Diary 平成十九年 文月 ■2007/07/01 日 夕方になってから図書館へ行く。しばらく書架の間をうろうろしていたら、ふと脇を、こないだ除湿機を貰った上の部屋の住人が通り過ぎた。気付かなかったようなので後を追いかけて声をかける。ある資格の試験が近くて、ここで追い込みをかける、のだと言う。 じゃあ、邪魔しちゃ悪いから、と、そこで別れてまた書架巡りに戻る。結構長居して、40分くらい経っただろうか。何冊か借りてさあ帰ろう、と。その前にリファレンス室へ行き、机に向かっている彼女に後ろから「じゃ、お先に…」と。 …と、声をかけてみたら、寝てた。 「あっ。あぁ、いま危ないところでした…」 …いや、寝てた。 ■2007/07/06 金 期の変わり目、ということもあり残業続き。帰ったら寝るだけ、という生活。それでも早寝早起きにはなっているので、健康的といえば健康的な生活かも知れない。 入梅のタイミングは同じなのだろうが、アジサイが咲くタイミングは平地より遅いようで、ここではまだ咲いていないものもある。ここしばらくずっと隠れているのだけど、今日はちらっと富士山が見えた。残雪がまだ残っていた。今年は山に登ろうという予定がある。自分が登ると言ったら何人かが興味を示していたので、ひょっとしたら何人かで登ることになるかも知れない。夜に登って、日の出を見て、朝に降りてくる。そのつもりで何時ごろにしようか、暦を見る。月末がいいだろうか。その頃は月が満ちているから。夜中の登山だ。少しでも明るい方が登りやすいだろう。 さて、ここからお知らせ。 このページですが、現在借りているこのスペースの借用条件変更のために、今月いっぱいくらいで消滅すると思います。新しいところを捜してもいますが、なかなか時間もなく。新しい所へ移行したとしても、こちらのページの存続中には間に合わない可能性もあります。なので、こちらのページ中で引越しのお知らせをすることができないまま、消えてしまうかも知れません。 ただ、「My Stuff」はこのページからは独立したスペースでやっているので、影響はありません。引越しができたら「My Stuff」の方でお知らせします。 なお、このページの更新は変わらずに行いますので、今後ともよろしくお願いいたします。 ■2007/07/07 土 七夕。毎年書いているような気もするが、北海道の多くの地域では、七夕は月遅れで8月7日。旧暦の七夕に合わせるとその辺りが古来の七夕の日付に近くなるらしい。でも、同じ北海道でも地元の道南辺りでは7月7日。ちなみに、ここ静岡は当然7月7日だ。でも、月遅れの方がいいかも知れない、と、ふと思う。北海道では気にならなかったけれど、こちらのこの時期って、梅雨真っ盛りじゃないか。 自分の、ものの書き方について。自分はどちらかというと、想っていることを言葉で突き詰めてゆくタイプではなくて、その想いにしっくり嵌る何事かを身の回りから見つけて、その事を書いているだけ、のような気がする。 生きている間に抱く想いがいくつもあって、それは心の引き出しに収まっている。その引き出しを開く鍵を、言葉の力で自ら研ぎ出し開く人もいるだろう。でも自分は、ふと見た身の回りにある何か。それが突然鍵になって、ふいに引き出しが開いてしまうのだ。 つまり、何と言うのだろう。ひとつの物事をじっくりと突き詰めて考えられるタイプではなくて、色々な物事の間をポンポンと巡りながら連想してゆき、結局、最初の物事に行きつくタイプ。言葉と自分の思考だけでその物事について深く思索できるタイプではなく、必ず身の回りにある確かなものを「手すり」にしないと、深く思索できないタイプ。…そんな感じだろうと思う。 ただ、そんな書き方をずっと続けていて、最近思うようになったことがある。人間の行動、人間の想い。そうしたものと、空や雲の動き、草花の生き方。そういうものの間に何か共通のもの。連想できるものを見つける度、ものすごく複雑な法則に支配されているように見える人間の世界も、突き詰めてゆくと、宇宙や自然が時折見せるものすごくシンプルな法則。それと同じなんじゃないかな、というような。そんな事を感じることがある。 反対に、ひょっとすると、本当はものすごくシンプルな法則しかないところに、人間がものすごく複雑な意味づけをしすぎているのではないか。そんな感じがすることもある。 例えば。 「鶏が先か、卵が先か」は、鶏が先だ! 「卵から孵る」と「卵から産まれる」を混同すると、この命題はややこしくなる。鶏は親として別の命である卵を産むけれど、卵が親として別の命であるヒヨコを産んでいるわけではない。ちょっと見方を変えるとこの命題は「親が先か、子が先か」という、とてもシンプルなことを訊いているだけの気がする。 「ヤマアラシのジレンマ」は、存在しない! 威嚇や攻撃のために針の毛を逆立てるから刺さるんであって、仲間と身を寄せ合う時くらい、針は寝かせられるだろう。相手を傷つけない距離を探る、という寓話にするよりも、針を持っていても身を寄せ合う時はそれを畳む、という寓話にした方がヤマアラシにとっては自然な気がする。 …のだ。ただ、これは自分自身だけの考えなので、ここに書いてはいるけれど、そう思っている人を否定したり、「これはこうだ!」と他人に押し付けたりするものではない。 けどまぁ、言葉は悪いかも知れないけれど、自然の法則で生きているものを、物語の中で人間の寓意に引き寄せすぎてしまうと、その物語に登場する生き物は、なんかグロテスクなものになってしまうように思う。何と言うか、遺伝子操作された作物のようだ。 遺伝子操作までして新しい作物を作り出すこと。自然にあるものに満足せず、なぜそうまでして新しいものを作り出そうとするのか。生産性を上げるため。経済性を上げるため。食料事情の変化に作物を適合させるため。来るべき食料不足を回避するため。複雑な理由が色々とあるだろう。 でも、その一番の理由。それも、本当はものすごくシンプルなのだと思う。 それは単に、人間が自然に合わなくなってしまったから。だからそうしてまで自然を操作し、人間に合わせようとしているのだ。 …ていうか。書き出しの七夕はどこへ行ったよ。 ■2007/07/12 木 自分が「四つ葉畑」と名づけていた喫煙所脇のクローバーの、ひとかたまりの群落が、草刈で綺麗さっぱり無くなっていた。先月のクローバ発見以来、ここで見つけて摘んだ四つ葉のクローバーは4枚。3枚は「見つけたら取ってきて」という人がいたのでその人にあげて、1枚だけ自分のデスクマットの下に挟んである。意外とあるもので、他にも2枚ほど、見つけたけれど摘まないでおいた葉があった。けれど今は真っ更な土の地面になってしまっている。まぁ、そうなるのが判っているから摘んでいたのだけど。 クローバーってのは、いい贈り物かも知れないな、と、ふと思う。クローバーは元々自分のものではない。金銭的に何か価値のあるものでもない。それを摘んできて、人にあげる。その人が「わーい、何かいいことないかな」と、それを受け取る。それを見て自分も笑って「いいこと、あったらいいな」と。それで終わり。で、クローバーのお返しが発生するわけでもない。そんなことは、どちらも思いもしない。クローバーはあげた時点で完全にその人のものになり、それをその人が今後どうしようと、それはあげた側の関心ごとではないし、ずっと持っていてもらいたい、というほどのものでもない。そういうのが、何かいいな、と思った。 あげたら、何か見返りを期待する。もらったら、何かお返しをしなければならない。贈り物とはそういうものなのかも知れない。けれど、ひょっとしたら贈り物というのは、あげたものが受け取られた時点で、それはもう相手から何かを受け取ったことになり、貰ったものを受け取った時点で、それはくれた相手に何かを返したことになる。そういうものなのかも知れない。高価なモノではそうはいかなのだろうけれど、少なくとも、四葉のクローバーという次元の(しょーもない)モノの場合、モノの行き来は片側通行だけに見えて、それだけで十分に贈り物の交換の法則が成立ってしまう気がするのだ。 贈り物、って何かな。 何かお返しを期待する贈り物。 相手に持たせたいものをあげる贈り物。 あげたあともその後の行方が気になって仕方がない、相手のものになりきれない贈り物。 贈る側にとっては、相手に喜んでもらいたい。そのためだけでいいんじゃないかな。そして、相手がその瞬間、少しでも喜んで受け取ってくれたのなら、それはそれでもう十分に返してもらっているんじゃないかな。受け取った側だって、それを喜んで受け取ることができたら、それはそれでもう十分に返したことになるんじゃないかな。 贈り物ってのはそういうもので、その範囲を超えてしまうと何と言うのだろう。それはもう贈り物じゃなくて、経済だとか、駆け引きだとか。そういう次元のものになってしまっているのかも知れない。 そういえば、前に書いたな。純粋な贈り物の話。 >>褐色に浸る時間「これ、あげる!」 (ページ真ん中あたり) 「相手を喜ばせたい」という、ただそのためだけの贈り物。 読み返して、ふと思った。贈り物をする事で得られる最大のものは多分、贈った相手に喜ばれることだろう。でも、相手に喜ばれることに、それほど多くの人が自信を持っているわけではないのだ。だから、喜ばれるモノ、という価値以外の、様々な付加価値をつけてしまうようになったのかも知れない。 ■2007/07/13 金 職場で電話を受ける。相手は、前に書いた、蛍光灯を貰ったこの部屋の前の住人。来週はJRを使った出張があるのだけど、以前に申請していたそのチケットの準備ができました、という。 「すぐに取りにきますかー?」 「んじゃあ、今から。…あれ、印鑑いたっけ。何かいるものあった?」 「ええと、そうですねえ。印鑑と…お菓子!」 …ぷっ。 というわけで、印鑑と、こないだ北海道物産展で買って職場でのおやつにしていた「余市リンゴのソフトキャンディー」をいくつか胸ポケットに入れて、チケットを取りに行ってきたのでした。 ■2007/07/14 土 晴れたら富士山の下見でもしてこようか、と思ったが。車が綺麗になりそうなくらいの雨。久々に昼間にインターネットに接続。うれしいことに、このページの移転先が決まる。先日申し込んだ所を覗きに行ったら、審査を通過して当選していた。手続きがあるので引越し作業はまた後日になるが、手続きの完了次第、新しい所に移転しようと思う。受け入れてくれたサーバ管理者様に感謝。 詩のページにコメントを返していて、ふと思う。人と物との関係。そして神様。世界を無理やりグループ分けすると、大体3つになると思う。頭の中にはイメージとしてあるのだけど、言葉にするのは難しい。でもちょっと書いてみよう。ひとつは、物のグループ。もうひとつは、神様のグループ。そして、その間に立つ、人や生命のグループ。この3つだ。 物のグループというのは、石だとか山だとか落ちている木の枝だとかが属するところ。そのグループも細かく見るとふたつに別れていて、ひとつは、自然に存在するもの。もうひとつは、人が手を加えて役割を与えたり意味づけしたもの。つまり、自然の物と、道具とに別れる。 そして、神様のグループ。まぁ神様と言っても、他に適当な言葉がないからその言葉を使っているだけで、特に白ヒゲのオジサンがいるところ、とか、そういう意味ではない。森羅万象。自然や自然現象。繋がり。意識とか、精神だとか、心だとか。うまく言えないけれどそれはそういった感じのもので、グループと言っているけれど、他のグループと特に区切られた場所にあるものではない。それは身の回りにも、物の中にも、そして人の中にも入り混じって「在る」もの。 ここが一番説明が難しいのだけど、自分はどこか特別な所に「神」がいる、というんじゃなくて、何かそこらへんにあるものでも、人の力の及ばないもの。人の知恵では理解できないもの。なかなか説明がつけられないも。そういう「よくわからんもの」をひとグループにして、他に適当な言葉がないから「神」という言葉を当て嵌めている、という感じ。だから「神様のグループ」というよりは「在って、在ることが理解できないものグループ」になる。 最後に、生命のグループ。先に書いた通り、このグループは「物のグループ」と「神様のグループ」。その間にある。物のグループに属する肉体に、神様のグループに属する精神や意識や心が宿った状態のもの。どちらの要素も併せ持ち、かつ、物と神のどちらのグループにも属さない、という、ちょっと特異なグループ。単なる物だけの存在でもなく、単なる意識だけの存在でもない。そして生を終えた後には、意識だとか精神だとかは「よくわからんグループ」へ。身体の方は「物のグループ」へと、それぞれ還ってゆく。 と、言葉足らずなのだけど、大体こんなイメージ。 そして、詩のページに書いているもののいくつかは、こうしたイメージがベースになって書かれているのだと思う。「一瞬の光の軌跡のものがたり」、「世界を成立たせる四要素」、「シャボン玉」あたりがそうかも知れない。頭の中にイメージとしてある「よくわからんもののこと」、を、外から何か似たようなイメージのものを見つけて、そのものに重ねて考えたり書いたりする。書いたところで解りやすくなって いるのか、はさておき。そういうのがまぁ、自分の書き方の個性、っていえば個性、なんだろうなぁ。 ■2007/07/21 土 昨日ようやくこのページの引越しをした。 新しい場所は http://kaeka.kuronowish.com/ になる…と、ここで書いてもこれを見ている人は既にこのページに来ているので無意味か。でも、知らずに飛んで来た方は確認しておいて下さい。 なお、新しいスペースの借用元はこちらです。 >>Kuronowish.com ページの内容には特に変わりはない。ただ、以前の所にあった夜間帯のアップロード制限が無くなったので、常に日遅れだったこの日記が、書いたら即アップロードできるようになったのは結構大きいかも知れない。また、アドレスに「kaeka」が入って、よりシンプルになったのが良かった。 新しいところになっても、当分の間は遅々とした更新が続くと思いますが、引き続きよろしくお願いいたします。 ■2007/07/23 月 昨日出勤したので、今日は火曜日だと思っていた朝。出勤ついでに燃えるゴミを出して、しばらく歩いたところで月曜日だと気付いた。燃えるゴミは火曜日と金曜日。ごめんなさい。 23時まで仕事をした次の日に、仕事忙しいですか、と訊かれて、全然、と答えたりしていたのだけど、微妙に咬み合わない会話だったと思う。別にひねくれてそう言ったわけではない。仕事は確かに多くある。ただ、自分は「仕事が多い」「遅くまで残業している」ということが、すなわち「忙しい」になるとは、思っていない。どちらかというと正直、どんなにバタバタしていても「忙しい」という風には見られたくないし、「忙しい」とも言いたくないのだ。 「忙しい」は、何て言うか巧く言えないのだけど、仕事の量や困難さを現す、というよりは、その人の仕事の取り組み方を現す言葉、のような気がする。仕事が多いから忙しい、ではなく、少ない仕事でも忙しくやっている人もいるし、多い仕事でもゆったりとやっている人もいる、という具合に。 時折、てか結構いるのだけど、仕事の多少とは関係なく常に忙しく仕事をしている人がいる。そして誰かがその人に物事を頼みに来ても「いま忙しい!」という感じで突っぱねたりする。それは言葉だったり出している雰囲気だったりもするのだけど、そういうのを見ていると、ふとそんな事を感じてしまう。要するに、仕事をしながら仕事とか、自分だとか。そういうものしか目に入らない状態。そういう状態のことを、ひょっとしたら「忙しい」と言うんじゃないかな、と。 だから、まぁ、ついつい普通に使ってしまうこともあるのだけど、「忙しい」は何だか周りに壁を作る言葉のようで、あんまり好きじゃないし、そういう態度でも仕事はしたくない。幸いそれほど没頭できるタイプでもないので、急ぐことはあっても、なるだけ「忙しく」見られないような仕事をしたいなぁ、と思う。 「遅くまで残っているけど、忙しいんですか?」 「んにゃ。忙しいのヤダから残業してんの」 …ってくらいが上等。 ■2007/07/25 水 明日、明後日の出張で、一通りのヤマは終わりか。やっと終わりが見えてきた。 前の職場(札幌)に久々に電話をかける。自分の後任に置いてきた後輩が、来月頭に異動になるという。希望は東京都内の某職場に出していた、というが、北へおよそ100Kmの地点になったらしい。「フェリーがいっぱいだったんで、青森から自走ですよ!」という。東北は長いぞ。気合入れて来い。 にしても。東京都内の某職場、というのは、自分がここに来る前に希望を出していたところと同じだ。自分はまぁ面接では、そこでなくてもどこでもいいよー、というノリだったが、蓋を開けてみたらその職場から西へおよそ120Km地点のこの職場だった。東京都内の職場は東京都内での異動を希望する者と、東京近郊から希望する者。それらだけで非常に倍率が高い。そこに地方からポンと飛んでくるのは更に厳しいのだと、実感したのはこちらに来てからのこと。何にしろ、「東京行って見たい!」というくらいの理由では、なかなか潜り込めないのだ。 まぁ、我々はまだ方角が合っていただけマシか。以前に自分の後を追うつもりで同じところに希望を出した後輩は、全く逆方向の東へ200Km地点(東京よりロシアが近い)へ飛んで行った。 ウチの人事よりテポドンの方が、まだまともに当たるような気がした一日。 ■2007/07/29 日 夜のベランダへ出ると、雲の切れ間から覗いた富士山。梅雨も明けて、登山シーズンの到来。普段より多い光が山肌に列をつくり、登ってゆく。といっても、かなり距離があるので、登山者の光も動いているようには見えない。ここから見た登山者の光の動きは、恐らく、ここから見る星の動きよりも遅いだろう。 月が満ちている、という理由で、自分も明日休暇を取り、今日明日で富士山に登るつもりだったが、都合がつかずにキャンセルした。来月の盆明けくらいにしようと思う。何人か一緒に行きたいという人がいるのだけど、初めての人ばかりなのでどうなるのかは判らない。みんな、登りきれるかどうか、不安なのだ。 けど、特に山登りが趣味というわけでもない自分のような人にとって、一番難しくて重いのは多分、最初の一歩を踏み出すこと、なのだろう。何だかんだで最初の一歩を踏み出して実際に登りはじめてみると、もう登ることしか考えられなくなる。そんなモンだと思う。 ■2007/07/30 月 定時近くになり、明日の予定を見ると、午前中は殆ど仕事にならない。じゃあ、いまやっているのも無理して残業して仕上げたって、朝一に持っていくことはできないんだ。あー止めた止めた。今日はもうさっさと帰ろう。そんなノリでいたら、脇から「今日、土用の丑の日だって」と。で、じゃあウナギでも喰いに行くかー、と、その場で決まる。手近なもうひとりを捕まえて、ウナギ喰いに行くぞー、と誘ったら「行きますか」と。 そうして、誰が決めたのかわからないが「鰻100名店」のひとつらしい鰻屋さんにウナギを食べに行ってきた。男らしく、一番値段の高い鰻重を頼む。およそ3000円。 ふと思う。3000円もだせばこんな豪華なものが食べられるんだなぁ。もっと高い額を払っているのに、宴会の料理ってどうしてこうじゃないんだろう。そんな疑問を呈したら「そりゃー殆ど酒代だから」と、即答される。大抵の宴会プランでは当然のように飲まない人からも酒代分を取られるのだけど、自分にとってはその分は全くの無駄金。飲めない人はその酒代相当分を料理に充ててくれたら、毎回相当いいモノ喰えるんだろうな。 |