kassyoku 028 『綿毛の魔法』 仕事からの帰り道。風が凪いだ街角を、無数の綿毛がふわふわと舞っていた。何の綿毛だろう、と、数回空振りしてから、そのひとつを捉まえる。それは僕が最初に想像していた、今が季節のタンポポの綿毛ではなかった。もっとふかふかの、綿埃のような白い綿毛だった。 綿毛を見ながら、僕は少し考える。 そうしてしばらく考えてから、ああ、と思う。 これはおそらく柳の綿毛だ。 柳も多くの綿毛を飛ばす。そして、程近い河川敷には多くの柳が繁っている。これはたぶん、そこから漂ってくる綿毛なのだろう。 部屋に戻り、各部屋の窓を開けて室内に篭った熱気を逃がす。 べランダ側の窓を開けた時、下から子供の遊び声が聞こえた。 着替えを済ませ、背広をハンガーに掛けていると、聞こえていた子供の声の中に泣き声が混じっている事に気付いた。 僕は窓辺に寄り、ベランダの柵越しにそっと真下を覗いてみる。タンポポが無数の白い綿毛を咲かせている団地の芝生。その上にちっちゃな女の子が二人。その一人が芝の上にぺたっと座って泣きじゃくっている。もう一人は、どうやら慰めている様子。そして、二人よりは少し大きな男の子が一人。困ったように周りをうろうろしている。 しばらくして男の子は居なくなり、二人だけが残された。もう一人の女の子が泣く子にずっと寄り添って、何か話し掛けていたけれど、彼女はちっとも泣き止まない。 やがて、その付き添っていた子も、泣き続ける彼女から離れた。 このまま取り残されるのかな、と僕は思う。 でも、そうはならなかった。 泣く子から離れて、その子は彼女の周りでタンポポを摘み始めた。 綿毛を咲かせるタンポポを、次々とその手に握ってゆく。やがてそれはマイクよりも大きな白い塊になった。そして、その子は再び泣く子に寄り添い、その塊の半分を差し出した。泣いている彼女は受け取らない。でも伏せていた顔をちらっと上げる。 みてごらん 綿毛を握りしめたまま、その子は空中で大きく手を振った。 ばっ、と無数の綿毛が飛び散った。 泣いていた子は、ちょっとびっくりしたようだった。ぽかん、とした表情で、宙に舞い拡がる綿毛を見詰めている。 やってごらん 綿毛を飛ばした子が、そう言うように再び、残り半分のタンポポを差し出した。泣いていた彼女は、今度はそれを、ちゃんと受け取った。 もう、泣き声は聞こえない。 彼女は受け取ったタンポポの束を握りしめる。 そして (2001/05/29) 『木霊の記憶』 小学生の時、一家4人で山へ行った時の事。 目的は「タケノコ採り」だ。でも、タケノコと言っても、北海道に孟宗竹は育たない。この地方で「竹」というのは、せいぜい大人の背丈ほどにしか育たない「根曲がり竹」の事で、そのタケノコも孟宗竹のものよりかなり小さい。長さは十数センチ、太さも根元の部分の直径が2〜3センチ程度のものだ。 林道を車で走り、山奥へ入る。竹が群落を成している場所で車を停め、タケノコ採り開始。でも、竹薮を奥に入っていくのは親父だけで、母は子供二人を藪の中へは深入りさせない。子供には危険だからだ。例年、こうした春の山菜採りの時期、このタケノコ採りの最中に行方不明になる人は後を絶たない。 僕と姉は親父が戻るのをただ待つだけなので、色々と遊びながら時間を潰していた。 道端を何か捜して歩いたり、そこら辺の木に登ってみたりする。 木に登った僕が大声で「やっほー」と叫ぶ。すると木霊が返ってきた。 それが面白くて、姉と二人で「やっほー」と叫び続ける。そうしていると、姿の見えない親父が遠くで「うるさーい」と叫んだりする。その声もまた木霊して可笑しくて、僕と姉は木に登ったまま更に叫び続けた。 ふと、叫んだ僕の声に「おーい」と答えてくる声があった。 木霊とも、親父のとも違う声で。 …あ、他にも山に入っている人がいたんだ。 見知らぬ人が返事をくれている、その事もまた面白くて、僕達は再び「やっほー」と叫ぶ。 そうすると今度は複数の声がごちゃ混ぜになって返ってきた。 そしてその声は、僕の声の木霊が消えた後もずっと叫び続けていた。 その消えない声に、何か様子が変だと気付く。僕と姉は顔を見合せ、必死になってこちらに訴えかけているようなその叫び声に、耳を澄ませた。 すると叫び声の中に、かろうじて「言葉」が聞き取れた。 『…た・す・け・てぇー』 それからが大変だった。 親父を呼び戻し、迷っているらしい人がいる事を告げる。親父は再び藪に分け入って、その場所に向かう。残った者は、その場から動かず声を出し続けるように、見えない相手に向かって叫び続ける…。 しばらく経ってからガサガサと竹薮が鳴り、親父が戻ってきた。後には疲れ切った表情をした、5人ほどの中年男女のグループが続いていた。 この時期になると、時々甦る木霊の記憶。 「やっほー」の、そんな想い出。 お礼に、と、沢山のタケノコをもらったっけ… (2001/06/02) 『「会える」から「会う」へ』 夜の街中。店の駐車場に停めていた車を発進させ、道路に出ようとした時、ふと車のライトを点け忘れている事に気付く。気付いた理由は、ランプが点っていなくてメーターが見えなかったから。点け忘れた理由は、ライトなんて必要ないくらいに外が明るかったからだ。 もし外の照明がもっと車内を明るく照らしていたら、僕はそのまま無灯火で走り出していたかも知れない。 この街の夜の明るさに、少し戸惑っている。 ライトを点けなければ、センターラインすら見えなくなってしまう…そんな暗い夜が支配する町での生活が、ずいぶん長かったせいかも知れない。 以前の町では、ヘッドライトは進む道を照らし出すために必須だった。でもこの街では、その明かりはもっぱら、相手に自分の位置を知らしめるために点すものだ。ただ走る分には車のライトなど必要ないくらいに、この街の夜は明るい。 今日は晴天だった。 青空だとか雲だとか、太陽の下の昼間の空というのは、都会でも田舎でもそれほど変わりないと思う。 でも、夜空は明らかに違う。地上に点る灯の数に比例するように、夜空からは星の数が少なくなってゆく。以前は窓から見えていた天の川。何年か前にやってきた尻尾が二股に分かれた彗星も、僕は自宅の窓から眺めていた。 今はただ、かつては一際明るく輝いていた星の幾つかが、点々と夜空に散っているだけ。 満天の星空。これからそれを見るためには、それを見るための「理由」が必要になるのかな。…そんな事を思う。以前はそれがそこにあるのが当たり前だった。それなのに、その「当たり前」だったものに会うために、いつしか「会う理由」が必要になってゆく。 そう。学生の頃なんかが、そんな時代だったな。 学校では理由もなく会えていた多くの仲間。 でも、ある瞬間を契機に、会うためには何らかの「理由」が必要になった。 「会える」から「会う」へ。 理由もなく会えることの価値に気付くのは、いつもその転機を過ぎてからなのかも知れない。 窓を開け、僕は初めてこの部屋の夜のベランダに立つ。 星のように瞬く、遠い山頂の光が見える。高くそびえるビル群の頂上で、航空障害灯の紅い光が幾つも明滅している。シルエットだけになったビル達が、まるで互いを呼び合っているみたいだ。 星空は相変わらず見えない。 でも、満ちた月だけは変わらぬ明るさで輝いている (2001/06/04) 『あのね』 先日、同じ市内に住む姉貴の子が3才になったので、お祝いを兼ねて遊びに行った。 会ったのは何ヶ月ぶりかだったけれど、改めてこの時期の子供の成長の早さに驚く。以前は人形を指差して「これなあに?」と訊くと「あむぱむまむ…」としか答えられなかったのに、今ではしっかり「アンパンマン!」と答えられるようになっている。しかも、クレヨンと落書き帖を持ってきて「描いて!」のおまけ付きだ。 で、アンパンマンの絵を何枚か描かされる事になった。 …カレーパンマンまで。 昼は託児所に預けられているけれど、最近はそこでのその日の出来事を、ある程度自分の口から報告できるまでになったという。 「保母さんの話と比べると、時々嘘が混じってて。…可愛くないんだから!」 姉貴が言う。でも、顔は笑っている。自分の娘が、自分が見ている世界をやっと自分の口で語ることができるようになったのだ。可愛くないはずが無い。 3本のロウソクの火を吹き消すまでは嬉々としていた子供だったけれど、ケーキそのものにはすぐに食べ飽きてしまった。 そんな子供に、姉貴が訊いている。 「今日は何があったの?」 子供がたどたどしい言葉で話し始める。雑誌の付録の紙工作「機関車トーマス」を作らされている最中だった僕は、少しそれに本気になっていたので、耳だけを傾ける。ただ、その殆どは何を言っているのか、良く判らなかった。 でも、語り始めの最初の一言だけは、はっきり聞き取れた。 「…あの、ね」 彼女がひとつのちっちゃな出来事を語る度、その前には必ず「…あの、ね」が置かれていた。 その言葉が、何となく新鮮に響いた。 「あのね」 それは、彼女が始めて憶えた、自分の話に相手の耳を傾けさせるための言葉だ。話の内容は良く判らないけれど、そうして頻繁に繰り返される「あのね」からは、伝える事に対する彼女の真剣さが窺えた。 わたしが話し掛けているのは、あなただから あなたの関心を、ちょっとだけわたしに向けておいてね 「あのね」は、そういう言葉なんだと思う。 そしてその言葉で、彼女は相手に自分の意志を何とかして伝えようと、相手の心のドアを一生懸命ノックしている。 言葉が心に立ち入るその前に、礼儀正しくドアをノックする言葉。 「伝えたい気持ち」を純粋に伝える、そのための言葉。 彼女が憶えたばかりの「…あの、ね」。 それに勝る言葉を、大人は持っているんだろうか (2001/06/06) 『コロシテシマエ』 イチローが100ヒット。しかも、ホームランで。快挙に沸くスタンド。拍手と歓声。興奮気味のナレーション。 おお、すげぇ。 昼休みの職場。テレビを見ていた僕達も盛り上る。そうして、しばらく大リーグの話が続く。やがてそのニュースが終わる。一人がチャンネルを切り替える。 パチパチと移り変わっていた画面が、ふと止まった。 アメリカで公開処刑が行われるという。 遺族に対して、犯人の死刑の模様が生中継されるのだ。 遺族の証言。様々な感情が渦を巻く中、聞こえてくる声。 …殺せ! 雨の中を帰宅する。帰りが早かったので、夕食を自炊する。 いただきます。 …ごちそうさま。 朝に読まれる事のない新聞を、いつもこの時間に読む。でも、今日は休刊日だった。夕刊はとっていない。そこで、パソコンを立ち上げて、ネット上の個人が書いた様々な文章を読む。 最悪の児童殺傷事件が起こってから数日間、ネット上にはその事件について書かれたものも多かったけれど、今日になってもその事件絡みの文の掲載量は少なくなかった。 そして、ここでも眼についてしまう、先の言葉。 …殺せ! 今回のような事件を起こした犯人が、仮に死刑になるとする。 そして、その死刑の「執行ボタン」が、犯人とも被害者とも無関係な「あなた」に委ねられたとする。 「あなた」は、そのボタンを押せるだろうか。 『裁判なんていらない』 『最も苦痛を与える方法で…』 『市中引き回しの上、公開処刑でしょう(笑)』 強調フォントを駆使して書かれた、様々な「殺せ」。 「押せる」人は、意外と多いのかも知れない。 …本気でそれがその人の「伝えたい気持ち」であるのなら。 動機が何であれ、人を殺してはならない。それは、理屈ではない。 でも、僕が被害者の立場で、犯人を殺せる立場にあるなら、間違いなく殺す。僕にはそこまで感情を抑えられる理性はない。…正直。 無数の声が聞こえる。 「殺せ!」 …奴を殺してしまえ! 殺意と包丁を持った人物。 溢れる『コロシテシマエ』。 誰もが「そう」なる可能性を、秘めている時代なのかも知れない。 この文章を打っているうちに、雨が止んだようだ。 居間のテレビ。流れているのは、10時のニュース。 …アメリカ・インディアナ州で、先程死刑が執行されました 執行の模様は遺族に対して生中継され… (2001/06/11) |