kassyoku 050



『8月21日』


 今朝、早い時間に目醒めたのは、時計のアラーム音のせいでは無かった。それは寒さだった。出掛けの僕は、ハンガーに掛かっていた半袖のワイシャツを見て溜息を吐き、衣装ケースの中から長袖のワイシャツを取り出す。クリーニングから仕上がったままの姿の背広をおろし、掛けられていたビニールを裂き、ホチキスで留められたタグを取り外す。


 8月21日。2年前のこの日、僕はこの『褐色に浸る時間』を書き始めた。今日でここも丸2年目を迎えた事になる。丁度、節目の日だ。
 今日、この日。決めようと思っていた事がある。ここをどうするか、という事。書き続けるのか、それとも、止めるのか。昨日まで迷いはあったけれど、今朝。はっきりと心に決めた。

 もう、ここは終わりにしよう。

 思いつきや一時的な衝動で言っている事ではない。
 自身の限界に気付き、この日に向けて充分に考えた末に導き出した、これは結論。僕自身に対して最も誠実な結論だ。


 丸2年、という節目の日。
 次の季節の到来…変化をはっきりと感じさせた、肌寒い朝。
 ひとつの物事を終えるのに相応しい時が、来たのだと思う。

 紅緒槙歩として今まで通りの言葉を紡ぎ続けることは、この先も難しい。
 今の僕に必要なのは、見てきた世界を語る言葉ではなく、己自身を語る言葉。
 始めた頃からは全てが大きく変わってしまった。そしてまた、大きく変わろうとしている。

 今の僕は、そういう所にいる。
 季節の変わり目のような、そんな所に。


 今年の夏は結局「らしさ」を見せぬまま、次の新しい季節へと、その姿を変えようとしている。季節が織り成す世界に生きる万物もまた、その姿を変えようとしている。
 緑から黄色へとその色を転じてきたナナカマドの果実に、紅味がさし始めている。風に穂がそよぐほど伸び切った芝生の中の虫達が、日暮れの早くなった街角。ノイズのような音色をずっと響かせている。

 ひとつの季節が終わる時。季節と共に移り変わる者達。
 人もまた、季節と共に移り変わる存在であれ。


 8月21日。『褐色に浸る時間』誕生のこの日。
 僕はこの物語を閉じる事に決めた。

 単なる終わりのためではなく。

 変わる、ために

(2002/08/21)




『褐色に浸る時間』


 『一日に為すべき事を終えて、後は寝るだけになった。居間の電気も消した。今は寝室にのみ電球が燈っている。そう。僕は寝室に蛍光灯ではなく、裸電球を使っている。だから、この寝室には電球の褐色の光が降り注いでいる。』

 …この一文から、褐色に浸る時間は始まった。
 それから2年。住む街も環境も、部屋も職場も変わってしまったけれど、結局、部屋の明かりの色だけは変えていない。だから今この瞬間も、この部屋には褐色の光が降り注いでいる。もうすっかり、白色の蛍光灯の光の下では、落ち着けない人間になってしまった。

 ただ、今この部屋に降り注いでいる褐色の光。それは裸電球が燈す明かりではなく、電球色の蛍光灯の明かりに変わっているけれど。


 寝床のある部屋に、褐色の光が燈る時間。
 寝る前数時間の、褐色に浸る時間。

 この時間に書き残してきたものを、ずっと読み返していた。
 この2年間、僕は様々な物事に出会い、それを見詰め、様々な事を感じ、それを言葉に換え、書き残していた。昔や今、未来、一片の雪の結晶、草花、言葉、釣り、星、タンポポの綿毛、四季、子供や大人や老人、騒音と沈黙、虫、海、書くことについて、心、生と死、砂時計、大根、人生…他にも無数の、様々な物事。ほんの些細な物事から、捉えどころの無いような、大きな物事まで。

 それは、試みだったのだと思う。
 捉えよとする試み。整理しようとする試み。
 答えを見つけ出そうとする試み。理解しようとする試み。
 そして、自分に見えているこの世界を、外に出してみようとする試み。

 そんな試みの連続。
 それが『褐色に浸る時間』だったのだと思う。



 書き手として2年間続けてきて、その間にふっと湧き上がってきて、それからずっと頭から離れずに、残り続けていた「思い」がある。何度ふるいにかけても、その網の目から零れ落ちずに、最後まで残り続けた思い。それはずっと漠然とした形のままで、これまで明確な言葉として捉えようとはしてこなかったけれど、今日はそれをしてみようと思う。最後の試みとして。


 経験そのものは、人を創らない。
 経験の大きさや希少さが、その人の価値を決めてしまうものでもない。
 どんな大きな経験であれ、どんな些細な経験であれ、その経験からその人が「何を感じたか」が、結局はその人を創るのだ、ということ。


 人が単なるモノだけの存在ではなく、単なる意識だけの存在でもない理由。
 それは、生きている間に様々なものに触れ、その触れた様々ものから、様々な何かを感じるためなのだ、ということ。


 大多数の関心事に、自分の関心事を合わせる必要は無いのだ、ということ。
 また、自分にとっての関心事に自分以外の者は無関心だと思う、その必要も無いのだ、ということ。

 感じる心は人それぞれで、人はもっと、自分の感じる心に自信を持っていい。
 そして世の中には、感じる心を一部でも共有できる、そういう「誰か」が必ずいるのだ、ということ。


 あるものを「美しい」だとか「素敵だ」と感じる時。その美しさや素敵さ、というのは必ずしも、そう感じる「それ」そのものの中に存在している訳ではない。
 「それ」そのものが美しかったり素敵だったりするのではなく、「それ」が存在する世界そのものが、美しかったり素敵だったりするのだ、ということ。

 多くの美しさや素敵さ、というものは、その周りに存在するあらゆるものとの関わりの中にこそ、存在している。


 僕がしてきた事は、僕自身が生きている世界…僕自身の外から頂いてきたものの事を書いてきたただけで、僕が綴ってきた言葉の中にある「価値」は僕自身が産み出したものではなく、様々な姿を垣間見せてくれた外の世界の中にこそ、あるのだということ。


 …こんな言葉で上手く伝わるのかどうかは判らないけれど。
 書き手である紅緒槙歩がずっと抱き続けて、そして最後まで残し続けていた「思い」とは、こんなものだ。

 見つけてから手放さずに、ずっと持ち続けていた。
 これは「紅緒槙歩」である僕にとっての、真実の言葉だ。



 2002年 8月22日


 今、ここを終えようとする瞬間も、この部屋は褐色の光に包まれている。
 最後を締め括るに相応しい文章を書こうと前日から気負っていたけれど、いざ書くとなると、次の一行がなかなか書き出せないでいる自分に気付く。

 こういうもの、かな。
 …とにかく、最後に。

 ここを訪れてくれた人。
 そして、ここを通じて知り合った全ての人に、感謝します。
 ここに書かれた全てのものに。
 そして、ここに書かれた全てのものに出会わせてくれたこの世界。
 その縁とあらゆる繋がりに、感謝します。

 本当に、ありがとうございました。


 …さあ、そろそろ。
 2年間続けたこの長い物語に、今、ここで終止符を。



<< 049  2002_index. 
kassyoku index.   kaeka index.