Diary


平成二十三年 睦月


■2011/01/03 月
 ふと聞こえてきた除夜の鐘の音につられて玄関先へ。場所はわからないのだけど、どこか遠くでボーン…と鳴っている鐘の音。実家の付近にも除夜の鐘を突く寺なんてなかったし、寺で年越しもしたことがないので、除夜の鐘を生で聞くのは始めてかも知れない…なぁ、とか何とか色々と思っている間に年越し。

 年越しはまたドライブに行って3度目の出雲大社…というのも年末の休み前には考えていたのだけど、今年の年末年始は日本海側全面大荒れとの予報だったので、さすがにその気にもならなかった。
 一応プランはあった。年末のうちに下関まで走り、残された海岸線未走破区間の下関〜萩までの海岸を走り、30日夜に出雲大社近くの道の駅「大社ご縁広場」で車中泊。31日の朝一番に大社に参拝し、鳥取砂丘に寄り、お気に入りの伊根に寄り、琵琶湖周辺で年越し。元旦の道路の空き具合を活かしてそこから一気に帰宅、というもの。もうこの辺り、プランを脳内だけで組み立てることができるようになった。

 けれど今年、そのプランで行っていたら、年末の山陰大雪で大変なことになっていただろう。出雲大社を出たところで国道9号線が大雪で通行止め、迂回しようにも途中から大渋滞、そのまま他の1000台と共に米子辺りで雪に埋もれて立ち往生…になりかねなかった。
 というより、大雪の情報を山陰へ入る前に知ることができれば、自分は間違いなく、萩まで行って日本海側から瀬戸内海側へと雪を回避するコースをとるはず。冬装備はそれなりに万全(冬タイヤ、折りたたみスコップ、長靴、手袋や耳あてなど防寒装備、バランス栄養食・飲料類3食分、燃料は半分切る前に給油する、等)でも、自分はこちらでは雪道を徹底的に避けるようにしているので。

 とにかく、ニュースを見る限り、今年はそちら方面に動かず正解だったと思う。
 自分はこうして、例えば天気が悪いと予報された場合に行こうと考えていた所へ行くのを取りやめる、ということがよくある。というより、天気が悪いとされているのに「取り合えず行くだけ行ってみるか」ということがあまりない。行く前に行くのをやめる。ここで他人が絡んでいたり、どこか予約を入れていたりする場合はまた難しいのだけど、単独で行動する時はいつもそう。これは多分、釣りから身に付いた習性なのだと思う。
 それは慎重さ、ある意味、臆病さや行動力の無さ、なのか。まぁ他の人が見てどうとられても構わないのだけど、自分は少し違うことも思う。
 行動しないことを決める力もまた、行動力なのだ。行動に向かっている流れの中で行動しないという決断をすることは、往々にして行動することそのものよりも強い行動力を必要とするのかも知れない。

 あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願い致します。


■2011/01/04 火
 仕事始め。ガラガラとまではいかないけれど、まだまだ空いている通勤電車。帰りの電車では大きなバッグを持った…というか、引っ張っている人をちらほら。そういえば、あのキャスター付きの、手で引っ張って歩けるトラベルバッグ。あれを自分は「カラカラ」と呼んでいるのだけど、正式名称は何と呼ぶのだろう。飛行機で移動の時はあれ欲しいなーと思うことがある。

 帰り道、月の無い夜空を見上げる。オリオン座が綺麗。赤いベテルギウス、オリオンの足元(?)にシリウス。もう一個は…プロキオンだっけ。名前を忘れたのだけど、その三つの星から成る冬の大三角形も綺麗に見えていた。
 と、違う違う。見ようとしていたのは「うさぎ座」である。
 今年がうさぎ年でもなければその存在をすっかり忘れていたマイナー星座、自分の干支がうさぎ年でもなければその存在すら元より知らなかったであろうマイナー星座、なのだけど、実はうさぎ座はオリオンのすぐ足元にある。…というより、これはオリオンに狩られたうさぎなのか、というくらい、オリオンに踏まれているような可愛そうな位置にある。
 オリオンが見えているならうさぎ座も既に視界に入っているので、捜すまでもなく「うさぎ座」の辺りを見る。まぁ元々ぱっと見すぐにウサギを連想させる形でもないのだけど、ここの明るさではその位置、星が三つしか見られず、ただの三角形になっていた。がんばれうさぎ座。

 みなさまも是非。オリオン座を見かけた際には、うさぎ座のことも思い出してあげて下さい。


■2011/01/08 土
 ネットいじりついでに、ふと思い立って部屋捜しをしてみた。転勤が決まった、とか、特に現住所で不満がある…などいうわけではないが、強いて言うなら、

 1 現住居は2年契約で入居したので、3月一杯で契約更新の時期になる。
 2 一度は東京都民になってみたい。都内はほとんど未開拓なので、都内に拠点も欲しい。
 3 通勤時間を削減(今は電車+徒歩で1時間)したいなぁ。
 4 現住所に飽きてきた。

 といったところ。できれば東京23区内で、といろいろ捜してみる。主な条件は現住居と同じ「駐車場あり」「25平米以上」「最寄駅から徒歩15分以内」といったところで、とりあえず検索。相場が安いエリアを幾つか見つけてゆく。足立区あたりがお得な感じ。でも、現在の家賃が47,000円、駐車場が6,000円と比較すると、家賃はプラス1万5千円〜2万円、駐車代は倍くらいが相場になる。
 それらの物件から、駅までの距離などを考慮して幾つかに絞る。地図を開いて場所を確認。うん、職場とも近い。でも、交通機関が直線状に通じていないので、かなり遠回りする感じ。じゃあ、この駅から職場の最寄駅まで何分くらいかかるんだろう…と乗り換え検索してみる。乗り換え時間含めておよそ25分。現在も乗車時間は30分少々なので、電車に乗っている時間はあまり変わらない。
 じゃあ引っ越してもあまり意味ないなぁ…と思っていたが、ふと、地図を見て、その駅から職場までの実際の距離が、直線で3キロ、道なりでも5キロほどしかないことに気付く。どうしても都市部の地図は縮尺を錯覚してしまい、距離を実際より長く感じてしまう。5キロなら自転車で充分。30分もかからない。

 自転車通勤かぁ。こちらに引っ越してくる時には全く思いつかなかった選択肢だ。どうもこちらでは通勤イコール電車通勤という先入観があるみたい。これは盲点だったなぁ、と思う。

 何となく…で調べ始めたつもりが、何だか面白くなってきた。
 もう夕方から5時間くらい熱中して部屋捜ししてしまった。さて、どうしたものか。


■2011/01/09 日
 雪も降らないこの街なのだけど、年も明けてそれなりに冬らしく。もうとっくに葉を落とし、乾いた冷たい風に吹かれながら佇む街路樹の脇を歩く。そのあまりの静かさにふと想う。彼らは本当にこの季節、厳しい寒さを耐え忍んでいるのだろうか。ひょっとしたら、春から秋まで休まず生き抜いてきた樹木にとっては、この季節こそ休みの時なのかも知れない、と。
 暖かい季節。たっぷりな陽射しと水に、葉を繁らせる樹木。暖かい季節は、樹木にとっても幸せな季節。けれども、葉を繁らせることでより広く外界に触れるようになることは、より多く、外界からのストレスも受けるようになるということだろう。葉を食べる虫の心配もしなければならない。何より夏の間はより多くの養分を吸収して蓄え、秋の実りに備えなければならない。けれど成長もしなければならない。
 そんなこんなで緊張して生き続けているのだから、当然、樹木もストレスが溜まるだろうし、何より疲れてくるだろう。生きているのだから、永遠に気を張り続けているわけにもいかない。休息が必要だ。生きる、ということは、疲れることなのだから。
 暖かい季節に気張って生きてきた分、樹木は冬に休むのだ。いや本当は休みどころではなく、必死で寒さに耐えているのかも知れない。けれど樹木が冬の寒さを、人と同じように辛いと感じているのかどうか。その辺りもよくわからないこと。ただ、今の自分にとっては、冬の樹木の立ち姿。春まで休息中の姿に思えてしまう。

 人生には気を張る時が必要だ。同時に、休むことも必要だ。何かと前進ばかりが要求される社会だけど、前進ばかりでは人は生きてゆけない。生きてゆくことに疲れてしまう。冬の樹木のような休みが、人にも必要なのだろう。
 時々。そうして休んでいる人に対して「前進しろ」「動け」という意味で「頑張れ」と励ましてしまうことがある。そういう相手に対してそうした「頑張れ」は禁句だとはよく言われるのだけど、なぜそうなのか、という理解に先行して、対処の方法ばかりが広まっているような気もする。行動にはエネルギーが必要なのだ。そのエネルギーが枯渇している状態で人が行動することはできない。
 けれど、そのエネルギーを失っていない者。または、そのエネルギーの枯渇を経験したことがない者は、なかなかそのことに気付かずに、ついそうした意味での「頑張れ」を口にする。その「頑張り」がまるで意思のみの力によるものであるかのように。いや、仮にその「頑張り」が意思の力だとしても。意思すら尽きるものであるという、そのことも知らずに。

 それはひょっとしたら、冬の樹木に「葉を繁らせ花咲かせ」と、言うに等しいことなのかも知れない、と。そんなことを思った冬枯れの街。春までゆっくりお休み。樹木は何も語らず、風に枝先だけがビュウと鳴る。

 風が強くなってきた。
 最近、頑張れ、という言葉の遣われ方に違和感を感じる。どうしてだろう。


■2011/01/12 水
 さすがに最近は寒い。部屋の中が寒い。暖房がエアコンしかないのと、家の造りがこれまで住んでいた寒冷地向けではないので、どこからか寒気が進入してくる感じ。帰ってくる時間が遅いと、寝る時間になってもまだ部屋が暖まり切っていない。
 夜帰ってきてから、少しでも、とエアコンの蓋を外してフィルターを掃除する。結構ほこりが詰まっている。それをサッシブラシで擦って綺麗にしようと外に持ち出し、玄関先で作業しようとする。その時、ふと殺気…とも違うのだけど、違和感を感じる。視線。…頭上? 何だか森の中で頭上の枝にいるアオダイショウの気配を感じた時に、近いような感覚。
 上を見る。星空、電柱、電線、向かいの家の屋根。見回す。何もいるはずはない。それでも気になって何度か見回す。ふと、夜空にかかる電線の五線譜の中。所々に灯る街灯より上の、周囲の家の二階の屋根より高い、その5本並んだ電線の中に、何かいるのを見つけた。大きい。ちょっとしたワシやタカ、大型のフクロウのサイズか。でも違う。縦長の鳥のシルエットではなく、電線に沿って横長のシルエット。あ、動いた。
 電線の上にいる、獣? 自分の頭の中で、そのような獣をあれこれ検索する。リス、モモンガ。それより遥かに大きい。サルは…さすがにいないだろう。ネコやタヌキやアライグマ…が、電線の上にいるはずもない。頭の中でヒットする獣を見つけられないまま、近づいてみる。けれど、周囲の暗さと高さとがで、その姿は朧げにしか見えない。ただ、相手もこちらを見ているのはわかる。電線の上で身を低くして、こちらを伺っている。体長だけでも50cm以上はある。そして、その体から垂れ下がった細長い尻尾。
 目が慣れてきた。ネコっぽい顔、その鼻筋に、白い模様が一筋。そこで閃く。ああ、こいつがハクビシンだ、と。そしてしばらくそいつとにらめっこ。さすがに高度の差が7メートルくらいあるのと、居る場所が場所なので、相手はこちらを警戒しつつも慌てて逃げたりはしない状況。ゆっくりと電線の上を歩き、最寄の電柱に向かってゆく。尻尾がよく動く。電線の上はいかにも歩き慣れている、という感じ。器用なやつ。
 そうしてしばらく。ハクビシンは電柱に辿り着き、電柱の上のトランスかどこかの陰に身を潜めた模様。こちらも寒くなってきたので、フィルターの掃除を済ませて部屋に戻る。戻ってしばらくネットでハクビシンを検索し、ああ間違いないな、と確認。

 意外と普通に居るものなのか珍しいものなのかは判らないけれど、大型の割りにあの行動パターンじゃなかなか人目には触れないだろうなぁ、と思う。都市への適応…なのかねぇ。逞しい。


■2011/01/16 日
 実はもう日付が変わって月曜日、阪神大震災の日。
 さきほど、夕食を食べた。ご飯だけは炊きたてで、あとはレトルトのグリーンカレー。食後にはコーヒーを、と、豆を挽いてコーヒーを淹れる。今は食後で、そのコーヒーを飲みながら。

 なぜこの時間に、しかも寝る時間なのにコーヒーまで付けて夕食なのか、というと。
 金曜日、ずっと軽い頭痛と眩暈がしていたので終業時に職場で体温計を借りて計ってみると熱が37度オーバー。咳や鼻水などの症状も無かったので奇妙な、と思いつつ、そのまますぐに帰宅する。電車の中でも、一回転とまではいかないけれど1/3回転くらいの眩暈が酷く、帰宅後に再び計ってみると38度オーバー。そこから寝込んでしまい、土曜日の昼過ぎに目覚めた…というか、活動可能になった時点で38.6度。また寝込んで今朝起きた時点で37.4度…と、そんな状態。
 困ったのは発熱が唐突すぎて食べ物を買いこむなど全くしていなかったこと。といっても二日間それほど物を食べられなかったので、水分以外では、ヨーグルトにリンゴジャムを混ぜたもの、リッツにリンゴジャムを載せたもの、フルーツゼリー、とろろ昆布と鰹節にお湯を注いで醤油で味付けした即製スープ、と。冷蔵庫と戸棚の中のもので凌いでいた状態。リンゴジャムが一瓶残っていてよかった。

 今日もその後は夕方までただ寝ていた。目覚めたのは少し変な夢を見たから。
 自分はヨーグルトを食べたのだけど、その中に姿は見なかったけれど虫らしいものが入っていて、それを知らずに一緒に口にいれてしまい、虫は口の中で動き回って自分の喉の奥に潜りこもうとする。自分は咳をしてそれを吐き出そうとするのだけど、咳をするための空気を得るために喉を開くとその隙に虫は喉の奥へ奥へと入り込んでくるので呼吸もままならず、やがて咳をするための空気も肺の中に残らない状態になり、ついに虫の侵入を許してしまう。
 虫はその後、鼻腔からかどこからか自分の頭の中に進入し、脳内を這い廻る。実際に進入したのが虫かどうかは判らないのだけど、脳内を何かが動き廻っている、という。その感覚が夢か現かわからないままずっと続いていて、気がついたら目が覚めていた、という感じ。

 どうやら実際に頭の中に虫はいないらしい、と理解した後、体温を計ると36.6度。目を動かすと何だか目の奥辺りに鈍痛が走る以外は、特に咳、喉の痛み、鼻水などの症状は無し。頭痛もなくなっている。それよりも寝過ぎたことによる肉体的なコリの方が酷くてまたしばらく身動きできなかった。本当は今週末、初詣に行きたかったのだけど。

 というわけで。夜になってから洗濯をして、お腹も激しく空いてきて物も普通に食べられそうになったので、ご飯を炊いて。その間にお風呂に入って丸2日間そのままだった髭を剃り落としてさっぱり(いやー酷い顔になってました)して。もうこんな時間だけど、2日間ずっと荒んでいた食事を休日の最後くらいはちゃんとしたもの摂りましょう、と。レトルトだけどカレーをちゃんと盛り付けて、コーヒーも付けて。多少食生活的には無理があっても、乱れた食事だけはリセットしておきたく、この時間の夕食にしたのだ。

 現在はもう、症状らしいのは寝過ぎによる上体の痛みのみ。
 体温2度くらい上がっただけであそこまで不調になるとは、体とはつくづくデリケートなもの。思えば、11月から月イチで体調を崩してしまっている。11月のは風邪らしかったのだけど、先月は具合の悪さのみ、今回は頭痛と熱のみ、という、風邪だかなんだかもよく判らない症状。何かしら、自戒しなければならないのかも知れない。

 己の意識より上位にある己の精神は、唯一、肉体を通じて己の意識に訴えかける。
 いまのおまえにはどこか、繕う必要のある綻びがあるよ、と。


 冷たい風に、乾いた空気。この街の寒さも本格的になってきました。
 皆様も、体調にはくれぐれもお気をつけ下さい。


■2011/01/17 月
 昼休み、ニュースで阪神大震災の映像が流れると、もう16年経つのか、当時何してた?というような話題になる。自分は学生、短大1年だった。逆算して、あれ、と思う。その年はちょうど自分が成人の年でもあったのか、と。
 テレビをあまり見ないので判らないのだけど、今年も例の荒れる成人式っぷりが報道されたのだろうか。テレビは成人式になると決まって、成人式の会場でやんちゃする新成人を取り上げて、それに対して色んな人が色んな事を述べたりする、何だか決まった流れがあるような気がするのだけど、自分は何というのだろう。その波に違和感を感じる、というか。
 自分は多くの人が糾弾するほど、成人式の会場で暴れる新成人に対して悪いイメージは持っていないのだ。確かに大人気ない行為、目に余る行為はあるだろう。けれど、根本的に彼らは、「成人式」という会場においてそれをしているのだ。つまり、参加態度はどうであれ、社会が用意した成人式という舞台には、ちゃんと上がっているのだ、ということ。ある意味、彼らは彼らなりに「成人式」に意味を見出し、それなりに社会の枠組みの中でやんちゃしているのだ、とも言える。

 荒れようが荒れまいが、社会側が用意した式の参加者であることには変わりないのだから。
 社会側も、もっと暖かい目で見てもいいのに…と。多少は思ったり。

 けれど、そうではない新成人もいる。成人式などという節目に全く意味を見出すことができず、そんな式に参加する意思などまるで持たない者。今更ンな式出たからって何が変わるかよ、と。自分もそうだった。自分は成人の日に何をしていたか、というと、地元にも帰らずに短大のある街のデパートで早朝の商品搬入のアルバイトをしていた。運び込んだ荷物の中に、当日来店した新成人に配られる紅白のお餅だったかお饅頭だったかがあり、それを何だか、もの凄く下らないような気持ちで黙々と運び込んでいたのを、そういえば憶えている。
 当時の自分は、短大に入る前の無職の一年、過ごした社会があまり綺麗なものではなくて。大人の世界、これから自分が出てゆくことになる社会にもの凄く醒めてしまったような時期があり、そこから抜け出して短大に入り、何というか結局は今の自分に繋がる新たな自分のあり方を、その前の一年と比べると信じられないほど穏やかな学生生活の中で、自分なりに必死に模索していたような時期、でもあったのだと思う。あの社会には絶対に戻らねェ、と。格好良く言えばそんな感じで。でも何だかんだ言って、一通り嫌った後は次第に、好きにもなれそうな心境に、変化していったような気もするのだけど。

 話を戻して。職場で聞く様々な人の当時の話。新米だったり就職前だったり住んでた場所も状況も色々なのだけど、その中には当然、震災直後から現地で対応することになった人もいて、生々しい話を聞くこともある。そして同じ年の3月には東京の地下鉄の事件。その時期になると今度はそちらについて、生々しい話を聞くこともある。そして話が行きつく所は大体

 −平和がいいね。

 −ああ、やっぱり平和なのがいいね。

 と、いったところで。
 「平和」というのは決して「戦争」の対義語ではないのだと思う。


■2011/01/19 水

自分のよいところを計るものさし

1--2--3--4--5--6--7--8--9


他人のよいところを計るものさし

1----2----3----4----5----6


自分のわるいところを計るものさし

1------2------3------4------5


他人のわるいところを計るものさし

1--2--3--4--5--6--7--8--9--10


ばらばらなものさし。
人のものごとの評価の尺度って意外とこんな感じなのかも知れないな、と、ふと想う。


■2011/01/26 水
 満員電車のドア前に押し付けられて、曇る窓の外を眺めながらしばし。快速電車はやがて乗り換えの乗降客の多い駅に停車して、反対側のドアが開き、ぞろぞろと人が降りてゆく。解放感もつかの間、新たに乗り込んできた人々がこちらのドア側に流れ込んでくる。その隙に、体の向きを窓の方から車内側へと向ける。その際、新たに乗り込んできてドア脇のスペースに立った男性の足元に携帯電話が落ちているのを見つけた。
 男性は気付いていない。ねぇ、それあなたのかい? その男性に言う。ああ、いや、違いますねぇ。自分はそれを拾い上げる。まだ反対側のドアは空いているのだけど、もう一通り人は降りて、新たな人が乗り終えた状態。ホームを流れる人波を眺めたけれど、自分は近くにいたにも関わらず、それまでその電話が落ちていたスペースに立っていた人をそういえば見ていなかった。
 そのうちドアがすぐに閉まり、電車が動き出す。仕方ないので電話を持った手を掲げて「あー、携帯電話落とした人いるかい?」と、車内に声を掛ける。付近にいた人はこのやり取りを見ていたので、ぷるぷると首を降る。何人かは自分のポケットを確認している。けれど、声を上げる人もいない。
 ドアに背をもたれさせながら、いるわけねぇーか、と、一言漏らす。ドア脇に立っていた男性も「やっぱり、降りちゃった人ですよね」と。しゃーないすね。次で降りて届けますわ、と。男性も「そうですね。それがいいですよね」と。ドア前の手すりの吊り革を掴まって立つ女子高生二人が、何かしら興味がある様子でクスクスとこちらのやり取りを伺っている。
 中を見ても仕方ないし、と、携帯は手に持ったまま。ぶらぶらしているストラップを見ると、メロン熊。北海道夕張市に生息するマスクメロン柄の熊のマスコット、である。実は自分もこの秋に行った時に買ってきたもの。僅かながら持ち主に親近感を抱きつつ、あまりこちらでは知名度ないだろうし、いい目印になるかも知れないなぁ…と思っていると、携帯に着信。
 来たね、多分。そう呟くとこちらを注視する男性と女子高生。車内だけどそういう状況だし、まぁ周りも理解してくれて(楽しみにして)いるでしょう、ということで、電話に出る。もしー? 「あ、その携帯落としてしまった者ですけれど…」と、男性の声。「ああ、さっき車内で拾って走行中。次の○○駅で届けるから」と伝えると、「ふわぁ、お願いします! こちらから駅にも連絡しておきますので…。あ、私○○という者ですので…」と、心の底から本当に良かったぁ…というような口調。「○○さんね。はい了解」と、電話を切る。
 携帯を閉じつつ顔を上げると、やはりさきほどの三人の顔がこちらを向いているので、「…と、いうわけ、で。本人でした!」と〆の挨拶をする。男性が、うん、よかったよかった、という顔。女子高生が「きっと大慌てで取りにくるんだろうねー」「もう次の電車乗って向かってるかもねー」と、そんなおしゃべりをしている。

 そんなこんなで次の駅着。降りて幾つかある改札口のうち、最寄の改札の窓口に届ける。拾った場所と聞いた名前と、後で駅に連絡するって言ってたわ…ということを伝えると、係りの人が「ああ、でも駅の電話番号って公開してないですからできないですね」と。「んじゃあ何、こういう時はどこにかけるものなの?」と訊くと、「忘れ物の問い合わせセンターありますから、そちらの窓口になりますね」

 そうなのか。じゃあちょっと相手も手間取っているかもねぇ、と。
 そんなやり取りをして、特に手続きもなくその係の人に携帯電話を預けて終了。

 で、それはいいとして。見慣れぬ改札口を前に、ふと気付く。
 そういえばこの駅。別に自分の降りる駅でもなんでもなかったんだよなぁ…と。


■2011/1/26 水 追記
 その後、ふと思い出す。自分が北海道から本州へ渡ってきた時のこと。大洗港からフェリーで上陸し、引越し先へ向かう途中、立ち寄ったコンビニで携帯電話を落とした。しかも車に乗り込む際に押とした上に、駐車場から車を出す際に車で挽いてしまっていた。それでも、液晶画面がズタボロになりつつも携帯電話は何とか機能し、気付いて公衆電話から自分の電話にかけてみると、そのコンビニの店員さんが「届けられていますよ」と。
 引越しの途中、という、その状況が状況でもあり、もう本当に、あの時に自分の電話を拾って届けてくれた見知らぬ誰かさんへの恩、忘れることはなかった。でも相手は名前も告げず立ち去った見知らぬ誰かさんであり、その借りはその人に返すこともできぬまま、借りとして自分の中に残ったままだった。それをまぁ、自分は今回、ちょっとだけ返せたのかも知れないな、と。

 生きていると誰しも、見知らぬ誰かさんからこうした恩を受けることはあるだろう。大きなものから小さなものまで。それは今回のようなことに限らず、運転中に誰か他の車が道を譲ってくれた、というような、そういうささやかなことでもいい。
 人から受けた恩は、大抵はそれを受けた相手に返せばいい。それでクローズしてしまう。けれど、見知らぬ誰かから受けたそうした恩は、決してその人に返すことはできない。それはその先ずっと、自分の中に借りとして残り続ける。
 そうした見知らぬ誰かさんへの借りは、どう返せばいいのか。今回の件で、自分はひとつ、はっきり判った気がする。見知らぬ誰かさんから受けた恩は、見知らぬ誰かさんに返せばいい。その時の自分と同じような状況で困った人がいたら、自分がそうされたのと同じように、その人に返せばいいのだ。
 その借りの返済期限を一生、と捉えるのなら。見知らぬ誰かさんから預かった借りを、また見知らぬ誰かさんに返すチャンスは、明日にでも、一年後にも十年後にも、必ず巡ってくるもののような気がする。そのチャンスに、見知らぬ誰かさんから受けた借りを、見知らぬ誰かさんに「ちゃんと」返してゆくこと。自分の中に留め続けたり、ただ受けた相手に返すことばかり考えるのではなく、その借りを世の中にちゃんと返してゆくこと。そうして最初に受けた恩を、世の中に巡らせてゆくこと。そういうことが、大事なのだと思う。

 見知らぬ誰かさんから受けた恩は、見知らぬ誰かさんへ返してゆくこと。
 そうして、世の中を巡らせてゆくこと。決して自分の所で、その流れを止めないこと。
 返済の期限は生のあるうちならいつまでも。利子など考えなくてもいい。受けた分だけ返せばいい。
 そして、その返済のチャンスは、必ず巡ってくるものなのだ。

 自分には、返してない借りがまだまだたくさんあるよ。


■2011/01/29 土
 何だか最近、週末はいつも安静が必要な状態。今週は、週の頭に重量物を左手一本で捌いたのが原因で肩を痛めている。部位は肩甲骨の内側辺り。痛みは最初その周辺だけだったのだけど、すぐに左の肩から首筋にかけて痛むようになった。寝違えた時のように首を動かしても痛みが走り、寝ていても頭が動いた時に痛みで目覚めるほど。特に頭を上に向ける動作が痛むので、ものを飲んだりうがいしたりする動作がしずらい。食べた時に物を飲み込む時にも痛む。
 医者にかかると、肩甲骨の内側の位置は湿布薬の効果が届きにくい位置になるらしい。でも、その周辺の痛みは「肩甲骨の痛めた部位を周辺がかばおうとして無意識のうちに頑張り続けている結果、ひどい肩コリのような状態になったもの」だという。
 あまり痛み酷かったら左手吊りましょうかね? いや、さすがにそれは大げさだから…、と遠慮する。周りにも湿布薬貼っておいてください。そちらの痛みには良く効きますので、と。

 「あ、前に歯医者で貰った痛み止めあるんだけど、こういう場合効くの?」訊こうと持ってきていた薬を見せる。「あぁ、それはいい薬ですね。酷い時は飲んだらいいですよ。期限もありますし、せっかくだから使ってしまってもいいかも知れないですね」と。

 なお、腰痛にしても肩こりにしても、湿布薬というのは、その部位の痛みの原因の根本的な治療を行うために貼るものではない、とのこと。肩こりや腰痛、特に慢性的なものは、まず最初に小さな異常が起こった時、その部位をかばおうとして知らず知らずのうち周辺の動きに制約や無理が加わり続けた結果、その周辺が「凝って」しまい、症状が拡大してゆくものらしい。
 なので、湿布薬が使用される主な目的は、最初のトリガーとなる痛みの症状を軽減することで、周辺にかかる制限や無理を緩和し、二次的な「凝り」による症状の悪化を防ぐことにある、のだそう。
 結局は湿布薬という薬もそれはあくまでも治療のサポートのために使用されるもので、原因の根本的な治療は自己治癒力によるしかないのだ。

 というわけで。こうした症状の場合、一番痛みが重いのは起床直後で、一番痛みが軽いのは入浴してコリがほぐれた寝る前の時間になる。で、患者さんの湿布薬を貼るサイクルをみると多いのが、一番痛みが重い起床直後に湿布薬を貼り、一日を過ごし、入浴前に剥がし、その後は痛みが軽減しているのでそのまま就寝、朝になって痛い場所に再び貼る、というもの。
 けれど、医師的にはそれはあまり好ましくなく、入浴直後のコリがほぐれた一番痛みの軽い時に湿布薬を貼り就寝するのが最も効果的な湿布の仕方になるのだそう。そうすることで就寝中のコリと痛みの発生を抑え、睡眠の中で体に本来の痛みの原因となっている損傷箇所の治療に専念させるのがいいのだと。
 そうした話に非常に納得したので、今週はそのように生活していた。シャワーはやめてお風呂にして、何となく入浴剤も買ってきて風呂に入り、エイッ、と貼りにくい位置に湿布を貼って寝る。その効果があってかどうか、朝イチはやっぱり痛むのだけど、首だけはようやく上に向けられるようになってきた。

 にしても。買ってきた入浴剤。「各地の温泉〜濁り湯シリーズ」だったのだけど、今日使った『登別の湯』。乳白色を想像してわくわくしながら入れてみたら綺麗な桜色が浴槽に広がり、その予想外の色に一瞬硬直した。

 …などと書いているうちに、サッカーアジアカップ決勝は延長中にゴール決めて日本が先制。
 きゃーきゃー! そのまま優勝! きゃーきゃー!
 おめでとう。みなさま応援おつかれさま。おやすみなさい。


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