Diary


平成十九年 神無月


■2007/10/01 月
 My Stuff のページを借りているところで最近よく見かけるのが、「ムコ多糖症」という難病について書かれた「バトン」というもの。バトン、というのも自分は最近までよく知らなかったのだけど、要するに「これを見た人は同じ文面を自分のブログにも掲載して」という形で、次から次へと拡げてゆくもの。らしい。
 今回よく目にするものは、その「ムコ多糖症」という病気についての概要や実情を簡潔に述べつつ、「社会的認知度を上げるため」流された、というもの。特に具体的な運動…請願に添付する署名への賛同を募る、だとか、そういうものではない。あと、支援団体らしいページへのリンクが貼られているが、そのページがそのバトンの発祥でもないらしく、文面に出てくる執筆者は「私達」とひとことあるだけで、その出所や著者は不明となっている。
 趣旨はともかく、基本的に出所が不明な文面の流布には関与しない。ので、My Stuffのページでは触れないことにした。ただ、自分が信頼をおいている相互リンクの方々も、何人か賛意を示している。ここでこの話題を扱っているのも、そこからこの病気の名を知ったからで、自分も特に無視、批判をするつもりはない。むしろ、そういう病気があることを知ることができたので、自分にとってもプラスだ。けれど、自分は上のスタンスを外したくはないので、話題としてはここの日記で扱うに留める。

 そのバトンの内容に一部、事実と異なるか、または事実と確認できない記述があったようだ。執筆者が不明だと、こういう時にちょっと困る。今回この記事を自分のページに転載した方々の中にも、多少の動揺があるように思う。
 ただ、ひとつ。自分はその「事実と異なるか、または事実と確認できない記述」は、このバトンの趣旨、目的には特に影響はないと思う。ましてや、このバトンに書かれた文面を目にして、何らかを感じ、賛同し、自分のページに転載したその人の「思い」に対しては、なんらマイナスの要素にはならないと思う。

 自分が時々思うこと。自分が何をしたか。どれだけのことをしたか。どれだけの影響を人に与えたか。そういうことよりも、自分が何を思ってそれをしたのか。大切なのは、そちらの方だと思う。人に対しても同じだ。その人が何をしたか。その結果や成果は。そういうことよりも、その人が何を思ってそれをしたか。そっちの方に想像を働かせ、関心を持ちたいと思う。
 どのような行動も、思いが伴わなければ意味がない。思いが伴う行動に無意味はない。思いが伴えば、その行動の結果がどうであれ、自分にとってはいいこと、なのだ。そこは、人からどう見られるか、言われるかに関わらず、自分で守り抜かなければならない部分。自分がそれをした時の「思い」に自信と責任を持つことができれば、その行動がどのような結果となっても、仮に批判や苦難に晒されても、それを越えてゆくことができるだろう。「他人にとってどうか」という以前に、「自分にとってはよいこと」なのだから。

 反対に、これも見かけたのだが、それに対して批判を寄せる人々。そういう人々も、その人が何をしたか、ではなく、何を思ってそれをしたか。そっちの方に想像力を働かせた方がいい。思いはタンポポの根のようなもので、そうそう目には触れない。けれど、葉を広げるのも、花を咲かせるのも、綿毛を風に舞わせるのも、それは、タンポポの土深く伸びた、ゆるぎない根がしていることなのだ。
 花や葉だけを見てとやかく言うことは、その土深くに伸びた本質、根っこに対する想像力と関心に欠けている。人の根は、他人が思うよりも、深い深いものなのだ。それを知っていれば、匿名で人を批判など、おいそれとできるものではない。

 …と言いつつ批判的だけど、まぁ。

 批判される側にも、批判する側にも、それに反論する側にも、深い深い根がある。感情としてそういう気持ちを持つことはある。けれどそういう時。よくよく考えてもなお相容れない時は、相手を批判する、否定する、そういうことをするよりも、ただ「自分は受け入れない」というスタンス。それだけでいいだろうし、それが一番力を持つ。自分はそう思う。


■2007/10/03 水
 学校、の話に触れたある方の日記を読んでいて、ふと思いだした景色がある。
 小学校、中学校ともに海に程近く、どちらも遥か水平線が見渡せる丘の上に建っていた。学校生活は…というと、様々な思い出がもうごちゃまぜになっていて、どうだった、と一言では言えない。ただ、意外と記憶にないのが、授業中の思い出。自分は、というと、授業中は窓の外ばかり見ていたような気がする。
 たまに席換えがあって、どんな方法で選んでいたかは良く憶えていないが、たいていの子は「後ろの席」だとか「仲良しな子の隣」とか、そういうところを望むのだろうけれど、自分はただ、窓際が良かった。海と空、水平線。遥か沖をゆく、白く輝く船。様々な形の雲、波。時折泳ぐイルカ(だと思う)の群れ。岸近くをゆく磯船。そんなのを見ているのが好きだった。
 小学校、中学校と合わせて9年間。その全て窓際だったわけでは当然ないけれど、よっぽどガスっていない(霧が出ていない)限り、水平線は毎日見ていた。だから、何と言うのだろう。空と海、そして水平線。それらをキャンパスのように、その上に様々な思いを重ね描いて見ていたのかも知れない。
 それはもう、自分にとっては「原風景」なのだろう。いまでも何かをふっとと思う時。その思いの根本にあるのは、あの水平線を見ながら抱いた様々な思い、なのだと思う。

 まだ自分のイメージの中にある、その風景。ちょちょっと描いてみるとこんな感じ。雲とか波とか、海の手前の町並みだとか、そういう複雑なところまでは描ききれないけれど、こんな感じだ。



 うん。こんな感じ。こんな景色を見ながらとにかく「ぽけーっ」としていて。船は近くで見ると錆だらけなのに、沖の船はどうしていつも白く輝いているんだろう、だとか。満潮になったら水平線の位置は上がるんだろうか、だとか。そんなことばかり考えていたのだろうけれど、そのうち、先生の声やらチャイムやら、他の子の呼び声だとか。そういうもので、はっ、と我に帰って、その世界に戻ってゆく。その繰り返し。

 とにかく。自分はそんな子供で、そんな子供の延長が、今の自分なんだと思う。
 で、ふと思った。今の自分。あの頃見ていた水平線の、遥か彼方に住んでいるんだな、と。


■2007/10/05 金
 職場のある所に生えている植え込みの中にスズメバチが巣を作っており、先日人が刺された、と話題になっていた。大事には至らなかったようだが、放っておくわけにもいかないだろう。
 で、通常なら役所だとか保健所だとか、そういう所に連絡して駆除、となるのだろうが、幸い同じ事務所にそうした事に長けている…というか、スズメバチの天敵のような人がいる。ので。「…だそうですよ。行かないんですか?」 と、話を振ってみた。すると 「うーん、話は聞いたけど、今日は道具持ってきてないんだよねー」とのこと。

 『えっ? じゃあ普段はその道具持ってるんですか?』 と、その会話を聞いていた、スズメバチの巣の実物など見た事もなさそうな同僚が話に加わる。以下、その二人の会話。

 − うん。道具、今は家にある。網とか、カッパとか、あまり使わないけど専用のスモークとか。
 − んなものでどーやって取るんですか!
 − いや? スズメバチの巣なんて穴ひとつだから。そこ塞いじゃえば。
 − そこから…殺虫剤か何かで?
 − 駄目駄目! 殺虫剤なんか使ったら…

 「食べられなくなっちゃうじゃん!」

 『…へっ??????』

 「…ああ。この人にとってはね。駆除じゃないから。狩りだから」 彼が混乱しそうな雰囲気なので、ちょっと耳うちしてあげる。そして自分も話に戻る。
 「そーいえば去年**にあった巣、獲ったんですよね」 
 「うん、こーんなの獲った。蜂の子、ドンブリ半分くらい獲れた!」
 『で、それを…』 まだ動揺を隠せない彼が聞いてくる。
 「うん、全部一人で食べた。けど、あまり美味くなかった…」
 『うわぁぁ、信じられねー、この人!』

 でも、自分もスズメバチの子はないけれど、地蜂の子なら美味しいと思って食べた(父方の田舎でも普通に食べる)ことがある。外側カリッと香ばしく、中トロリ、という感じ。なので、「いや、地蜂の子なら食べたけど、結構美味いよ。スズメバチならもっと丸々してるから…」

 − そうそう! 地蜂は美味いよね♪
 − 美味いですよねー♪

 『うわぁぁぁぁ、お前もかー!』

 というのが昨日の話。で、今日になって、朝、その人(ハンター)が来た時に訊いてみた。
 「道具、持ってきたんですか?」
 「んっと、蜂の巣ね、朝見てきたら無かった! もう獲られてた!」
 「へー、じゃあ昨日の夜の内に、ですかね」
 「獲ったの多分、**の**さんだわ! 先越されたわぁ…」
 「はぁ。結構、競争率高いんスね。スズメバチ、ちょっと味見したかったのに…」

 ん? そういえば「彼」は?
 あ、いた。何か言ってる…というより、自分に何か言い聞かせてる。

 『…ち、違う! 絶対何か違う!』

 人間の常識が壊れる瞬間を、見た。

 ちなみに、その人(ハンター)は信州の生粋の山育ちの人。「彼」は埼玉(自称東京)人である。この会話に、ここ静岡県の人は関係ない。また、ハンターはともかく、自分(北海道人)は別に蜂の子を常食にしているわけではない。…念のため。


■2007/10/14 日
 こちら(本州)に来てから、夏から秋にかけて調子を崩す。普通の風邪のように熱を出したりするわけでは無いのだけど、何故かゴホゴホと咳き込む状態が長く続く。実は今月初めからずっとその状態だった。もう、3年連続。原因はわからないが、他人の推測では「秋の長雨によるカビで、肺がカビたんじゃねーの?」だそう。無下に否定できない。
 それもようやく良くなってきた。これも例年なのだけど、秋雨前線が後退して空気がカラッとしてくると体調はすぐに戻る。やっぱり冷涼乾燥な空気が自分にとっては一番合っているのかも知れない。

 そういえば。先月から、某超有名というより業界最大手SNS、というものを、誘われるがままに初めてみた。といっても、何をするものなのか未だにいまいちよくわからない。自分が馴染んでいるところでは日記を書くスペースはあるのだけど、それについてはここだけで手一杯なので、掛け持ちができない。使い道がないのだ。

 というわけで、はじめてみたはいいけれど、かなり持て余している(放置)状態。ただ、アクセスの一覧を見ると、一ヶ月半くらいで100件を越えていた。ただし。足跡機能で訪問者のページを見てみると、「在宅でできる副業」を紹介してくださる方からのアクセスが過半数だった。
 まぁ、それはそれで面白い。そういうページは大抵、プロフィールが「はじめまして!」→「以前、経済的にピンチだったけれど、今は幸せなんです!」→「なぜかって?」→「そんな時、この仕事を見つけて人生に転機が!」→「車買いました、家建てました、セレブになりました!」→「この素敵な仕事を、ぜひ皆さんにもお教えしたく…」→「興味を持たれた方は、下のリンクを!」→「ついでに相互リンクよろしく!」 というものになっている。
 ちょっと型にはまり過ぎて独創性が無い気もするが、まぁ、その是非は問わん。けれど、「自分のページを訪問している方々がそんな方々ばっかり」という状態だと、さすがにちょっと。来てくれる一般の方まで「また副業か…」と疑って、訪問するのが億劫になってしまう。やっぱりSNSというのは本当に親しいもの同士でもっと小さい規模でやるのが理想で、こうして利用者何百万人になってしまうと、こういう状態になってしまうのだろう。

 ただ、何というかなぁ。以前はこのテの勧誘。その手段も、テクニックも、文章のある意味巧さも、もっとレベルが高かったように思う。意外と文章が面白かったり、「あ、そんな手段もあるのか!」と意表を突かれたり感心させられたり。あぁ、プロだなぁ、と思うような事があった。けれど今は、すっかり大衆化してしまった…というか。
 誰か一人が画期的な方法を発見して、それが成功を収めたら、すぐに多数がそれに追従して、規模の拡大に歯止めがかからなくなり、大衆化して、陳腐化して、質も低下してしまう。それの繰り返しで、何か複雑。
 例えば、有名企業が将来使用しそうなドメインを先に取得して、それをその企業に売る。初期に話題になったのは、合併が噂される某石油メジャーの社名を予測して先取りしたものだったか。それを最初に発想した人に対しては「やるな!」と思う。
 善し悪しは別にして、確かに、それを最初に思いついた人はすごい。けれど、それを多数がやりだして、歯止めがきかん(すでにある社名を先取りしてしまったり)ようになると、何か、あさましさしか感じなくなる。そうして、最初の「画期的な」発想そのものも、陳腐化されてしまうのだ。

 …おっ、これって「ランチェスターの法則」じゃないか?
 細かい説明は省くが、ランチェスター法則とは元々は軍事衝突の勝敗を公式化したものなのだけど、経営理論にも応用される。数式ではなく言葉にすると「劣勢な軍が大群を相手に勝利するには、相手より高性能な武器を持ち、かつ、戦力を集中して戦う」という感じで使われる。それを経営に応用すると「大企業ひしめく中で、小規模企業が業績をあげるためには、大企業にはない独創的な分野に経営を集中する」となる。
 で、それを逆に応用すると「大企業が、ある独創的な分野で業績がいい小規模企業を潰すには、その独創的な分野に追従(真似)し、その小規模企業の独創性を陳腐なものにしてしまえばいい」となる。 従って、「ある独創的な発想も、多数に真似されることで、やがて陳腐化して質も低下して、全然画期的なものではなくなってしまう」というこの流れも、見方を変えれば、軍事作戦の法則に通じるものなのだ! おおっ。以降、これを「ランチェスターの陳腐化法則」と呼ぼう。

 …ああ。ちなみに自分は副業には興味ないです。


■2007/10/25 木
 歩いているうちによく途中で追いつく人と、「影が長くなったねー」と。まるで夕方のような会話を交わしながらの、早朝の通勤路。影が長くなった、というのは、出る時間は変わらないけれど、日の出が次第次第に遅くなっているから。
 今朝はちょっと面白かった。太陽を背に、いつもの登り坂。普段のように、自分の方が後ろから彼女に追いついたのだけど、普通に声をかける距離まで近づく前に、前方にずーっと長く伸びた自分の影の頭が、彼女の足元の位置を追い越してしまった。
 気付くだろうか。あ、後ろから誰か来たか、と、ちらっと影を見た感じ。けれど、自分も声をかけずにいたので、彼女も特に振り返らない。すぐ隣を伸びてくる影には目を落とさず、気付いているような、気付いていないような。気付いていないようにしているような。そんな感じで、顔は前だけに向けて、スタスタと歩いてゆく。
 何か面白いので少しそのまま歩き続けて、自分の影の胸元辺りまで彼女の視界に入った、と思われるところで、手を振ってみた。

 足元の影に突然手を振られて、あっ、と振り向いた彼女におはよう。
 何だ。やっぱり影、気付いてたんじゃん。

 そして、「影が長くなったねー」と。
 まるで夕方のような会話を交わしながらの、早朝の通勤路。

■2007/10/27 土
 夜になってベランダへ出てみる。月がいいはずなのだけど、台風のため暴風雨。この時期の雨…。見えるはずもない富士山の方を見た。この時期の雨。ひょっとしたら、山頂では雪になっているかも知れない、と。そんなことをふと思う。
 この時期の雨が山頂で雪になるのは、別におかしくはない。けれど、よく考えたら、台風が降らせる雪、ってのは、ちょっと面白いかも知れない。遥か南の産まれの台風も、雪を降らせるのだろうか。
 夜がふけるに従って、風雨はおさまってきている。明日は、晴れるかな。


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