Diary


平成十九年 葉月


■2007/08/01 水
 一昨年は、晩秋にテントウムシが異常に多かった。昨年は夏にカナブンが異常に多かった。なので、今年は何が異常発生するのか、と笑っていたら、今年は蛾。黄色い蛾の数が異常に多い。こちらに来てから、毎年何かの昆虫が異常発生している。
 テントウムシについては集団で越冬するので、晩秋に越冬場所に移動する途中の群れを見て「異常発生?」と思われてしまうことがある。でも、それを承知の上で一昨年はその数が明らかに多かった。部屋の中で何匹捕まえたことか。カナブンも同じ。明かりに集まる虫なのでコンビニがものすごいことになっていたし、その時期の後事務所の掃除などをしていると、よく机の裏だとかそういう所から、干からびたカナブンが出てくることがしばらく続いた。
 で、今年の黄色い蛾なのだけど、これがまた北海道では見た記憶がない生き物。最初の頃は「あっ、またいたよ」だったのだけど、そのうち気になって、何と言う蛾なのか調べてみた。
 羽、畳んだ状態で体調25mmくらい。全身が黄土色。昼間壁にくっついてじっとしているので、夜行性。これはまぁ蛾だからそうか。全身が黄土色だけど、羽の後端の縁に、黒い小さな斑点。羽の中ほどに白っぽいラインが、あったりなかったり。と、そんな感じで調べて行って、ようやくそれらしい蛾を見つけた。その名は。

 『チャドクガ』 …って、毒蛾かよ。

 この蛾について色々と載っていた事を纏めて書くと。
 「本州以南に生息する」 …どうりで北海道では見なかった。
 「茶色の茶ではなく、幼虫が茶の葉を喰うので、茶毒蛾という」 …さすが静岡。多い訳だ。
 「幼虫は毒毛針を持っていて、触れると刺される」 …その針の数、数十万本から数百万本。
 「成虫も毒毛針をもっていて、触れると刺される」 …捕まえないでよかった。
 「蛹(繭)も毒毛針をもっていて、触れると刺される」 …と言われても。
 「脱皮した殻にも毒毛針が残っているので、触れると刺される」 …何と言うか。
 「卵も毒毛針で覆われてるので、触れると刺される」 …結局、生涯すべて刺すんじゃないか!

 という感じで、やる気満々な凶暴な虫のような気もするけれど、そこは所詮蛾。夜行性なので昼間はただじっと止まっているだけだったり、やる気なさそうに地面の上でパタパタやっているだけ。向こうからぶつかってくることも無い。そして、こちらの人はこの蛾が毒蛾だということを割と知っているようなので、むやみに触る事も無いらしく、周辺で刺されたという話はまだ聞いていない。つまり、自分のような人間が一番危ないのか。

 とにかく。今年は黄色い蛾。
 来年こそはカブトムシかクワガタでも異常発生してほしい。


■2007/08/04 土
 引越し隊ふたたび。今日は埼玉県まで行って来た。道路の電光掲示板の標示によると、10時のこちら出発時の気温、27度。引越し先の気温、35度。25度以上になると暑いと言っている自分にとっては、何と言うかもう、生きているだけで暑い。引越し先の部屋は建物の5階。エレベーター無し。荷は軽トラ一台分だったのだけど、いやもう今回は過酷だった。

 運び上げたダンボールに、幾つもの汗の滴。


■2007/08/05 日
 花火を見に行った。花火はやっぱり、誰かと見るのに向いている。黙っていても共有できる時間。打ち上がっている一時間半、合間に時々言葉を交わすだけで、後は黙って空を見上げ、打ちあがって花開くのをほげーっと眺めていればいい。なので、まぁ一緒に行く…というか、連れてゆく、という時には、何というか。楽でいい。
 花火が夜空にぱっ、と開いて、消えた。その次の瞬間。次の花火がヒュ〜ッと上がっている間の暗い空に、今消えたばかりの花火の残像が、白く見えることがある。それが何か楽しかった。ぱっ、と開いた瞬間に、ぱっ、と目を閉じてみる。そうしても、今消えたばかりの花火の残像が見える。写真を撮ろうとカメラを持って行っていたのだけど、何だかそれが面白くて、目の中に撮るようなそんな事ばかりしていた。
 残像。瞳を閉じ続けていれば、結構長い間瞼の裏に残っていて、見続けることができる。一旦目を開いても、再び閉じればまた残像が浮かんでくる。けれど、開いた目に、新しく開いた花火の光が入ってしまうと、その残像は消えて新しい花火の姿に置き換わってしまう。残像は常に上書き保存。それは多分、記憶、ではないのだと思う。
 今、目を閉じて思い出す今日の花火の姿。それも、残像に見えた姿とは、全然違うしね。


■2007/08/06 月
 夜中の3時に、地震の夢で目を醒ました。それもあってか、何だかあずましくない一日だった。でも、もう一日も終わり。何かの悪い予感では、なかったよう。

 ある日記を読んでいてふと思いだした。先日の引越しの帰り。空荷になった軽トラに一人が乗って先行し、その後を、自分ともう一人が乗った車で追いかけながら、中央道を走って帰路についていた。
 こうやって2台つるんで走る時、難しいのが、はぐれてしまった時や、休憩するパーキングを決めたりする時の、意思の疎通。まぁ今は携帯電話があるからどうにでもなるけれど、運転手のみの車だと、一応運転中に通話やらメールやらはできないことになっている。
 で、運転手だけの軽トラの後ろについてしばらく走っていたのだけど、こちらの車内では「この先の談合坂のパーキングに寄ろう」と話がまとまっていた。で、助手席にいた自分が、軽トラの運転手にその旨伝えるメールを打つ。運転中にメールを打つのはアウトだけど、ちら見するだけならまぁ、と(真似しないように)。
 けれど、ちゃんと相手に伝わっているか、それはメールだとイマイチ不安。何かの拍子に遅れることもあるし、マナーモードになっていて、気付かない場合もある。

 「…で、これ打ってちゃんと見てくれてるかね? 何か確認が欲しいやね」
 「でも、メール返せ…というわけにもいかんしなぁ」
 「パーキング近くなったら、強引に前に入って無理矢理誘導するか?」
 「でも、軽トラのくせに120キロ出してるし。危険だな」

 そんな会話をしていたら、運転をしていた相手がふと
 「そうだ! OKなら 『ブレーキランプ5回点滅』 って送ってみるか!」

 がはは。

 「でも、ブレーキ5回って、結構辛くないか。ここでやったらかなりスピード落ちるぞ」
 「やってみようか。でも後ろに車いるしなぁ。やったら何だと思われるなぁ」
 「てか、あれそもそも車だったっけ? バイクじゃねェの?」
 「そうだっけ。あー、歌詞ここまで出てるけど思いだせねぇ!」

 そんな話をしている間に、自分の携帯にメールが届いた。

 『OK!』

 って…メール打つなコラ。


■2007/08/09 木
 休み入りしたので、本来ならさぁドライブ、なのだが。ちょっと車を走らせて戻ってきて、車を降りたら何だか香ばしい匂いがする。くんくん…と、よく見るとエンジンルームからほわほわと白い煙が上がっている。ただごとではない。けれど上がっているのが湯気ではないことを確認して、ちょっと安心しながらボンネットを開ける。エンジン下部からもわっと煙が上がる。ちっ、やられたか。スタンドでオイル交換等をしてもらった時に、かなりこぼされたらしい。そのこぼれたオイルが、走行中加熱したエンジンの熱で焦げ、煙をだしていたのだ。
 煙が出ていると言っても、黒煙がもくもくと上がったり、火が出たりするわけではない。この場合は、油を引いたフライパンを空焚きしたような状態のような、白い煙が出る。湯気でなくてよかった、というのは、上がっているのが煙ではなくて水蒸気なら、ラジエターだとか冷却系が破損している可能性があるため。こちらの破損はオーバーヒートに繋がり、本当に燃え上がる可能性もあるので厄介。
 ボンネットを開けっぱなしにして、冷めるまで待つ。煙の原因はすぐわかったのだが、オイルを拭きとろうにもエンジンルーム内は密なので、なかなか手が届かない。見えるところだけパーツクリーナーのスプレーと布で綺麗にしたのだけど、試しに少し走って戻ってくると、その更に奥から煙が上がっている。後はもう、周りの人がびっくりしない程度に少しづつ走りながら焼いて、焦げ切ってもらうしかないだろう。と、あきらめる。

 いやでもいきなり長距離走らないで良かった。


■2007/08/11 土
 久しぶりにスカッと富士山が見えるなぁ。と、昨日思った。ので、リュックにカッパやら飲み物だとか詰めて登りに行った。自身2度目で単独は初めて。どうせ休みで昼夜逆転しているので、夜間登山にする。夜の7時くらいから登り始めようと思ったが、出遅れたのと、登山口付近は渋滞と路上駐車で前に進めず、何とか駐車場に入り込んで登り始めたのは9時半すぎ。思えば今が一番混雑している時期だ。
 登れば登るほど人は渋滞し、山頂着が2時半。日の出が4時半くらいなので、本当はもっとゆっくり登る予定だったけれど、単独だとペースを押さえてくれる人や「休憩!」と叫んでくれる人がいなくて、やっぱりどんどん先へ先へ行ってしまう。御来光までの2時間、暇だったので外れの砂礫の上でリュックを枕に仰向けになって、月の無い夜空の満天の星空を見ていた。
 個人的には、御来光もいいけれど、夜の富士山から見る星空。これもいいものだと思う。自分は比較的星空の綺麗な環境(田舎)には恵まれた方だと思う。けれど、車で行ける5合目であれ、山頂であれ、その辺りから見る星空。これほどの星空は、これまで住んだ他の所では見た事がない。もし、天の川を見たことがない。流れ星を見たことがない。そういう人がこの星空を見たら、大げさにいうなら、星空、ってものの概念が変わるかも知れない。夜空を街に、星を人に例えるなら、新宿だってこれほど密集してはいないだろう。というくらい、夜空に星がある。夜空ってものが本当は星で一杯なのだ、ということが、ここに来るとよくよくわかる。
 そして、流れ星。夜空の色々なところで、後から後から落ちてくる。どんなに当たりが悪くても、1〜2分も見上げていれば1個は視界の中を流れる。道の途中で流れ星に歓声を上げて、願い事を3度、やっている人がいた。ただし。今回見た無数の流れ星の中で、願い事を3度言えるほど長く光の軌跡を描いた星は無かった。
 そういえば、人生で一度だけ、願い事を3度言えそうな流れ星を見たことがある。それは車の中から見たのだけど、夜空を殆ど水平に、物凄い明るさで横切っていった。光がオレンジ色で最初は流れ星だと思わなかったのだけど、それはすーっと長く夜空を走って、最後に弾けて、そこから更に2つ3つの流れ星になって、そうして消えた。少なくても5秒以上は夜空に軌跡を残していたはずだけど、やはり、そんな咄嗟に願い事なんて出てこない。
 と、ものすごく難度が高いので、流れ星に願いを3度。それができたら、願い事のひとつやふたつくらい、本当に叶うかも知れない。まぁ、自分は星空だとか流れ星だとかを見ていると色々と思うことがあって、咄嗟に願い事しよう、なんてこともなかなか思いつかないのだけど。


■2007/08/12 日
 絶好の日和の中、日の出を見る。太陽が昇る少し前に、ほぼ同じ位置から新月が昇ってきた。新月の月の出を見たのは初めて。
 青い朝から紫、そして茜へ。空の色が変わってくる。そうして。水平線のようにも見える遥か遠くの雲海から太陽が昇ってくる。水平線からの朝陽、というのは何度も見た。けれど、ここから見る朝陽は何と言うか。前に見た時もそう思ったのだけど、小さく見える。平地で見ると朝陽や夕陽はでっかく見える。けれど、この山頂から見る朝陽の感覚的なサイズは、空にある太陽と同じサイズに見える。
 それにしても。全員、というわけではないのだけど、朝陽が登るその瞬間を、結構多くの人が携帯やらデジカメやら、三脚を立てた一眼レフやら。ファインダーやら画面越しに見ているような気がする。日の出のその時に「わーっ」と歓声が上がるのだけど、その中に「うわーっ、これ、カメラじゃなくってナマでみなくちゃ駄目だって!」という声が聞こえて、可笑しかった。
 さぁて降りるか。と、下を見ると、登山道兼下山道はものもの凄い人の列。日の出の時間にちょうど着くように、と、考えることは皆同じらしい。でも、列が全然進んでいないので、これに巻き込まれたら日の出前に登頂はできそうにない。そう思うと、待ち時間は長いけれど1、2時間早く山頂に着い方が良いのかも知れない。今回は山頂に着くのが早すぎたかと思ったけれど、まぁ結果オーライ。
 登山道と下山道が別れるところまで、登山渋滞の中を逆方向にのたのたと降りてきた。何かそれだけで疲れた。登山道と下山道が別れてからは、後はスキップして降りてくる。そうして9時に砂埃まみれになっての帰宅。とりあえずシャワーを浴びて、今日着ていたものを洗濯機に入れて、回している間に眠くなってそのまま。起きたら3時。あんなに素敵な1日の始まりだったのに、昼間の殆どを寝て過ごす。あとは洗濯の続きをしたり何だりで、その後は一歩も外へ出ないで過ごした一日。

 そして、もう既に筋肉痛が。明日以降が怖い。


■2007/08/13 月
 すっかり昼夜が逆転しており、今日も昼まで寝る。このままだとまた夜更かししてどうせロクなこともしない。そういえば富士山登った時、新月だった。新月といえば大潮。じゃあ、ちょっと夜釣りでもしてみようか、と、伊豆半島付け根の辺りにある漁港へ行った。ただ、こちらに来てから、本格的に釣りをしよう、と海へ来たのははじめて。道具は北海道仕様、殆どが鮭釣り仕様のまま。

 外防波堤に夜釣りの人が結構いたので、何を釣ってるのか訊いてみた。
 「何って…タチだよ?」 見てわかんないの、という感じ。
 「タチ…って? (タラの白子か?)」
 「タチウオだよ(ンなことも知らんのか?)」
 「おおっ、タチウオ! 切り身しか見たことないわ!」

 ということで、釣りもそこそこにずーっと見て歩く。釣れると寄って行って「見るの初めてだから」とタチウオを見せてもらう。一本まんまの生きたタチウオを初めて見た。釣り方は浮き釣りで、餌はサンマの切り身など。顔を見ると魚を食べる魚のよう。ひょっとしたらルアーでも追うかな、と思って投げて見たけれど、さすがに掠りもしなかった。あまりルアーで釣れる魚でもないらしい。しかも、自分のルアーはタチウオに比べて規格が大きすぎ。
 ただ、北海道で鮭釣りに使っている「浮きルアー」(浮き+ルアー+タコベイト+サンマの切り身)をタチウオ用にサイズを落として改造したら、ひょっとしたら釣りになるかも知れない。と、ちょっと研究。
 外防波堤から港内に移って、ワームを付けて小魚と遊んでいた。寄ってくる小魚がいたり、ワームが食い切られたはしたのだけど、やはり魚は掛からず。掛からないのはやはり、居る魚に比べて仕掛けが大きすぎるからだ、と、他の人を見ていて良く解かる。夜釣りで釣れている魚も全然知らないのばかりだし、同じのでも自分にとっての「ガヤ」が「メバル」だったりと、呼び名が全然違う。所変われば自分も素人。謙虚にやろう。

 結局、魚は何も掛からず、それでも暇もせず、朝の4時過ぎまで漁港で過ごした。富士山ほどではなかったけれど、星が綺麗で流れ星も多かった。ペルセウス座流星群…ね。


■2007/08/14 火
 筋肉痛は無いのだけど、左の足の親指の付け根が痛む。靴のためかどうか判らないが、ここにちょっと無理がかかっていた模様。
 夜明けと共に帰ってくる。こういう生活が続くと日付の感覚が無くなるので、帰ってすぐカレンダーを確認。燃えるゴミの日なのでゴミを出してから寝る。で、また昼に起きて…。そんな状態で、明日から仕事に突入。


■2007/08/15 水
 時々思う。葬式だとか、お盆だとか、お墓だとか。そういうものは、ひょっとしたら死者よりも、家族や親族、知人。そういった生きている人のために必要なもの、なのかも知れない。納得するため、気持ちの整理をするため。思い返すため。忘れないため。そういったことのために、生きている人の側に必要なもの、なのかも知れない、と。
 あくまでも自分個人の考えで、他の信仰や信条、考えを否定するものではない。生きていると誰もが経験する、身近な者の死。人はそれぞれのやり方で、それを乗り越えてゆく。自分はそのそれぞれの乗り越え方を尊重する。
 ただ。これは巧く言葉にできないし、言葉にするにももの凄く慎重にしなければならないのだけど、何と言うのだろう。人の死という経験は、他の者に何も言わせないほど圧倒的な力…というのもどうかと思うが、そういう「凄さ」のようなものを持っている。それが、不幸であればあるほど。死に限らない。そういう「凄い」経験は、時々、鋭い武器になる。切りつけなくとも煌かせるだけで、他の者に何事も言わせぬ力。そういうものを持っている。
 数多の死、不幸、苦難。そういった、人生において立ち現れる苦しい経験。自分は、そういう経験。人生における苦しみは、乗り越えてゆくことに価値があると思う。経験の大きさ、凄さにあるのではない。相手にとってインパクトのある経験のみを語ることに、あまり自分は意味を感じない。「今のその人」というのは多分、経験の大小によってのみ形成されているのではない。その経験の中で何を感じてきたのか。その経験をどう越えてきたのか。その過程が、今のその人をつくりあげている。もし、苦しい経験に何か価値があるとするなら、それは経験そのものにではなく、その苦しみを乗り越えた過程。それをどれだけ価値あるものにしてきたか。本当に書くのが難しいのだけど、そういうことだと思う。難しい、というのは、経験のみを語ることにも価値がある場合もあるから。戦争体験などは、事実としてそれを語り伝える事に、大きな意味がある。価値がない、と思うのはあくまで、それが他人に対する「武器」として。他を寄せつけぬ、圧倒するための力として語られる場合のこと。

 ろくに苦労も知らないで育ってきた私が、あの人の苦しみを受け止められるだろうか。そういう人がいた。自分はそれにはうまく答えられなかった。それができるかどうかは、自分には判らないのだ。
 ただ、ある人の不幸に対峙するために、同程度の不幸が必要だとは思わない。以前は、相手と同程度、またはそれ以上の経験が必要なのだと思っていた。今は違う。自分の不幸、苦しみと対峙するのは、相手ではない。それは、あくまでも自分なのだ。相手の苦しみに対して自分が何か解決を与えられる。そういう思い込みはちょっとできなくなった。薬と同じだ。薬そのものが病を癒すのではない。病を癒すのは、あくまでもその人の治癒力。薬はその手助けをするだけ。苦しみと対峙する人に対して、他人ができるのは多分、苦しみと対峙している相手が倒れないよう支えとなる。倒れたら起き上がるための手を差し出す。そういうこと、なのだろう。

 そして、そういう時。
 支える人もまた、支える相手に支えられながら、その人を支えるのだと。


■2007/08/19 日
 前日夜更かしし、昼に起きたので、また夜更かしをしていた。午前2時頃になって、どうせこれから寝てもまた起きるの昼だしなぁ、と思って、先週の場所へ釣りに行った。ただし、道具は以前から進歩していない。
 3時過ぎに着いて、竿一本とタモ(タモ網)を持って防波堤の先端の方へ。2時間ほどで夜明け。夜明け前から人が増えてきて、釣堀状態になる。魚が動き出して、投げたルアーに魚がかかるようになった。30センチないくらいのサバ…と思ったらちょっと違う。訊くと「マル、だな」。また釣る。「おお、そっちはヒラだ」…って、判るか。
 こういう所で魚の名前を訊く時に一番厄介なのが、釣り人が呼ぶその魚の通称や略称。後で調べた事を加えて書くと、自分が釣ったのは「ヒラソウダ」と「マルソウダ」という、どちらも俗に「ソウダガツオ」と一括りで呼ばれている魚。「ソウダガツオ」は北海道でも釣り餌として丸まんま冷凍で売っているので知っている魚。というより、この魚、自分にとっては鮭釣りの餌、というイメージしかなく、生きているのを見るのは勿論はじめて。
 まぁ、ヒラだのマルだのどちらにしても、この「ソウダガツオ」。名前に「カツオ」と付いてるが、自分にとってはこれは「カツオ」ではなく「サバ」のカテゴリーに入る魚だ。クーラーボックス持参でもないので、釣っては放すだけでそのうち飽きる。釣り場も混雑してきたので、ワームを付けて足元に落として遊んでいると、ワームが結構食い千切られる。相手はなんだろう、と粘って、ようやく釣り上げる。カレイか、と思ったら手のひらくらいのカワハギ。こちらでは一般的なこの平べったいカワハギも北海道にはいない(ウマヅラハギ、というカワハギはいる。)ので、これまた初めて釣った。魚をぶら下げたままで、おおっ、これがカワハギか…としばらく感動していた。ら、針から外れて海に落ちた。

 ふと手を止めて隣で投げていた人を見る。様子がおかしい。すぐ目の前の海面にカモメ(※1)が浮かんでいる。ちょうど隣の人が投げた糸の上の辺り。隣の人が竿をしゃくる。カモメがバタバタ、と岸壁に寄ってくる。あ、これは…。その人が言う。 「カモメ…釣れちゃった…」
 カモメを釣った人を見たのは、これが2度目(※2)。ただ、釣れた、といっても今回は針に掛かったわけではなく、投げる際、フケた糸に飛んでいたカモメが絡んでしまったらしい。首に糸が巻かさっている。カモメを足元まで寄せても、意外と大物なのでそのまま引き上げられるわけでもなく。
 「タモ持ってるの?」と声をかける。
 「いや、無いんで…。あったら貸してくれます?」
 じゃあ、やりますか。というわけで、自分のタモを取り出して組み立てる。これも鮭用なのでカモメも何とか入るだろう。そして軍手をはく。準備完了。でも、タモを見せたら暴れるし、魚みたいに頭から、ともいかないなぁ。と思い、ちょっと離れた水中から網を入れ、下から掬い上げる。さすがに羽を広げると網の口径よりも大きいのでなかなか入らず、3度目くらいで網に収める。その頃にはギャラリーが集まっていて、衆人監視の元網を上げて、軍手をはいた手で嘴と足を捕らえる。
 道糸が首に一巻き。これは簡単に外れた。鳥も元気。ただ、その足を見ると、水かきに古い小さな針が刺さっていて、足にもその糸がぐるぐる巻きになっていた。
 「あ、ここにも針あるわ」 「ついでだから外してやっか」
 「じゃ、この糸切って」 「ハサミ、ハサミ」
 「こら、助けてるんだから指かじるな」 「よし、切れた!」
 「あ、ここにも針…」 「ひどいなぁ。ここらのカモメ、みんなこんな感じなのかな…」
 …などと、ワイワイと。釣られたのも幸いかどうか判らないが、とにかく体中の釣り糸と針を綺麗に掃除し、カモメを放す。カモメはポチャン、と落ちて一度海に浮かび、困惑した…というか、疲れた…という感じで身体をもぞもぞさせてから、どこかの子供達の拍手に見送られ、水面を蹴って飛んで行った。

 全て片付き、カモメを釣った人が「タモ、ありがとうございましたー」
 「ああ、まぁ。…いい暇つぶしになったわ」

 それにしても、本州の釣り場での最初のタモ入れが鳥類になるとは。


※1 カモメ、ではなく本当はウミネコだったのだけど、現場でずっと「カモメ」と呼ばれていたので、ここでは「カモメ」にしている。

※2 北海道での鮭釣り場で、投げた仕掛けの餌のサンマを空中キャッチしようとしたカモメが、そのまま空中で針に掛かったのを見た事が。海で魚網に絡んだカモメを捕まえたことは過去に何回もあるので、手際がいいのはそのため。
 ちなみに、ウミネコの捕獲は初めて。いつもはオオセグロカモメ(カラスより大きい)なので、軍手なしだと噛まれて指を血だらけにされる。それに比べるとウミネコは小さくて大人しくて楽だった。


■2007/08/23 木
 自分が自分を認めないままにさ、そんな自分を認めてくれる。または、自分を認めてくれていると思われる相手に出会ったらさ。どうなるよ。きっと、自分で自分を認めることを放り出してさ、自分を認めてくれる。または、自分を認めてくれていると思われるその相手の方に、どんどん傾いてしまってゆくんだろうね。
 でも、そんな時にさ。自分の心の中にあるのは、多分。自分が認められたい、っていう欲求。それだけじゃないのかな。心の中、相手のことで一杯のように見えてさ。実は一杯なのは自分の要求ばかり。そんな感じじゃないのかな。
 認められたい、認められたい、認められたい。その要求が、今、仮にその相手によって満たされていたとしてさ。もし、突然それを失ったらどうなる。どうなるもこうなるもないな。それはさ、辛いことだよ。

 誰と関わろうとも同じさ。自分の要求ばかり。それを満たすことばかり。それで心の中を一杯にして生きていると、生きることっての、辛いことだらけになるよ。だって、さ。そんな要求ばかりで胸が一杯になっている時に、心が満たされている、なんて言わないだろう。心が満たされている。そう感じられる時ってさ。満たされているのは、自分のことばかりじゃないはずなんだ。
 まぁ、自分のことだけが心に充満する。そういうことはあるよ。けれど、自分のことだけじゃ、心は決して満たされないのさ。いや、自分なんて、それはあくまでも器、なのさ。自分が充満してゆくんじゃなくて、それはただ、空っぽの器がどんどん大きくなっていってるだけなのさ。
 もういいよ。長所も短所もひっくるめてな。器のサイズを決めるのよ。自分の器のサイズを知ること。それがひょっとしたら、自分を受け入れる、ってことかもな。いい所も悪いところも、まんまに受け入れる、ってことなのかもな。で、そうしたら器なんてさほど大きくないことに気付くだろう。
 さほど大きくない、って、失礼かも知れないけれど、それはそんなに悪いことじゃないんだぜ。ちゃんと識っておいた方がいいんだ。器の小ささも、中身の貧しさも。自分だけではそれを満たせないことも。
 そうしたらさ。いつでも満たされることを望んでいる心の中には、あえて満たそうとしなくたって、すうっと入ってきた些細なことに、心、埋められる。そんなことだって、あるんだから、さ。

 時々、思うのよ。自分の長所も短所も、全て認めてくれる人が現れてはじめて、自分は受け入れられる、んじゃなくてさ。自分の長所も短所も、まんまに自分で認めることができてはじめて、まんまの他人を受け入れられる自分になるんじゃないかな。って、さ。


■2007/08/28 火
 先週末は休みなしだったので、上弦の月から満月の今日、そして今週末まで二週間の連続勤務。土日も朝の3時に起きて出勤だったりと、もう生活サイクルがハチャメチャだった。けれど、もうヤマを越えて落ち着いたので、生活リズムを徐々に立て直している今日この頃。

 ふと思う。人と人との関わりの中で、与えられるものと、与えられるもの。その量のバランス。そのバランスが取れていることが当然、人間関係を維持するには理想なのだろう。けれど、そのバランスがちょっとどちらかに傾いている。または、どちらかに傾いていると思われる場合。これは時に不満になったり、悩みになったりする。
 バランスをとるためには、与えられたのと同じ分与えなければならないし、与えた分は与えられなきゃならない。それはそれで当然だろう、とは思う。けれどそれは力学だとか経済だとか、もうそういう次元の話で、人間関係にはそのまま当てはまらないことかも知れない。
 人間関係ってのは多分、与える、与えられる…「与えること」だけでバランスが取られているわけではないのだと思う。与えられたものを、受け取ること。与えたものが、受け取られること。それだけで充分なことも、あると思う。人は与えられたものを全て受け取るわけでもないし、与えたものが全て受け取られるわけでもない。そんな中で、ちゃんと受け取ること。受け取られること。それは与えた側にとって、同じものを返されるのと同じくらいか、それ以上の喜びになる。そういうことも、あると思う。

 だからまぁ何というか。ややこしくなってきたのだけど、とにかく。これは前にも似たようなことを書いた気もするが、「与えられたものをちゃんと受け取ることは、同時に相手に対して相応の何かを返していることになる」というか。そんな気がする。与えられた分を返すことばかりではなく、与えられたものをちゃんと受け取ること。それも、同じくらい大切なことなのだ、と。

 ひとに何かを与えることは、同時に相手から何かを受け取ること。
 ひとから何かを受け取ることは、同時に相手へ何かを与えること。
 与えることもまた、受け取ることになり。受け取ることもまた、与えることになり。

 何事につけてもそんなものなんだ、と、思う。だから。
 与えたものが、ちゃんと受け取られていること。受け取られている、と、そう感じられること。
 相手にとってはそれだけで、充分幸せなのかも知れない、よ。


■2007/08/31 金
 二週連続勤務、今日で終わり。ふと気付くと今年は有給を3日しか使っていない。年の初めに宣言した「月イチ必ず休むぞ」は、どこへやら。先週土日の出勤分も、その分給料が出るのではなく、後の任意の日に振り替え休日となる。休暇が余って非常にうれしい状態、なのだけど、気がつくと今年もあと4ヶ月。年が変わると、休暇の余った分はリセット。
 これはもうどこかでドバッと使うしかない。カレンダーを見る。9月15日、16日は土日で休み。翌日の月曜は祝日で休み。そして平日4日を挟み、22日、23日が土日で休み。翌24日がまた祝日で休み。平日4日を、有給2日と振り替え2日で休めば、何と怒涛の10連休! おおっ、これなら四国でも九州でも東北でもドライブ行ける!

 − みーんなここで休んでしまう、なんて案はどうでしょう。係長。
 − うーん、それはさすがにまずいでしょう。却下。

 それもいいが、10月のカレンダーを捲ると、10月8日の月曜日も祝日で、平日4日休暇にすれば9連休となることも発見。10月か。北海道なら鮭釣りシーズンだな。北海道時代にこの時期これだけ連休があれば、間違いなく連日鮭釣りに行けるのだけど…。

 …って、行けるじゃん!

 − 係長! 今年残り好きにコキ使っていいので、ボクに鮭釣り休暇を!
 − うーん、10月ねぇ。特に忙しいことないよねぇ。でも1週間、ねぇ…。
 − 必ずや、イクラを持参して帰りま…
 − よぉし承認! 行ってこぉい!

 と、相成ったのだけど、これは仕事が終わってからの宴席で、かなり出来上がってからの話。
 まぁ自分だけ、というのも何なので、9月16日の週、24日の週、そして10月8日の週。それぞれ交替で平日休んでしまおう、という案で行ってみよーか。


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