Diary


平成十九年 皐月


■2007/05/12 土
 大型連休のツケ残業週間も、先日の19時半までの残業でひと段落。先週が先週だったので、今週末はどこにも出かけないぞ、という意気込みで始まった週末。
 昨年秋に履き換えたスタッドレスタイヤだが、春を迎えた今もまだ夏タイヤに履き換えていない。このタイヤを買った時の事は2002年12月の日記に書いてあったので、もう5シーズン目だ。購入当初は柔らかかったタイヤも、硬化が進んでいる。もう冬タイヤとしての性能は期待できないので、今年は通年履いて履き潰そうと思う。
 今シーズンは履き換えてから、年末年始の最西端の旅、そして今回の東北の旅をしている。その他で走った分を併せるともう6,000キロを超えるか。見ると前後輪の磨耗の差が明らかだったので、タイヤのローテーションをした。夏タイヤを一個出してきて、1ケ所づつジャッキアップして、前後左右のタイヤ位置を交換する。

 富士山が綺麗に見えていたので、慣らし運転兼ねてドライブ。登山口に車を置いて、残雪の縁まで歩く。残雪の縁ではこの時期、川が生まれている。残雪の空洞の中に耳を澄ませる。久しぶりに聞く、せせらぎの笑い声。

 ついでに、写真を少々。 
>> 「川が生まれる場所」

 …って、結局出かけてしまった。


■2007/05/13 日
 文章を書く上で使い分けする、同じ読みで似た意味の漢字、というものがいくつかある。
 例えば、「おもう」には「想う」と「思う」がある。
 自分の場合、「思う」は、なにか目的があって「おもう」イメージ。「明日の仕事のことを思う」という感じ。「想う」は、それようりももっと漠然としたことを「おもう」イメージ。「空を見上げてふと想う」という感じで使い分けている。
 ただし、これは本当に自分が持っているイメージだけで使い分けていることなので、特に漢和辞典を開きながらやっているわけではない。なので、国語的に正確なのかどうかは、わからない。あと、誤変換に気付かなかったりすることもあるので、その使い分けも完全ではなかったりする。

 「思い」 対象がある。あなたへの思い。
 「想い」 対象が漠然としている。ふと湧いた想い。

 「判る」 幾つか答えが浮かぶ中から、ひとつの答えを見つけたようなイメージ。判断した。
 「解る」 答えが無い中から、ひとつの答えを見つけたようなイメージ。理解した。

 「捜す」 広い範囲を眺め渡して、漠然としたものを「さがす」ようなイメージ。
 「探す」 狭い範囲を手探りで、そこにありそうなものを「さがす」ようなイメージ。

 「聞く」 何かの音が耳に入っている、「きこえている」というイメージ。ノイズを聞く。
 「聴く」 意識的にその音を「きいている」というイメージ。
 「訊く」 人に「きく」。

 「体」 一般的に。「体を動かす」。
 「躰」 「体」よりも、もっと「肉体」という意味を強調するイメージ。「この躰に宿る魂」。

 「広がる」 ひらけている、や、広い、大きいといったイメージ。青空が広がる。
 「拡がる」 拡大してゆく、という感じ。サイズはあまり関係ないイメージ。波紋が拡がる。

 「輪」 元から始まりも終わりもない「わ」や、リングというイメージ。
 「環」 始まりと終わりがつながってできた「わ」や、サイクルというイメージ。

 「守る」 ある状態を「まもる」イメージ。ディフェンス。
 「護る」 ある対象を「まもる」イメージ。ガード。

 「顔」 顔面。「顔が日焼けした」
 「貌」 表情。「そんな貌しないで」

 「帰る」 移動して戻る。「家へ帰る」。
 「還る」 戻ったところの一部になる、ような感じ。「自然に還る」。
 「返る」 元の状態に戻る。「我に返る」。

 と、一部を上げるとこんな感じ。でも結構、その時の気分だったりもするので、「意識して使い分けることもある」というくらいの、ちょっとしたこだわりの話。




■2007/05/22 火 
 朝礼が外であって、芝の上に皆が集まって始まりを待っている時に、ある人が隣でしゃがみ込んで芝に手をやっている。そうして少しして、草のひとつを手にして立ち上がる。笑ってこっちを見ながら、差し出したその手に四葉のクローバー。
 仕事が始まってしばらく経って、用があってその人がいた事務所へ行く。また笑って差し出されたその手には、紙に押されたクローバー。それを見せながら「何かいいこと、ないかなぁ」と呟くその人に、「あるかもね。いいかおしてな」と。要件を済ませてその事務所を出る。
 外にある喫煙所で煙草を吸っていた。建物の壁際の地面に、一塊になってクローバーがわさっと生えていた。ちょっと気にして見ていたら、自分もふっと見つけてしまった。四葉のクローバー。

 先週、とある瞬間にブロックした感情が、今でもちゃんと戻ってこない。何と言うのか。あの状況の中で、自分だけは動揺してはならない、と、そう思った。そうして、心が波立つのを封じるため、咄嗟に心の水面を凍らせた。結果的には、そうしたその後の自分の行動は、細かい所を除けば適切だったと思う。幾つかの行動は、誇りとして己で認めてもいいと思う。けれど、状況と正面から向き合うことになった自分にはもう逃げ場もなく、対峙し続けたその分だけ更にダメージを負ったのは確かだ。
 何より、その時に張った氷が、今でもずっと融けないままで、感情の幾つかがまだ戻ってきていない。そんな感じがする。この氷が一気に崩壊したら。どうなるのだろう。

 クローバーを摘みとって、ワイシャツの胸ポケットに入れた。四葉のクローバーが幸せを招くのは、そう信じることで人を幸せな気持ちにさせるからかも知れない。まだ、幸せな気分とはほど遠い。けれど、何と言うのだろう。久しぶりに心が…動かない、というのではなく、鎮まった気がする。
 あ。ひょっとしたら、最初のクローバーのご利益で、自分はこのクローバーを見つけたのかも知れない。ふっ、と可笑しくなった。じゃあ、その人の幸せ取っちゃったかも知れないから、返さないと。また要件がてら先ほどの事務所へ行き、訊く。

 …いいこと、あった?
 …えー、まだですよー
 …じゃあ、ほら。やるよ
 …わー、一日に2本も!

 幸せの可能性。ふたつもあれば、なんとかなるべ。

 …いいことあるかなぁ。
 …あったらいいな。

 多分、こういう日々の積み重ねが、氷を徐々に融かしてゆくのだろう。


■2007/05/25 金
 経験は、ひとりで負うなと教えてくれている。直接的だったり、遠まわしだったり。でも、皆、気を遣うのが下手だなぁ、と。時に少し可笑しかったりしながら、それを心からありがたく、頼もしく思っている自分がいる。自分だけではない。共有した皆がそうだろう。失うことで得るものは、必ずある。それを受け取り、護り、返してゆこう。この手は受け取ることも、差し出すこともできる。この思い。忘れず生きてゆけるなら、きっと乗り越えてゆくことができるだろう。そして乗り越えた時、みんな前よりもっと、大きくなっている。そう。そうなることが多分、自分達の、努め。


■2007/05/26 土
 午後の騒々しい店内で誰かに呼ばれたような気がして、立停まった。気がしただけかと思って歩き出したらまた呼ばれ、振り返ったら本当に呼ばれていた。先ほども街中を歩いているところを車ですれ違った、と言う。今も目の前を通ったのに、気付かずに通り過ぎたらしい。自分にしては珍しい。何を考えて歩いていたのやら。
 お互い昼飯がまだだったので食事へ行く。途中、軒からぶら下がった毛虫を見つけたり、不細工な猫をみつけたり。そうして飯にしながらおしゃべり。カプチーノが入ったカップを口元に近づけているところで、ぷっと笑わされて、泡が飛び散ったのが可笑しくて互いに笑ったり。支払いの時に、レジの前のテーブルに忘れ物の「がまぐち」を彼女が見つけて、店員に渡し、いいことしたね、と笑ったり。その後で、…しまった、中身見なかった! と言ったら即座に、何てことを! と突っ込まれてまた笑ったり。誰に会う事も想定していなかった一日に、ふと訪れた。そんな時間。

 朝方に見る夢が最悪。夢で目覚める日もある。なので、夢の前に目覚めればいい、と、起きる時間を早くしていた。それが意外と効果的なよう。まぁ単に、早く起きるために早く寝る。その早寝早起きなリズムがいいだけかも知れないが。


■2007/05/30 水
 朝の通勤路でよく会う中学生の女の子。会うといつも「おはようございます」「おはよう」と挨拶を交わす。今日、日没後。帰り道で初めてその子に会った。前から歩いて来るうちに向こうも気付いて、あれっ、という顔をしている。朝はいつも向こうから「おはようございます」と挨拶してくる。でも、夜は何と言ってくるのだろう。そう思ってこちらは何も言わないでそのまま近づいて行ったら、そのまま擦れ違う間際まで来てしまった。
 何かを言おうとはしているのだけど、咄嗟なので何を言っていいのかわからない。そんな感じでモゴモゴしていたので、こちらから「こんばんは」と言う。そうしたらようやく「…こんばんは」と。

 それまでの様子と、その時のほっとしたような表情が何だか可笑しくて、くすっと笑った帰り道。


■2007/05/31 木
 忘れることだよ。違うことを考えるようにすることだね。多くの人がそう言う。そういう意味も判るし、そういう気持ちも判る。だから、その場での自分はただ頷く。けれど自分はもう決めている。この先も、忘れることもないし、逃げることもない。もう何度も学んできた。自分は自分のやりかたで、越えてゆける。多くの手を借りながら。
 この先すべきことは、わかっている。気持ちの端。そして、この経験の端を、しっかりと閉じること。

  「気持ち」というものも、そうして何らかの形で「環」に閉じて、長く繋いでゆくべきものなのかも知れない。大事なのは「気持ちの端」をそのままにせず、閉じるべき時にしっかりと閉じて、そうして完結させた「気持ちの環」を、経験の鎖の一部として長く繋いでゆく事なのかも知れない。

 「気持ちの環」を、閉じること。
 そうせず、端をそのままにされた「気持ち」が永遠の後悔として、その後何度も僕の前に立ち現われてくるのだろう。
 (引用:褐色に浸る時間「気持ちの端」)

 気持ちの端、そして経験の端。それをしっかり閉じて環にしよう。万物は環の形をとることで安定し、強くなる。星は球になることで悠久の時を越えて在り続け、風や水は渦を巻くことで恐るべき力を発揮する。記憶もきっと、そうだろう。

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