Diary


平成二十二年 文月


■2010/07/03 土
 期末だったので今週はちょっとバタバタ。でも去年のこの時期とはうって変わって、穏やかな期末だった。昨年度立ち上がった様々な事業がうまく軌道に乗っている感じ。風邪で休んでいた人が土日仕事に来ると言っていたので、少し引き継ぐことがあったので顔を出す。でも、本来休日なのでエアコンが切られており、暑くてやってられないので午前中で退散する。

 命は生きるために他の命を奪うけれど、それは罪なことではないのだと思う。だから自分は、そういう意味では、生きることそのものは罪なことではない、と思う。ただ、生きてゆく過程の中で、罪のようなことは犯しているのかも知れない。それは、生きるために他の命を犠牲にしている、という自覚がないこと。そして、生きるために犠牲にされた命に対する感謝がないこと。そのふたつのような気がする。それは社会システムの問題でもあるのだけど、何と言うか。食卓が死から遠ざけられていることの、罪というか。
 罪と書いているけれど、他に適当な言葉が思いつかないだけで、罪、という言葉は好きではない。
 まぁ罪という言葉そのものに罪はない。でも、人に何らかの影響を与えるため…その思想を信じ込ませるため、恐れを植えつけさせるため、その恐れにより相手を支配するため…に、その言葉が使われすぎてきたから、その言葉を使うのに多少の抵抗を感じるのだと思う。それは、神、霊、魂、運命、生まれ変わり、死、といった、そんな言葉を使う時にも多少感じることがある。本来の言葉の意味とは別のところで、使われ方の歴史により植えつけられたイメージからくる抵抗。

 と、ただでさえ言葉で伝えることが必須なこの世界。
 更に窮屈にさせるようなことばかり考えるのは、もうやめにして。


■2010/07/04 日
 アイヌの物語の中では、動物(獲物)の躰の部分…つまり「死体」のことをhayokpe(鎧)という。人間にしても動物にしても、その本体は「その鎧を纏っている目には見えない存在」、となる。例えば、人が熊を狩ることができるのは、熊の神様が人間のために熊の肉体を纏って山を降りてきて、人の放った矢を自ら受け止めるから、となる。なので、獲れた熊を村に持ち帰る、ということは、毛皮や肉を持ってきてくれた熊の神様を村に迎え入れる、という意味になる。
 そして、その時点ではまだ熊の本体は熊の形をした鎧の中…熊の頭部の耳と耳の間、に座っているので、頭部を祭壇に祀り、酒や米などを供え、宴を開き歌や踊りを披露して熊の神様に感謝し、充分に楽しんで貰った上で、神様の国へお帰りいただく。神に供えた品物は神のお土産となり、この世から神の国に送られた品物は、神の国では何十倍にもその量を増すのだという。
 それだけ膨大なお土産でもって、神の国に戻った熊の神様は、他の神々を集めて宴を開き、人間の村での経験を他の神々に伝える。村人たちの歌や踊りの興に入ったこと、人々からどれだけ丁寧に迎えられ、どれだけ感謝されたか。そんなことを。すると、他の神々…他の熊の神様や、鹿の神様、鮭の神様たちも人間の村に興味を抱き「それは面白そうだから我々も行ってみようか」となり、それぞれがそれぞれの鎧を纏って人間の世界へと赴く。こうした繰り返しにより、人の世界も神々の世界も豊かになってゆく。

 また、神と人にはそれぞれ、互いに対する「務め」がある。人々に対し生活できる環境を提供し、食べ物などの恵みをもたらすことが神々の務め。そして、様々な恵みをもたらしてくれる神々に感謝を捧げ、それを敬うことが人々の務めとなる。
 それぞれがそういう「務め」を持つのは、神も人も、互いの存在無しでは成り立たないからだ。神を神たらしめるのは、人々の「務め」によるものであり、人が生きてゆけるのもまた、神々の「務め」によるもの。神が人に対する務めを、人が神に対する務めを、それぞれきちんと果たしている限り、両者は共存共栄してゆけるのである。当然、人が務めを怠れば神は鎧を纏って人の世界には降りてこないし、神が務めを果たさなければ、人が敬うことで神でいられる神々も、その存在が危うくなってしまうのだ。

 アイヌにとって、熊は大層位の高い神様。けれど、今の自分たちが動物園やらで熊を見て、それを高位の神様と崇める生活を想像することは難しいだろう。「ただの獣じゃないか」と。確かに、今の自分たちが目にする熊は、ただの獣かも知れない。ただ、それは、神と人間との関係において、人間が務めを果たさなくなったので、熊の神様の方も神様でいることをやめてしまい、その結果、獣の姿に身を落としてしまった、と。そういうことが言えるのかも知れない。


■2010/07/06 火
 まずはじめに。ひょっとしたらここの文章が他の誰かのお目にかかる場合もあると存じますが、上の文章も以下の文章も個人的なノートですので、正確性には欠ける部分がありますこと、予めご了承願います。特にアイヌ語の発音は日本語の五十音では表現できない部分もありますので、カタカナ・ローマ字表記についても不正確なものであることご容赦下さい。ここの文章は無知な者が自分なりに理解しようとしているその過程を整理するためのメモ、程度のものです。

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 さて、アイヌ語の挨拶の言葉に iramkarapte と uweramkarap an na というものがある。
 使われ方としてはiramkarapteが「はじめまして」や「こんにちは」で、それを言われた相手がuweramkarap an na、「よろしくお願いしますね」と返すようなイメージになる。

 まず、日本語の「こんにちは」「はじめまして」「お元気ですか」に相当するiramkarapte(イラムカラプテ)について。これ自体がひとつの挨拶の単語になるが、実際は複数の意味の語が組み合わさってできている。で、iramkarapte を大雑把に分解すると i-ramkarap-te となり、iが「あなた」、ramkarapが「挨拶」、teが「させてください」のような意味になる。つまり、「あなたに挨拶させてください」という感じ。
 でもその中で「挨拶」という意味合いのramkarapが、更に複数の語句が組み合わさった言葉になっている。ramkarapを細かく分けると ram-karap となり、意味はそれぞれ、ramが「心」、karapが「触れる」という感じになる。この意味を加えると、「あなたに挨拶させてください」が、実際は「あなたの心に触れさせてください」という意味を内包していることになる。
 しかし、その中の karap「触れる」という単語自体もまた複数の意味からなる語句で、それを分けると karap は ka-rap となり、kaが「置く」、rapが「鳥の羽(羽毛)」という意味になる。だから、karap(触れる)という単語の意味は、バシッと触れるとかツンツンと触れる、というニュアンスではなく、「羽毛をふんわりと置くようにそっと触れる」というかなり謙虚さを持ったイメージとなる。

 整理すると、iramkarapteは、意味で区切ると i(あなた)-ram(心)-karap(触れる)-te(させてください)となり、更にkarap(触れる)の部分は、ka(置く)-rap(羽毛)という意味から成り立っているので、日本語では単に「こんにちは」「はじめまして」などと訳され、実際そういう意味合いで使われる iramkarapte だが、その語が実際に内包している意味は「あなたの心にふんわりと羽毛を置くようにそっと触れさせてください」になる。

 iramkarapte は代表的な挨拶の言葉なのだけど、単に「こんにちは」と理解するのではなく、内にある深い意味まで探って理解すると、何というのだろう。アイヌの世界観、人間観がその一語に凝縮された、その世界への入り口になるような言葉。なような気がする。

 「あなたの心に…羽毛を置くようにそっと…触れさせてください」
 という挨拶から人間関係が始まる世界にiramkarapte 

 uweramkarap an na についてはまたこの次。


■2010/07/16 金
 uweramkarap an na(ウウェラムカラプ アン ナー) について。イメージとしては、iramkarapte という挨拶に対して iramkarapte と返す場合は、「こんにちは」に対して「こんにちは」と返している感じ。uweramkarap an na を返礼に使う場合は「よろしくお願いしますね」と返している感じになる。
 uweramkarap an na を細かく区切ると、u-we-ramkarap an na となる。ramkarapについては先に書いたのと同じ挨拶の意味で「心にそっと(羽毛を置くように)触れる」。で、uが「お互い」、weが「の」というような意味になり、an naはanが「わたしたち」、naが「しましょう」で、合わせると「〜し合いましょう」というような意味になる。
 全て繋げると、uweramkarap an na は「お互いの心にそっと(羽毛を置くように)触れ合いましょう」。なので、日本語でいうところの「こんにちは」「よろしくお願いします」という挨拶は、アイヌ語では「あなたの心にそっと触れさせてください」「お互いの心にそっと触れ合いましょう」という意味の言葉で交わされることになる。ただし、iramkarapte に対して uweramkarap an na と返すのは、かなりかしこまった挨拶の場合、となる。「こんにちは」に対し「こんにちは」と返すのと同じで、iramkarapte に対してはiramkarapte と返すのが日常の範囲の挨拶、となる。

 ただ、iramkarapteにしてもuweramkarap an naにしても、ram「心」というのを、我々が思うところの「心」と同意と解釈してよいのかどうかはわからない。ram「心」はsuye「揺する」と結びついて「考える」という意味にもなる。
 それに触れることが「挨拶」となり、それを揺することが「考える」ことになる。それを果たして本当に、日本語でイメージするところの「心」と同じものだと理解していいものかどうか。そこら辺はちょっと考える必要があるところかも知れない。

 まぁ、単に日本語で「心」というだけでも、そのとらえ方は人により様々な気もする。
 「心」と言われてどんなものをイメージする? 自分は「心」というものは「水面」のようなものだと思っているのだけど。


■2010/07/17 土
 正常に見えるように生きるにはそうするしかなく、外からの何ものにも揺らされることなきように、と、長いことカチカチに凍らせていた心の水面が、あの何てことない一瞬に何の前触れもなく突然氷解した。水面を厚く覆っていた氷は水面の中に崩落し、おおきな波を立てて消えた。
 その瞬間、見えていた世界が色を変えた あざやかに みずみずしく。やがてその世界が自分の中に浸透してきた。いや、自分と世界の境目が薄れ、自分が世界にむき出しになった。と言った方が正しいのかも知れない。そしてそのとき、世界は色だけでなくて意味も変えた。見慣れたあらゆるものがそのとき、それまで感じたことのないあたらしい意味をもって、そこに現れていたんだ。

 ただ、それはただ、美しく。

 でも あとになって気づいた。それは、世界が変わった、のではなくて、ありのままの世界を、ありのままに見て、感じていた。それだけのことだったんだ。
 それから自分は、その世界のことを書きとめはじめ、やがて文章に残すようになった。あの時の記憶を忘れないうちに。まだ、世界をみずみずしく見ることができているうちに、と。そんなことが切欠で、それをはじめたのが10年前の、ちょうど今時期だったかも知れない。そして、そうして書き始めたものが、今に繋がっている。

 去年の8月から9月にかけて歯医者に通い続けて治療した虫歯だったが、先日、そこに被せていた銀歯が取れてしまったので、久しぶりに歯医者に。歯医者いわく、取れたのは銀歯の取り付けの問題ではなく、意味はわからないのだけど「根が成長して」予想以上に内部から圧迫が加わったから、だそう。「こうならないようにしたつもりだったんですが、ちょっと悔しいですねー」と。でも、そうそう取れるものでもないのが取れたのも何かの縁、徹底的にやりましょう、ということでまた土曜日は歯医者通いになる。
 でも、昨年は「平日仕事、土曜日歯医者、日曜日仕事」だったけれど、今年は何とか土日共に休むことができているので、まぁいいか。去年の自分に決定的に欠けていた時間。本を読んだり、ものを書いたり、どこかの駅前の街をぷらぷら探検したり。最近ようやく取り戻しつつあるそんな時間をゆるゆると過ごしたいなぁ、と思った連休初日。


■2010/07/19 月
 そうだね。まず夢の話をする前に、時間のことについて話そうか。私たちが認識できる時間は「現在」しかないね。未来や過去は概念としてはあるのだけど、存在しないそれらを今ある「現在」と同じように認識することはできない。それは肉体で生きる者、この物質の世界にある者にとっての摂理だからだよ。物質の世界で全てを支配する物理学的な運動や化学的な反応が、この世界では「現在」という時の中でしか起き得ないのだからね。
 けれども、意識は違う。意識そのものはそういった物質的な制約を一切受けない。それは時間についても同じだ。物質的存在の認識できる時間が「現在」しかないのとは異なり、意識はあらゆる時を同時に認識することができる。つまり、意識は、私たちが言う「過去」「現在」「未来」、その全てを「今あるもの」として認識しているんだよ。
 とは言っても、今のあなたの意識がその「過去」「現在」「未来」の全てを包括した「今」を理解することは難しいね。それは、今のあなたの意識が、物質である肉体と結びつくことによって、物質的な時間の制約を受けているから。今のあなたの意識は、意識そのもので世界を感じているのではなく、物質である肉体を通してしか世界を感じることができないからね。

 意識が物質的な制約を受けている、と言ったね。けれど誤解しないで欲しいのは、それが意識にとっては別にデメリットなどではない、ということだ。意識にとっても、肉体と結びついている間は物質的な時間感覚に合わせていた方が何かと都合がいいんだよ。郷に入りては郷に従え、という言葉があるね。もし、意識と肉体が結びついた存在であるあなたの意識と肉体が、それぞれ別の時間感覚を持ち合わせていたら、それは混乱の元にしかならないんだよ。だから、この物質の世界で肉体と結びついて生きることを選択しているあなたの意識は、自らの時間感覚をこの世界の時間に「合わせる」ことで、上手く生活しているんだ。

 さて、夢の話をしよう。夢とは何か。それは、あなたが目覚めている時に、意識が肉体を通してしている経験とは対をなす経験。つまり、あなたが眠っている間に、意識が肉体を通すことなくしている経験のことだよ。だから、あなたの意識がしている経験、という観点から言えば、起きている時の経験も、夢の中での経験も、経験した世界が違うというだけで、あなたの意識が経験していることに変わりはない。あなたの意識にとっては、どちらも現実なんだよ。

 肉体を通した経験、については語る必要はないね。問題は夢の中での経験、その経験をどうとらえればいいのか、だろう。
 殆どの夢は目覚めとともに、夢を見ていた、という記憶を除いてすぐに消え去ってしまうね。それは、あなたの意識が「夢の中での経験」と「現実世界での経験」をきちんと区別しているからだよ。あなたの意識は自分自身の判断で、夢の中で経験したことのうち、現実世界での生活においても必要になりそうなものと、夢の中にとどめておいた方がよさそうなものとを、しっかりと区別している。そうして、思い出す必要のあるものを記憶にとどめ、そうではないものを夢の中にとどめて目覚めるんだ。
 ただ、夢の中にとどめる、というのは忘れてしまう、ということではないよ。それは起きる時点で肉体側の脳にメモリーされないというだけで、意識は全てを記憶している。後にその夢の中にとどめてきた経験が必要になった時は、ちゃんと思い出せるようになっているんだよ。

 じゃあ、起きてからも記憶に残っている夢について。憶えていても、夢の内容というのは理解不能なものが多いね。けれど、それは当然の、仕方のないことなんだ。
 まずは最初に話した意識の時間感覚のことを思い出してごらん。夢の中で意識は物質的な時間感覚から解き放たれ、「過去」「現在」「未来」の全てを境目なく「今あるもの」として認識している。加えて言うなら、物理的な「距離」や「空間」という概念も、夢の中の意識には存在していないんだ。
 だから、例えば夢の中であなたの意識は、子供の頃の友達に会ったり、亡くなった知人に会ったり、肉体に宿る前の状態だったり、昨日の夕食をもう一度食べたり、明日の喧嘩をしていたり、母のお腹にいる頃に戻ったり、10年後のあなたを経験していたり、産まれる前の人生に戻っていたり、次の人生を生きていたり。時間も場所も異なるそれらのことを、全て時間や距離の制約なく、今ここにあるもの、として経験しているんだよ。
 そういう記憶だから、目覚めて物質的な「現在」しか認識できないあなたが、その記憶を夢の中で意識が感じていたように理解することは不可能なんだ。全てごちゃ混ぜになってしまってね。それは無理やり解釈しようとするより、そういうものだ、と、夢の中の意識の自由さに敬意を表して割り切ってしまった方がいいことだよ。
 ちなみに言うと、夢の中の意識も逆の意味で同じ思いをしているよ。夢の中の意識も、時折、目覚めている時の意識の記憶を夢の中に持ってゆく。その時、夢の中のあなたの意識は、物質的な世界のあなたの意識が経験している「時間」や「距離」の制約に窮屈さを感じながらも、その制約の中で生きることを選択しているあなたに、大いなる敬意を表している。どちらもあなたの意識に違いはないけれど、その点はお互いさま、とも言えるね。

 さ、夢の中から持ってきた記憶のことに話を戻して。夢の中の経験から何をこちらに持ってきて目覚めるか、はあなたの意識がしていることだから、言い換えるとあなた自身の意識からのメッセージ、ということになるね。
 ただし、多くの場合、その夢の中での経験が、あなたの実生活での経験に、直接影響を与えるものではない。昔から言われている予知夢のように、あなたの今後の人生を夢が先に見せている、というようなことではないよ。未来は変えられるものだからね。

 夢の中の意識が見てくる「未来」については、少し説明が必要だね。夢の中の意識は、確かに未来を見てくることもある。繰り返すけれど、夢の中で意識は、「過去」「現在」「未来」の全てを境目なく「今あるもの」として認識している。でも、その中の「未来」とは、あくまでもその時点のその状態の意識がイメージした「未来」なんだ。
 夢の中の意識は、その時点でイメージした「未来」を「今あるもの」と認識する。けれども、それは確定した未来ではない。意識の状態が変われば、意識がその時にイメージする「未来」もまた変化する。現実世界の私たちが、様々な未来を想像…あるいは空想するようにね。
 ただ、私たちが、イメージした「未来」をまだ存在しないもの、として認識しているのとは違い、夢の中の意識はその時点でイメージした「未来」を、今現実にあるものとして認識する。その点がちょっと違うだけだよ。

 頭ではなかなか理解しがたいけれど、あなたの意識はちゃんとそれをわかっている。大丈夫だよ。意識が夢から未来の記憶を持ち帰る時、それは、「あなたの未来はこうだよ」という意味で持ってきてるわけではないから、将来の悪い夢を見て飛び起きても、哀しくなったりしなくていい。あなたの意識は常に、今のあなたに対する前向きなメッセージとして、夢の記憶を持ち帰ってくるんだからね。
 でも、そういう夢を憶えていたら、少し危機感は必要なのかも知れないね。こうしたら、あるいは、このままでいたらこうなってしまうから、と。今のあなたが気づいていない所に、あなた自身が気づいて正してくれることを、あなたの意識は期待してその記憶を持ち帰っているのかも知れないから。

 夢の中のあなたの意識はね。「現在という時」と「この場所」しかない現実世界のあなたに代わって、夢の中の世界であなたより一足先に様々な未来を経験したり、大事な過去を追体験したり、現在を違う視点から見てみたり。そんなことをしてくれているんだよ。
 そして夢の記憶とは、見た夢の過去・現在・未来にかかわらず、いい夢・悪い夢にかかわらず、今のあなたに何らかの気づきが必要な時。夢の中で様々な経験をしてきたあなたの意識が、その気づきの切欠として、今のあなたに贈っているメッセージなんだよ。

 夢の中のあなたの意識は、夢という時間も距離も制約のない自由な世界の中で、時にはあなたが経験したことの無い喜び、時にはあなたが経験したことの無い苦痛や哀しみ。時にはあなたがまだ生きていない未来、時にはあなたが忘れてしまった過去、時にはあなたが人生において選ばなかった選択肢の先の人生。そういうものを物質の世界で生きるあなたの代わりに経験して、その中から今のあなたにとって必要な(…テスト前に回答を見せてしまうような内容のものは除いた)メッセージを、あなたに贈っているんだ。
 限られた時間と横たわる距離の制約を受ける窮屈な現実世界。その中で生きることを選択したあなたに敬意を持って。それはメッセージでもあり、時にエールでもあるんだよ。あなたがよりよくこの世界を生きること、生き抜くことを期待して、あなた自身の意識から贈られた…ね。

 …さ、夢について、自分が夢から教わったのは、こんなことだったよ。
 なるべくそのまま書こうと思ったら、長くなっちゃったね。

 では、そろそろこの辺で。おやすみなさい。

 P.S. いい夢を


■2010/7/22 木
 前の職場の更衣室にあった「とっても多機能な体重計」と同じようなものが、こちらの職場にも導入された。体重に加えて、体脂肪、基礎代謝量、骨格筋量と骨格筋率、そして体年齢(あなたの体は実質何歳くらいか)というデータが出る、人によっては恐怖の体重計である。
 さっそくやってみた。が、結果を書くその前に。なんと前の職場で計った時の結果がここの日記にちゃんと残っていた。日付もちょうど2年前の7月。この辺り、日記を書いている良いところだなぁ。

○前回 2008/7/8のデータ
 体重 58キロ
 体脂肪率 9.3パーセント
 骨格筋量 22.6キログラム
 骨格筋率 39パーセント
 基礎代謝量 1500キロカロリーくらい
 体年齢 18歳

○今回 2010/7/22のデータ
 体重 59キロ
 体脂肪率 10.5パーセント
 骨格筋量 23キログラム
 骨格筋率 39パーセント
 基礎代謝量 1480キロカロリーくらい
 体年齢 22歳

 日記を見るとどうやら前回は富士登山(富士下山)の直前だったので、それに向けた走り込みをしていた頃だったはず。こちらに転勤してからは駆け足していない割にはあまり変動がないのが意外。電車通勤って思ったよりハードなのかもなぁ、という自己評価はさておき、体脂肪率と骨格筋率と体年齢の数値については、職場の並みいる強豪を押えてトップに立った。

 「…いや、その体年齢22歳ってあり得ないから!」
 「ああ、いやぁコレ実は精神年齢ですから」

 精神年齢、2年で4歳UP! …って微妙。


■2010/7/23 金
 連日最高気温が36.5度だとか37度だとかいう日々が続いている。暑さは苦手といいつつも28度を越えるとどうでもよくなってくるので、まぁどうでもいい。が、エアコンには弱い。職場や自宅にまでエアコンがある環境で生活するのはまだ今年で2年目、である。先日から喉がイガイガしていたが、今日はもう全身がだるい。体温を計ってみると、最高気温すら平熱より高いのに体温の方が高くなっていて、もう体感温度がよくわからない状態になっている。
 来週月曜日予定の仕事が火曜日にずれた。ちょうどいいので、月曜日を突発した海の日の振り替え休日に。まぁ3日あればなんとかなるべ。
 それよりも、万一熱上がって日中寝込むことになった場合、暑いのは当然として、部屋のエアコンは入れておくべきなのだろうか。それとも、切っておくべきなのだろうか。何か入れっぱなしだと更に調子が悪くなりそうだし、切りっぱなしだと熱中症になりそう。ああ、それより明日は歯医者に行かなきゃ。
 

■2010/7/24 土
 午後はずっと寝通しで、先ほどカーテン越しの閃光と雷の音で先ほど目覚めた。汗だくだったので外へ出ると思ったよりも涼しい風。でも、空は猛り狂っていた。縦にも横にも稲妻が走っている。最近読んだ「はてしない物語」に出てくる幸いの竜が実際に飛んでいるのを見たら、こんな横に走る稲妻のような感じなのかも知れない。
 歯医者に行かなきゃ、と、ちゃんと午前中に目覚ましをかけていてよかった。頭痛がしていたけれど無理やり起きて、昼前に歯医者には行ってきた。予定があってよかったと思う。起きた時の状況を考えると、予定も無しにそのまま寝ていたら干物になっていたに違いない。で、帰りにポカリやら果物やら買って帰宅。その辺りの記憶が虚ろなのだけど、帰って再び寝る前に、買ってきたものは冷蔵庫にちゃんと収めてあった。まだまだこういう時に生存本能を発揮できる自分を褒めてあげたい。
 で、風邪の時くらいちゃんとした果物でも自分に食べさせてあげよう、と思ったのかどうか知らないが、ネクタリンはともかく、なぜ「ドラゴンフルーツ」まで買ってきたのかは自分にもよくわからない。桃の缶詰とかならまだわかるのだけど。
 荒れ始めた天気のおかげで、エアコンなくてもいいくらいの涼しさ。頭痛はなくなったが熱はまだあるので、昼間の自分からのお見舞いのドラゴンフルーツでも食べて寝ることにします。

 でもドラゴンフルーツってどうやって食うんだろう?
 …じゃあとりあえず切ってみるか。

※教訓:白い服でドラゴンフルーツ切る時は汁の飛び跳ねに注意しましょう。おやすみなさい。


■2010/7/31 土
 月曜日まで寝込んでも特に良くはならず、何だかフワフワした感じの一週間だった。熱と咳と頭痛で一番つらいのは咳だ。咳で頭痛が活性化するし、何よりももう腹筋がクタクタ。でも何とか熱と頭痛は回復して、あとは若干咳が抜けないくらい。
 けれど、もし今週末を過ぎても呼吸器系の症状が良くならない、もしくは悪化しているようなら再診、とのこと。風邪にしてはちょっと呼吸器系の症状が重い上に長引いているので、百日咳という病気の可能性があるらしい。
 ただ、百日咳では高熱は出ないそうなので、多分複合的な風邪でしょう、と。ただし、百日咳は小児にとって重病のうえに流行性なので、可能性がゼロにならないうちは家庭でも小児との接触を極力避けるように初診で言われる。
 まぁ独身だからそれは大丈夫っすよ。…独りで風邪なんてするもんじゃないね。…ああ、全くだわ。
 ともかく。朝は6時、夜は8時過ぎなので、一番危険な通勤電車で小児を見かけることはまず無い。朝もまだ子供の通学時間ではないから大丈夫…と思っていたのだけど、実際に意識して歩いていたら、ラジオ体操に向かうらしい子供が結構歩いていることに気づいた。そういえば今は夏休みなのだ。でも、こちらの夏休みは金曜日になっても決まらず。
 どうしてこう何もかもマイナス要素ばかりなのだろう。流行っているのは風邪ではなくてマイナスなのかも知れない。マイナスが流行し、マイナスが更にどこからかマイナスを呼び込む。そういうサイクルなんだろうな。きっと。この躰も不調になることで、何か自分に取り繕う必要のある場所があることを、自分に訴えているのかも知れない。

 −今年はお盆期間は無理かも知れないねぇ…
 −いいっすよどうせお盆は混むし。
 −でも早く決まらないと飛行機が取れないしなぁ。
 −どうせ取ってもアレかもですよ。去年は…
 −ああ、あったねぇ。飛行機キャンセルして出てきてた日!
 −で、キャンセルして次の日にしたら、朝地震で呼び出し待機。
 −おお、で、その後台風だった。オレ飛行機飛ばなくて大変だった。北海道は飛んだんだっけ?
 −北海道は台風から逃げる方向なので飛んだすよ。滑走路出てから1時間待ちしたけど。

 …て、去年は酷かったねぇ。
 …に、比べたら今年はマシなのかも知れないすねぇ。

 そうだ。まだマシなのだ。今後、何事もなければ。

 百日咳にかかるわけにはいかないので、今日はのんびりホームページ更新。
 遠くで響き続ける、打ち上げ花火の音。

 今はただ、自分に専念すること。


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