Diary


平成十九年 水無月


■2007/06/01 金
 昨日の雷雨も高嶺では雪だったようで、富士山の残雪。山肌に刻まれた沢筋に沿ってギザギザしていたその形が新雪に埋められて、五合目より少し上でまっすぐ綺麗なラインになっていた。
 月が満ちて、月がはじまる。暦を見ると、今月は満月から始まり、15日に新月を迎え、30日も満月で締めくくられる。また、最後の満月が土曜日なのを除くと、金曜日に満月と半月と新月が揃っている。今日が満月、来週の金曜(8日)が欠けてゆく半月、その次の金曜(15日)が新月、その次の金曜(22日)が満ちてゆく半月。と、ちょっと面白い周期になっている。
 さあ、今日から6月。月も新しくなった。新緑も鮮やか。梅雨はちょっと、だけど、新しい月のはじまり。誰が先に生きたわけでもない、誰にとっても新しい月のはじまり。また一枚ページを改めて、この月を埋めてゆく。


■200706/04 月
 職場の、建物の高い所の軒の下にスズメの巣。もう雛は孵っていて、チリリ、チリリと泣き声が漏れている。奥まった所に掛けられた巣は見えないのだけど、その声を見上げながら巣の下を歩いていた。そして、そこにあるエアコンの室外機の前を通り過ぎた時。カサッ、と小さな乾いた音がした。
 ふと立停まる。音がしたのはこの室外機から。でも機械は動いていない。ここに何かがいる。チリリ、と雛の声。ふと勘が蘇って、咄嗟に室外機から距離を置いた。鳥の巣の近くで蛇を見つけたことが、過去に何度かあるからだ。
 室外機と建物の間には20センチくらいの隙間がある。そこを覗き込んでみると、いた。本州で蛇を見たのは今回が初めて。室外機と地面の間に頭を入れて、胴の部分だけが薄暗い隙間にくねっと見えている。けれど、そのザラザラした感じの肌を見て、マムシか、と警戒する。
 北海道ではマムシとアオダイショウくらいしか野生の蛇には会わなかったので、この2種はすぐに見分けられる。マムシはザラザラした感じの見た目で、三角頭で顎が張っており、縞というか斑というか、そういう模様がある。アオダイショウはすべすべした感じの見た目で、顎のラインもスマート。模様は蛇によってバラバラだけど、全体的にマムシほど濃い模様は無い。他にシマヘビ、というのもいるのだけど、アオダイショウと混同してしまっており、あまり明確に区別はしていなかったので、自分にとって蛇、といえばマムシかアオダイショウか、となる。

 アオダイショウなら放っておくが、人の生活圏なのでマムシだとそうはいかない。見分けるのに一番確実なのは頭を見ることなのだけど、そこはずっと隠れたまま。なので、うねうねと動く体だけ見ていたのだけど、何か違う。どちらとも判断がつかない。これまでの蛇には見た事が無い、赤と黒の斑紋も見える。つまり。これは自分がまだ見た事がない蛇なのだ。
 そう結論して、判りそうな人を呼ぶ。ああ、これは「ヤマカガシ」だ、と。名前は聞いたことがあるけれど、北海道にこの蛇がいるとは聞いた事がないので、当然自分が見るのは初めて。でも、こちらでは割と多くいる蛇だという。ファースト・コンタクト。
 毒蛇なのかどうか訊いたけれど、あるようなないような、よく判らないという返事だった。さほど人の気を引く場所でもないし、まぁこちらから手出ししなければ襲われることもあるまい、ということで、放っておくことに。アオダイショウもマムシも、子供の頃は捕まえたこともあるし、殺したこともある(マムシは食用)。ここから追い立てて捕まえて山に放してもいいのだけど、未知の蛇に手は出さない方が無難だろう。放っておいたら多分、そのうちそっといなくなる。放っておくから、そのうちそっといなくなれよ。


■2007/06/05 火
 今朝覗いてみたら、ヤマカガシはまだそこにいた。昨夜このヘビについて調べてみると、攻撃的ではないが毒蛇であり、死亡例もある、とのこと。また、体外からも毒液を出し、目に入ったりすると危険らしい。手ぇ出さないでよかった。
 思いっきり管轄外だと思うが、毒蛇だということもあるので、それなりの職位にいる人に伝える。「えーっ、どこに?」 「じゃ、見に行きますか」 という話をしていたら、そこで聞いていた何人かも加わってヘビ観察ツアーになる。ヘビは室外機の裏からちょっと顔を出して「日向ぼっこでもしたいなぁ」という感じだったのだけど、人が覗き込むと、すっ、と顔を引っ込める。全員の感想はほぼ「可愛い!」。
 その後、結構多くの人に見つかったようで、時々人だかりもできていたりして、何というか。すっかりアイドル状態になってしまっていた。

 …名前でも付けるか?
 …じゃあ、カガピー! ヤマカガシだし。

 平和である。


■2007/06/08 金
 ノート一枚拡げたら一杯になりそうな、ステージ脇の小さな演壇の前に立つ。正面にペーパーを置いて台に刺さったマイクを端に寄せ、斜め45度で口元に向け、マイクの具合をチェック。会場の一番奥に立たせた人と「こんなもんですかねぇ」 「おう、いい声だよ」
 開会まで15分。人も次々と集まってくる中、今頃プログラムが印刷されたペーパーに眼を通している。台詞も記載してくれているのだけど、ちょっと甘い。乾杯の前にはグラスに飲み物を用意させないとならないし、起立もさせなければならない。それも、言わなければ皆がしないこともあるし、言わなくても流れでそうなることもある。ちょっとメモを書き加える。最後の本人の挨拶の前もそうだろう。皆が席を立って歩き回っているだろうから、一旦席に戻らせないとならない。その辺りもちょっと書き加える。
 なぜこんなことをしているのか、というと、元上司の退職に伴うパーティーの司会進行役になってしまったからだ。それもまた唐突で、理由は「お前、飲まないから」。おいコラ。でも、同じような理由で司会やら祝電披露やらを何回かやったことがあるので、3年くらいブランクがあるけれど引き受けることに。
 そうしている間にも、乾杯をやる人が変わったり、プログラムの入れ替えがあったり。それらを書き加えているうちに、事前に渡されたペーパーは書き込みだらけで原型をとどめなくなる。あーもういいわ。台詞のある人の名前だけ把握しておけばよし。後は流れでやる!
 来賓も揃い、まもなく開宴。自分は壇前で待機。本日の主役もドアの外で待機完了しているだろう。会場がざわざわしている中、最後のマイクチェックをする。自分はマイクをコンコン、とか「アーアー」とかはやらない。チーチーツー、と、小鳥の鳴き真似をする。当然会場中に響くのだけど、これだと誰も気付かない。マイクよし。時間。主役が入場するドアの内側で待機していた人から、準備よし、の合図が出る。最後に自分に言い聞かせる。心がけることはただひとつ。ゆっくり話すこと、だ。

 誰も見ていない中、壇に一歩近づいて一礼する。
 それから深呼吸。じゃあ、行きますか。

 「みなさま、大変長らくお待たせいたしました。ただいまから…」


■2007/06/10 日
 先ほど手にした醤油の原材料標示に「大豆(遺伝子組換えでない)」と書かれていた。「遺伝子組換えでない」は、他の食品の「とうもろこし」だとか「じゃがいも」を見てもそう標示されているので、「遺伝子組換えでない」と書くように決められているのだろう。でも、正しくは「遺伝子組換えではない」ではないのかな、とふと思う。
 これは地方性なのだろうけれど、自分なんかはよく「〜でない」は、「いいんでない?」というような使い方をする。つまり「〜でない」は、「〜でない?」と語尾を上げて疑問形となることで「〜じゃない?」と人に尋ねるようなニュアンスになるのだ。
 要するに、「遺伝子組換えでない」=「遺伝子組換えでない?」=「それ、遺伝子組換えじゃない?」という意味のことが標示されている感じで、何んだか可笑しいのだ。だから。というか、どうでもいいのだけど、ちゃんと「〜ではない」と否定してほしい。

 というより、そもそも。遺伝子組換えではないものに「大豆(遺伝子組換えでない)」と標示するより、遺伝子組換えのものに「大豆(遺伝子組換え)」と書くべき…でない?


■2007/06/11 月
 優しさ、なのだろうか。人に甘くするのではなく、優しくする。自分の中にそういうものがあるとは、思っていなかった。けれど、ある人たち。年齢も性別も関係なく存在する、そういう人たちは、自分の中のそれを見つけてしまい、それを引き出してしまうのかも知れない。
 そういう人たちには、真剣に関わろうと思う。何を返せるか解らない自分には、それしかできない。横道へ逸れたり、ごまかしたりするのではなく。真剣に関わろうと思う。関わり、とはテクニックではない。それは、姿勢だ。真剣に、心から、関わろうとする姿勢。

 心に決めよう。どんなことがあっても、その人を拒否しないこと。俺は君を拒否しない。

 右手の側の、奥歯。自分は歯並びは物凄くいいのだけど、顎の一番奥から数えて4番目の歯。それだけがちょっと外側を向いて生えている。理由は乳歯。その歯の内側に、何かの理由で折れた乳歯の欠片が抜けずに残り続けており、新しい歯が生える際も、その乳歯を残して外側から永久歯が生えてきたのだ。
 で、外側に永久歯、内側に乳歯の欠片、と、ここだけ歯が二本並んで生えていた。のだけど、今日、事件は起こった。今日一日ずっとその乳歯の辺りがいずい(※1)なぁ、と思っていたのだけど、帰って晩飯の後、爪楊枝でそこをちょして(※2)いたら、なんと。その乳歯がポロッと取れてしまったのだ。
 取れたのは、普通の奥歯の4分の1ほどの破片。色はもう白くなく、ピーナツのような色になっている。それを見ながら、しばらく放心。

 32歳にして、やっと歯が全て生え変わった。わぉ。
 って、ひょっとしたら自分は今日、やっと大人になったのだろうか。

 ※1 歯にエビの殻が挟まってなかなか取れない。というようなもどかしくて落ち着かない感覚を、
    北海道では「いずい」という。 「目、なして擦るのさ」 「ゴミ入っていずいんだよー」

 ※2 同じく、いじくることを「ちょす」という。「おい、そこらへんのものちょすな!」
    また、人をおちょくることも「ちょす」という。「ちょっとあの野郎ちょしてやるか…」


■2007/06/13 水
 カラッと晴れた日々が続く今週。今年の梅雨は遅いという。それは結構。でも、明日は雨かも知れない。今日、夜に帰って来た時。棟の一階にある全戸の郵便受けが集まるスペース(屋外の階段下)に同じ職場の人がいるのが見えた。けれど郵便受けを覗いているのではなく、何をやっているのかは知らないが、何かやっている。
 近づいて、何やってんのさ、と声をかけて見ると、「これ、見て見て」というポーズでコンクリートの床を指差す。ヘビでもいたか? と思ったのだけど特に何もないので訊いてみる。すると「カエルいるんですよ、カエル!」 良く見ると、そこに置いてあった縛られたダンボールの脇に、ちょこん、と小さな小さなアマガエル。
 つまりキミはさっきからずっと、この夜の8時近くの階段下でアマガエルを追いかけていたんだ。はぁやれやれ呆れるわ…ではなく、次の瞬間そのアマガエルを捕獲していた自分。どっちもどっちである。

 胴を指に挟まれて迷惑そうなアマガエルをちょっといじめて、掌を開く。掌の上で少しの間じっとしていたアマガエルは、そのうちぴょん、と飛んでゆく。アマガエルの皮膚には毒があるようで、その手で目を触ったりすると腫れることがある。相手もカエルを触っていたので、帰ったら手ぇ洗うんだよ、と。

 そんなこんなで、明日は雨かも知れない。
 カエルをいじめたら、雨。子供の頃、よくそんなことを言ってたっけ。


■2007/06/14 木
 ほら、雨だ。しかも今日、梅雨入りしたってさ。

 一ヶ月、か。長かった。何事もなかったかのように、季節が巡ってゆく。
 これから一生付き合うことになるだろう、記憶。けれど、もう手元に置く事は止めて。ひとつ奥の引き出しへ移そう。

■2007/06/22 金
 何かとアレであっという間に過ぎた一週間。朝一の頭では今日が金曜だと理解できなくて、燃えるゴミを出し損ねた。ちなみに今、燃えるゴミ、と打ったら「萌えるゴミ」と出た。どんなゴミだ。

 蜘蛛の巣に、羽をつけたら地蜂になりそうなくらい大きな蟻が掛かってもがいているのを見つけた。巣のサイズからして小さな小さなその巣の主の姿は見えない。あまり蟻が暴れているので振り落とされてしまったのだろうか。喰われる相手もいないのに、無駄に死ぬ事もねぇな、と思って、蟻を巣から外して放す。

 日中のそんな事を思い返しながら、ふと思う。蜘蛛の巣に綺麗な蝶が掛かってもがいているのを子供が見つけ、「蝶がかわいそう」と思って助けたとする。それを見ていた大人は何と言うべきだろう。蜘蛛にだって生きる権利があるの。蜘蛛が捕らえた蝶を食べるのは自然なことなの。かわいそうだからって蝶を助けるのは、蜘蛛の食事を奪うことになるんだよ。そういうことはね、自然の掟に反することだから、しちゃいけないことなの。
 蜘蛛の巣から逃れようと必死な蝶がいる。それをかわいそうだと思って助ける。そういう行為を、自然の摂理に反するから駄目、と否定すること。教育的にはそれは正しいのかも知れない。けれども、時折違うような気もする。一概には言えないのだけど、そういう行為が「しちゃいけない」と否定されている時、その子供が「何を思ってそれをしたのか」ということへの評価というか、そういう部分が抜けてしまっていることが、あるような気がするのだ。
 何を思ってそれをしたのか、訊いてみるのがいいのだろう。「蜘蛛が憎いから」だったら、ちょっと諭す必要があるかも知れないけれど、「蝶がかわいそうだったから」というのなら、その気持ちからの行動は決して悪いことではない。
 「何を思ってそれをしたか」ということは、「その行動の結果がどうなった」と同じくらい、大切なことだと自分は思う。いや、本当はそれ以上かも知れない。蝶にとっては、自分が網から逃れられれば、誰の手によって助けられようが同じ事。誰かが誰かを助ける、という行為の中。助けられる側にとって重要なのは助かることで、誰に助けられるか、ということにあまり大きな意味はない。今回助けた蟻にだって、咬まれるし蟻酸はかけられるし。そんなものだ。
 だから、というか何というか。「誰かが誰かを助ける」という行為の中で本当に大切なのは、助ける側が「何を思って助けるか」ということにあるのだと思うのだ。名声や私欲、評価や成果のためではなく、純粋に「かわいそうだから」と相手を助けることは、助ける側の心にとっていいことなのだ、と思う。逆に、名声や私欲、評価や成果のためにどれだけ多くの人を救ったとしても、それはその人にとって、それほどいいことではない。
 ただ、ひとつ。「自分が何を思って行動したか」ということを、評価してくれるような他人は、それほど多くない。他人の殆どは、事の結果でしか人を評価しない。そういう世の中で、自分や他人の「思い」を評価すること。それはある意味、結構いい挑戦かも知れない。
 思い、に自信を持てて、なおかつ成果も上げられるなら、最高だ。


■2007/06/23 土
 除湿機必須と言われているこの土地の梅雨。除湿機なしで2年過ごしてみたけれど、2回とも体調が悪かった。昨日に上の階の方と食事を一緒した際、そんな話になって、「今年こそは買おう」と言っていたら「ウチに除湿機余ってますよ。ウチはエアコンあるから」

 で、「よかったら持ってきます?」 と。

 是非。

 しかし、その除湿機。運転後5分と経たずに「湿気がありません」と言って停止してしまう代物らしい。うーん。じゃ、取り合えず貰っていって直してみるか、と、貰ってきた。
 試してみると、確かに運転後5分と経たずに「湿気がない状態ランプ」が点灯して停止する。除湿機は分解したことはないが、中に「湿気センサー」のようなものがあって、それの具合が悪いのだろう。そう考えて、今日は朝から除湿機をバラす。えーと湿気センサー湿気センサー。でも、それらしいものはない。これはモーター。この空気噴出し口の近くにある「高電圧注意」と書かれた電極みたいのは? あ、こりゃマイナスイオン発生器か。 これは加熱防止の温度センサーだと思うし。 そんな感じでどんどんバラバラにしてみたけれど、結局見つからない。
 ただ、除湿機の仕組みはある程度理解する。まずこの触媒のようなローター部で乾燥した空気と湿った空気が分離される。乾燥した空気は外に放出され、湿った空気はここの熱交換器に入る。これがヒーターなのだろう。熱交換器で湿った空気は水滴になって、下に落ちて水タンクに溜まるようになっている。
 …おっ、熱交換器の下に水分センサー発見。よく見ると、熱交換器から落ちた水滴が、水タンクに落ちるのとは別の経路で水分センサーに至る出口。そこにある小さな孔。それがゴミで詰まっている。
 原因解明。湿度センサーがついているわけではなく、この機械は一定時間運転して水滴がこのセンサーに落ちてこないと、湿気無しと判断して運転を停止するのだ。孔が詰まっていると当然水滴は落ちてこない。詰まったゴミを楊枝とエアダスターで排除。それから組み立てて運転してみる。異常なし。修理完了。

 さて、上の階へ御礼でも買いに行くか。


■2007/06/26 火
 一寸先は霧、というこの土地の梅雨らしい天気。除湿機よ、いよいよ出番だ。試しに室内で洗濯物でも干してみよう、と、特に差し迫った必要もなく洗濯をして干してみて、ただいま実験中。でも除湿機から出てくる風って、熱交換器が内臓されているだけあって意外と温かいのな。湿気は下がっても室温は上がりそう。


■2007/06/27 水
 貰いものついでに、そういえば。この部屋で使っている天井の蛍光灯。これはこの部屋の前の入居者からの貰い物だ。引越してきて管理人さんに部屋を最初に見せてもらった時、本来は外してゆくはずの蛍光灯がそのまま天井に付いていた。「新品なのでそのまま置いて行きます。もしよければ使って下さい。必要なければ捨てて下さい」と、管理人さんにはそのように言伝を頼んでいったらしい。

 で、管理人さんが 「このまま使いますか?」 と。

 是非。

 前の部屋では裸電球と電球型蛍光灯をぶら下げていただけなので、この蛍光灯は非常に在り難く使わせてもらっていた。ただ、下駄箱の中にその蛍光灯用に買った、と思われるリング型蛍光灯の予備が入っていたのだけど、それはこの蛍光灯には全く合わないサイズのものだった。他にリング型の蛍光灯を使う箇所は無いので、間違って買ってしまったのだろう。と、ちょっと可笑しく思ったりもしていた。

 その前の入居者は同じ職場に勤めていた女性の方だったのだけど、自分がこちらに転勤してくるのと入れ違いで他の県に転勤していった。引越したばかりの頃に時折まだ入ってきていたその人宛の郵便物と、職場でその人の話を聞いたりする事があった以外、名前も聞くことはなかったし、面識も全く無かった。
 しかし、2年後の今春、彼女は再びこの職場に転勤してきたのである。元々こちらが地元で、こちらの方と結婚したため戻ってきたらしい。姓が変わっていたのですぐには気付かなかったけれど、前の住人と知った後、折を見て蛍光灯の礼を言っておいた。

− 蛍光灯、ありがとう
− あっ、使ってくれてますかぁ!
− 在り難く。でも、サイズ違いの蛍光灯も何本か。あれはちょっと。
− あっ! あははは…

 そういえば。自分も前の部屋を出てくる際に、除雪道具とストーブと屋内用の灯油タンクを、次の入居者のために残していったんだっけ。まだ使われているのかな。


■2007/06/29 金
 嘘をつくのは悪。真実を言うのは善。誰かを傷つけないために嘘をついても、それは嘘。傷つける結果になろうとも、真実を伝えるのが善。こういう善悪を決める理屈にもやはり抜けているものがあると思う。前にも書いた。「自分が何を思って行動したか」という評価。
 嘘をつくことが悪、真実を言うことが善、という単純な結び付けには、自分は意味を感じない。解りやすく、最もらしく聞こえるけれど、一番肝心な部分がすっぽり抜けている気がするからだ。そういう結びつけは、「万年筆で書いた作品は文芸で、ワープロ打ちの作品は作文だ」と言ってるのと同じくらい無意味だと思う。まぁそんな事を言う人はいないか。

 相手を陥れるために嘘をつくこと、相手を傷つける意図で真実をいうことが悪。相手にショックを与えないため嘘をつくこと、相手を信じて真実を伝えることが善。そんな感じで、嘘や真と善悪というものは直接結びつくものではなく、間に挟まる思いや気持ちによって決まってくるもの。自分はそう感じる。
 ただ、難しいのだ。「気持ち」や「思い」を評価すること。それは自分にとっても難しいし、他人にとってはこの上なく難しい。というより、基本的に「気持ち」や「思い」は、他人には見えないもの。だから世の中、見える部分だけで善悪を判断しよう、となってしまうのかも知れない。そして、自分の思いや気持ちを脇に置いて、他人からの評価だけで自分がしたことの善悪を判断する、という方向に向かってしまうのかも知れない。

 何をもって善とし、何をもって悪とするか。ここでいちいち書く必要もない。多くの人はすでにそれを知っている。思いに反して行動を取ろうとする時、思いを置き去りにして行動をとろうとする時。「それでいいの?」と、時折聞こえる小さな声。その小さな声に耳を傾け、その小さな声のままに動くこと、なのだろう。
 そう生きることは難しく、時に苦しいかも知れない。でも、それは他人から評価されない、理解されないといった、そういう苦しみだ。自分の思いが強ければ、そういう批判は必ず乗り越えられる。問題は、自分の裡から湧き起こる批判。相手が他人ではないだけに、時にそれは情けも容赦もなく自分を責める。
 もし、自分の思いを評価して生きられるようになれば、例えば「傷つけないためについても嘘は嘘」と自分を責めたりする、そういう苦しみからは、ひょっとしたら開放されるのかも知れない。


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