kassyoku 049



『意思が持つ力の限界』


 書くための時間はあっても、書ける時と、書けない時がある。
 書けない時には具体的な理由がつく事もある。例えば最近の僕は、普段ならここに何かを書いている時間。このパソコンを使って、職場から宿題として持ち帰っていた「プレゼンテーション」の資料作りばかりしていた。

 ただ、そういう理由がある時以外でも、何かを書こうと思ってノートやモニターに向き会っているのに、なかなか一行を書き進められない、そんな時もある。
 書くための準備体制は万全なのに、書くことがない訳でも無いのに、何となーく書けない。…そういう時だ。


 書こうとする意思を持つ事と、実際に書くという事。それは深く結び付いていて、決して切り離せない事柄のような気がするけれど、ひょっとしたら、それらは全くの別物。分けて考えるべき事柄なのかも知れない。
 日記が3日坊主で終わってしまうのは、続ける意思が弱いから、だという。作文を規定の枚数書き切れないのは、書こうとする意思が足りないからだという。
 僕達は子供の頃からそう教えられてきた。何かを書くためには書くための意思が。そして書き続けるためには、継続するための強い意思が、それぞれ必要なのだと。


 でも。こうした場所…書く事にも書き続ける事にも何の制約もない場所…でしばらく書き続けていて、それは少し違うかも知れないと、最近思い始めている。

 ここに何かを書く時。僕が自分で「意思的」にしている事といえば、「書くための準備」、それだけなのかも知れない。
 僕は自分の意思で机に向かい、取り合えずノートを開いたり、パソコンを立ち上げて書くための画面を開いたりする。けれど、僕が「書くために」意思的にする事はそこまでで、そこから実際に一行を書き始めるかどうか…というのは、僕自身の「書こう」という意識や努力といった「意思的な力」とは、全然別種の力によるものだ。

 「その時の気分」というものが、一番、それに近いかも知れない。

 書ける時には、書ける時の気分。書けない時には、書けない時の気分。
 意思がどんなに書こうと努力したところで、最終的にはそうした「気分」が、その日に書くかどうかを、結局、決めてしまっている。「書くための準備」の段階へ自分のこの身体をもっていくところ、までが、「書くための僕の意思」。それの限界、なのだと思う。


 …と、まぁ、そんな事を思ってしまったのは。

 人に見せる、見られる、という事を思いっきり意識して。
 期日までに仕上げなければならない…と、期日も思いっきり意識して。
 その時々の「気分」なんて介在させる余地も与えずに、「意思の力」だけでようやく作り上げた。そのプレゼンテーションの仕上がりが、酷くグロテスクなものに感じたから。


 書くための強い「意思」。それを絶えず持ち続けてさえいれば、僕はこの場所に何かを書き続ける…その行為だけは、これからもずっとこの先、続けていく事ができるだろう。

 でも、「意思の力」のみが、全ての事柄を成し遂げる…そういう訳ではない。
 そうした「意思的な部分」だけで書き続けたものに、僕は魅力を感じない。

 それとは違う「気分的な部分」を、僕はもっと大事にしたいと思う。


 何かを作り上げる上で「意思」を持つことは大事だけれど。
 何かを産み出す段階では、それにはあまり関わって欲しくない。

 …そんな気がする。

 「意思」が持つ力の限界を、もっとよく知りたいと思う




『…とは、限らない』


 職場にいる関東の出身者が「向こうの梅雨と同じ感じ」というような気候が、ここ一週間ほど続いている。アジサイとカタツムリが良く似合いそうな、降り続く雨と曇り空。ちょっとした蒸し暑さ。むわっ、とした空気。…とは言っても、本州の梅雨とこちらの気候は、やっぱり違う。この蒸した空気のまま気温が三十度を越えてしまう、なんて事は、こちらではまず、考えられない。

 でも、だからといって、その関東出身の人に「こっちの夏は涼しくていいでしょ」と訊いてみると、そうでもないらしい。実際、事務所の中で一番「暑い暑い」を連発し、とろけてしまっている人は、その人自身だったりもする。

 彼曰く。「だって、向こうの事務所には大抵、冷房入っているもん」

 …なるほど。そういえばこの職場には、冷房なんてものが無かった。
 暑い所では暑いなりに、事務所の中では涼しい環境で仕事ができるよう、それなりの設備が整っている。だから、幾ら暑い所の出身だからといって、必ずしもその人が、北海道の人より蒸し暑さに強いとは限らないのかも知れない。


 「冬でも雪が降らないのはいいんだけどね。家の中が結構寒くてたまらん」
 北海道から本州に渡っていった友人が、電話でそう話していた事を思い出す。北海道の出身だからといって、必ずしもその人が寒さに強いとは限らない。
 「暖房はあるけど、北海道とこちらでは家の造りが違う」と彼は言っていた。
 北海道の人は、どちらかというと、冬でも部屋の中で厚着はしない。部屋の中が寒い場合は部屋そのものを暖め、室内では薄着のままでいる事が多い。家自体も冬の寒さを考慮して、気密性が高くなるように造られている。でも、本州の家の造りはそうではなく、暖房していても「どこからともなく隙間風がヒューっと入ってきて、部屋全体が暖まらない」らしい。「だからかえってこっちの方が、室内でもセーターとか必要なんだよね」と。

 その人の出身地の気候から、「このくらいの暑さ平気でしょ」だとか、「このくらいの寒さどうってこと無いでしょ」…ということを、僕達は何の気なしに口にする。
 けれども、暑い所には暑さを凌ぐための術があり、寒い所には寒さを凌ぐための術がある。その「術」を越えたところで、人の身体がその土地の暑さや寒さに適応しているかというと、それはちょっと心許ないこと、なのかも知れない。


 その土地の気候のままの外の環境と、人が造り出す屋内の環境。
 人の身体はどうしても、より過ごし易い環境の方に馴染んでしまう。

 暑い地方の人が暑さに強いとは、限らない。
 寒い地方の人が寒さに強いとは、限らない。

 …とも、限らないけれど




『虫達も集う夜のコンビニ』


 郊外の、すぐ道路脇にまで樹々の枝が張り出した道を、車で走る。
 閑散とした夜の国道。時折、誰も通わない交差点の信号機に足停めされるくらいで、それ以外には何者にも自分のペースを妨げられること無く、真っ暗な田舎道。僕は車を走らせ続ける。

 遠目に切り替えてあるヘッドライトが、進行方向に投げかけている光。それが、この林を抜ける道の中では唯一の明かりだ。前方に標識やら黒々とした樹々やらが、次々と浮かび上がっては消えてゆく。一際眩しく照らし出されたセンターライン。その白い破線が、一定のリズムを刻みながら、ずっと視界の中を流れ続けている。
 その破線の単調なリズムだけを眺め続けていると、自分がまるで軽い催眠術にでも掛けられた…そんな気分に陥ってゆくのが判る。進む先に白線しか見えていないと、白線に沿うことしか考えられなくなるものだ。次第に、感覚と惰性が車を前へと進ませるようになってゆく。「運転している」という意識を、置き去りにしたままで。


 そんな折。ふと、遠くの視界の中。ライトの明かりが、闇の中をひらひらと舞う小さな何かを、白く浮かび上がらせた。現れたそれは、一匹の蛾。真っ直ぐにこちらを目掛けて突っ込んでくる。時速八十キロ。避ける間もなく瞬く間に、現れたばかりの蛾が「バシッ」と音を立てて激突し、フロントガラスに体液を散らして消える。
 その後も度々、ライトを目掛けて飛んでくる羽虫が、吸い寄せられるようにガラス面に激突し、砕ける。ウォッシャーとワイパーをかけてもなかなか落とせない、虫達の痕跡。その度に僕は舌打ちし、悪態をつく。


 しばらく走り続けていると、開けたところにぽつんと建つコンビニがあった。ガラス越しの店内の白い照明が、この閑散とした夜景の中。遠くから見てもそこだけ異常に目立っていた。僕もまた、その明かりに吸い寄せられるようにそこに立ち寄る。駐車スペースに車を停め、そして車を降り、店内へ向かう。

 ふと見ると、このコンビニの窓にも、明かりに吸い寄せられた大小無数の羽虫達が張り付いていた。そして、ここでもまた、そんな虫達が消える「バシッ」という音。
 店の入り口の軒に掛けられた、電撃殺虫機。その紫色の光を放つ「誘蛾灯」の光の中に、時折ひらひらと羽虫が吸い込まれてゆく。その度に機械は「バシッ」と音を立て、その大きな音と、紫色の光に照らし出された僅かばかりの煙を残すだけで、羽虫達はその身を焦がし、次々とあっけなく消えてゆく。


 店内で飲み物を買い、車に戻る。
 コンビニの照明に照らされた車を改めて見ると、その前面。ヘッドライト周辺やナンバープレートには、激突した沢山の羽虫達が黒くこびりついていた。

 闇夜の中。突然現れた眩しい光。
 それに惑わされ飛んできて、そうして「バシッ」。
 夜を舞う羽虫達がこうして光に集まってくるのは、どうしてだろう。虫達は一体何に突き動かされて、その身を死に追いやるかも知れない光の元へと、集ってくるのだろう。

 もしそれが。ひとり闇夜を飛ぶことへの寂しさ、からくる衝動によるものだとしたら。
 だとしたら、それは少し切ない。


 離れた所で、電撃殺虫機が再び「バシッ」と音を立てる。
 虫達も集う夜のコンビニを、僕は後にする




『人生最初の飛行機で』


 雨降りの北海道を発つ。垂れ込める雲の中を飛行機は加速し、上昇してゆく。窓の外は一面の白い世界。期待していた外の景色を眺める事は、残念ながらできなかった。
 窓の外を流れるのは、白い雲だけ。それでも僕は、窓から眼を離さない。飽きずにずっと外を見続けている。何故なら、その瞬間のひとつひとつ、それが全て、僕にとっては初めての経験だったから。そう。つまりこの夏、僕は初めて飛行機に乗ったのだ。だから、この航路からすると見える筈の、以前に自分の生活圏だった町や街、山並みや道路を、人生初めて乗った固定翼機の高い視点から一望する事。それを楽しみにしていたのだけれど。

 南へと向かう飛行機はやがて雨雲の層を突き抜けて、その上に出る。雲を抜けると青空が広がる。機が水平飛行に移った事を告げるアナウンスが流れ、ベルト着用のサインが消える。僕は相変わらず窓の外を見続けている。下を見る。今は眼下に広がる雲の海に、この機が小さく影を落としている。その影の周りには丸い虹色の光。機影と共に雲の上を突き進む、丸い虹。
 後ろを振り返る。右側の主翼とジェットエンジン。機が揺れると主翼もしなる。カチコチの金属に見えて意外と柔らかい感じ。そして、今の僕はもう、全く命を預けている状態なんだな、と、ふと思う。
 でも、そんな気分もすぐに消し飛ぶ。やがて眼下の雲が薄れ、切れ切れの雲間から海岸線が見え始めた。ここはどの辺りだろう。見当もつかないや。でも、海岸線はもう、僕には全く見覚えの無い形。複雑に入り組んでいる。三陸だろうか。とにかく、もうとっくに津軽海峡は飛び越してしまったみたいだ。

 少し経って、機は徐々に内陸へと入る。見える景色は山と川。その間の平地に広がるのは、殆どが田んぼ。本当に日本の景色は田んぼばかりだ。街並みは川沿いにへばりつくようにして伸びるだけで、まるで川の流れのラインを太くなぞっているよう。
 そして、これだけははっきりと判る高速道路。北へと向かう車線は、無数の車が延々と列を成している。反対側の車線との流れの差は歴然。お盆休みの初日だ。話の中でしか知らない何十キロという渋滞が、そろそろ生み出されつつあるのだろう。

 で、僕は今どの辺りにいるのだろう。

 機内に「左側に霞ヶ浦…」云々のアナウンスが流れ、僕はようやく地理感覚を取り戻す。やがて前方に富士山が見え、灰色の広大な拡がりと直線で構成された海岸線…東京が姿を現す。機は着陸の態勢を取り始め、海上を何度か旋回しながら次第に高度を落としてゆく。所要時間、おおよそ一時間半。札幌から網走まで、特急で行っても五時間以上かかるのにね。早いもんだ。何となく、時間と空間の感覚が歪んでしまう。慣れている人にとっては、何てことない感覚なのだろうけれど。

 …ある地点からある地点へ。移動にかかる最短時間を距離にして、それで日本地図を描いてみたら、一体どんな地図が出来上がるのだろう?

 僕の頭の中で、日本地図が大きくその形を変えた。
 全国に点在するある地点地点だけが、そこだけまるで強大な重力に引かれたように、この東京に向かって突出している日本地図。

 そんな歪んだ日本地図を、僕はふと思い描いた


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