Diary


平成二十二年 霜月


■2010/11/6 金
 繋がり、というと。まず思い浮かぶのは、自分と他者との繋がりや、自分と世界との繋がりのこと。そうした繋がりが確かであるほど。確かだと感じられるほど、生きる上での安心感、安定感のようなものが得られるのだと思う。
 でも、普段意識されることはない、それら他者や世界との繋がり以前にまず存在する、大切な繋がりがあるような気がする。

 それは、自分との繋がり。

 感覚的なものなので、言葉にするのは難しい。よく言われる表現では「自分を受け容れる」や「自分を愛する」というイメージに近い。でも、「自分を受け容れる」や「自分を愛する」は、そうしなさいと聞かされたり読んだりしても、一体どうすりゃいいのか正直わからない。他者に対してなら、できるかどうかは別にしてその意味は何となく理解できる。でも、自分に対して、どうやってそれを。
 けれど自分は、そうした言葉を「自分と繋がる」という感覚から見た時に、少しだけその言っていること…『そのことの意味を本当に解っていて言っている人が本当に伝えたいこと』が、ほんの少しだけ、解るような気がするのだ。

 繋がる、受け容れる、愛する。人はそういうことを「他者」に対して行うものだと思っている。信じる、祈る、感謝する。そういうこともそうだ。その対象はいつも自分以外のもの。
 けれど、それらは自分に対してもできるもの。いや、むしろ。自分に対してそうすることを、忘れてしまってはならないもの。

 じゃあ、どうやって自分に。これは「自分」を自身がどう捉えてるかによるのだろうけれど、自分の中に複数の自分をイメージするのが、わかりやすいのかも知れない。
 人生の岐路や迷いの中にいる時、その思考の中には色々な自分が無数にいる。明るいものや暗いもの、希望に満ちたものから、絶望しきったもの。そんな無数の自分の中から、どの自分を選び、どの自分と繋がってゆくのか。そんな感じのことなのだと思う。
 そしてその時。どんな自分と繋がってゆくのがいいのか。それは人により状況により様々だと思う。ただ、確実に言えることは「一番声の大きな自分に従う必要はないのだ」ということ。繋がる自分は自身で選ぶことができ、決して声高なのもの、強力なものに従う必要はない。そういうものに従うことは選択ではない。それは服従なのだ。

 無数の自分と対話し、繋がる自分を選択すること。
 選択の基準。それは「より良い自分に繋がる」こと。今の自分を受け容れてくれる自分。今の自分を愛してくれる自分。そういう自分と繋がってゆき、その繋がりを確かにすること。まず自分がそうすることで、他者にもそうすることができるようになってゆくのかも知れない。

 他者との繋がりの上で、自然に。そう。無理なく自然に。


■2010/11/6 土
 歯医者。根の治療が終わり、先週、前に外れた銀歯が再び入っていたので、今日はその後の確認のみ。今日で当面の治療が完了する。日常の歯のケアについて今後の指導を受けて、あとは3ヶ月後に様子を診るので来院してくださいね、と。3ヶ月後かぁ…とカレンダーを見る。3ヶ月後ってもう来年なんだな。
 落果リンゴ8玉入りが安かった。レモン2個と併せて買う。帰ってからリンゴ8玉中6玉を剥く。剥いたリンゴを4つに切って芯を取り、痛んだ部分を取り除く。それを大雑把に切って鍋に入れ、台所の引き出しの奥で眠っていたグラニュー糖をざーっとかける。
 次に、レモンを半分に切って絞る。そういえば、ここに引っ越す前までは持っていたレモン絞りはどこに行ったのだろう。捨てた記憶はないが、引越し後、行方不明になっている。そのうち出てくるだろうと思いつつ1年半。
 まぁいい。仕方無いので、ボールにザルを重ねて手で絞り、スプーンで中を掻き出す。ザルから落ちたレモン果汁はそのまま鍋に。ザルに残った果肉の部分も集めて鍋に。それ以外のザルに残った、果肉を包む薄皮やら白いものや種は別の小鍋に入れて、少しだけ水を入れて火にかける。しばらく煮込んだ後、ザルを通して茹で汁をリンゴの鍋に流し込む。そうして、リンゴの鍋に火を点け蓋をして、洗濯をしながらしばらく放置。
 ぐつぐつしてきたら、元は何が入っていたかおぼえていない空き瓶(広口ビン)を何個か出して、蓋を開けて別の鍋に入れ、水を張って火にかけ煮沸消毒。隣の鍋の中のリンゴはもう原型を留めずクズクズになっているので、あとは焦げないように掻き混ぜながら煮詰めてゆき、混ぜるのが面倒になったら火を止める。
 で、別に煮ていた広口ビンとビンの蓋を取り出して、リンゴもビンも熱いうちに中身をビンに詰め、熱いうちにキュッと蓋を閉める。


 リンゴジャムが3ビンできました、と。
 上に乗っかってるビンは…これ鮭フレークのビンだな、多分。


■2010/11/7 日
 昨夜そうしようと思っていたことも、起きるとそんな気分でもなく。
 最初に起きた時、朝だということは判っていたけれど、そのままぐずぐずしているうちにまた寝入ってしまった。再び起きたのは昼近くだったのだけど、その間に夢を見る。というより、夢で起きた。
 泣いているひとに激しく責められていた。自分は黙っている。言われているのは、お前みたいな苦労も知らない奴にわたしの気持ちがわかってたまるか、というような感じのこと。相手は自分の喉を掴み、爪を立てている。自分はそうされても、されるがままになっている。その手の弱々しさと、相手の深い哀しみを感じながら。
 振り払うことなど簡単にできたはずなのに。その気持ちすら起こさせなかった、あの哀しさはなんだったのだろう。言われていたことも、自分にとっては理不尽なこと。それなのに、自分は何も言えず、相手がぶつけてくる感情をただ受けるがままになっていた。わかってたまるか、ではない。わかりすぎるくらいよくわかっていたのかも知れない。でも、よくわからない。解釈はやめておこう。

 ただ。今度その相手に会ったら。
 その時は、一緒に泣こう。ただ、一緒に泣こう。


■2010/11/9 火
 待ち合わせの時間は、30分だった。待ち合わせの店の前に自分が着いたのは、20分だった。あと10分あるから店の中にいようか、と思って入口を見たら、待ち合わせの相手もその店の中に入ってゆくところだった。こちらには気付いていない。声をかけようか、と思ったけれど、まだあと10分あるから、と、自分も店の中へ入って行った。
 店の中は人混みで、先に入って行った相手の姿はすぐに見失った。相手の姿を捜して、店内を巡った。そんなことに夢中になっているうちに、ふと時計を見ると、待ち合わせの時間を過ぎて40分になっていた。自分は店の前に戻ったけれど、相手の姿はなかった。
 自分は相手を捜して走った。店の周りから、隣の店。そしてその辺りにはあるはずのない、地下やら何やらよくわからない通路まで。そうしても見つからず、最初の店の前に戻ってきた。店の横だろうか。芝の地面の上にビニールシートのようなものが掛けられているのを見つけ、ふと、そのシートを捲ってみた。その下は地面が抉られたように掘られていて、その中に、待ち合わせの相手が屈んでいた。そして、その相手は自分を見上げながらこう告げた。「あなたのために、あのひとが大変なことになっている」と。

 最近、見た夢の内容をよく憶えている。どうしてだろう。


■2010/11/14 日
 金曜日から喉の痛みが酷く、夜から咳が出始めた。土曜日は体がもの凄く風邪だかなんだかと戦い続けているような感じ。夏に熱出したばかりだから、発熱だけは勘弁…と思っていたら、今日になって喉の痛みも咳もおさまっていたので、とりあえず発熱は阻止された模様。ただし、頭のぼけっと感と鼻水はひどい。
 先週の喉を掴まれた夢、あれが「喉の調子に気を付けなさい」という予知夢だったと想えば、何となく納得がいくような…と。ちょっと無理か。


■2010/11/21 日
 完全には治り切っていないものの、喉の調子も大体戻ったので久しぶりに休日の電車で出かける。あまり乗らない路線に乗ったので、車内ではずっと外を眺めていた。雲の多い空、遠くにビル群を眺めながら、近くの木々の紅葉や、橋を渡ってゆく途中のきらきら光る川の水面を見ていた。
 ふと、遠くの空の雲の中に違和感を感じる。雲の下に雲。気付いた時にはもう形は崩れはじめていたが、きちんと5条平行に並んで伸びる雲の筋。大分前に流行った「神の手」の写真みたいな。でもあれは雲ではなく、スモークだ。
 ふと右上を見上げる。鳥のような大きさで、小さな飛行機が5機、綺麗なトライアングルの編隊を組んで飛び去ってゆく。その編隊の前方を1機が先導している。6機編隊。あれはブルーインパルスだ。今日何か飛ぶようなイベントあったっけか。そんなことを考えて、また普段見ない窓の外の景色を眺め続ける。そうしている間に、降りる駅のことをすっかり忘れる。ドアが開いて人が流れてドアが閉まる。閉まった後で、あ、ここ降りる駅だった、と。そしてひとつ先の駅まで行って、ひと駅戻って乗り換える。ちなみに言うと、今日行こうとしていたお店も、その前を気付かずに一旦素通りしてしまっている。ので、今日は素通り2回。

 はじめて降り立つ駅。今日の午後にこの街で過ごした時間そのものが、今後この街の印象になってゆくのだろう。いい一日だった。夕暮れ。駅から正面に向かって伸びる色づいたイチョウと桜の並木道を、あてもなくずーっと行って、車道を渡って反対側をずーっと戻ってくる。舗道の上には結構葉が落ちている。けれど木を見上げるとまだまだ沢山の葉。今はまだ紅葉の季節で、落ち葉の季節にはまだ早いよう。
 落ちている桜とイチョウの落ち葉を比べてみると、もちろん色も形も違うのだけど、桜の葉が一枚の葉の中にも様々な色を持ち、形も虫食いがあったりしてボロボロな感じがするのに対して、イチョウの葉は比較的色も均一で、原形をとどめた綺麗な形で落ちている。イチョウの葉はあまり虫が食わないらしい。
 ふと、本のしおりになるかな、と思い、綺麗なのは落ちてないか、と下を向いて舗道に落ちているイチョウの葉をずっと見続けて歩いたのだけど、さすがに舗道の上は人に踏まれてしまったものばかり。木の根元の土の上辺り捜せばあるのだろうけれど、そうしているうちにすっかり暗くなっていたし、まぁ今回はいいか、と。

 帰りの電車はすっかり夜景に。一日というサイクルの中で、世界は色を得て、色を失うことを繰り返す。
 無色な光が世界を鮮やかに、様々な色に染め上げることに、何だか不思議さを感じる。


■2010/11/22 月
 乗っていた電車が急ブレーキ。人が多かったので掴まる吊り革もなく隣で立っていた人がバランスを崩して倒れてくる。咄嗟のことなので、自分は肩で相手を支える。す、すみません。いやどういたしまして。
 と、いうような事があってふと思う。今のブレーキなら、何にも掴まっていなかったら、自分だってそうなってしまう。自分も空いていなかったので吊り革は掴んでいなかったけれど、たまたま吊り革が下がっている棒には手が届いたので、急制動に耐えられただけなのだ。そうでなければ自分だって隣にタックルかましていただろう。だから特にすまないことはない。
 というより、この車内では立っている人誰もが、今の急ブレーキならバランスを崩す可能性を持っていた。それでも車内で将棋倒しが起こったり、実際に人が転倒したり、ということは(自分が見える範囲では)起こっていない。それは多分、まぁ転ぶスペースがない、というのもあるのだろうけれど、結局は。誰もがバランスを崩す可能性を持って乗り合わせている中で、たまたま何かに掴まるものがあって自分を支えられた人が、そうではない人を、意識するとしないとに関わらずその身で「支えた」から。なのだろう。力学的に。

 えー申し訳ありません。停止信号のため急停止いたしましたー。
 安全の確認が取れましたのでまもなく運転を再開しまーす。

 事故ではなかったみたいでよかった。


■2010/11/27 土
 ツイッターに使われているツイートという言葉はtweetなのだから小鳥の囀りのことなのだろうけれど、どうして色々なところで書かれている日本語の説明では「ツイート」=「つぶやき」になっているのかがよくわからない。
 まぁ人がそれをどのように使うかは自由でいいとは思うのだけど、個人的にはツイッターという媒体は「つぶやき」の場にはあまり向かないんじゃないかと思う。
 同じtweetを語源とした「トゥイータ(Tweeter)」というスピーカーがある。ウーファーが低音域(ズンドコ)を担当するのに対し、トゥイータは高温域(シャカシャカ)を扱う。
 トゥイータもツイッターも、どちらも同じ「小鳥の囀り」を語源とした言葉。で、それぞれの定義は、スピーカーのトゥイータが「小鳥の囀りのような高音域を扱うスピーカーユニット」になるのに対し、ツイッターは「小鳥の囀りのような・・・を扱うミニブログ」となる。

 「・・・」の部分が思いつかなかった。「小鳥の囀りのようなつぶやき」でいいんだろうか。というよりは、「小鳥の囀りのようなテンポの速い話題を扱うためのミニブログ」というくらいの定義が相応しいような気がする。というか、そういう使われ方をするのが本来の開発目的に沿った使いかたなのだろう。
 どうもツイッターについては、「つぶやき」だとか「ゆるい繋がり」だとかいう解説用語が、自分にとってツイッターというものをよくわからないものにしてしまっているような…気がする。


■2010/11/28 日
 月末なので駐車場代を払いに行く。途中、ふわふわと舞う小さな白い羽虫。雪虫だろうか。まさか。
 とりあえず捕まえてみる。雪虫だと掌で捕まえると簡単に死んでしまうので、袖で受けるようにして捉える。少しだけ青みかかった白い綿毛を纏ったその姿。北海道や富士山麓で見ていたものほど大きくはないので、種類は違うのだろう。けれどそれは紛れもなく雪虫だった。
 埼玉にも雪虫がいるんだ。というより、今は雪虫の季節なんだ。と。その事に気付く。こちらで生活するようになって、季節感が混乱している。今は秋なんだろうか、冬なんだろうか。体感としてはまだまだこちらは秋だ。でも、暦はもう11月末。経験上、自分は暦上のこの時期を「秋」と捉えたことがない。更にもう数日すると12月。12月になっても体感としてはまだまだ「秋」。けれど、自分の中ではどうしても、暦上の「12月」と体感としての「秋」とが結び付かないのだ。で、反対に、こちらの12月初頭を無理やり「冬」と捉えようとしても、永らく「冬イコール雪」だった自分には無理が生じる。
 そんな感じで、特にこの時期は季節感が混乱している。そんな中で見つけた雪虫。何となく、混乱していた季節感がリセットされたような感じになる。そうか。今は雪虫の季節なんだな、と。

 で、駐車場代を払いに行く。その土地を持っている家がやっている駐車場なので、その家に払いに行く。駐車場をやっているだけあって、広い庭とちょっとした畑も隣接した家。やっているのは自分の親くらいの世代の夫婦。おばちゃんに駐車代を払ってる途中「あ、そうだ。ミカン。庭でとれたの、持って行くかい」と言うので「是非」と。駐車代支払いついでに、たまにこうして大根やら柿やら柚子やらを頂く。「じゃあちょっと待ってて…」とおばちゃんが庭(畑)の納屋の方に行って、しばらくして紙袋に入れたミカンを持って戻ってくる。紙袋と言っても、5000円くらいの福袋になっているような紙袋なので、そこそこのサイズ。それにほぼ一杯のミカン。
 この量はさすがに…と思ったのを読まれたか「大丈夫、大丈夫。玄関の涼しい所でも置いておけば長持ちするから…」と。いうことでそのまま持って帰る。帰ってからミカンを紙袋から、手ごろなダンボール箱に移す。
 そのついでに数を数えてみたら、80個あった。一日5個づつ食べても…。


■2010/11/30 火
 成長というのは、自分を拡げてゆくことだよ。でもその拡げてゆく、というのは拡散してゆく、ということではないよ。それはね。他と区切られた躰を持ち、人として限られた人生の中を生き抜いてゆく中で、自分のもの、と思えるものの範囲を拡げてゆくことだよ。
 自分のもの、というのも、所有する、という意味ではないんだよ。自分の持ち物を増やすことではなくて、自分のもの、と思えるものを増やしていって、他のもの、を減らしてゆくことなんだ。
 わかりにくいね。わかりにくかったら、こうしてごらん。出会うもの、見るもの全てに「わたしの大切な」という言葉をつけてみてごらんよ。わたしの大切な…

 自分の躰、いのち、家族、家や庭。友人、街、街の人々。
 職場、同僚、上司。空や海、雪や雨、そして雲。
 太陽や月、地球や宇宙。

 わたしの大切な、世界。

 とても気持ちがついてこないのは判っている。だから、今はまだ、取り合えずでいいよ。気持ちが伴わなくても構わないから、色々なものにその言葉をつけてみてごらん。「感じ」だけは、つかめると思うよ。
 そうやって「わたしの大切な…」ものを増やしながら、そう思えるものの範囲を拡げてゆくこと。そうやって自分の範囲を拡げてゆくこと。それが成長なんだよ。そしてそれは同時に「他」を消してゆくこと。まずは自分から。少しづつ、少しづつ、ね。


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