Diary


平成十九年 長月


■2007/09/04 火
  もう6年とか7年とか前になるのだけど、北海道で2つ前の職場にいた頃の一時期、隣の部屋に住んでいた同期採用の人が、今日自分の職場に研修で訪れているのを、昼休みに発見した。事前に情報はあったので、アンテナを張っていたおかげである。
 自分が先に発見したので、後ろからオイコラと声をかけて振り向かせ、「えーっなんでココにいるんですか…」と言い終わらないうちに膝蹴りを入れる(そういうキャラ)。当時のままのリアクション。変わらないな、お前。…どっちが。

 まぁとにかく、北海道の職場関係の近況も色々と聞くことができてよかった。

 夕方にざっと雨が降った以外は、晴れの一日。朝に空を見上げると、半月が高く昇っていた。下弦の月。高く昇ってゆく太陽に押されるように沈んでゆく。高い位置にある時はよくわからないのだけど、下弦の月、というだけあって、半月を弓と弦に見立てると、沈んで行く時は弓の弧を上に、直線の弦の下にして沈んでゆく。
 下弦の月からどんどん細く欠けてゆく。そして新月を挟んで、三ケ月から上弦の月まで。月は確かに弓に似ている。で、月がもし天空の弓なら、この弓は一体、何を狙っているのだろう。
 そんな事を思ったら、満ちかけの月、欠けかけの月。その月の弓に、矢をつがえてみるといい。何を狙っているのかは、すぐにわかるだろう。昔の人は伊達に月を弓に見立てているわけではない。こういう事にはちゃんと答えがある。天空の弓は、常に何かを狙っているのだ。

 個人的に三ケ月は、太陽を射落とす月、だと思う。


■2007/09/06 木
 昨日、ある意味傘も必要ない暴風雨の中を帰宅。外へ出る気もなかったので、すぐに寝る。寝ている間に台風が通過して、朝になると今度は本当に傘も必要ないほどの小雨になっていた。雨風は相当強かったようだが、特に被害もない。風はともかく雨に関しては、自分が住んでいるこの辺りは強いだろう。地図上では富士山の等高線の内側、標高800メートル地点の傾斜の中に位置する。何と言っても水はけがよい。
 寝ている間に「そっち直撃みたいだけど大丈夫かや?」というような、同じ内容のメールが数件、北海道からきていた。基本、北海道に住んでいると台風は他人事だ。大抵は上陸する前に力尽きる。まともな(綺麗な渦を巻いていて眼がはっきりしている状態の)台風、というものを経験することがないので、台風が直撃、なんていうと竜巻が直撃するような、そんなイメージがなくもない。台風は寝てる間に通過、と返すと、その中のひとりから「なーんだ。ニュースじゃ相当凄いことになってる、ってやってたから…」と返事がくる。まぁ確かに、凄いことになっている所は凄いことになっているのだけど。

 ていうか、「なーんだ」ではなく。これからこの台風そっち行くのよ。毎年台風が襲来するこちらはともかく、たまにしか来ない台風で甚大な被害が出るのは、むしろ北海道の方だべさ。そういえば。思い出した。4年前の夏休みを全滅させたあの台風。
 北海道にいても、遥かかなたからやってくる台風の報道は全国ネットのテレビニュースなどで逐一知ることができる。台風上陸間近な室戸岬、御前崎からの中継はよく目にする。ただ、全国ネットの中心はやはり東京なので、台風が関東を過ぎると「台風が接近してます!」から「今回の台風による被害は…」の比重が増えて来る。そして、太平洋上で低気圧に変わると、報道は台風の通り道が受けた被害がメインになって、全国ネットでの実況はされなくなる。
 ちょうどそんなタイミングで、2003年夏、北海道の日高地方が台風崩れの低気圧による豪雨で酷いことになった。その時にふと感じたのが、夜の9時〜11時台の全国ニュースと、その合間にちょこっと挟まれるローカルニュースの、報道の内容のギャップ。メインの番組で必要なニュースが流れないので、あの時は本当に情報が少なくて困ったっけ。


■2007/09/08 土
 過去は変わらないもの。既に起こってしまったことだから、それは今の時点でどうしようとも、変えられないもの。変えられる要素があるとしたら、それは「受け止め方」だろう。過去は変わらない。けれど、自分の過去に対する評価。それは変えることができると思う。
 ことさら良く見よう、と努めるのではなく。過去の受け止め方をより良くしてゆくにはどうしたらよいか。自分は、それは今現在の自分のあり方を受け入れる…肯定することだと思う。巷で良く言われる「自分を好きになる」というのと同じだ。そして、それがとても難しいものであることも、また。
 ただでさえ難しい。それなのに、余計、その難易度を高くしている要素があると思う。「受け入れる」ということ。それが、自分、または相手、に、特化していないだろうか。自分、だけ。相手、だけ。一方だけを受け入れよう、としても、それはきっとうまくいかないと思う。
 自分を受け入れることは、他人を受け入れること。他人を受け入れることは、自分を受け入れること。それらは対になってといる…というか、密接に繋がっているような気がする。蜘蛛の巣のように。人が自分の長所も短所も受け入れることができれば、他人のそれも同じように。他人の長所も短所も受け入れることができれば、自分のそれも同じように。受け入れることができる人間に、なれると思う。反対に、そうでなければ、それは真に受け入れていることにはならない、だろう。

 脱線。過去というのは得た時なのか、失った時なのか。そんなことはわからない。けれど、過去が変えられないものであるなら、それは確かな時、だからだ。未来はわからない。現在は変えられる。でも過去は変えられないし、変わらない。過去という時は、未来や現在よりもずっと、確かな時、なのだと思う。
 過去の積み重ねによって、現在の自分は成り立っている。いい過去も、悪い過去も、全てその積み重ねによって。現在の自分を好きになれるなら、その自分を成り立たせている過去も、好き、とまではいかなくても、受け入れることができるだろう。どの過去が欠けても、現在の好きな自分は存在し得なかったのだから。
 そして、現在は変えられるもの。現在の自分も、変えられるもの。過去は変えられない。けれど、現在の自分を変えることができれば、過去に対する自分の受け入れ方。受け止め方。それもきっと、変わるだろう。


■2007/09/12 水
 「びょういんへいく」と人が言うのを「ゆふいんへいく」と聞き間違えた。湯治かよ。
 でもまぁ。こういう聞き取り違いはたまにある。そういえば、前にテレビのニュースで「プルサーマル」と言っているのを、画面を見ずに音声だけを聞いていて、「古沢丸」という船の名前だと思ったことがある。しかもその時は、そのニュースの内容が「ふるさわまる」でもなんとなく噛み合っていた。以下、そのニュースを流し聞きしながら、自分が勝手に想像していた世界。

 ・原子力で動く「古沢丸」という船の建造計画がある。
 ・それは巨額の予算をかけて建造される、新しい原子力の技術を用い造られる実験船である。
 ・原子力船だけに、母港となる町の住人が反対運動をしている。
 ・反対運動により、建造計画そのものが大幅に遅れている。

 ほら、何となく噛み合ってる。


■2007/09/14 金
 職場の屋外にある喫煙所で一服していたら、足元を大きな獲物(ワラジムシかダンゴ虫の干物)を咥えた蟻がえっちらおっちら歩いている。それをぽけっと見ていた。一人、知り合いがやってきた。こっちに歩み寄ってくる。あ、踏む。と思ったその瞬間、咄嗟に蟻を踏みそうなその足に足払いを加えていた。 「えぇっ!」 と驚く彼に、「…蟻、踏む。」と。おおっ、とその後は二人で蟻観察。

 人は生きている(歩いている)と蟻を踏む。踏んで気付くこともあるけれど、気付かずに踏んでいることの方が多いだろう。いることが判っている蟻をあえて踏むようなことはしないが、自分のように毎日片道2キロくらい歩いて通っていれば、もう毎日、蟻の1匹や2匹知らずに踏み殺しているかも知れない。
 人は生きるために他の生き物を殺す。生き物を殺すことは罪だ。だから、人が生きるという事は、罪なのだ。そういう人がいる。殺す、というのは勿論、食べるために殺すこともあるし、蟻のように、知らずに殺して、そのまま殺したことに気付かないようなこともある。でもまぁ、それら。殺すイコール罪、という考え方。自分は、それにはいまいち馴染めない。

 あくまでも個人の考えだけど、自分は、食べるために命を奪うこと。そして、知らずに蟻を踏んでしまうこと。そういう殺しは罪だとは思わない。少なくても、それを罪だと、自分や他人を責めるようなことはしない。食べるために他の命を奪うことは必要なことで、知らずに蟻を踏んでしまうのは、意識的なことではないので仕方ないことだと思う。そんなこといちいち罪だ、と言って責めたり責められたりしていたら、身が持たない。
 ただし。いると判っている蟻を、特に意味もなく、面白がったり、または憎しみをもって踏む行為。子供がやるならともかく、それを大人がする場合。それは罪だと思う。また、食べるために命を奪うのであっても、そこに欲しかない場合。感謝も敬意も無い場合、それもまた罪だと思う。要するに、殺すこと、その行為が罪なのではなくて、その行為に伴う感情の中に、罪はあるんじゃないかな、と。
 そしてまた、無関心なことも罪かも知れない。人は生きるために他の命を犠牲にする。故に、人は産まれながらに罪を背負っている。そういう考え方がある。けれど、自分を含めて今はもう多くの人が、食うために生き物を殺すことが殆どない。だから、生きるために他の生き物を殺す。という感覚が、あまりない。食卓に死を意識することも、殆どない。
 もし罪があるとしたら、自分は、生きるために他の命を犠牲にする、という事実ではなくて、何というか。死から遠ざけられた食卓…死を意識することができず、そういう習慣もなく。従って、命を落として料理になった生き物に対する敬意も感謝も産まれない。そういう所にあるような気がする。

 蟻から脱線して食べ物の話になっているが。
 とにかく、生きることは他の命を犠牲にすること。それは罪なのだ…と思っている人の中で、普段から食事と命とを結びつけて見られている人、ってどれだけいるのだろう。何かひとつ大切なことを飛び越して、罪の意識に結びついているような気がする。それは本当は、感謝すべきところではあっても、罪を感じるところではないと思う。感謝が罪を中和する、というわけではない。そもそも罪、と前提してしまうのがどうなのか。という、そんな感じ。
 ただ。自分の食事として命を奪う、その機会や場面に立ち合うことのない世の中では、何というのか。そこに感謝とか敬意とか、そういうものが生まれる切欠がない。そうして、感謝もない。敬意もない。だから、罪の意識だけ残る。そういうことなのかも知れない。

 いただきます、ごちそうさま、は、いい言葉だと思う。


■2007/09/15 土
 鮭を釣ったり獲ったりしたら、頭を棒で叩いてシメる。その時、足で踏んだり蹴ったり、そこらへんにある木っ端などで叩いてはいけない。叩くのは綺麗な棒、できるならそれ専用の棒で。それも一撃で、余計な苦痛を味あわせないようにしなければならない。つまり、粗末に扱ってはならない。
 鮭は神の魚。冬を前にした人々の大切な食料として、神様が放ち、川を遡らせ、人里に遣わしてくれるものだ。捕らえられ食用とされ、けれど感謝され、丁重に扱われた鮭は、喜んで神様の元に戻り、また人里に遣わされることを望む。そういう報告を受けた神様は、また次の年に、より多くの鮭をその里に遣わす。
 けれど、ただ乱暴に殺され、粗雑に扱われた挙句、感謝もされずにただ食べられた鮭は泣きながら神様の元に帰る。その様子に神様は怒り、もうそんな人間がいる里に鮭はやらん、と、鮭を遣わすことをやめてしまう。
 それで結局困るのは人間なのだから、鮭に限らず、食べるために捕らえた命、というのは、丁寧に扱わなくっちゃいけないんだよ。

 というようなお話を、子供の頃に聞いたことがある。


■2007/09/21 金
 子供のころのかくれんぼで、最後のひとりを捜さずに、わざと放っておいて、次をはじめることがあった。これはまぁ、遊びの中の遊びのようなもので、大抵は、放っておかれた方が、自分から出てくる。まぁ、意地っ張りな子はなかなか出てこないのだけれど。

 けれどもしそんな子が、そのまま二度と出てこなかったら。
 そんなことを、ふと思う。

 そんなことが、あるのだ。大人になると、意外と。本人が隠れているわけじゃない。けれど、何かを隠したまま。相手も出てくることなく、こちらも捜すことなく。隠れ続けたまま、いなくなってしまう。
 そうして残されたひとたちは、でてくるべき時にでてくることをしなかったその相手を責め、同時に、隠れていることにさえ、気付かなかった。そして、でておいで、と言えなかった、自分たちを責める。

 悲しみと、混乱と。やりきれなさの中で。


■2007/09/23 日
 どこか遊びに行く、ではなく、遊びに来られる側になった土日。
 札幌から引越してきた時は、何だこの町(この辺り)ボーリング場もないのか、と思っていたが、いつの間にかできていた(近隣の町に、だけど)ので行って来た。何年ぶりだろう。とにかく、本州では初めて。で、投げてみるともう全くどこに飛んでゆくかわからない状態になっていた。足と手が全然合わんのな。3ゲームやって最初が82、次が70とボロボロ。けれどそのうち何かに目覚めて、最後は149。『…か、覚醒した!』と周りに言われつつも、それで終わり。練習せねばな。
 投球スピードが表示されるのだけど、自分が投げた時に47キロという表示が出た。絶対に間違っていると思う。


■2007/09/25 火
 8月末に思いついた、10月に一週間鮭釣り休暇計画も、その予定していた週に予定がてんこもりになって、破綻。何が悪いかというと、先週と今週、そして来月第2週と集中している3連休。これが意外と勤務時間を圧迫していることに気付いた。まぁ、こう言えるのも贅沢なのだが。

 満月にはまだ足りないのでもう少し先だと思っていたけれど、今日が中秋の名月だそう。今は完全に雲が覆っていて見えないが、帰り道は綺麗に見えていた。歩いていて松の木の梢と月が重なった時に、あっ、ちょっといい感じだな、と思って、携帯電話を持っていたので撮ろうか、と、一瞬思った。
 けれど、やめにしておく。これは月を撮るといつもなのだけど、携帯カメラ、または並みのカメラで月を撮っても、明るさはともかく、撮れた月は、撮った時に自分が思っているより、ものすごく小さいのだ。これは月に限らず、夕陽を撮る時も、朝陽を撮る時も同じ。見た目にはでっかい月も、でっかい夕陽も、カメラで撮ると、見えていたよりもずっとずっと小さくなってしまう。

 地平や水平にある月や太陽は、天空にある時よりも大きく見える。実際のサイズに違いは無いので錯覚なのだけど、これは事実だ。地上に近い所にある時は、地上に様々な比較の対象があるから大きく見えて、天空にある時はそれが無いから、小さく見える。よく言われるのはそんな理由で、まぁ、実際そうだろうと思う。
 ただ、これは先月に書いたのだけど、富士山の山頂から見た日の出。そこから見た太陽だけは何故か、天空にある時と同じサイズで昇ってくる。ように思う。


■2007/09/29 土
 所々刈り入れが終わっている田んぼの中の道を走る。駅まで人を送りに行く途中。畦に咲く赤い花が、さっきからずっと目についていた。車の速度が落ちたところで、すぐ脇の道端に咲いているその花を見る。真っ赤な、そして、まるで花火のような開き方をしている花。
 この花は? ふと車内に問いかける。
 「彼岸花ですよ?」 しばらくして、後ろから声が返ってくる。
 「ヒガンバナ?」 と、訊き返す。「…え、知らないですか? どこにも咲いてますよ?」
 いや、初めて見た…というより、この道はよく通るから、前の年とかも見ているんだろうけれど、今日初めて気付いた。名前は聞いたことがある気がする。けれど、それがこんな花だと知るのは初めて。
 「お彼岸に咲くから彼岸花。お墓とかよく咲いてますよ? 北海道には無かったですかー?」
 「ああ。まぁ、あるのかも知れないけど、見たことないな」

 − にしても、気味悪いくらい真っ赤だな。
 − あ、でも、たまに白い花もあるんですよー。たまにですけどね。
 − へぇ、捜してみるか!

 と、大してその気も無く言ったのだけど、「あ、そこにも彼岸花!」「あそこにも彼岸花!」と、彼岸花を目にする度に、後ろが教えてくれる。言われると気になるのだけど、運転している自分はなかなかそこまで目がいかない。

 − でも、なかなか白ないね。
 − なんだ、白があって騒いでるんじゃないんだ。
 − だって、白ってなかなか咲いてないんですよ! 本当にないんですから!

 そんなこんなやりとりしながら走り続ける。その後も点々と咲いている真っ赤な彼岸花。やがて田んぼを抜けて街中に入った。信号で停まり、青になってふっと出た。その時。
 「あ! あったあった! 白あった! その庭、その庭…」と、後ろから運転席をバンバンと叩かれる。おっ、と思って横をみたけれど、彼女が庭を覗いたらしい玄関口はもう過ぎて、庭を囲む黒い木壁が見えるだけ。ちっ、見逃した。

 「…けど、あれだな。こーやってると、見たらいいことあるナントカ、みたいだな」
 「えっ、じゃあ戻りますかぁ?」

 …いや、そこまでは。


<< 葉月   目次   神無月 >>
Kaeka Index.