Azure Diary


平成二十三年 葉月


■2011/08/05 金
 震災の影響で、人々はそれまで目に留まらなかったもの。些細なもの、身近なものにも意識が向くようになったのかも知れない。今年は蝉が少ないねぇ、鳴かないねぇ。多いとうるさいけれど、少ないと少ないで心配だねぇ。と。そんな話を折々耳にしていたので、じゃあ実際にはどうなんだろう、と。夜の近所の公園へ行ってみた。
 誰もいないので人目を気にすることもなく、ライトで樹木を照らしながら歩いているとすぐに、まさに羽化中の蝉の集団に出逢った。木によっては枝々に鈴生りの、羽化したての白い蝉たち。割れた殻から白い背を覗かせている蝉。空蝉にぶら下がり羽根を伸ばしている最中の蝉。まだ幼虫の鎧を纏ったまま枝を登っている蝉。羽化の様々な過程の蝉がいるので、短時間で蝉の羽化のプロセス全てを観察することができた。
 土色の殻が割れ、その割れ目から緑かかった白い蝉が背を盛り上げてくる。そうして、丸めた躰を伸ばしながら殻を出て、縮めた羽根を伸ばしてゆくその樣は、まるで種の発芽のようで。それはただただ、美しかった。


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※虫が苦手な方は閲覧注意



■2011/08/14 日 〜 8/20 土
 北海道へ帰省中です(今年は車ではなく飛行機で)。
 機窓から、雲海を貫いて頂を覗かせている富士山が見えました。




■2011/08/21 日
 先日帰宅。大事なく。久々に聞く、ねっとりとした本州の蝉の声。小雨模様にもかかわらず、窓のカーテンを開けるといつものスズメがやってくる。こちらも大事なかったようで。
 久しぶりに餌をあげてみる。餌をもらったあとはベランダや向かいの木で寛ぐスズメたち。もう縄張り争いをする時期は終わったよう。ある程度お腹が満たされると、メスの方はベランダ向かいの木に停まってずっと囀っている。オスの方はベランダの手すりに停まって羽づくろいを始める。ベランダに自分がいるかどうかはもうお構いなし。最近は羽づくろい中にカメラを向けても平気になってきている。


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 買い物がてら、比較的近くに住んでいる元同僚の所へ土産を渡しにゆく。互いに昼食がまだだったので、そのまま途中で見つけた「もんじゃ焼き」の店へ行ってみる。しかし、実は二人とも「もんじゃ焼き」というものがイマイチよく判っていない(元同僚は九州人)。
 自分は何年か前に一度だけ、月島で本場の「もんじゃ」を食べに行ったことがあるのだけど、お好み焼きと同じものをイメージしていた自分にとってあのドロドロ感は理解できず、焼き上がり…というか食べ所がどこなのかがよくわからないまま、ただ焼いたら固まるのだろう、とひたすら焼き続けた挙句
 「これいくら焼いても固まらないじゃん!」 「…いや、そういう食べ物じゃないですから」 という会話を繰り返していた…ような気がする。
 今回もまぁ似たようなもので。 …で、これどうすんだっけ。 具を鉄板にどさっと。して土手を作って、中に汁入れて、と。こんな感じっスかね。 ああ、そんな感じだったかねぇ。
 ほいでー、いつまでこのままにしておくんだろ? いまいち食べごろがわからんスよねぇ。 ええい面倒だ、混ぜちゃえ混ぜちゃえ!

 − …よし。完成だ、多分。
 − はぁ。にしても、もんじゃって何かキャベツばかりだから、健康には良さそうっスね…。
 − どれどれ。って、…本当、キャベツだよな。
 − …本当、キャベツ、っスよね。

 と。そんな感じで、最終的な共通の感想。 『やっぱりお好み焼きの方がいいよなぁ…』



■2011/08/26 金
 「嫌なら見るな」というのは、好きではない言葉。というより、よく解らない言葉。普通に考えると、人は何かを見た後にそれが好きか嫌いかを判断する。誰かが「それ」を「嫌だ」と言ったなら、その人はもう既に「それ」を見てしまっているのだ。
 見た結果である「嫌だ」という反応に対して「嫌なら見るな」と返すのは、言い換えると「嫌なら最初から見なければよかったのに」ということ。つまり、相手が見てしまったものを「見るな」ということは、時間軸を遡って相手の「見た」行為そのものを否定する、ということになる。自分はそうした時間軸を遡って否定されることが本能的に嫌いだ。それは「産まれてこなければよかったのに」という。そうした発言と同次元のものに感じてしまうので。

 見たものを不快に感じた者の側には、嫌なら見ない、という選択肢は存在しない。できるとすれば、せいぜい見る前に嫌かどうかを予測して、見る見ないを判断するくらいしかない。
 けれども、見る前にそれが嫌かどうかを正しく判断するのは不可能なこと。何よりそれが誰かの作品であるとするなら、見る前にそれを評価してしまうことは創り手に対し最高に不遜な行為となる。
 嫌かどうかを判断するためには、最低限、それをまず見ていることが必要なのだ。それを踏まえたなら「嫌なら見るな」という言葉が大きな意味を生さないことくらい、すぐに気付くことができる。でも、その無意味さに気付かずそれを言ってしまう、ということは、言った側にそれほど深い思慮があるのではなく。言葉が足りないだけで、言いたい真意は別のところにあるのだろう。
 それは恐らく「自分が見せたものに対して嫌という批判的な発言をするな」ということ。発言者にとって、相手がそれを見るか見ないかは、実は大きな問題ではなく、肝心なのは「批判をするな」ということなのだ。

 自分には「嫌なら見るな」は、「嫌なら黙っていろ」「嫌なら我慢しろ」という真意の、遠まわしな表現に思えてしまう。そういうのは、自分には合いそうもない。
 ただ、こういうことを書いているけれど、自分はその「嫌なら見るな」という発言をさせる元となった「嫌だ」という批判者側の発言を、肯定したり擁護したりしているのではない。自分は、状況にもよるけれど、そうした「批判」という行為も、不快なものに出逢った時の姿勢として、大きな意味があるとは考えていない。その辺りはまた、日を改めて。



■2011/08/27 土
 帰宅途中に荒川にかかる橋を渡っている時。ふと、スカイツリー方面の上空を飛ぶ飛行物体の数が多いことに気付いて自転車を停める。速度や飛び方から、飛んでいるのは飛行機ではなくヘリコプター。編隊を組んでいるのではなく、上空に散在している。その数を数えてみると、確認できただけで12機。異常に多い。
 何かあったのだろうか。夜景を見渡してみるけれど、ここから確認できる異変はない。すぐ帰ってニュースでも見てみるかな…などと思っていた時。ふいにこの間の警察官にそうされた時のように、「あの…すいません」と背後から声をかけられた。振り向くとそこには中年のご夫婦。声をかけてきたのはご婦人の方で、続けてこう訊かれる。 「ここから花火、見えるんでしょうか?」

 …へ? 花火?

 自分がそういう反応をしたのが、相手には意外だったよう。「ええ、今日は隅田川の花火大会だから、橋の上から見えるかなーと思って。あ…花火見に来たのではないんですか?」

 − 隅田川? 花火? …ああ、そういうことか!
 − え?
 − いや、あっちほら、やたらヘリ飛んでるでしょ。
 − え? ああ、そういえば。まぁ賑やかな。
 − んで、何かヤバいことでも起きたかと思って見てたぁ…。
 − ・・・・。
 − ・・・・・・。

 (一同)あはははははははは…。


 というわけで、ここから見えるかどうかは判りませんが、いやぁいいこと聞きました! ありがとうございます!  では! と。帰宅してネットで打ち上がる場所をざっと調べる。高い建物がどう邪魔になるかは判らないけれど、ちょっと走れば荒川の堤防の上から見えるだろう、と。カメラを持って自転車で再出発する。
 そうして、犬の散歩と駆け足の人と自転車ですれ違う人しかいない堤防の上を下ってゆくと、やがてスカイツリー方向のビルの隙間からポンポンと明かりが見えた。花火開始を知らせる音響花火の閃光。ちょうど建物と建物の間にスカイツリーが見える位置で自転車を停める。花火が上がり始めた。しかも、丁度スカイツリーが花火の真後ろに聳える位置で。

 自分にとっては今夏最初の、会場からは遠い小さな小さな花火大会は、こうして唐突に開幕した。

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 花火の音は聞こえない。いや、時々微かに届くのだけど、殆どはすぐ背後の高速道路の高架の上を走る車の音に掻き消されて聞こえない。
 通りかかる人達が皆それぞれに足を停める。うわー遠いねぇ。でも、いいアングルだねぇ!と。堤防の斜面に座る人。椅子を持参している人。眼下の河川敷で、対抗するように小さな打ち上げ花火を上げる集団。
 仕掛け花火だろうか。燃え上がるような赤い光に、スカイツリー全体が照らされ赤く染まる。疎らな見物人たちから歓声が上がる。自分もその光景に見蕩れる。そうして1時間半、あっという間に経過する。帰り際になってようやく微かに漂いはじめた、僅かな僅かな硝煙の匂い。

 隅田川の花火大会は、例年は7月なのだけど、今年は震災関連で今月開催となっていた、とのこと。見るのは今回が初めて。見知らぬおじさんおばさん、教えてくれてどうもありがとうございました。


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