Diary 平成二十二年 葉月 ■2010/08/05 木 2週前、ある人の検査の結果がクラス4、この度の再検査の結果はそれを裏付けるもの。まぁ、良かったんだろうね。早くわかって。良かった、というのはいい言い方ではないのかも知れない。でも言葉だけで伝えたわけではないので、相手もそれなりに受け取ったよう。こっちはいい。来週休むんだし少し自分に専念しなせ…と、先月末の自分の決意をそのまま相手に渡してしまったので、自分はまだまだ自分に専念できそうもない。でもまぁ、それも上等だ。 人は他人の中に自分を見る。そういうこともあれば、人は他人の中に、違う他人の影を見ることもあるのだろう。人は他人を見て、その人そのものを見る。そういうことが、ひょっとしたら一番難しいことなのかも知れない。自分が人から見られてどうか、というのは、あまり考えない。というより、考えることを止めた。自分が怒った相手の行為は、ひょっとしたら相手の善意からでたものかも知れない。相手が早く環境に慣れるために振舞った親しさ、が、相手をただ狎れさせるだけの結果になってしまうかも知れない。そんなものかも知れないから。 書いているものを人が読んで、というのも同じ。どこかに書いたかも知れないが、ここに書いているものは「スナップ写真」のようなもの。書かれていることは真実でも、写真は写真。写真は真実も伝える代わりに、フレームの外にある真実を覆い隠す。しかもその多くのフレームの外が覆い隠された写真を、不特定多数に読まれることを前提として更に取捨選択する。それがいかに自分にとって大きな影響を与えた出来事であっても。 自分がここに書いている範囲、は、例えばゼロを中心に−100から+100まで感情の波があったとしたら、その中の−20〜+20くらいの範囲でしか書いていないような気がする。けれども、それを読んで読み手が自分に対してどういう印象を抱くか、ということについては、自分は読み手の判断に任せる。 自分は自分が書いている範囲のものが、自分に恥じるものでなければそれでいい。 もし今自分に何かがあって、これまで色々と自分が、ここやここ以外の所で書き連ねた、書き送ったものが、自分の意思とは関係無しに万人の目に晒されることがあっても、今の時点では自分は自分に恥じない。それが人にどう受け取られようとも。 でも、自分に恥じない、の「自分」は、その時々に応じて変わるだろう。以前は恥も知らずに書いていたものを、将来は恥じるようになるかも知れない。その点はあくまでも「現時点で」という意味で。自分はこれまでもそういうつもりで書いてきたし、これからもそうして行きたい。上げてゆくのならば、書くスキルでも万人受けする話題や表現でもなく、「自分」でありたいと思う。 書くこともそう。生きることもそう。他人の目に恥じないようにするのは、意外と簡単なのだ。なぜなら、他人の目はごまかしたり、だましたり、隠したりすることができるから。けれど、自分の目に恥じないようになることは難しい。自分の目は、ごまかすことも、だますことも、隠すこともできない。自分の目にかかれば、言い訳すらもただむなしいだけ。 その目を大切にしたいと思う。 ■2010/08/07 土 日没後の西の空に惑星達が集まっている。明るい金星と、その上に2つの惑星が並んでいる。どちらかは火星、もう片方は土星だろうか。でも、こちらからだと街明かりで火星の赤さが良く判らないので、どちらがどちらか不明。日没直後なら金星の下に水星も見えている。ちょうど目の前に伸ばした両手で作った枠に収まる範囲の中。こういう現象は結構珍しいのではないだろうか。 しかもこの西の方角。5月の日没後の時間に金星と三日月が綺麗に並んでいた位置だから、多分次の三日月も同じ辺りを通るだろう。今は夜空に無い月は、新月に向けて徐々に細くなっている頃のはず。なら、来週辺りにはその両手で囲える範囲に、金星、火星、土星に三日月、あわよくば水星も加えた5星を捉えることができるかも知れない。 月齢カレンダーを見ると、新月が10日。13日が三日月だから狙いは13日を中心に前後1日。時間は日没直後、方角は西の空。三日月の方角。これはなかなか面白いかも。しかもその勢いで夜更けも星空を見上げれば流星群だ。 今日は八月七夕。月齢カレンダーを見たついでに、じゃあ今年の旧暦七夕はいつだろう…と見ると、今月の16日になりそう。月の形は半月の少し前の上弦の月。旧暦だと七夕の月の形は毎年変わりなくこの形の月。この月を天の川を渡す舟に見立て、七夕の伝説は生まれたものらしい。その舟に乗って天の川を渡り、織姫と牽牛(以下「彦星」)は年に一度だけ出会う…というのが七夕伝説の原作の内容のよう。 じゃあ、どちらが舟に乗ってどちらに会いにゆくのだろう。七夕伝説の由来は古代中国。当時の人はそんなに夜更かししていないだろうから、当時の人が夜空を見上げたのはせいぜい遅くても夜の8時とすると、7日のその時刻の月は天の川を外れて織姫星からちょっと離れた織姫側の岸の上にある。 じゃあ織姫が舟に乗って、沈む月の移動と共に天の川を渡って…となるかというとそうでもない。8時、9時と時間が進むにつれて、月はどんどん天の川と逆方向…つまり地平に向かって沈んでゆく。そして夜10時頃にはもう沈んでしまう。織姫ごと沈没。これでは七夕伝説は産まれない。織姫が月の舟に乗って彦星側に渡るためには、月は東から昇って西に沈む、というその進行方向と逆方向…つまり、西から東に向かって進まなければならないのだ。 そんなことは不可能…ではない。月は反対方向にも動くのだ。なので、織姫が月の舟に乗って天の川を渡って彦星に会いに行く事は可能。伝説というのは本当に奥深いと思う。 逆方向に…というのは、月の動きをその日限りではなく、何日にも渡って追っているとわかる。旧暦七夕の8月16日、夜8時。月は天の川の織姫星側の岸辺にいる。そこで織姫は月の舟に乗り込む。そして翌日、翌々日と同じ時間の夜8時に夜空を見上げると、月の舟は徐々に彦星側に移動してゆき、まぁ3日もあれば天の川を渡った対岸の位置まで移動しているだろう。つまり旧暦7月7日というのは織姫が彦星に会うために舟に乗った日、であり、そこから数日かけて天の川を渡り、実際に二人が出会うことができるのはその3日後、旧暦7月10日かそのくらい、ということになる。 …それでいいのか七夕? まぁ、いいんだと思う。七夕を二人が出会う旧暦7月10日頃にしてしまうと、かなり満ちて夜の8時頃でも高い所にある月は天の川を消し去ってしまうので、じゃあ歩いて渡ればいいじゃん…になる。でも、月明かりの元では織姫星も彦星も薄れてしまうので、その元気も無さそうなさそうな感じ。いゃまぁ、月が天の川もろとも織姫も彦星も消し去ってしまって、その月明かりに隠された中で二人が…というのなら色気があっていいけど。 結局は、二つの星と月の舟と天の川、役者が全て綺麗に揃い、なおかつ「七」が二つ並んで語呂もいい。多分、長い歴史の中で色々と形や由来を変えながら、そんな理由とその他の諸々の理由でその日に落ち着いたんだろうと思う。 まぁ、今の日本人の大多数にとってはそんな由来どうでもいいか。月に関係なく天の川も見えないし、何より月に関係なく梅雨時期に七夕終わっちゃってるし。 北海道で月遅れの七夕に馴染んでいたので、やはり梅雨時期にやる七夕は理解できない。けれど8月7日というのも季節感が本来の七夕に近い、というだけで、月の形からすれば本来の七夕とは異なる。じゃあ、ここは頑なに「旧暦七夕こそが本来の七夕だ!」と訴えたいかというとそうでもない。 自分は梅雨時期の七夕も、月遅れの七夕も旧暦七夕も尊重する。 どの七夕も、短冊に願いを託す誰かにとっては大切な七夕なのだ。 (本音:年に三度も願い事のチャンスがあるなんてラッキーじゃね?) ■2010/08/08 日 せっかく梅雨が明けて夏を迎えても何だかあまり何かをする気にならない。田舎ならいいのだけど、こういう都会ではひとりで一体何をしたらいいのかわからない。海無し県なので気軽に海へも行けない。行っても今はひとだらけ。お気に入りの海もこの辺りにはない。星を見るには明るすぎる。公園は夜しまってしまう。どこへ行っても人工的なものと沢山の人々から逃れられない中で、ひとりで過ごす方法を自分は知らないのだ。誰か教えてほしい。 とりあえず駐車場から自宅の前に車を持ってきて、最近夜に走っていてギラつきが気になった車の窓を綺麗にする。暇なのでボディーも拭く。そうして車を駐車場に戻して部屋に戻ってからしばらく。呼び鈴が鳴る。出ると、何時だったか…あ、日記見たら6月か。相当前に来た宗教の二人。 開いた聖書には付箋がしてあって、前回お話した時に「神とはなんなのか…」という話をしましたよね。と切り出される。いやもう忘れたなぁ…と思っていたが、話しているうちに何となく思い出す。前回、まさかそういうこと訊かれるとは思ってなかったので上手く答えられなかったんですが、その後ちゃんと調べました! と、会わなかったけれど毎週日曜日に来てくれていたらしい。 神は創造者であり全宇宙の全能者、父であり…云々、という説明を受ける。じゃ、聖書って神を「人間的な」書き方しているけれど、あなた方思うところの神、ってのは「人格」なんですかね? 訊いてみる。人格とはちょっと違って…そうですね。偉大なる「霊」のようなものだと思っていただければ。っても、解り難いですよね。 そんなことはない。で、それは人の形を取るのかな? え、いえ、それはありえないです。それは霊であり意思ですから。聖書には「神はこのように言った」ように書かれていますけれど、それも実際には神が「言葉」で人に語ったものではなくて、何と言うか…。 つまり、何らかの言葉によらない意思…情報としてその人に送った。そして送られた人が自分の頭でその情報を言葉に変換して、それを「神の言葉」として書いたものだ、と。 え、ええ。すごいですねぇ。神が言葉を人々に伝える必要がある時は、そのような使命を帯びた人物の口を通じて伝えるワケで。例えばイエス…。 了解。でさ、神は自らの意思を伝えるためにイエスを地上に送り、そこからキリスト教が生まれた。じゃあ、同じ神の意思でブッダなり**なりがイスラエルとは別の所に送られて、そこからその人たちが、その地域の特性やその地域の文化に合わせた、その土地の人々が受け入れやすい形で神の意思を伝えて、それが仏教やら**教やらとして伝わっていった…つまり、元はひとつなのだ、という考え方は? それは、ありえないですね。ありえるとしたら、イエスの教えが世界に広まるうちに曲解され、それが誤った形でその地でそうした宗教として根付いた…と言えるでしょうか…。 なるほど。そこは譲れない点なんですねー。 というような話をする。 で、そうやって戸別訪問して歩いて、実際に話聞いてくれる人っているの? いや、なかなかいないですねぇ。 でしょうねぇ。大抵の人、神って言ってくる人いたら引いてしまうから。 あはは…。あ、ひとついいですか。あなたは…神ってどういうものだと理解しているんですか? そうねぇ。否定はしていない。何というか…そう。「水」だね。あ、あなたがたの考え方に、人…つまりあなたもわたしも、実は「神」の一部を宿した存在なんです、という概念はあるのかな? …いや、それはないですねぇ。ありえないです。 俺はねぇ。水は人の体の中にもあるし、雨にも川にもなるし、空気中にもあるでしょ。そして役割を果たすと海に帰ってゆくでしょ。そんな感じで。で、人が神と捉えているのはその海の部分だけど、でも実際はそれらも全て水。だから、実際にはこの世のあらゆるところに、様々に在りようを変えて、神はあるんじゃないかな、と。そんな感じかね。形にはこだわらないやね。 二人は顔を見合わせている。 ああ、解り難かったら、水を「意思」、「意識」、「魂やら霊」に置き変えてもいいよ。そうしたら意外と、お互いに似たようなもののこと言ってるんじゃね? ああ、もちろんあなた方にそう言って失礼でなければ。 いいええ、そんなことは… あぁ、何と言ったらいいか。こうして話を聞いてくれた人も始めてだし、そのような考え方を持っている人に会ったのも始めてだし…。よろしければまた伺ってお話させて頂いてもよろしいでしょか。日曜日の、大体この時間で…。 あーいいよ。捕まったらね。あ、でさ。あなたがたエバンゲリオン観たことある?あの、今やってるのじゃなくて、前の劇場版。あなたがたならあの内容の深いところ解りそうな気がするんだけど。 え、ええっ。ああ、あれ結構内容深いらしいですよねー。使徒とかが出てくるんですよね。うちらでも話題になってました。で、私もですね。まだ観ていないんですけど、今やっている劇場版の…序、でしたっけ? あれ録ってあるんですよ。やっぱり面白いんですか? いやー俺には難しくて。でも…この本(聖書)読み込んでるなら、結構深いところまで楽しめそうな感じでしたよ。じゃ、あまり時間取らせても何なんで、この辺で。こうして聖書説いて歩くのも大変ですけど、頑張って。観たら是非解説を。 あ、はい! ありがとうございました! ちなみに、しゃべっていたのはずっと男の人の方。最初よりもずいぶん「固さ」が取れた感じ。で、女の人は後ろで、ほとんどこちらのやり取りを聞いて相槌を打っているだけで、時折、驚いたりウフフと笑ったりしていた。 あの人たちは絶対に自分を勧誘したりはしないなぁ、と。ふとそう思う。 ■2010/08/09 月 おにさんひとりきめたらね おにさんだけでかくれにゆくの そしておにさんかくれるあいだ みんなで数をかぞえるの そうして数を数え終えたら みんなでおにさんさがしにゆくの だれかがおにさんみつけたら みーつけた、なんていわないで おにさんといっしょになって そこにこっそりかくれるの つぎにだれかがみつけたら そのひともいっしょにかくれてね つぎからつぎへとおにさんと おんなじところにかくれてゆくの そうしてさいごのひとりのこして みんなでいっしょにかくれているの けれどもね さいごのひとりがのこるころには 缶詰のイワシみたいにぎゅうぎゅうに みんなつまってあふれちゃうから けっきょくさいごはすぐみつかるの そしたらさいごのそのひとが つぎのあそびのおにさんになって おにさんひとりでかくれにいって ひとりかくれるおにさんを みんなみんなでさがしにゆくの (Sardinesという、外国のあそび) ■2010/08/10 火 朝の通勤路。夜間に車に撥ねられたのだろうか。コウモリが死んでいた。丸くなって死んでいたので、最初は何が死んでいるのか判らなかった。そういえば昔の職場で、ある人が停めていた車のフロントグリルの中央に、まるで標本のように羽を綺麗に拡げた状態で貼りついていたコウモリの死体を見たことがある。それ以来、その人の車が「バットカー」と呼ばれるようになったのは言うまでもない。 職場では建物の外の非常階段を兼ねる階段の踊り場が喫煙スペースになっている。そこでもう一人と息抜きしていたら、目の前の昇ってゆく階段の途中に蝉が転がっているのを見つけた。これがこのミーンミーンって暑苦しく鳴く蝉(北海道にはいないやつ)ですかね、と、階段を数段上がって見入っていると、もう一人が「意外とそうして転がっていて、突ついたら生きてることあるんだよね」と。どれ、と突ついてみる。あれ、足が動いた? さらに突つく。ジジジッ! バタバタバタ…。うわぁびっくりした。言った通りだわ!と。 蝉はどうやら死にかけだった…という訳でもなさそうで、かなり高く遠い所まで一気に飛び去ってゆく。少し呆れながら、踊り場の手すりにもたれて飛んでゆく姿を見送る。 あーあんな所まで行っちまった。何だ全然元気じゃねぇか。 あれは何? 死んだフリですかね? 暑くて伸びてたんじゃないの? にしてもやる気無さすぎだなぁ、蝉。 蝉はすぐに見えなくなった。 「ただでさえ短い命なんだからさぁ」見送るのを止めて煙草の火を消す。 もっと精一杯生きたらいいのにねぇ ■2010/08/11 水 やっと会えましたね。まさか、その時がこんなに突然訪れるとは思いもしませんでした。 ただ。あなたは私に出会わない方が幸せだったのだと思います。私も少しだけ、今夜の出会いの後、そう感じて反省しています。 それは恐らく、まず、今夜の出会いがあまりにも突然すぎて、私の方に心の準備ができていなかったこと。そして、会えずにいた期間があまりにも長すぎたため、私のあなたに対する思いこみが強くなりすぎていたこと。そんなことが原因だったのでしょう。 それに私は、今夜実際に拝見したあなたそのものよりも、想像の中であなたをずっと過大にとらえていた、思い込んでいた。そんな気がするのです。 出会いの後の結果も、あのような形になってしまって残念です。あなたが望むのなら別ですが、私の方は、もう今夜限りの出会いで構いません。再び出会っても恐らくはまた、今夜のような不幸な結果に終わるでしょうから。 あなたには、何の罪も落ち度もありません。けれど、やはり私達はもう会わないほうが良いのだと思います。私は、今夜、一度限りでもあなたに出会えたこと、光栄に思っています。そして、それだけで満足していますから。これからはお互いの幸せのために、お互いをそっとしておきましょう。可能なら、お互いの生活領域が被らないように、この先、生きてゆきましょう。 ただ。後に誰かが私に、この夏の想い出は、と訊いたなら、わたしは今日この日の出会いのことを真っ先に上げるかも知れません。8月11日。あなたとのファースト・コンタクトが起こったこの日の夜のこと。それほど (以上、プロローグ) 帰宅後しばらくして、そういえば玄関ドアの郵便受けに何かささっていたような気がしたので、玄関へ行って明かりをつける。胸ほどの高さの靴箱の上、置いてある家庭用消火器の脇を何かが動く。結構大きな虫。手を伸ばす。ブブッ。あっ飛びやがった。目の前にきたところで右手でパッと空中キャッチし、そのまま手を頭の上まで振りかざして、玄関の靴が並ぶタイル張りの床にパシッ!と叩き付ける。安心しろ。命までは取らない…つもりだ。ああ、でもちょっと勢い強すぎたかも。 で、玄関にしゃがんで、裏返って伸びている虫を観察する。捕まえた時の柔らかい感覚とは裏腹に、黒に近い茶褐色をした甲虫の類だった。体長は3センチほどで、ホタルを大きくしたような感じ。叩きつけた時に一本取れてしまったようだが、長い髪の毛のような触角。これは…。 ゴキブリではないですか!? 北海道を出てはや6年目。噂には聞いていたが、これまで一度も姿を見ることはなく、むしろ避けられているのでは、とすら思っていたゴキブリ。高校の修学旅行、京都のホテルに泊まっていた時、違う部屋でゴキブリが出た! と聞くや否や、皆で部屋を飛び出して見に行ったのに空振りした記憶が蘇る。そんなゴキブリとの出会いが、まさかこんな突然に訪れるとは。 で、感想はというと。これまで写真などで見る限り、メスのクワガタに触角つけたみたいでちょっとカッコいいイメージだったし、これまであらゆる人から聞いてきた噂。つまり 『いくら叩いても死なない、殺虫剤かけても死なない!』 『あいつは噛む、絶対噛む!』 『洗剤かけたら瞬殺と聞いて試したら、なかなかかけられなくて部屋が洗剤だらけに!』 『あいつは刺す、絶対刺す!』 『叩こうとしたら飛んで逆に襲われた!』 『そうそう、必ず人に向かって飛んでくる!』 『1匹倒したら30匹に復讐された!』 『しかも寝込みを襲われた!』 『ヤツが部屋にいたので思わずエアガン発砲したらガラスを割った!』 『ヤツが1匹でも部屋にいたら、私は黙ってヤツに部屋を明け渡す!』 …というようなゴキブリ最強伝説が無数にあったので、自分の中ではものすごく凶悪な虫、というイメージが完全に定着しており、これまで様々な虫と対決してきたかつての虫捕り少年としてはそれを聞く度に血がうずいていたのだ。 で、実際に出会ってみてどうでしたか? 何か話と違った。がっかりだ。もっと硬い虫かと思っていたのに。がっかりだ。 咄嗟にゴキブリと気づかなかったとはいえ、出会って5秒で沈むとは。がっかりだ。がっかりだ。 とはいえ珍しいものは珍しいので、思わず写真にとって携帯で実家に送った。ら、姉から「んな写真など送らんでいいわ!」と怒られたので、ここにも記念写真載せようかと思ったけれど止めておく。 …と、ゴキブリは。そこはさすがに死にはしなかったようで、少し息を吹き返し、裏返ったままモゾモゾと回転を始めたので、玄関のドアを開けてホウキで掃いてリリースする。 あれがまぁ実際に部屋の中にあと30匹もいたらさすがにヤだが、噛まれも刺されもしなかったし悪臭を放つわけでもなさそうなので、2〜3匹程度なら問題あるまい。でも、こちらはある意味もう満足したので、引き続きゴキブリにはひっそりと自分を避けて生活してもらいたいなぁ、と思う。 願わくば無事に巣(?)に帰り着いた後、皆に伝えられたい。 あの家に行ったら酷い目にあうぞ、と。 ■2010/08/13 金 日に日に乗客が数を減らしてゆく、今週の通勤電車。 仕事は懸念していた状況が動き始めた。今週でひとまず前哨戦終了。土日の間の結果待ち。けれど、確実に来週は本番が始まるだろう。この組織の特徴、というか。できるかできないか、と判断を仰がれた時に、できない、と言うことはない。できることをやるな、と言われることはままあっても、できるかできないか、の判断をこちらに委ねられた場合、できない、と言うことはないのだ。 −今週と来週、休暇取得者を前段と後段でシフトさせてたのが良かったな −ですねー。休暇の人呼び出さなくても済みましたしね −どこも休みで通常の業務が無いのも良かったな。でもまだ序盤の序盤だしな −ええ、普段より楽でしたね。まぁまだ前哨戦だからこんなもんでしょう −来週はそうはいかんな。後段休暇予定者、つまり今出て来てるワシらが残念な訳だな −まぁ来週も通常の業務はそんなに無いだろうし。全員は出なくてもいいですがね −で、どうする来週? −休暇出して出てくるのも何なんで、もう全部取り消しますよ。上等っす −影響は? 飛行機予約取ったりしてた? −今回はさすがに怖くて取れなかったすね −はぁ、独身者は身軽でいいなぁ… −まぁその辺わたしゃ気軽に決められますがね… −あーオレは帰ったら家族会議だ…明日から田舎へ走る予定だったのに! −まぁ何とかしますから。家庭優先してくださいな。崩壊しないように −はあぁ。本当に今回は時期が悪いなぁ。悪すぎだなぁ… −お盆のド真ん中で…と。あっ! −何? −今日って、13日の金曜日だぁ −・・・・ −あ、しかも仏滅だったぁ −・・・・。 というわけで、今年は夏休み無くなりました。 やれやれ。このまま夏が明ける…か。今夜は星も見えねェなぁ。 ■2010/08/15 日 それも大切なことだが、戦争で失われた命から命の大切さを知る、伝える、教える、ということに偏りすぎない方がいいように思う。失われたものによって、今あるものの大切さを伝える。それは判りやすい。と同時に、それに偏りすぎると、その大切さを伝えるためには、失われたもの、も必要になってしまう。意識するとしないとに関わらず、そうなってしまう。それを必要としてしまう。 否定するつもりではない。ただ、戦争をベースにしてそれを伝える、という方法は、なぜ命が大切なのか、と伝えるための基盤…が、安易なものに感じてしまうのだ。失ってから大切だったことに気づくことなら、誰にでもできる。 なぜ命が大切なのか。粗末に命が失われていった歴史があるから、それを繰り返さないために、命の大切さを伝える、のではない。今生きている命から、命の大切さを伝えられないものだろうか。もっともっと、命そのものの価値から、命の大切さを伝えられないものだろうか。 失う前に、判っておかなくてはならないもの。 そんなことをふと思う。上手く言えない。難しいね。 ■2010/08/29 日 かなり本気で仕事をしていた今月後半。順調に「行って」いるのかどうかはともかく、とにかく「出てゆく」ものは出ていったので、一応先日でひと段落といえばひと段落。すごく久しぶりの休日。 ずっと歯医者に行けなかったので、自転車で歯医者に行き、その後自転車屋へ行く。この自転車だが、後輪のタイヤがもうクタクタで、空気をパンパンに入れても2時間持たない。まぁ2時間あれば大体の用件は片付くのでそのまま乗っていたが、もうさすがに…だったので駅裏の自転車屋へ。 タイヤが…というわけで、幾らですかね。どれどれ…と店の人がまず、タイヤのバルブを抜いて虫ゴムをチェック。 ああ、虫ゴムは換えたっす。 ん、そうみたいねぇ。タイヤだねぇ。もうあっちこっちヒビ入っているからねぇ。交換に30分くらいかかるけど大丈夫? まぁ自分で換えるからモノだけあればいいですよ。 ああ、工賃はサービスするから。時間さえあれば。 んーそうですね。古いタイヤ捨てるのも面倒だし、じゃあお願いしまっす! と、後ろタイヤだけ新しくしてもらってから、やっと長時間乗れるようになったので、その足で最寄の図書館へ。コミュニティーセンターと併設されているこの図書館も、訪れるのはこの街にきたばかりの頃、辺りを探検していて見つけた時以来。図書館自体久しぶりなので、何だかんだで3時間以上そこで過ごし、閉館1時間前に図書館を出る。 図書館を出た後、ふらっと近くの大きな川の広い広い河川敷へ足を伸ばす。堤防を越えてもしばらく田んぼが続き、その先に更に芝生の運動公園があって、川は更にその向こう、になる。あちこちの田んぼが稲刈りの途中だった。あまり一区画の広くない田んぼの中を器用に折り返してゆくコンバインの脇を通り過ぎる時、ふっと藁の匂いがした。 で、そのまま走って芝生の運動公園に向かう。途中、畦の脇の用水路に手網を入れている2人組を発見。何ですか、と訊くと「ザリガニですよ」と笑う。用水路を見ると、もう稲刈り時期なので田んぼからは水が抜かれているので、相当前から用水路の水も止められていたよう。用水路の水も干上がり、底の泥が乾いてひび割れてる状態で、あちこちに干からびたザリガニ。で、用水路の所々、まだ僅かに水が残っている所にその辺りで暮らしていたザリガニが皆集まっていて、もうお祭り状態。彼らはそれを獲っていたのだ。 獲っていたのは子供ではなく、20〜30代くらいの男性二人。バケツにはわしゃわしゃと満杯のザリガニ。そんなにザリガニどうするのだろう…と思いつつ、その場所を離れる。 川だけ見て引き返すつもりで、田んぼと川の間に広がる運動公園を横断する細道を走り、川が見える位置につく。法面を降りて川縁まで行く。暑気にむわっと、藻の乾いた匂い。川はただ濁って滔々と流れているだけで、特になにもない。少しだけ居て、すぐ引き返す。途中でルアーを1個拾う。法面を上がってゆくと釣り竿を持った親子連れがいたので、子供にルアーをあげる。 そして先を行こうとしたら、さきほどザリガニを獲っていた二人が、あのバケツを持ったまま、少し離れたところから法面を川に向かって降りてゆく。どうするのだろう、と見ていると、二人は川の縁にしゃがみ込み、バケツいっぱいのザリガニを川に放した。 ああ、ひょっとして。彼らは干からびてゆく用水路からザリガニを救出していたんだ。 そう思い至ってちょっと嬉しくなる。子供の頃、遊び場の山の中に道路が通ることになって工事が始まった時、そこを流れる小川に工事用の水を取るため(と思われる)小さなダムが築かれた。川底に木の杭を打ち込み、杭の間に渡した金網を押えとして土嚢を積み上げたものだ。すると小川の流路が変わってしまい、その小川から水が流れ込んでいたカエルやらサンショウウオやら水カマキリやらが棲む湿地帯に水が行かなくなり、やがて乾き始めた。 しばらくすると、湿地の生き物達は先ほどの用水路のザリガニ状態。で、自分を含むその辺りが遊び場の近所の子供たちは、共同でそのダムを決壊させた。周囲を監視させながら、土嚢が詰まれたダムの上に上がって、足元の土嚢をひとつひとつ、下流に投げ込む。そうしてダムを決壊させる。しかし、数日後に訪れると、ダムはまた復旧している。そうしてお互いに相手の顔を見ることの無い攻防は一度だけではなく、3度か4度か、何度も続いた気がする。 けれど、工事の人に見つかったりすることも無かったのだけど、不思議と結果がどうなったのかはおぼえていない。スプレーの塗料であちこちに書きつけたメッセージを工事の人たちが受け取ってくれたのかも知れないし、元々許可を得て川を堰き止めたわけでもなく、工事の人も不用なトラブルを避け本格的な犯人捜しをしなかったのかも知れないし、そのまま冬に入ってうやむやになったのかも知れない。とにかくその時、湿地は残った。でも、結局はそうやって子供たちが救おうと頑張った湿地も、後にいつの間にやら埋め立てられて宅地に変わってしまったのだけど。 そんなことがあったなぁ…と、ふと思い出す。 まぁ、本来、水の浅い所に棲むザリガニをこんな本格的な川に放すのはザリガニ的にはどうなんだろう、とちょっと思ったが、気持ちは気持ち。大事なのは何をしたか、より、何を思ってそれをしたか、なのだ。彼らはひょっとしたら、子供の頃の自分の仲間なのかも知れない。 高い法面の上から川を振り返る。金に色づいた太陽が川の向こう、自分の正面にある。自分の顔の高さくらいまで傾いた太陽が、川面にキラキラと金色の橋を渡している。自転車漕いで、さぁ帰ろう。 |