Diary


平成二十二年 師走


■2010/12/3 金
 朝、到着した駅を降りてから職場まで10分ほど歩くうちにずぶ濡れになる。スーツを作業服に着替えて、今日は一日その姿で過ごす。大雨は朝のうちだけで、午後を待たずに陽が射してきたので、スーツやら靴やらを外に干す。靴は干す時に出した中敷を、靴で押えて干しておいたのだけど、夕方に取りに行ったら片方、風でどこかに飛んでいってしまっていた。
 もう12月なんだな。でも、気温は25度近くになっている。冬に向かうは三寒四温とはいえ、この暑さはなんなんだろう。でも、こうした陽気は一時的なもの。先週、雪虫を見た。ということは、今が季節の変わり目なのだ。もう少しは暖かさと寒さの間を行ったり来たりしながら。やがて、季節は冬の枠内におさまってゆく。
 帰りに駅を出て、新しくできたスーパーを覗いてゆこうと思って、普段降りるのとは反対側のエスカレータから降りる。傘を持ち変えようとして、エスカレータの上で傘を落としてしまう。傘はエスカレータの階段の上に縦に落ちて、手を伸ばして拾おうと思ったら、そのままするすると斜面の上を、スキーのように滑り降りてゆく。それがちょうど、エスカレータの上を自分が傘を追って歩くのと同じ速度なので、2回ほど歩いて追いかけて拾おうとしたけれど、その度にギリギリのところで手が届かない。逃げる傘に追う自分。まるでコントだ。
 エスカレータの上を駆け降りて拾うのも何だしなぁ。まぁ、前に人もいないし、と思って、追うのはやめて、そのまま傘を滑るがままにしておく。そして、先にエスカレータを降り切った傘が一番下でカコンカコンとやっているところを、ややしばらくしてから追いついて、腰をかがめて拾って降りる。おかえり、傘。
 振り向くと、そんな自分の様子をずっと見ていたのだろう。自分の後に続いてエスカレータに乗っていた背広にコート姿のおじさんがこっちを見てニコニコしている。自分は拾った傘を、鉄砲を担ぐように肩に載せて、舌を出して笑う。おじさんが声は出さずに顔をくしゃっと笑わせて、うんうん、というような感じで首を縦に降る。自分は傘でぽんぽんと自分の肩を叩いて会釈。そうして、店へと向かう。

 店を出て帰り道。空高くにオリオン。


■2010/12/4 土
 閉店間際のお店で、牛のスジ肉が半額だったので煮物でもしようかと、牛スジ肉と、大根と人参と生姜を買う。レジで「買い物袋はご利用になられますか」と訊かれて、手ぶらだったので「あ、お願いします」と。続けて「お箸はお付けしますか」と訊かれたので、いや、結構です…と反射で言ってからふと思う。
 「牛スジ」と「大根」と「人参」と「生姜」。買ったのはそれだけだ。お金のやり取りをしながら、買い物カゴの中身を見る。やっぱり買ったのはそれだけだ。少し悩んだ。

 …お箸いるのか?


■2010/12/13 日
 断続的に下からつき上げるような揺れを感じて、夢の中で目覚める。地震…なのだろうか。テレビをつける。ニュースをやっていて、アナウンサーも同じ揺れを感じているようで、テレビの中で「また揺れを感じました、火の元の安全を確認して、どうぞ落ち着いて…」などと緊張した面持ちで言っている。その間にもズシーン、ズシーンというような揺れが続く。ただ事ではない。ある人に「大丈夫?」とメールをする。それから自分はすぐに出勤の準備をする。スーツは無駄だから、歩ける格好で…いや、富士登山並みの装備が必要かも知れない、などと考えながら。やがてメールの相手から「大丈夫」という返信が返ってくる。返信があったことと、通信が繋がることに安堵しながら、「ただの地震ではないから、家が大丈夫なら外には出ないで」と再びメールを送る。そうして準備を続けているうちに、テレビから叫び声。テレビの中の様子が変わっていた。アナウンサーがカメラから目を逸らして、「何ですか、あなたたちは!」というようなことを言いながら、座ったまま画面の中を後ずさってゆく。その後、銃声がしてアナウンサーが撃たれた。アナウンサーが撃たれた腕を押えて何か叫び、画面の枠の中から逃げ出そうとする。そして、画面の中に複数の人間が雪崩れ込んできたように見えた、その瞬間。画面が「放送を中断しております」という文字に切り替わる。準備もそこそこにとにかく出勤しようと外へ出る。出たところで見えた景色は、実際の自分の部屋の外とはちょっと違う場所の景色だった。荒川の河川敷からの光景に近い景色。開けていて、遠くに高層ビル群が見える。そして、そのビル群の方角から煙が上がっている。ふと。そのビル群の一角。ひとつのビルが根元から折れたように綺麗に倒れた。離れているからか、ものすごくスローモーションな動作で。ビルが完全に倒れてその姿が煙に包まれる。それから少しして、先ほどから感じていた下から付き上げるような揺れを再び感じた。あの揺れのひとつひとつが、遠くのビルの倒壊の衝撃だったのだ。職場からの連絡はない。けれど、連絡を待ってから動く事態でもないだろう。電車は無理だろうから、行けるところまで車で行って、あとは放置して歩こう。行けそうもなければ、自分の勤務先ではなくても、最寄の職場まで…などと思っていたところで目が覚めた。何という夢だったのだろう。

 起きても外はまだ暗かった。7時近くに明るくなってから、タイヤ交換。今年新調した夏タイヤも、走ったなぁ、という記憶は秋の北海道ドライブくらい。それを外して、今年で5シーズン目に入る冬タイヤにする。本州では冬タイヤの装着期間が絶対的に短いこともあり、こちらも5シーズン目とは思えないくらい減っていない。
 というより、冬タイヤなんてこちらでは必要ないといえば必要ないので、タイヤ交換も無駄と言ってしまえばそれまでなのだけど。まぁこの時期のタイヤ交換は自分の中ではもう習慣のようなもの。雪が降ろうが降るまいが、冬を夏タイヤで走ることなど、自分にとっては考えられないこと。でも、もう5シーズン目の冬タイヤ。冬が終わっても脱がないで、来年一年履き潰そうかな、と。そんなことを考えつつ。


■2010/12/14 月
 「コミュニケーション能力」とは何だろう、と考える時。一般的にはそれは恐らく「伝える能力」になるのだろう、と思う。けれど、コミュニケーションなのだから、伝える側もいれば当然、受け取る側もいる。で、「伝える能力」というのは散々聞かされるのだけど、「受け取る能力」というのはあまり聞かない。まぁたまに「人間にふたつ耳があって口はひとつしかないのは…」という小話を聞くことがあるくらいで。
 でも、自分が「受け取る能力」と思うのは、会話においては話すと聞くの割合を1:2に…といった、そういう比率の話ではなく。「コミュニケーション」において、相手に気持ちよく聞いてもらえるように伝える能力があるのと同じように、相手に気持ち良く話してもらえるように聞く能力、というようなものが、本当は同じ比率くらいであってもいいんじゃないかな、というようなこと。

 ふと、この世界には「語り手」はいっぱいいるけれど、「聞き手」は以外と少ないんじゃないかな。と。そんなことを想った。上手く言えないのだけど、例えばネットでの会話、というのは何となく「自分の会話」「相手の会話」「自分の会話」「相手の会話」の繰り返しで続いてゆくもののような気がする。要するに「伝えること」の繰り返し、なのだ。相手の会話を聞いている、ということを伝えるためにも、聞いている、ということを会話で伝えなければならない。
 現実で顔を合わせての会話では、例えば。「相手の会話」「聞く」「相手の会話」「聞く」という、「語り手 」と「聞き手」がはっきりと役割分担したパターンもあると思う。ただ、その時。聞く側も相手に何も伝えていないわけではない。言い換えると「相手の会話」「相槌」「相手の会話」「相槌」の繰り返しで続く会話、という感じになる。
 自分は「コミュニケーション」特に「会話」の中では「相槌」というのがとても大切なものに感じるのだけど、最近の情報ツール。「伝える」機能はいっぱいあるのだけど、何というかこの「相槌」という非常に単純かつ大切な「聞いてるよ」という。ただそれだけの意思を伝える機能が不在のような気がする。

 つまり。現実のコミュニケーションとコンピューターを媒介とするコミュニケーションはそもそも何が異なるのか。というと。自分は「コンピュータを媒介とするコミュニケーションは相槌が打てねェ」というのが決定的に違うところのような気がしないでもないので、やっぱりまだ「現実のコミュニケーションとコンピュータを媒介としたコミュニケーション」の間にはまだはっきりとした溝があり、その間の線引きを外して語るにはまだまだ早いような気がする。相槌すら打てないのだから、コンピューター上のコミュニケーションも、人間同士直接のコミュニケーションを完全に表現するまでには、まだまだ至っていないのだと思う。

 で、将来、人間同士直接のコミュニケーションと、コンピューターを媒介としたコミュニケーションが「真に同価値のもの」になるとして。人間同士直接のコミュニケーションにコンピューターを近づけてゆくのと、コンピュータを媒介にして行われるコミュニケーションに人間の方を近づけてゆくのと。どちらの方法がより「可能性」や「実現性」があるのだろう。

 …と。そんなことをふと思う。
 「相槌を打つには相槌ボタンをクリック」なんて機能が付いても困るのだけど。


■2010/12/15 火
 職場の宴会。新宿駅構内の電光掲示板に、今夜がふたご座流星群のピークだというニュースが流れていた。星空を眺めるのには日本一向かない場所なんじゃないかなここは、と。少し可笑しくなる。駅を出てふと空を見上げる。そう思った割には意外と綺麗に、狭い夜空にドラえもんのポッケのような半月が浮かんでいた。その下に星をひとつ従えて。
 帰って日付が変わってから、空を見上げる。薄曇の空だが、ちょうど真上の辺りは雲が晴れており、オリオン座も赤いベテルギウスを肩とするなら上半身が見えている状態。実はふたご座というのはよくわからないのだけど、ベテルギウスの周辺をずっと見上げてみる。5分くらいしてひとつ。また5分くらいして、ひとつ。注視していた所とは違うところで、けれど視界の中で星が流れる。星が流れるのはいつも突然。流れ星に対しては、どんなに感覚が鋭い状態であっても、その現われを予感することができない。
 …と書くのはおかしいのかも知れない。そんな予感など、と。でも、星が流れることに対してはそうであっても、例えば。風が流れることに対しては「予感」が働くことが、自分にはある。これも別におかしなことを書いているわけではない。ただし、日常的にそういう予感があるわけではない。夜の防波堤、星空と海の間でひとり夜釣りをしているような時。そのような状況にいないと、そういう予感は自分には起こらない。
 風の予感、とはどういうものか。これは本当に「あ、風がくる」という予感なので、具体的に説明することはできない。そしてその予感は、海風やら屋根を吹き飛ばすような突風みたいな大きな風に対しては全く働かない。働くのは、ふと自分の周辺にのみ吹いてくるような、小さな風…「一陣の風」に対してのみ。
 恐らく、自分に向かってそういう一陣の風が吹く時。その前に自分の周りの空間に、気圧なりなんなり僅かな変化が起き、その変化を多分自分は皮膚感覚で捉えて、そういう感覚の後には風がくる、という経験と併せて「あ、風がくる」という予感になっているのだろう、と思う。
 で、その感じる「変化」というのは、上手く言えないのだけど、何と言うか「身近な空間に空気の隙間ができる」という感じかも知れない。空気の間に隙間ができた時、その隙間に向かって空気が流れ込んできて、その空気の流れが風になるのだ。

 と、よくわからないことを書いた。が、流れ星は本当にいつ、どこから流れるのかわからない。あ、流れた、とそちらを見続けていると、また視界の片隅の違うところで星が流れて、あっちか、とその位置を見続けているとまた違う所で…ということの繰り返し。そして、何個か見ても、あともう一個見よう、あともう一個だけ見よう、と。延々と空を眺め続けてしまい、なかなか切り上げられない。いつもそうだ。それも可笑しい。

 あと一個見たらやめよう、と。そうしてしばらくして3つ目の流れ星を見たところで引き上げる。いやもう首も痛いし。


■2010/12/18 土
 先月貰ってきた80個のミカンを完食。20日かかった。
 最近あまり本に接していないうえ、本のランキングなど全く興味ない人間なのだが、本屋に寄ったついでに「かげらふ」とかいう本がアマゾンのレビューであまりにも酷評だったのを思い出して、ここまで酷評されるとはどんな内容なのだろう、と確かめてみようと思い、売り上げ上位の新刊のコーナーに行ってみたが売り切れだった。当然、そのジャンルの本の中での売り上げも(その店では)トップであるらしい。市場原理は複雑すぎて、自分にはよくわからない。
 年間の売り上げトップのコーナーも設けられる時期だけれど、面白いのは「おばあちゃんの書いた詩」が「詩集」としては珍しくトップ10に入っていたこと。詩集が入っているなんて嬉しい。あと、本来は売り上げランキング入っているはずの某宗教主催のお二方の著作が、(その店では)全くもって無視されていること。
 そういう本は大抵、その関連の方々しか買わないし、まぁ一般的には読んでも面白くないのだろうけれど、著者や団体を気にせずにパラパラと読めばそれなりに読めたりもする。基本的に新興宗教というのは、既存宗教が頑なに守っている古風な部分、時代に合わなくなった部分をきっぱり切り捨てて、現代向けに再編集したようなものが多い気がする。だから、それが既存の宗教やら哲学を範とする思想の…悪く言えば「寄せ集め」の本だと考えれば、それはちょっとした「名言集」として読めなくはないのだ。
 名言集といえば。最近はブログでも何と言うか「名言集」的なものが多くなってきたような気がする。名言は様々なところから引用される。それは本だったり他のブログだったり、宗教だったり哲学だったりする。何となくの流れとしては、それらからごく一部の「短くて、鋭い」一節を切り取ってきた感じのものが人気なよう。「短くて、鋭い」そういうのがこの時代の好みなのかな、と。
 あるひとりの人が、自分の共感できる名言を集めてきて、ひとつのところに掲載し続けてゆく。そこに見られるその人のセンスというのは、ひょっとしたら。その人なりの宗教みたいなものなのかも知れない。最近はちょっと名言が溢れすぎな気もするけれど、自分は嫌いではない。「名言」が「正論」として振りかざされたりされない範囲においては。

 関係ないけれど。電子書籍の普及により、紙媒体の今後はどうなるのか。まだまだ大丈夫だと思う。なんと言っても、市場の規模がまだまだ大きすぎるので、衰退にも大きな抵抗が伴うだろう。で、先に絶滅するのは、ここでこういうものを書いている自分のような書き手かも知れない。


■2010/12/19 日
 電車に乗っていて、ふと街明かりが星のように思えた。街明かりの灯りのひとつがひとつの星。ふと車内を見る。この時間。おそらくは殆どの人が帰り道。どこへ帰ってゆくのだろう。ほんの偶然で同じ車両に乗り合わせた多くの人々。そのひとりひとりが、この夜景の中のどれかひとつの灯りの中に帰ってゆく。まるで誰もがひとつの帰るべき星を持っているかのように。
 みんなが明るくて暖かい、帰るべき場所へ帰ってゆくように思えてしまう。決してそうではないのだろうけれど。そう思えてしまう。まるでクリスマスイブには、自分以外の周りの人全てが幸せに見えてしまう、あの瞬間のように。どうしてそう思えてしまうのだろう。変わっていないんだな、と思う。

 家を出て家さがす旅続けおり
 いま歩く道家路であれと

 学生時代の短歌。自分は今もまだ旅の途中。
 旅する心を忘れませんように。けれど、人生の全てが旅の途中にはなりませんように、と。

 秋の北海道ドライブで、学生時代に住んだアパートがいまどうなっているか立ち寄った。アパートは外観も特に変わらずにそこにあったので、中に入り、今は誰が住んでいるかもわからないかつての自分の部屋のドアの前まで行ってきた。ドライブでは、就職してはじめて住んだ町へも行って、自分が住んでいたところがどうなっているかも見てきた。ちょうど「褐色に浸る時間」を書き始めた頃に住んでいた、雨の日には部屋にアマガエルが上がりこんでいるような部屋。もう建物自体が取り壊されて、更地になっていた。そう。あの部屋は自分が最後の住人だったのだ。
 これから何年も経ってから、今住んでいるこの部屋。ここを訪れることがあるのだろうか。
 そんなことをふと想う。この、何もない部屋。ただいま


■2010/12/20 月
 人を批判するために使われる正論。それが一番怖いのだ。立場的には、親が子に対して。先生が生徒に対して。上司が部下に対して。そして、正論を批判に使う人が、相手が間違っており、自分は正しいのだ、と。そう思い込んでいる状態。そういう状態で使われる正論、それが一番怖い。
 誰かが仮に何かを慎重にやったとする。その人は批判する。「もっと迅速にやれ」と。そう言われた誰かが、今度は事を迅速に成したとする。その人は批判する。「もっと慎重にやれ」と。批判する側が相手を間違っている、と捉えている以上、事の成否は関係ない。そしてその過程は批判する側にとって、どのような過程がとられようとも「正論」による批判の対象となるのだ。「迅速にやれ」も「慎重にやれ」も、それは正論。明らかに矛盾していることだが、「正論はひとつではない」もまた正論。そのような立場で正論をもって相手を批判する人間に対して、それをされる相手が反発することは難しい。

 そういうのは、無数にあるなかのほんの一例に過ぎず、批判のための正論、相手を追い詰めてゆくための正論というのは本当に無数にある。ただ、それら無数の例において、なにかしら共通することもあるような気がする。それはまず、批判する側が自分は正しいと思っており、相手は間違っている。または、間違いを犯す存在であると思っていること。批判する側は常に「正しい」側にいたがっており、相手を「間違った」側においておきたがっているのだ、ということ。
 そして、正論をもって相手を批判する側自身は、相手の中に見つけ出しては己が批判しているような「間違い」を自分が犯すことを、極度に恐れているのだ、ということ。

 自分は間違いを犯さず、正論ばかり述べて「間違った」相手を批判し続けるために、批判する側はどうしたらいいか。それは「自分は決して間違わない」こと。つまり、批判対象がしているような間違いを犯すリスクが伴う行動をすることを、自分自身は避け続けること。ようするに「行動しないこと」となる。
 行動しない限り、批判する側が間違いを犯すことはない。そうして間違いを犯さない限り、自分は正論を吐き、実際に行動して間違う人を批判し続けることができる。

 自分は行動していない人。または、自分が当事者ではない人。正論をもって人を批判し続ける人、というのは、意外とそういう人なのかも知れない。…意外でもないか。

 月が綺麗だった。冬月。


■2010/12/21 火
 仕事の終業時間と重なるので微妙な時間帯だった皆既月食。皆既の時刻をやや過ぎた終礼後に、うぉりゃあー月食見に行くぞーと外へ出てみた面々だったが、で、月ってどっちから昇るんだっけ、などと言う以前に残念ながら空は厚い雲に覆われていたので早々に諦める。
 月の薄明かりすら見ることもできず。まぁ自然のことだから仕方ないっしょ、ということで次は何年後だろう、と調べてみる。今回が3年ぶりだったというので、次回もそのくらいなのだろう、と思って国内で見られる月食を調べて見た、ら。

2011年6月16日
明け方の月が沈む直前に皆既月食。地平線間際なので観測は難しいかも。西日本ならまずまず。

2011年12月10日
日付が変わる前くらいに皆既月食。月も高いところにあり全国的に好条件。しかも土曜日。

2012年6月4日
月の出直後から部分月食。半分まで欠けないけれど。

 …ということで、意外とすぐに見られるらしい。


 宇宙ついでに。金星周回軌道への投入を目指した探査機が、投入失敗の後に移行した「セーフホールドモード」という動作モードのことが気になっていた。調べると、探査機が危機的な状態に陥った際に、探査機の安全を優先するために移行するモード、とのこと。
 かの金星探査機の場合は、金星周回軌道への投入失敗後、自動的にこのモードに移行した。つまり、太陽電池パネルを太陽の方角に向け、自身のエネルギー源である電力の供給を確保。余計な機能は停止しながらも最低限の通信機能は維持。そして本体は低速回転を行い、その姿勢を安定させている。という状態になっているらしい。
 このモードで最優先されることは、再活動に必要なエネルギーを維持・確保するために、エネルギーの供給源は確保しつつ無駄な消費を押えるということ。そして回転により己の中に軸を生み出し、自己の姿勢を安定させることだ。当然、最小限必要な通信機能もこの場合、他の観測機器などに優先して維持されている。

 セーフホールドモード。別な呼び方は「退避姿勢」。「自己維持姿勢」とも言える。
 危機的状況を耐え抜くための姿勢として、このモードのこと。何となく、でもすんなりとわかるような気がする。己を維持するために、最小限かつ最も必要なこと。目を閉じても光を見失わないこと。光の方を向き続けること。「軸」を失わないこと。足場が無い状況では自ら軸を生み己を安定させること。エネルギーを浪費しないこと。そして、最小限の通信手段は、維持しておくこと。

 探査機は何のためにそうして自己を維持する(ようにプログラミングされている)のか。
 それはもちろん、再起の時に、備えるために。


■2010/12/23 木
 夢の中のあなたの行動は、実生活の中でのあなたがプログラミングしているよ。そうしてプログラミングした自分自身の分身を夢の中に放り出しているんだ。夢の中のあなたは実際のあなたが、自身では無自覚なままインストールしたプログラムに沿って行動している。夢の中の自分自身の行動を、目覚めている時のあなたの意識が制御できないのはそのためなんだ。
 そして夢の中のあなただけではなく、夢の世界そのものも、あなた自身が想像している世界。夢の中の世界は決してあなた自身の想像力を超えない。けれど、あなた自身があなた自身の想像力の全てを認識しているわけではないから、夢はあなたの想像力の産物でありながら、あなたにとって未知の世界であったりもする。あなた自身も知らない自身の想像力まで駆使して、あなたは夢を見ているんだよ。
 あなたの夢の中にはあなたの知っている人物も無数に登場する。あなたの夢の中にはわたしも登場している。あなたとわたしは夢の中で出会ってもいる。けれど、あなたは夢の中で出会っているわたしがわたしだとは気付かないこともある。言ってしまえば、夢の世界の中には「世界」なんて存在してはいないよ。夢の中の世界には、色も形も音もない、ただの情報のみが存在している。夢の中のあなたがその情報に接触する、または、その情報を受信できる範囲内に近づくと、その情報を受けたあなたは、自分の頭の中でその情報から形、色、音といったものを、あなたが想像できる範囲でイメージしている。その組み合わせが、夢の世界を形造っているんだ。
 だから、わたしの情報に接したあなたがイメージする姿が、わたしであるとは限らない。わたしの情報からその時点でのあなたがイメージできる姿が、わたしよりもあなたが知っている誰か他の人のイメージに近ければ、わたしの情報はあなたの中で、あなたの知っている誰か別の人物としてイメージされる。またはあなたの中にある誰かの情報からイメージできる姿が、その時のあなたにとってわたしに近ければ、あなたはその人物の代わりにわたしを自身の夢の中に登場させる。
 その情報に対するあなたのイメージは、ひとつの一連の夢の流れの中でも頻繁に変わってゆくから、夢の中であなたが話をしていた人物が、同じ人物と話をしていたはずなのに、次の瞬間には違う人物に、また次の瞬間には違う人物に、と。コロコロ姿を変えてゆくようなことも起きてしまうんだ。

 夢の中では自分自身すら他人と入れ替わってしまっていることさえある。現実で自分が相手にした行為を相手から受けるようなこともある。夢の世界の想像の元となる情報は、時系列も脈略も筋立てもない、いわば文字の羅列のようなもの。あなたが実生活で、順序だてて時系列にそって整理して蓄えている意識下の記憶とは異なり、夢の元になる情報は、あなたが意識の外に日々押し込めてきた感情、経験、言葉。そういったものが未整理なまま放り込まれている無意識の中の記憶なんだ。
 そうした記憶は記録とは違う。必ずしも起きたこと、感じたことをそのままに人はそれを無意識にしまい込むわけではないよ。時には立場が入れ替わっていたり、行為が入れ替わっていたりもする。あなたが子供の頃に虫を溺れさせた記憶は、あなたが誰かに溺れさせられている、そういうイメージで無意識の中にしまいこまれていたりする。誰かに背後から抱きしめられた記憶が、後ろから誰かに羽交い絞めにされた、そういう記憶としてしまい込まれていたりもする。
 記憶が無意識に取り込まれて夢の中で接するような情報になる際、記憶は形も色も音も匂いも、五感で感じられるイメージは全て一旦取り払われて、例えるなら「文字」に変換され、文節も文脈もバラバラにされ他の記憶の文字と合わせてかき混ぜられる。そうして脈略もなく混ぜ合わされた文字の羅列から、時折偶然に「文脈」として成り立つ文字列が産まれる。あなたはその文字列を読み取って、想像力でその情報からイメージを再構築し、それを五感で感じているんだ。

 夢はそういう世界だから、目覚めた後で、見ていた夢の意味…しかもそのごく一部しか憶えていない夢の意味を解釈してゆくのは、簡単なことではないよ。夢の中のことは夢の中で決着をつけるのが一番いい。
 でも、夢の中の自分の行動に目覚めた意識は介在できないから、夢をよくしようと思うなら、夢の中に送り込む自分の分身のプログラミングの方を日々改善してゆく必要があるかも知れないね。
 夢をよくしたいのなら、何よりまず現実をよく生きること。意識では制御できないとはいえ、夢の中の分身の行動は、実際のあなたの行動、何を想ってそれをしたか、の部分が反映されたプログラムに基づくもの、なんだからね。

 そして万一夢の中で目覚めた際。夢の中でのあなたの行動力、力を決定するのは想像力なのだということ。何かと戦う際にも、戦う相手やこちらが手にする武器すら自身の想像力が生み出している世界なのだということ。そういう世界だということだけは、忘れないでおいて。


■2010/12/24 金
 久しぶりに早い電車で帰る。夜の7時前の電車はもの凄い混みよう。途中の駅で降りて街歩きも考えたのだけど、押されながら立ち続けているうちに、少し具合が悪くなってしまった。吐き気まではいかないけれど、何かこみ上げてくるような。酔ったような感じで嫌な汗をかく。最寄り駅の一本手前の駅で降りて歩く。締まった空気を吸って少し調子を取り戻す。晩に食べるものがないので、スーパーに立ち寄ってみる。お惣菜がたくさん。しかも夕食時を過ぎつつある時間帯なのであちこちで割引セール。おいしそうなものが沢山並んでいる。けれど、その時点で食欲が無かったのでとくに惹かれず、カットフルーツだけを買って帰る。
 歩いているうちに調子は大分もどった。けれど歩く距離が長かったので、体は冷え切ってしまった。相変わらずあまり物を食べる気は無かったので、取り合えず。冷凍庫から前に実家から送られてきていた自家製トウキビの茹でて剥いて冷凍したやつを出して、ザルに入れお湯で解凍。それをミルサー(ミキサーの小さいの)に入れ、小麦粉少々、コンソメスープの素、そして牛乳を加えて混ぜる。トウキビの粒が粉々になるまで回して、中身のドロドロを金網の裏ごし器で裏ごし。こし取ったものを小鍋に入れて火にかける。
 普段は裏ごしまではしないのだけど、今日はちょっと上品に。クツクツしはじめるとすぐに鍋底に沈殿したものが固まり焦げはじめるので、火にかけている間はずっと掻き混ぜ続ける。そうして牛乳とコーンが煮詰まりはじめていい匂いがしてきたら、トッピングも何もないスープだけのなんちゃってコーンポタージュの完成。その頃になって、ようやく空腹感が吐き気を上回っていることに気付いた。

 コーンポタージュとカットフルーツだけの晩御飯だったのだけど、いつもより少し手間をかけたせいだろうか。おいしかった。体も温まったし。


■2010/12/26 日
 よっこいしょ、と屈んで潜らなければ通り抜けられない低いドアの喫茶店。ドアにはあちこちに隙間があって、そこから時折、外を通る人の足音や笑い声が、流れる音楽に重なって店内に響いてくる。
 見る、という行為は、ひょっとしたら聴く、に近いのかも知れない。ふとそんなことを想う。ドアの向こう。その音…例えば「足音」を発した誰かの姿がもう窓枠の外、見えなくなっても、その人の足音はまだ聞こえている。その時、その人の発した足音が、直接に自分の所に届いているわけではない。もう姿の見えないその人の足音は、道路なり車道向かいの建物なりに反響して、その響きが自分の耳に届いているのだ。
 仮にその人が歩いている自分のすぐ前を歩いているような場合でも同じ。自分はその人の足音を直接に聴きながら、かつ、その人の足音の「響き」を、同時に聴いている。音の世界は「響き」の世界。音の世界の濃淡は、音の大小ではなく、響きの濃淡なのだと自分は思う。
 見ること、もまた、響きの世界なのかも知れない。それは当然「音」ではなく。人工的なものでなければ単色(無色)単調の光が、あるものに当たって、反射し、自分の目に届くこと。それ以外にも、その反射した光がさらに別の何かに当たり、更に反射して…と、何重もの過程を経て自分の目に届くこと。その過程で光は様々な濃淡を産み、様々な色を産み、この世界を自分の目に映しているのだ、ということ。
 光もまた「響いて」いるのだ。とすれば「見る」とはある意味、光の響きを「聴く」こと。写真も同じ。写真に収められた世界もそれは、光の強弱を焼き付けたもの、ではなく、光の響きを留めたもの、なのかも知れない。

 また違う意味でも、自分は聴く感覚で見ていたのかも知れない。
 頁を捲りながら。ただ、聴く。日本語的には「尋ねる」というニュアンスを含む「聞く」ではなく、「訊く」でもなく、それを聴く。問いかけもせず会話もせず解釈もせず、ただ伝えられるだけを、ただ、聴く。

 そして、知る。


 帰り際、飲んだものと同じコーヒーの豆を持ち帰り用にお願いする。200グラム、と言ったところ、150グラムくらいしか無いけれど…と。ああ構わないです、それで。そうしてパック詰めしてもらい、お金を払い、ではまた、と。帰ろうとしたところで店主に呼び止められる。へ、と振り向いて見た店主の手に、コーヒー豆のパック。買ったばかりの豆を忘れるところだった。思わず笑う。

 はい。他のお客さんにもウケました。


■2010/12/27 月
 今年の流行語「〜なう」の用法について調べてみた。用例としては、

 「晩ごはんなう」 「新宿駅なう」 ○
 「いま晩御飯なう」 「いま新宿駅なう」 ×
 「晩ごはん中なう」 「新宿駅にいるなう」 ×
 「晩ごはん食べてたなう」 「新宿駅出たとこなう」 ×

 となるので、「○○なう」の「なう」は、「いま○○している最中」や「いま○○にいます」の、○○を除いた部分を合わせた意味を持つ言葉、となるらしい。つまり「○○」に「なう」が付けられる場合、「○○」は現在進行中であり、その他の時間軸と自分の行動を表現する言葉と重複して使用することはタブーとなる。

 で、「なう」を見て少し引っかかるのは。「新宿駅なう」という使い方であれば問題ないのだけど、例えばtwitterで「お仕事なう」「ラーメンなう」「映画なう」と書かれていた場合。この人たちはお仕事したりラーメン食ったり映画観たりし「ながら」twitterしている、という意味と捉えていいのかどうか。「ラーメンなう」と書かれていた場合に「お前ラーメン食うかtwitterするか、どちらかにしろよ…」と心の中で突っ込んでいいのかどうか。ということ。
 まぁそういうところが気になって今更意味を調べてみた。途中でどうでもよくなったが、もしそういう意味どおりなのだとしたら、何かしながらtwitterしている人が世の中多過ぎかも知れない。

 でも、よく考えると。
 twitterで「○○なう」と呟いている人は、正しくは皆「twitterなう」のような気がする。


■2010/12/28 火
 かつて自分が離れたものと夢の中で再会する。夢の中の自分は再びそこから離れた。抱いた感情も当時の再現のように、そのままに。むしろ、夢の中の自分の方が迷いが無かった。よかったのだと思う。行動も、感情も、現実の自分と夢の中の自分とで整合が取れていたことに、安心する。

 さぁ年末年始、どうしよう。
 取り合えず、年賀状を買って帰宅する。まだ全く手をつけていない。にもかかわらず、真っ白な年賀状を買ってきてしまった。で、図案どうしよう…と先ほどまで考えていた。

 とりあえず、アイデアだけなら幾つか浮かんだので紹介。


1 図柄とメッセージを兼ねてQRコード化してみる。
  (実際に読み取り可能ですが、大したこと書いていません。)



2 少し捻って「うさぎの足跡」の絵柄にしてみる。
  (うさぎの足跡は何となくうさぎの顔をしている気がする。)


3 年賀状がインクジェット印刷対応だし、せっかくなら写真で。
  (手袋うさぎ、子供の頃やったなぁ。ただしこれは軍手)



 以上。明日から真面目に考えよう。


■2010/12/29 水
 しばらく使っていなかったプリンターは、黒、青、赤、黄の4色のインクのうち、黒と黄色が出なくなっていた。ヘッドクリーニングを何度か試しても改善しなかったので、プリンタヘッド部分を取り外して分解。恐らくは放置していたことによる目詰まりだと思われるので、パーツクリーナーで派手に洗浄する。ヘッドは基盤と繋がった部品なのでどうかとも思ったのだけど、もう既に「壊れたら修理よりも買い換えた方が得」な年代のプリンターなので、直れば儲けもの、直らなければそれまで、の勢いで思いっきりやる。結果、黄色以外はちゃんと出るようになった。年賀状は黒のみなので印刷には影響なし。昨日の案は、QRコードのみ採用して住所脇に印刷。他は没…。取り合えず印刷「のみ」完了させる。

 夜になってプリンターと再度格闘する。手指をカラフルに染めながら頑張ったけれど、黄色が出てくる気配はなし。諦める。よし、今日からお前はモノクロプリンターだ。
 それから、自分に少しいいことをしたい。そう思って、近くにある日帰り温泉へ行ってきた。あるのも知っていたし、何度もその前を通ったこともあるのだけど、まだ行ったことがなかった。というより、こちらに住みはじめてから、ドライブ中を除いて温泉だとか銭湯だとかサウナだとかに行ったことが、そういえば無かった。意外といえば意外。けれど、考えてみたら自分は意外と自分が今住んでいる近所のことを知らなかったりもする。
 行ってみたらこれまた意外と良かった。源泉かけ流し、露天あり、洗い場も広いし浴場も広い、駐車場も広くて値段とのバランスも良い、と。日本全国、それこそもう数知れない日帰り温泉を利用している自分の基準に照らし合わせても非常に良かった。今年の自分にお疲れさまのご褒美な気分。

 風が冷たい。外へ出て車に戻る間、ふと自分が旅の途中のような錯覚を起こす。けれど、これから向かうのは車中泊場所となる道の駅などではなく、自分の部屋。
 そういえば。親元を出てからこれまで、新年を自分の現住所で迎えたことがない。このまま何処へも出かけずにいれば、今回が自分史上、はじめてになる。でも、どうしよう。自分は今年のような年末年始の過ごし方を、そういえば知らない。まぁいいか。自分のことは。
 空を見る。天頂にオリオン、少し下がって北斗七星が見える。年末年始は荒れ模様らしい。雪でも降るだろうか。降るとしたら雪だろうか。霙だろうか。年末だというのに、まだ霙も降ってないなぁ…などと、星を見ながらそんなことを想っていて、ふと、霙ではじまる宮沢賢治の詩を思い出す。そうだ。今年も色々あったけれど、お葬式がなかった。そのことは、よかったなぁ、と思う。

 帰ってから、コーヒーで温まる。しばらく沸かした湯の火をとめ、コップを出して少しお湯を注いでおく。ケトルをコンロの上に戻し、湯が静まるまで置いておく。その間に、ドリッパーにフィルターをセットし、この間買ってきた豆をミルに入れ、まだ冷えたままの手でハンドルを回す。ゆっくりと、ゆっくりと。コリコリコリ…と。豆を挽く。そうしながら想うこと。ひとつ、ふたつ…。
 挽き終えた豆をフィルターに入れ、整えお湯を少し注ぐ。綺麗に膨らむ。いい香り。
 それからまたゆっくり、ゆっくりと。一杯分のお湯を注いでゆく。

 年賀状は、明日書こう。


■2010/12/30 木
 街は相変わらず賑わっている。けれど、この街も随分人が減ったことだろう。夕暮れ時に本屋へ立ち寄ってから、オフィスビルの地下にあるカフェへ。おひとりさまですか。喫煙席と禁煙席がございますが。どっちでもいいなぁ…と思いながら、どっちが空いてるか見渡して、店奥の喫煙席にする。そうして一番奥の角の4人掛けの席を独占する。小腹が空いたので、パスタとコーヒーのセット、サラダ付き。食べるものだけ食べてから、テーブルの上に過去の年賀状と来年の新しい年賀状を広げる。そうして1時間少々。年賀状を書き上げる。
 自分の向かい、反対側の角に座っている男性。見ると、彼も机の上に年賀状を広げて何やら書いていた。仲間発見。その彼を見て、なのか、自分を見て、なのかは知らないけれど、違うテーブルでは男女が年賀状の話をしていた。年賀状ってさぁ、年明けてから書くのがスジじゃね? というようなこと。
 過去に元旦に祖父が亡くなったこともあり、自分もそう思っていたことがある。年賀状を書いて、年内に投函してから元旦に届くまでの間。自分になにがあるのかは判らないのだから、と。

 ちょっとその辺にこだわったこともあるのだけど、最近は全くこだわらなくなった。
 年賀状というのは何より、相手の元旦に届くのが相手にとって一番いい。まぁこの時期書いて元旦は無理なのだけど、恐らく正月気分のうちには届くだろう。
 結局は年賀状というもの。相手の正月のために書くものなのだ。もし、年賀状を書いた年内の日付から、年賀状が届く元旦までの間に、自分に何があろうとも。自分は相手の正月のためにその年賀状を書いたのだから許してくれよ、と。
 あと、自分には年賀状を送らなかった相手に届いたとしても、できるだけ正月の早いうちに相手が受け取った方が、自分にも返しやすいだろう。というのも少々。

 そういえば。いいかげん成人の日くらいになって、自分が送っていない相手から年賀状が届いたことがある。仕方ないから余りの年賀状の中から増刷して返したのだけど、もうその時、お年玉くじの発表が終わっていた。
 で、その余りの年賀状の中にたまたま「切手シート」が当たっている年賀状があったので、あえてその年賀状で送ったことがある。「↓当たったからやるよ」と。
 そんなこともあったなぁ、と考えているうちに、先ほどの二人の話題は「でも最近は年賀状もメールだから…」という感じの内容に移っていた。確かにそれだと時期的なこと考えなくてもいいやね。

 帰りに降りた駅の駅前郵便局で、書き上げた年賀状を投函する。全て無事に届くだろうか。そういえば、もうこちらに来て1年以上経った。前の住所からの転送期限は、もうとっくに過ぎている。恐らくは、自分に宛てられた年賀状も、そのいくつかは「あて先不明」で差出人の元に届くような気がする。


■2010/12/31 金
 部屋の片付けをした後で、そういえばしばらくゴミを出せないことに気付く。もっと早くやっておけばよかった。年越しといえば蕎麦だろう、と思って、蕎麦と蕎麦つゆを買ってくる。帰ってから、ああ、正月なんだし雑煮の材料でも買ってきたらよかったな、と思う。でも雑煮ってどう作るんだっけ。まぁ見よう見真似でそれらしいものはできそうだけど、やったことがないのでよく判らない。なので、先ほどまで紅白を垂れ流したまま雑煮のレシピをネットで見ていた。基本的な味付けはともかく、具材や入れる餅の形など、地域で様々なものらしい。中には「あんこが入った餅」を入れるところまであるそう。
 というくらい特に書くこともないのだけど、今はとりあえずお風呂にお湯を入れながら紅白。トイレの神様が終わったところ。しんみりする歌。そういえば何年か前の紅白。「千の風になって」を生月島の誰もいない道の駅、ナビの画面で見た時もしんみりしたなぁ、と。ちなみに今年は車中ではない。自宅である。

 よいお年を。さ、あと一時間、どう過ごそう。
 紅白はいきものがかりへ。まずは、お風呂だ。


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