすのは。


■2007/03/08 木
 この職場も2年目。このくらい経つと、宴会も楽になってくる。大抵もう初対面ではなくなっているので、酒が飲めないということを、いちいち人に説明しなくてもいいから。
 自分はちょっとでもアルコールが入ると、何だか気道が狭くなったような感じになって、呼吸が苦しくなる。なので酒は絶対に避けるのだけど、アルコールが入っている食品は何も酒ばかりではない。先日はある中華のお店で宴会があったのだが、このお店の(もう何度も行っているのでお馴染みの)コースメニューの中に、ザーサイがある。しかしこのザーサイ。何故かアルコールが強いザーサイなのだ。最初この店に来た時、知らずにぱくっとやってえらい目にあった。まさかザーサイにアルコール度数があるとは。

 ついでなので、自分的にアルコールが気になる食品をつらつらと。
  ・生チョコ (ロイズは地元なのに駄目。子供も安心のマイルドならOK)
  ・醤油 (発酵を止めるためにアルコールを入れるらしい)
  ・ケーキ類 (に使われているリキュール類)
  ・熟れすぎたバナナ (普通の人にも危険なバナナ)
  ・一部の菓子パン (アルコール系の防腐剤とか入っているらしい)


 そして、ザーサイ。


■2007/03/09 金
 あの時、こうしていたら。もう一度やりなおせたら。そう振り返るのはいいけれど、その想いを心に満し続けるのは、止めた方がいいのかも知れない。後戻りなんてできない人生。そういう想いに捕らわれ続けることは、前に進むしかできない人生の中で、立ち停まり続けること。
 後戻りなんて考えずに、前へ進め。やり直しなんて、考えなくても大丈夫。人生というのはうまくできていて、過去に乗り越えられなかったことは、形を変えて、必ず再び、自分の前に立ち現れる。

 過去に乗り越えられなかった壁。そして、新たに目の前に立ち現れた壁。
 時も違うし、その時の今の状況も、過去のあの状況とは違う。そう思うかも知れない。でも、実際にその新しい壁を乗り越えてみたら、かつて超えられなかった壁。それもその時、乗り越えたんだ、って。そのことがわかるだろう。自分は、そう思う。
 反対に言うと。人生に壁として立ち現れる状況は、それを乗り越えない限り、形を変えて何度も何度も、自分の後の人生に立ち現れてくるのだ。その時超えるのが無理なら、とりあえず避けて通るのもいい。けれど、いつかは乗り越えなければならない。それは多分人生ってものが、自分に、その壁を乗り越えることを期待しているから。そんな気がする。


■2007/03/10 土
 ひとつだけ。焦るな。心の成長は、背が伸びるのとはわけが違う。そんなに判りやすくもないし、そんなに急激でもない。それは自分だけでは解からないもの。鏡を見てもだめ。鏡には自分の最高の顔も、最悪な顔も映らない。
 色々な人に、自分を映してみるといいのかも知れない。人を見るということは、人に映った自分を見ることだ。それもまた、人にどう見られるかを気にすることじゃない。自分が人をどう見ているか、なのだ。悪いところは受け入れず、批判はとりあえず脇に置いて、相手をよく見ようという、心の姿勢。相手に傷つけられても、他人にアホかと思われても、それでも相手のよい所を見ようとする心の姿勢をもつことだと思う。
 でも、こっちは良く見ようと努めているのに、相手はこっちのこと言いたい放題。そんなの損だわ。
 そりゃ損さ。でも、それに言い返して互いに批判し合って、まぁ勝っても負けてもいいけれど、そうして得られる「得」って、じゃあ何だ。その「得」って、相手をよく見ようとする心の姿勢と天秤にかけて、それを捨ててまで護らなきゃいけない「得」なんかい。

 …ふふっ。わからんね。自分にもわからんよ。
 だから、せめてこうして己の考えを。指でなぞっているんだ。
 

■2007/03/16 金
 今週の出張で、国内でまだ足を踏み入れたことが無かった群馬、栃木、福島を巡ってきた。これでまだ訪れていない県は…おおっ。残すところあと3県(山形、宮城、沖縄)だけだ。
 といっても、自分の全国走破計画はあくまでも自分の車で周るつもりなので、今回の出張で巡った県はカウントしない。今後の東北攻めに備えて距離感だけは掴んできた、という感じ。
 でもまぁ、東北も広いわ、と実感する。一県一県のサイズが西日本より一回りも二回りも大きい。こちらから見て東北の入口にあたる福島県だけでも、地図を見ると相当大きい。というより、全国の県の中でも最大級だ。強敵の予感。手強いなぁ、東北。

 久しぶりに積もった雪を見てきた。時報に時計を合わせるように、季節感をリセットする。雪融けの季節だ。今住んでいる所は今冬、積雪は無かった。なので雪融けも無いのだけれど、雪を見て帰ってきたせいか、自分が一番親しい雪融けのイメージがぽっと頭に浮かんだ。
 木々の根元から進む雪融け。雪の下から現れる、黒い土とぺったりとした枯葉。融ける雪がたてるパチパチという音。雪の下から流れてくる小さな流れが、キョロキョロ、コロコロ、ケラケラと笑い声を立てながら流れる。そう。春はいつも笑いながらやってくる。そして、その笑うせせらぎの脇、黒い土の上に、開きかけた黄緑色のフキノトウ。

 自分にとって春は、この先もずっとこんなイメージなのだろう。


■2007/03/20 火
 褐色に浸る時間、を検索サイトで検索してみたら表示された。ついでにKaekaを検索しても表示された。自分のページは検索には引っかからない、とずっと思っていたので、びっくり。ついでにMy Stuffはどうなのだろう、と検索してみたら、これはさすがにヒット数が多すぎて、さがすのが面倒なので止めた。

 朝、薄っすらと雪。この時期に降る雪を見るといつも思う。これが最後の雪になるかも知れない、と。
 暖冬の反動のような寒気が続いている。先週はずっとここを離れていたけれど、久しぶりに見た通勤路の桜の花芽の膨らみ具合は、赤茶色の皮を被ったままの芽があったり、脱いでる途中の芽があったりで、以前とあまり変わらないように思う。多少寒くても勢いで成長するのか、と思っていたけれど、やはり寒さには足踏みしてしまうらしい。記録的な暖冬だったようなので、桜の開花予想も相当早まるらしい事を言っていた。でも、いくらスタートが早くても、途中こうして足踏みしてしまっては、ゴールは結局同じくらいになるのかも知れない。

 車で国道を走っていたら、道路が塩をふいたように白くなっていた。あれくらいの雪に、よくもこれだけの融雪剤を撒いたものだ。というより、今冬は全然降らなかったから、相当在庫が余っていたのだろうか。えぇい、どうせ余るから撒いてしまえ、と。

 何となく、何もかも帳尻あわせに感じてしまう。…年度末だ。


■2007/03/21 水
 相手がいないと、自分が自分として成り立たない。そういう関係。何と言うのだろう。その関係が、依存、という言葉で言い換えられる関係なら、僕はそれを「愛」とは呼ばない。僕にとって「愛」とは、自身で自分として成り立っている人と人同士の間のものだ。
 自身で自分として成立つのなら、どうしてわざわざ他人とくっつく必要があるのか。なら独りでいた方が楽じゃない。まぁ、そのへんがどうして、なのかは良くわからない。どんな必要性があるのかは、知らん。けれど、自身で自分として成立っていられる人と人が、独りでもやってゆける、という事を超えて、互いに関わっていこうとする姿勢をとる時。そこに「愛」ってものは生じているような気がする。

 他人事なのだけど、ちょっと気になることがあって。考え事にあまり言葉は使わないのだけど、今日は考えを言葉で整理している。「わたしはこんなに愛しているのに、どうして」という関係の話。その人はそれを「愛」と言っていて、自分もそれをそのまま受けて「愛」と捉えていた。だから、問題は、その人の相手の側にあるのだと思っていた。
 そうか。そのままそれを「愛」と捉えていたから、本質がよくわからなかったのだ。文章を直すように、その人がそれまで「愛」と呼んでいたもの。自分も「愛」と捉えていたもの、を、「依存」という言葉に置き替えてみる。
 そうしてみて、やっと見えてきたものがある。明らかに「片依存」の状態なのだ。その人、のアイデンティティ、というのか。自分が自分としてあるために必要なもの、自分を自分として成立たせているもの。その全てが、「相手」になってしまっている。相手に認められたい要求が、その人の全てになっている、と言ってもいいだろう。そして、その「相手に受け入れられる」ための手段。相手に対する、限度無しの受容。

 違う。やはりそれは「愛」じゃない。
 相手への「愛」とされてきたものの正体。それはやはり「依存」という言葉で言い換えられるもの。
 相手のために注がれているように見えて、実は、自分を満たすためのもの。

 それを「愛」と信じてしまうと、最も辛くなってしまうもの。
 見えてきた。けれど、一番やっかいなモンに当たった気がする。
 くそっ、壁だな。こいつは。

 でも、これ以上やると、言葉に振り回されるな。 ここまで。


■2007/03/24 土
 ふと思う。「手と手を合わせて、幸せ(しわとしわが合うから)」とよく言うけれど、指の関節の節と節も合うから、同時に「ふしあわせ」にも、なってしまうなぁ。と。それをやるなら指は反らせて掌だけ合わせて「しわあわせ」とやった方が…まぁいいか。普通にやっても幸と不幸で差し引き零だ。
 小雨。時折陽射しも出ていたので、本格的に降り始める前に、と夕方近くになってから買い物へ。あー暇だからカレーでも作るか、と、部屋から出て車へ向かう途中で「今晩、飯食いに行かない」と捕まる。じゃ、カレーは明日にするか。OK、と、そのまま買い物に行って、玉葱やら人参やらを買ってくる。一旦戻ってまた出て、晩飯の間に雨が激しくなり、帰るころには大荒れ。窓がガタガタするほどの風が、夜中になっても続いている。で、結局夜更けにカレーを作る。

 幸せ、というのは、自分の身の周りにあるものじゃない。そう感じられる、何と言うか、心の状態のことだ。同じ状況の中でも、それを幸せと感じるかどうか、は、その人による。でも、だからって何もかも幸せに感じろ、というわけではない。幸せは無理に感じるものではない。
 コップがある。それは「自分」だ。周りには水がある。水は色々な形で無数に存在している。それは簡単に見つけられるものもあるし、そうでないものもある。その水が「幸せの源」だ。
 幸せを感じることは、コップに水を満たしてゆくこと。周りに水が豊富であれば、意識しなくともコップは満たされてゆくかも知れない。そうでなくても、水を見つける能力に長けた者は、乾いたように見える環境の中でも、コップに水を注ぎ続けることができるだろう。
 …水を見つける能力って何だ。まぁそれは早い話、水になることなのだけど、ちょっと書くと説明が長くなる。魚を見つけたい時は魚になる。鳥を見つけたい時は鳥になる。まぁ「〜になる」というか「〜の気分になる」といったような感じのこと。だから、幸せをうまく見つけるためには幸せな気持ちになる…と、ややこしくなるのでカット。
 とにかく、水が雨のように降り注いでいても、それをコップに注ぐか拒否するかは、その人次第で。で、幸せに無理をする、ということは、例えば。無理に幸せを得ようとすると、人のコップの水を奪ったりしかねないし、無理に人を幸せにしようとすると、自分のコップの水を削りかねない。そんなのは自然じゃあない、と思う。

 自分が見ていて幸せだなぁ、と感じる人がいる。見ていてこっちまで幸せな気分にさせられる人がいる。そういう人には、何か共通するものがあるような気がする。巧く言えない。けれど、なんというのだろう。そういう人は、コップから水が溢れている人なのだ、と思う。その溢れた水で他の人のコップを満たしていたり、溢れた分を再び世界に巡らせたりしている人。
 なぜコップを満たすことができるのか。どうやって。そんな事を訊いても、それは本人にだってよくわからないのかも知れない。満たされていることにも気づいていないのかも知れない。けれど、それはやはり、水を見つける能力に長けているのだろうか。それとも。ひょっとしたらコップのサイズを小さく保つ、そのことを心がけている、のかも知れない。

 周りに満ち溢れている水に、満たされている人がいる。
 満ち溢れているのに、気づかない人がいる。
 水に恵まれなくても、上手にみつけて満たしている人がいる。
 注がれているのに、受け取らない人がいる。
 ここに水があるよ、と、教えてくれる人がいる。
 器ばかり大きくして、満たされないと言ってる人がいる。
 少ない水で、満足できる人がいる。

 溢れる分を期待して、人の器を満たすのに手を貸すのも、悪くないのかも知れないな。

 そんな事を、カレーを煮ながらくつくつと考える。
 煮物は一度冷まして放置すると味がよくしみるんだってね。


■2007/03/28 水
 この度引越しになる人が、繁忙期でもありなかなか引越し業者が確保できないでいたので、我々有志により引越し隊が結成された。
 ワンルームに収まるくらいの独り暮らしの荷物、道のりだって100キロちょっと。引越しに関しては猛者が揃っているので、軽トラ2台確保! だとか、当日雨だからブルーシート! だとか、ルートは本人負担で全部高速だ! などと、計画は本人抜きで着々と進んでゆく。

 …ああ、これじゃあ本人乗れないですねー。
 …おおっ。じゃあ、本人簀巻きにして荷台、でいいんじゃないか?
 …やっぱり走るのは夜がいいよなー。楽だから移動は夜中にするか。
 …わーい、夜逃げだ夜逃げだぁ。夜逃げやろーぜ。

 僕に決定権は無いんですか…と、ふと嘆いた本人に、引越し隊一同曰く。
 「だって、これは俺たちのイベントだもん!」

 イベント開催は今週末である。


■2007/03/31 土
 昨秋から貸しっぱなしで忘れかけていたものが却ってきた。そうだよな。今日で最後だもんね。年度最終日。今日付けで多くの人がこの職場を離れる。自分の身近なところにも、今日でここを離れてゆく人が何人かいる。
 さて、イベントの方だが。本人が高熱を出してしまったのだが、予備の日は無いので決行する。本人は新居の鍵を大家から受領した後、降ろしたダンボールだの何だのが積まれた新居の中に布団を拡げるスペースだけを確保し、「人生最悪の引越しだ…」という台詞を残して寝込む。後は引越し隊だけでやることになったが、元々「こっちのイベント」なので問題なく終わる。
 引越し先へ向かうため、荷物を満載した軽トラックで東京都内を突破してきた。皇居の桜も、最高裁前の桜も、都内の桜は満開だった。無数の人々。年度末の一日。この日だけで無数の別れがあっただろう。そして、新年度が始まる明日から、また無数の出会いが生まれるだろう。そんなこの時期。その出会いと別れに彩を添えるように桜が咲く。この辺りの人は、それだけでも何だか幸せだろう、と思う。

 曇り後雨の予報の中、行きにはなんとかもった天気も、荷降ろしを終えて帰路に着く頃には雨。
 帰りの車中で、他の所へ引越しして行った人から、無事に終わりました、とのメールを受信。いろいろありがとうございました。また何かあったら話し聞いてください(顔文字)。と続いた文章に、いつでも聞くよ。聞くだけだけど。と返す。そうしてから、あれ、前に同じ事言ったけな、と思っておかしくなる。

 新しい場所での、新しい人との出会いを大事にな。
 出会いってのは、その後もう二度と訪れないものだから。

 移動中に日付が変わり、帰宅したら2時だった。


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