Diary


平成二十年 睦月


■2008/01/23 水
 今週、雪。日中にかなり融けてしまうので雪かきまでは必要ないのだけど、車の雪降ろしはしなければならなくらいの雪が降り続いている。年末年始に帰省した地元は雪が本当に少なかった。今のここの方が多いくらい。
 今年最初の書き出しがこの日付けになっているのは、2日に帰省先から戻ってきたら、パソコンの電源が入らなくなっていたため。年中無休のサポートに電話したら、電源部の異常でしょう、とのことで即修理に出し、先日ようやく戻ってきた。

 年は越したけれど、特に意気込みのようなものも無く。今はただ、

 さぁ、今年一年どう生きよう。

 というような、気分。


■2008/01/24 木
 …さんは、このくらいの雪道ならへっちゃらですよね! だとか。 北海道の冬道に比べたら、どうってことないですよね! だとか。たまに雪が積もって雪道、冬道になると、そういうことをよく言われる。確かにまぁ、冬道のノウハウは周りの人よりある。でも、間違ってほしくないことがある。それは、自分は決して「このくらい楽勝」なんて気持ちで走ってはいない。やっぱり冬道は怖いし、緊張するのだ。怖い、というか。気持ち的には畏れ、に近いかも知れない。
 逆に、それまで冬道の経験が全く無く、ここへ来て初めて体験した人が、「冬道は怖いよー」と何度も聞かされていた割にそれほど怖い思いをすることもなく、それなりに走ることができて(そういう人は大抵、冬タイヤも新品だったりするので)、冬道に対して変な自信を持ってしまっている場合があるように思う。「雪道? 俺全然楽勝! 俺天才!」などと。基本的に、そういう人が運転する人の車には、乗りたくない。あと、ハンドルを握ると、何かやたら周囲の車に「馬鹿!」だの「ボケ!」だのいう人とか。


 運転には、あまり自信を持ちたくないなぁ、と思う。


■2008/01/25 金
 人生の価値や意味。そういうものが、勝ちとか負けとか。成功だとか失敗だとか。そういうもので決まるものだとは思いたくない。そういう考えは多分、負けだとか失敗だとかには価値がない、そういう考えに繋がるような気がして。
 負けや失敗を無価値と否定すると、正直、今の自分に価値はない。だから、人生の価値を、勝ちや成功だけで計ってしまうと、今の自分の価値そのものを、否定してしまうことになるような気がする。

 人生の価値や意味は、違うところにあると思う。それは、多分。様々な経験を通じて、学ぶか学ばないか。成長するかしないか。そういう所に、あるのだと思う。
 人生の価値や意味を、学びと成長においてみよう。そうすると、勝ちも負けも、成功も失敗も、全ての経験に価値が見出せるようになるかも知れない。というより、勝ったか負けたか、成功したか失敗したか。そこにこだわり続けることが、いかに表面的な、一時的なことにこだわり続けているのか、ということに、気づく。いや、もちろんそれが全く無意味、とは言わないけれど。

 まぁ、とにかく。勝ちや負け、成功や失敗。それらは、人生の価値だとか意味だとかにするには、本当に曖昧な、頼りないものなのだ。それは一時的なもので、その後どうなるか、全くわからないものだから。けれど、学びと成長は違う。それは、一時的なものではなく、確かなもの。そして、間違いなく一生モノなもの。


■2008/01/27 日
 さて。ある方のページで「まだるっこしい」という言葉を見つけた。あれ、と思う。「まだるっこしい」って何だろう。ひょっとして「まどろっこしい」のことかな、と思う。ただ、すぐに思いなおす。経験上こういう時は、自分が当然のように使っている言葉の方が「方言」であることが多い。…というか、本州に北海道弁さ持ち込んでいるのだから当然なのだが。
 最寄の辞書で調べてみる。「まだるっこしい」は「まだるい」の所に「まだるっこい」という語句として発見。「まだるい」とは「真怠い」。なので、漢字では「真怠っこい」になる。で、自分が使う「まどろっこしい」は、該当する項目なし。やはり自分が方言か。
 ネットで調べると、この話題については意外と多い。「まどろっこしい」も、北海道方言、というわけではなく、色々な地域で使われており、「これって方言?」という展開になっている。近畿四国辺りの方言、という記述もある。それならば納得できる。自分の家系、三代遡るとその辺りの地方(淡路島)の家系になるからだ。淡路からその方言を持ち込んで、それが今まで生きている、という可能性も、充分にある。

 ただ。北海道の場合。北海道弁と一括りに言われるものとは別に「それぞれの家系」または「道内のある特定地域のみ通用」という方言が、結構多い。それは今の北海道が、明治期に日本各地からやってきた人々によって「開拓」された、という歴史による。そして、当時の開拓者は、本州のある地域の人が、北海道のある地域へ、と、集団で移民している事が多い。なので、こちらの地域では関西の方言が生き残っており、別の地域では東北方言が生き残っていたり、と。そういうことがある。
 なので、自分が使う「まどろっこしい」も、北海道内の別の地域では「まだるっこしい」が普通、という可能性もある。実際どうか、は、今まで関心を持ったことがないので判らないのだけど。

 そういえば。今は亡き祖父が使っていた言葉に、「がいな」という言葉があった。「コイツはがいな顔してるなぁ」とか、「あれはがいな馬でなぁ」という感じで使われていた言葉。どうやら「ごつい」という意味らしいのだけど、それがまさに「北海道でも全道的には通用しない、特定地域や家系だけの方言」だった。
 この「がいな」も、調べると「讃岐弁」として四国の辺り、そして島根の辺りでも使われている方言だとわかる。他には「いまさっき」や「わや」「わやくちゃ」などが、淡路島のあるエリア(四国、関西ブロック)で使われている方言で、自分の家系では使われるのだけど、全道的に通じるわけではない(あくまでも自分の経験上)言葉になる。

 明治に淡路から北海道に渡ってきたのは、ひいひい祖父さんとひい祖父さんの親子で、祖父以降は北海道産まれになる。なので、実際に「淡路地方」の方言としてその言葉を話していたのは、ひいひい祖父さんとひい祖父さんの世代だけ。その言葉が、祖父、父を経て自分にも多少引き継がれている。そして、自分は海峡を逆に渡って本州へ。
 可能性としては、淡路から北海道へ渡ってきた世代が持ち込んで、北海道で世代を経て一世紀の間生き残り、今の自分が持っている「ある地方」の方言に、自分はその言葉の出身地で、何と言うか「ネイティブなその方言」に再会する、ことがあるかも知れないのだ。それは想像するだけで素敵。

 実際、日本各地を走り回ったある旅の途中、自分は生の「がいな」に出逢った。
 ただし、淡路ではなく、島根県だったけれど。


■2008/01/31 木
 午後から雪。夕方から結構な降り具合になる。その中を帰宅。降ってるのは割と大きな雪。空を見上げてふと思う。このくらいの雪なら、空を見上げて空へ昇るあの感覚になれるだろうか。けれど、見上げてみたけれど、風で左右に流れながら舞う雪は、見続けていてもそんな感覚にはならない。
 こちらへ来てからも、雪はそれなりに降るのだけど、何が違うのだろう。あの感覚になる雪にならない。自分の記憶の中にあるのは、夜、静かに降りてくる雪が、まるで夜空の一点から降ってくるように見え、見続けていると、その夜空の一点に吸い込まれるような感覚になる、あの雪の降り方。なのだけど、その「夜空の一点から降るように見える雪」が、なかなかこちらでは再現できないのだ。
 よくよく考えると、雪質、風の条件、空の明るさ、街の明るさと夜の暗さ、街灯の明かりの照明具合。そういう幾多の条件と偶然が重なってはじめて、そういう見え方になるのだろう。けれど自分には、その条件の再現の仕方がわからない。イメージではなく、確かに記憶としてあるのだけど、周りの条件がどうだったか、までは憶えていない。

 雪は夜10時頃まで降り続いて、車の上に、ふんわりと雪が積もった。もう朝まで降らないような気がするので、降りが止んだところで外に出て、車の雪を降ろしてくる。雪を降ろしているのは自分だけ。建物の入口からぐるっと、ベランダ側の駐車場まで。今、自分が刻んだ足跡が、明日の朝、車通勤する人々の「道」になるのだろうか。どうせ自分は車通勤ではないのだから、足跡、無意味にS字でも描いておけばよかった、と思う。それがそのまま道になっていたら、それはそれで何か楽しい。

 …まぁ、さておき。ついでだから入口の階段の雪でも払っておくか。


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