Azure Diary 平成二十三年 長月 ■2011/09/10 土 日中は暑かったのだけど、日が暮れてからすうっと涼しげに。夜になって、こちらに引っ越してきてから初めて駆け足をしてきた。コースはすぐ近所を流れる荒川の河川敷。思えば、現住所を決めた理由のひとつが「荒川の近く=駆け足によさそう」だったのだけど、その後のバタバタと、さすがに真夏は走る気にならない(暑さが天敵)ため、今日が初めて、になってしまった。 荒川はこの辺り、堤防の上と、河川敷。上下に自動車進入禁止の舗道がある。堤防の上の舗道は橋にぶつかると寸断されてしまうけれど、河川敷の方は橋の下をくぐってゆくので、足を停めずに走り続けることができる。ただし、街灯は一切ないのでほぼ真っ暗。都会の中なのに意外と暗く、50mくらいまで近づいてこないと人が居ることに気付かないくらい。 久しぶりなのでペースは落としているものの、普段の自転車通勤(片道4キロ)が思ったより運動になっているのか、それほど辛さが出ることもなく。橋を三本くぐって、先月末に花火を見た場所も過ぎて、四本目の橋の下で折り返し。距離は5キロ半くらいの全く平坦なコースだった。 それから来た道を反対向きに、それまで右手に見ていたスカイツリーを左手に見ながらまた5キロ半。最後に堤防を上がる坂道をダッシュしてみたり(筋肉痛確定)。 月が綺麗だった。月が荒川の上にあると、荒川の川面に月の光の橋がかかる。ふと、夏目漱石が「I Love You」を「月が綺麗ですね」と訳した話を想い出す。それは恐らく、隣に誰かがいて共に月を見上げていて、その時に相手へ「愛してる」と囁く、そんな状況での話だろう。 「愛してる」の「I Love You」が「(あなと見上げると)月が綺麗ですね」。じゃあ、ひとりぼっちの「I Love You」は。そこにいない相手が「恋しい」時の「I Love You」は、どう訳せるだろう。 あなたが恋しい、という意味での「I Love You」の訳は、ひょっとしたら。 「(あなたも)この月、見ているでしょうか」といった感じに、なるのかも知れない。 ■2011/09/14 水 月が綺麗もそのはずで、中秋の名月だったのだ。ただ、例年はもう少し遅かったような気がするけれど、年により時期にズレがあるのは旧暦の特性上、仕方がないこと。 今はもう日付けが変わる時刻。高く昇った月の近くには夜空で月の次に明るい星が輝いている。どこぞの一等星かと思ったけれど、よく見ると瞬かない。瞬かない星は太陽系の惑星だ、ということが頭の片隅にあったので、調べてみるとマイナス等級で輝く木星だった。多分。 ここ数日は姿を見ていなかったのだけど、朝、ベランダにいつものスズメがやってきた。そういえば最近、このスズメの嘴の付け根に黄味がさしている。最初は違うスズメかと思ったのだけど、行動的にいつものスズメ。嘴の根元が黄色くなった理由はよくわからない。 ただ、今日このスズメを見て、その嘴の黄味以外のところに、ふと違和感を感じる。何というか、こう。全体のバランスが何かおかしい。というか、変なのだ。 スズメがくるりと背を向けたところで、その理由に気付く。気付いて思わず「ぷっ」と吹き出す。 おまえ、尻尾ないじゃん! ちょこん、と生えている芽吹いたばかりの尾羽。どうやら生え変わりの時期のよう。 夏毛の終わりなのだろうか。まだ暑い日が続いているし、数が少なくなったとはいえ蝉もまだ鳴いている。スズメの尾羽が季節により生え変わるものなのかどうかは判らない。けれども。季節の移ろいはこんなところに確実に、訪れているのかも知れない。 ■2011/09/23 金 水曜日に台風。夕方から暴風圏に入る。この職場もさすがに早期解散となったのだけど、自分は残留していた。職場は特に被害なしで、屋根の無い自転車置き場の自転車が可哀想なことになっていたくらい。9時頃に窓を開けてみた時、虫の鳴く音が響いていて、風雨のおさまりを知る。その後しばらくして帰ったのだけど、風はやや強かったものの、雨はすっかり止んで空には星も見えていた。 街中にもそれほど目立った被害はなく。自転車で走っていても、枝葉が大量に落ちていている辺りがスリップ気味で危険なくらいで、普通に帰宅することができた。勢力は強くても立ち停まることなく駆け抜けてくれたのが良かったのだろう。その上、交通機関は麻痺したとはいえ、やはりこちらは台風に強い。この勢力の台風が、台風には無垢なる北海道に上陸したら、と考えるとゾッとする。 と、こちらは普通に残業しているうちに台風をやり過ごしたのだけど、翌日、早く解散となってすぐに帰った人達の惨状を聞く。電車で何時間待った。駅で何時間待った。どこどこからずぶ濡れになって何時間歩いた。4時に帰ったのに家についたの11時だった、など。 休日である今日は昼まで寝て、起きてから洗濯。洗濯物干しついでに、ベランダに飛び込んでいた葉っぱ何枚かを片付ける。そういえば。ベランダに置いてあるタイヤのタイヤカバー。そして、置きっ放しのサンダルは、両方とも無事だった。 そして、あの暴風で…と心配したのだけど、スズメたちも無事だったようで、ベランダにこちらの姿をみとめてやってくる。尻尾がまだ不揃いながらも大分伸びてきた。 9月も末に近づき、暑い暑いとは言えなくなってきた。人もスズメも街も、徐々に秋の装いに。歩いたり自転車で走り回るにはいい季節。さて、どこに行こう。これからどう生きよう。 ■2011/09/24 土 昨夜、駆け足の後で住んでいる所のすぐ前の公園を通りかかった時、ふと公園奥に違和感を感じた。何か黒い塊がある。近づいてみると倒木だった。幹の直径が30センチから40センチほどの大きな樹が4本、先の台風の強風で根元から抉り倒されていた。 今朝、早く起きて公園を見に行く。倒木の周りには当然、立ち入り禁止のビニールのテープが張られている。申し訳ないけれど、そこを潜って樹に近づいてみる。倒れている樹の1本の捲れた根元が公園のブランコの脇にある柵をひとつ持ち上げていた以外は、大きな被害はなかったのだろう。恐らく、人もいなかっただろうし。 倒れた樹はどれも、幹が折られるのではなく根こそぎで、根元側の地面にはぽっかりと穴が空いている。ふと気付いたのは、倒れてから丸二日経っているのに、枝についたままの葉は萎れたりすることなく、瑞々しさを保っているということだった。 根こそぎ、とはいえ、まだ地中に残る根があり、その一部の根が倒れてもなお、葉に水分を送り続けているのだろう。あと数日このままにしておけば、枝葉は再び空へと向きを変えてゆくのではないか、と。生き続ける葉を見て、そんなことを思う。 『少し違うね。あなたたちの言う未来、は、私たちにとっては存在すらしていない。私たちにあるのは、今だけなんだよ。今というこの時だけなんだ。だから私たちは、常に今、この時にするべきことをする。今この時にするべきことに、全力を注ぐ。私たちが従うのは不変の季節であり、決して可変の未来ではないよ。どうせ切られるから、と手を抜くことはない。私たちは決して、今この時、に、手を抜くことはないんだよ』 〜2010/10/16の日記から引用 この状態。未来を想像できる人間なら、この状況に将来を絶望し、生きることすら止めてしまうかも知れない。けれど、樹木の辞書には未来と共に絶望という言葉もなく。樹木はいつでも、現在というこの時間。ただそれだけに、生きる全力を注いでいる。 倒木を見てふと想い出したことがある。子供の頃によく父親と入った山に、毎秋キノコがよく出る倒木があった。ひと抱えふた抱えでは足りないほどの大きな倒木だった。樹木たちが空を覆う森の中、その倒木の上だけぽっかりと穴が空いている。森のゆっくりとした時間の中で、ゆっくりとゆっくりと年単位で朽ちてゆく倒木を、毎年、毎年、見続けてきた。 朽ちてゆく倒木は、表面からスポンジのようになり、土のようになり。その表面にはキノコが生え、コケが生え、ゆっくりとその形を崩し。そして、やがてはその倒木を苗床にして、新たな木が芽を出した。その事を…そうだ。昔、書いていた。 >>褐色に浸る時間『それぞれの時間』 しかし、ここは森の中ではなく、公園で。倒木がこの場で朽ちることは、許されない。出かけて夕方近くに一旦帰宅した際、公園の倒木の辺りには作業用のトラックが数台停まり、チェンソーのエンジン音が鳴り響いていた。 |