Diary 平成二十二年 神無月 ■2010/10/10 日 相手を異常とみることは、自分を正常だと捉たがっているということだね。逆もある。正常な人にはわからない、なんてことを言ってしまうこともあるね。そんな時は、自分を異常にしたがっている。どちらも同じことだよ。 人に違いなんてない、という人だって「正常な人なんてこの世にいない」、「人間みんな何かしら異常」なんて言い方をしていることもあるね。それも、相手や自分を、異常と正常。そのどちらか一方に決めたがっているんだよ。区分があることを前提にして、ね。 周りには見えないものが見え、周りには聞こえないものが聞こえても、それは本人にとっては現実なんだよ。その人にしか見えないものもあろう。その人にしか聞こえないものもあろう。そうとらえることだよ。人が100人いれば、100とおりの精神があり、100通りの現実がある。例えその100人が、ひとつの同じものを見ていたとしても、100通りの捉え方があるね。 その100人の捉え方、100通りの現実のどこか間に「正常」「異常」のラインを引くことはできないよ。そもそも、正常や異常なんていう区分があるわけではない。それは、幅なんだ。人の精神活動の幅とは広いものだよ。見えているより。思っているより、ね。 だから、相手を異常と決め付けることはやめなさい。 相手を正常と決め付けることもやめなさい。 そして、自分を正常と決め付けることはやめなさい。 自分を異常と決め付けることもやめなさい。 皆が等しく正常だ、何て言う人はあまりいないけれど。 人間みんな異常だ、何て決め付けることもやめなさい。 それは、自分にとっても相手にとっても不遜なこと。 そして何よりも無意味なことだから。 人の精神活動に、正常や異常というものは存在しない。ただ、幅があるだけで。 あなたもわたしもあのひともこのひとも、皆その幅に繋がっているだけなんだからね。 ■2010/10/11 月 夏場のバタバタを考えると3連休を3連休として休めるのも奇跡的なことなのだけど、そんな生活が続いていたせいか、3日休みがあっても何をしていいのかよくわからなくなっていた3連休。することなければ、ドライブでも行ったら? になるのだけど、それはつい最近四千何百キロ走ったばかりなので勘弁してほしい。 ふらっと池袋まで出る。人だらけ。どこか、静かなところでもないかな。そう思って、ふと思いだす。2002年、人生最初の飛行機で東京に来た時、浅草辺り立ち寄ったついでに友人に勧められた「現代美術館」というところに行ってみた。でも、現地まで行ってみたらその日は休みだった。美術館かぁ。行ってみようかな。でも一応、と思って携帯で調べてみる。「休館日:月曜日」。だめじゃん。あ、でも。「月曜日が休日の場合は、翌日休館」と。よし、じゃあ今日は大丈夫だ! 池袋から地下鉄を木場まで。そこから1キロほど歩くのだけど、途中、美術館と隣接する大きな公園が現れるので、殆どその中を歩いてゆく。途中、大きな歩道橋で車道を渡る。空は快晴。ふと、シャボン玉が飛んでいるのを見つける。飛ばしていたのは結構いい年の男二人。橋の向こう、歩いてゆく先の少し遠くに、建設中の東京スカイツリーが見える。へーこんな所にあるのかぁ、と思いながら、スカイツリーに向かう方角で、美術館へと歩いてゆく。 そして、あ、なんか見憶えがあるなぁ、という建物まで。ここだここだ。で、入り口はどっちかな…と思って建物に近づいてゆく。少し違和感。大きな窓という窓に、全てカーテンだかブラインドだかが降ろされている。微妙な予感。そして、美術館敷地への入り口に、立ち入り禁止表示と共に「本日は休館日です」の案内。 取り合えず建物正面へ。掲示の看板を見ると「10月4日から10月28日まで休館です」。 現代美術館、9年越し2連敗の瞬間。 さて、これからどうしよう。 ふと目に入るスカイツリー。あそこまで行ってみようか、と思ったけど、建物が見たこと無い規模なので、近いのか遠いのか、その距離感が判らない。でも、取り合えず行って見るか、とそちらへ向かって歩いてゆく。現在480m近い高さらしいが、やはり目の前のマンションやら店舗やらの建物の方が(見た目)大きいので、時々その姿が見えなくなる。けれど道はまっすぐなので迷いようもない。スカイツリーは段々と大きくなってくる。こりゃ近づき過ぎると写真に入り切らんな、と思って、途中で写真を撮る。 ふと思う。こんなドでかい建物ができているのに、意外とこの建物、風景として溶け込んでるなぁ…と。そんな感じがするのは、きっとこの建物がまだ建設中だからなのかも知れない。街の人もそれがどんどんと伸びてゆくのを楽しみに見守っているような感じで。 こうして、現在進行形で次第に創り上げられてゆく。その過程は、街の風景や街の人々に受け入れられる過程、でもあるのかも知れない。自分はどちらかというと、新しくできたものより、それまであったものが無くなる方に違和感を感じる気がする。できてゆくのはいつもゆっくりだけど、無くなること。それはいつも突然のことだから。 でも、しばらく東京を離れていた人が、帰ってきたらいきなりこんなモノが建っていた、となると、やっぱり違和感を感じるんだろうな、と思う。それもきっと、出来てゆく過程を知らないから。スカイツリーはいずれ東京のシンボルになる建物。それがまさに建設中の今、いい時期にこちらに来られたなぁ、と思う。 そうして歩いて、今まさに建設工事中のスカイツリーの根元まで行く。ここまで来ると、先ほど感じたこととは裏腹に、もうスカイツリー見物の人だらけ。見物客をあてこんだ面白い土産物でもないかな、と思ったけれど、特に無かった。間近からはやっぱり大きすぎて、写真には入り切らなかった。 撤収。美術館から3キロ以上くらい歩いたけれど、暑くもなく。歩くにはいい季節になってきた。 さぁ今度はいつ行こう。現代美術館。 ■2010/10/16 土 街路樹のある舗道を歩いていて、ふと、空が開けていることに気付く。こちらでは、プラタナスの類の大きな葉を茂らせる街路樹は、その大量の葉を落とす前にばっさりと剪定されてしまうらしい。そうすることによって、連日落ち葉を清掃する手間も省けるし、落ち葉に対する苦情もなくなるし、街路樹そのものも、街路樹として適当なサイズに維持される。まぁそういう理由なのだろうな、と思う。 昨年もそうだったから、毎年のことなのだろう。この木はこの時期になると葉っぱ一枚残さずに枝を刈られる。すずかけの木。あのクリスマスツリーの飾りのような実も、昨秋、実っているところを見たことはない。この木はこの姿のままで冬を越し、春になると新しい枝を一勢に伸ばして、大きな葉をまた大量に茂らせ、実りの準備をしたところで、また枝葉を刈られる。その繰り返し。 よく嫌にならないで生きているなぁ、と思う。 その一本の木の前でふと呟く。嫌にならんかい。すずかけの木が答える。切られるのは嫌だね。でも嫌がってばかりはいられないよ。早く切り口を塞がなければならないからね。 −冬がくる前に、かい? 『いや、季節は関係ない。切られた瞬間から全力で癒しをはじめているよ。冬には冬にするべきことがある。春のためにね』 −春が来てまた枝葉を広げて。でもまた秋には同じように刈られるよ。それでも、そうするのかい。 『未来のことはよくわからないよ。未来の自分のことを考えられるのは、むしろあなた方の特権だ。私にわかる未来のことは、この後に冬がきて、その後には春がきて。そういう確実なことだけだよ』 −また切られるかどうかはわからない。だから、変わらず枝葉を伸ばす、ということかい。 『少し違うね。あなたたちの言う未来、は、私たちにとっては存在すらしていない。私たちにあるのは、今だけなんだよ。今というこの時だけなんだ。だから私たちは、常に今、この時にするべきことをする。今この時にするべきことに、全力を注ぐ。私たちが従うのは不変の季節であり、決して可変の未来ではないよ。どうせ切られるから、と手を抜くことはない。私たちは決して、今この時、に、手を抜くことはないんだよ』 −なぁ、ひとつ訊いていいかい。 『いいよ、何だい』 −人があなたをここに植え、街に合わせてあなたを刈り込む。人は自分の理由であなたをここに植えた。あなたにとって、あなたがここに立つ意味は何なんだろう。人がここにあなたを植えた意味が、あなたにとってもあなたがここに立つ意味なのか。それとも、それとは関係なく、あなたにとってはあなたにとっての、ここに立つ意味があってここに立っているのか。どうなんだろう。 『答えは、そのどちらでもある、と言えるね。いや、そもそも私たちがこの世界に存在する理由と同じ理由で、あなた方もここに私を植えたはずだよ。私たちがこの世界に存在する理由は、明白だ。それは… 大地と空との間に立ち、その両者を調和させること。 無機と有機の間に立ち、その両者を調和させること。 あるものとあるものの間に立ち、それらを調和させるために、私たちは存在する。調和の目的なくして、私たちはその場所に立ち得ない。だから、私たちが「そこ」に立っている、ということ自体、私たちにとっての私たちが存在する理由と合致していることなんだよ。立っている場所や、誰が植えたか、ということとは無関係に、ね』 −じゃあ、ここに今、あなたが立っている、ということは。 『そうだよ。そういうことだ。私たちの存在は、常に自身が存在する意味、存在する理由と結びつき、その結びつきに決して揺るぎはない。あなた方が私をここに植えたのも、調和のため。あなた方は、あなた方自身のみでは、この世界で生きてゆけないことを本質的に知っているのだろう。日ごろ意識する、しないに関わらず、ね。 だから、あなた方は自分達が創り上げた街のそこかしこに、私たちや他の様々な木や花を植えるのだろう。自然から切り離されてしまった人の営みと、自然との調和を取り戻すために。その行為の根底にある理由が私たち自身の存在する意味と合致しているからこそ、わたしはここに立っているし、立っていられるんだよ。そして何よりも私はここに立ち、この僅かな地面と空とを調和させている。そのことにも、変わりはない』 そうか。わかったよ。ありがとう。おしゃべりなすずかけの木さん。 今度、機会があったら桜にも訊いてみるよ。 ■2010/10/17 日 外で洗濯物を干し終わって、干したばかりのワイシャツ(一週間分)を隣に玄関先で煙草に火を点ける。夜はいつも擦り寄ってくる猫が、この時間はこちらには全くそ知らぬ顔で、目の前の路上を通り過ぎてゆく。薄曇の空。向かいの家の庭に植えられている大きな琵琶の木の方から、何かが飛んできた。速い。それは、自分の脇の物干し竿に掛かっているワイシャツの前で来て、そこでぴたりと空中に静止する。微かな羽音。スズメバチと同じか、ひと回り大きな虫。飛んでいるにも関わらず、あまりにもぴたりと静止しているので、じっくりとその姿を見ることができる。スズメガだ。 まるで白いワイシャツに映る自分の影を眺めているよう。ふっと洗濯物の柔軟剤の匂い。まさかこの匂いにつられて来たわけでもないだろう。と、そんなことを思っていたら、スズメガは現れた時のようにまたふっと飛び去ってゆく。あっという間にその姿が見えなくなる。 まるで妖精のような蛾、だった。 ■2010/10/21 木 電車で隣の車両との連結部分の辺りに立っていた。帰りが早かったので満員の車内。この位置にある座席は優先席。その先のドアの付近に妊婦さんが立っている。優先席にはスーツ姿のおじさん達。誰か気付くだろうか。席を譲るのだろうか、と見ていたけれど、駅で乗り降りがあった時も、空いたその座席に座るのは、やはりスーツのおじさん達。乗り降りがある時に「席空かないかなー」という感じて優先席の方を覗いている妊婦さんは少ししんどそう。 自分の隣に立っている女性は何か気付いていて、座っているおじさん達を時折じっと眺め回したりしている。おじさん達は、寝たふりまたは本を読んでいるので、気付いているのかどうかは判らない。 こういう状況で一番ベストなのは、優先席に座っているおじさん達が、優先席に座るにあたっては自分より優先すべき人がいないかどうか常に周囲を注意して、そういう人がいればそういう人に自ら席を譲ること、なのだろう。 まぁ、あくまでもそれが第一として。それが行われない場合、周りにいる人はどうするべきか。「おいお前ら妊婦さんに席譲れや!」と、優先席の人たちを見下ろして言い席を空けさせるのが正直、一番早い。でも、簡単ではない。他人から見て、その座っている人たちが本当に「優先席が必要ではないのかどうか」が、外見からは判断できないから。万が一にも、他人の勝手な判断で「優先席が必要で座っている人」を立たせるようなことがあってはならない。 そうではなく、仮に座っている人が別に優先席に座る必要の無い人であって、その人がそう言われて席を立ったとしても、それはその人にとって格好のいいことではないし、そうしてその席に座る妊婦さんにしても、気持ちのいいものではないだろう。難しい…と、そんな事を思いつつ、結局は自分も傍観者になってゆく。 自分が降りる駅に近づく。自分の隣の位置、3人掛けの優先席の真ん中に座っていた人が立って、ドアの方へと移動を始める。その正面にいた女性が身をかわし、自分は座らずに妊婦さんの方を見た。自分もそちらを見る。ドアの脇の妊婦さんは、ドアが開いた時の人の流れに流されないように…か、座席のドア側の端の鉄棒にキュッと身を寄せている。自分も降りるために動こうとする。と、こちらの向かいの優先席の前に立っていたおじさんが、こちらの席が空いたのを見つけ、ささっと自分の進行方向に割って入ってくる。 さすがに。「ちょっと待ち」とそのおじさんを制する。「あん?」という顔をしたおじさんに、そちら、と。掌で妊婦さんを指す。自分の隣にいた女性と目が合う。すぐに察してくれたその女性が、少し後ろに下がり妊婦さんが移動するスペースを確保する。そして「どうぞ」と。妊婦さんも気付いて頭を下げてこちらへ来る。 その時、妊婦さんのすぐ隣。優先席の一番ドア側の端に座っていたおじさんがその動きに気付いて、自分は先ほど空いた真ん中の席へ移動し、自分の座っていた妊婦さんに一番近い席を空けてくれる。すみません、と妊婦さんがそこに座る。下がって立っていた女性が元の位置に戻り、自分はその女性がいたスペースに移動、ドアへ向かう。そして、先ほど動きを制したおじさんに「ども」と一言。今は「しゃーねーか」という顔をしたおじさんが、口元だけで微かにニヤリと。こちらも軽く頭を下げてドアに向かう。 けれどそうして出遅れたので、電車から降りるのがこれまた大変だった。 お、降りまーす! …やれやれ、ドアまでがこんなに遠いとは。 ■2010/10/23 土 そういえば。いつだったか、「電車の中で席を譲るタイプかどうか」という事を訊かれたので「いや、全く無い」と言い切ったら、相手は「ふぅん、そうなんだ…」というような反応だった。ややしばらくしてふと気付く。ああそうか。「自分はまず座ることがない」ということから入るべき所を、すっかり忘れていた。…まぁいいか。 というようなことがあったことを、ふと思い出す。 ついそういう受け答えをしてしまうことと、その後で「まぁいいか」とすぐに割り切ってしまうのは、何と言うか。すっかり自分の癖になってしまっているような気がする。欠点かどうかは、それで他人が迷惑するわけでもないので良くわからない。 月がまん丸で綺麗だった。 憂秋、という言葉が、ふと浮かぶ。自分の中にはあるのだけど、前に辞書で調べても出てこなかった言葉。どこかで見かけたのか、自分の中で結びつけた言葉なのか、よく判らない。だから、意味もよく解らない。恐らくは字顔のとおり。何かしら憂鬱な秋…というよりは、何かしら心残りのある秋。心の中の季節、と言ってもいいし、人生のとある時期を表現する言葉、としてもいいかも知れない。人生には青春があり、憂秋がある、みたいな。 人生の季節、というには大げさかも知れないけれど、生きる上で、心の中にも季節、のようなものがあるのかも知れない。春、夏、秋、冬。四季のように順序正しく巡ってくるわけではないけれど、何か気分が、そういう季節のように上下する、そういうサイクルがある、というか。 何かしら希望に満ちている時が春。意欲に満ちている時が夏。その後で、何となく意欲が失せてしまった時が秋。心情的には厳しいのだけど、何もせず再生を待っているような時が、冬。 気分とはそういうものなのだ、そう変化してゆくものなのだ、と。そういう考え方がもっと一般的であってもいいのかも知れない。何事にも意欲がわかなくなってしまう、そんな気分の時。生きることにちょっと一休みしたい気分の時。これはおかしい。異常だから何とかしなきゃ。何かやることを見つけなくては、と焦ったりするのではなく。また、そういう人に対してことさら前向きに、と働きかけたりするのではなく。生きていたらそういう季節もあるさぁ。そういう時も必要なんだよ、というような。自分の心情の受け止め方や、他人の心情の受け入れ方。 いかなる時も気分はベストであらなきゃ。気分はベストが正常。という感じのこの社会。そこから外れることに、何となく後ろめたいような、表向きだけでも気分的には夏と春に見せていることが望ましい気がしてしまう。そんな社会だからこそ、心には春と夏があれば秋や冬もある。四季があって当然なのだ、という。そういう見方が普通になればいい。何故ならその方が生きやすい。生きるということの幅が広くなる。 憂秋、という言葉は、「憂秋 意味」で検索しても、使っているページはほんの数件。でもゼロでは無かった。よっぽどレアな実在の言葉なのか、それとも、自分と似た感覚でこの二つの言葉を結び付けて用いている誰かがいるのか。何か似たような言葉を誤用してしまっているだけなのか。その辺はよくわからない。とにかく。 憂秋の「憂」は、憂い。秋の心と書いて、愁い。 そんな、季節。 ■2010/10/24 日 「生きたくても生きられなかった人がいる(具体例)。だから、そんな人のためにも、自分の命を粗末にしてはならないのだ」 というような言い回しが、正直、自分には合わない。自分の経験から自分自身でそのことに気付くのならいいのだけど、人が人にそう語っているのを聞くのが苦手というか。 生きること。命。その「意味」は別にして、その「価値」は『〜だから、価値がある』のではない。それは、人によって異なるものではないし、他者と比較できるものでもない。生きているうちに変化してゆくものでもない。それはもっと本質的なもの。そして普遍的、不変的なものだと思う。 生きることの価値を熱心に、具体的に説こうとする人ほど、その人自身が見出している「生きることの価値」は、何と言うか不安定なもののような気がする。それを信じろ信じろと言われるほどに、その感じは次第に強くなってゆく。何となくそれが、その人自身が語っている「生きることの価値」への不安や「揺れ」の、裏返しのような気がして。 生きることにはまず、価値がある。 自分はそう思う。自分も他人も、誰もかも。その人がその人として産まれた、その瞬間から。生きることにはまず、価値があるのだと。 それは、自分達の生きる世界に、まず大地があり、空がある。そういう感覚に似ているのかも知れない。それは存在することが人にとってごくごく自然なことで、それがあることをわざわざ信じたり、疑ったりすることはない。それがあるのだ、ということを、いちいち熱心に語ったり人に伝えたりしようとすることもない。その必要もないほど、絶対的な信頼感を寄せられるもの。大地や空というのはそういうものだ。 生きることの価値。命の価値。それも、本来はそういうものなのだと思う。 生きていることの前提として、生きることにはまず、価値があり。その価値の上に、その命を生きるのが、人なのだと。 それは「信じる」という意識の表層にものぼってこないほど、自然に「ある」はずのもの。生きることの価値を見失うことは、人は大地の上で、空の下で生きているだということを、忘れてしまうに等しいことなのかも知れない。 あなたがあなたであるということ。わたしがわたしであるということ。そうして、生きてること。それだけで、生きることには価値がある。それだけわかっていれば、今の自分には充分なような気がする。 生きることにはまず、価値があるのだということ。 その土壌に、立ち続けたいと思う。 ■2010/10/26 火 『憂秋』を調べてみたら『憂愁』であることが判明した。物凄くおしい。 でも、憂いに愁い。もの哀しさに心まで沈んでいる状態。これは重い。調べついでに類語を見ると、少し意味を軽くすると、『暗愁』という言葉になるらしい。こちらは「そこはかとないもの哀しさ」という感じ。 憂や愁い。そういう状態は、誰にでもあるものだと思う。誰にもそういう時期がある。でも、意外とそれが、誰にでも共通にあるものだということが、あまり知られてはいないのかも知れない。憂いや愁いだけではなく、寂しさというのも、そういうものかも知れない。 誰にでも、そういう気分に陥ることはある。あるのだけれど、そういう状態の時。そういう状態なのは自分だけのような気がしてしまう。そして、そこから逃れようとする。逃れようとしても逃れようとしても、それらはついてくる。何かしら気晴らしになるようなことがあって、一時的に逃れたような気がしても、それらはより深みを増して結局ついてくる。そういう一時しのぎを、すればするほど。 自分だけがそうなのだ、と思いこまないことだ。誰もが浅かれ深かれ、そういう気分におちいることがある。かといって、皆が同じようにそれを感じている、というわけでもない。それはあくまでも、自分自身のもの。それぞれが、それぞれのやり方で、向き合うもの。 そうなるのはおかしいことではない。とにかく逃れようとするべきものでもない。そのような気分の自分に対してできること。それは、その気分と付き合うこと。誰にでも起こりえることが、今は自分自身に起こっているのだ。 そのような時に、自分の影しか見えなくなったら、その影をよく見つめてみること。 周りが何も見えなく、自分の影しか見えなくなってしまっても、影が見えているのなら大丈夫。どんなに暗くても、影が見えているのなら、いま自分を照らしている光が必ずある。 自分の影を見つめている時。影は自分の前方に伸びているだろう。影が自分の前にある。それは、今の自分が光に背を向けてしまっているから。 そう。眼前の影を追っている時、必ず背後には光がある。 振り向いて、光の方へ。 ■2010/10/30 土 心の回復は天気のように、今日雨だったけど明日晴れ。そんなふうに、一夜にして変化が訪れることはない。夜明けのように、時間が過ぎるに従い確実に明けてゆく。そういうものでもない。夜から夜明けへの移行は、決して後戻りしないものだから。 心はゆっくりと日数をかけて、明るさと暗さの間を行きつ戻りつしながら、ゆっくりと回復してゆく。そういうものだと思う。天気や夜明け、というよりは、季節の移り変わりのようなものかも知れない。 それはまるで、冬から春へ向かう季節。暖かくなったと思ったら寒さがぶり返し、そうかと思ったら、また寒気が緩む。そうやって、暖かさと寒さの間を行ったり来たりしながら。でも確実に、季節は春になってゆく。 やっと暖かくなったのに、翌日急に冷え込むこともある。そう簡単に春はやってこないと思い知る。けれど、春は必ず来る。季節なら、人はそのことを良く知っているから、そうした寒の戻りにも動じることはない。 反対に、しばらく続いた冷え込みが、ふっと和らぐこともある。暖気が続くと、さっさと冬物をしまって、春物に切り替えたくなる。それは良いことだ。でも、安心し切ってしまってはいけない。桜のつぼみに雪が積もることだって、あるのだから。 心はそうした波を幾重にも重ねながら、時間をかけて回復してゆく。波の振幅は次第に狭くなってゆき、やがてその中心付近に収束する。完全に一点におさまることはない。春を迎えたと言っても、その気温が決して一定ではないように。それでもその揺れは春の枠内におさまり、決してそれを超えることはない。心の揺れも同じだ。揺れ幅が自分の意思を発揮できる枠内におさまる時が、必ず訪れる。 その境目は曖昧なものだから、大抵はそこを超えてから気付くものなのだろう。 ある日。すっかりコートがいらなくなっていたな、とふと気づく。そんな感じのものなのかも知れない。 |