kassyoku 001 『褐色に浸る時間』 一日に為すべき事を終えて、後は寝るだけになった。居間の電気も消した。今は寝室にのみ電球が燈っている。そう。僕は寝室に蛍光灯ではなく、裸電球を使っている。だから、この寝室には電球の褐色の光が降り注いでいる。 寝室に明かりが燈るのは寝る前、ほんの一時間ほどだ。僕にとってこの褐色に浸る時間は、自分の頭を自分の好きに使える貴重な時間でもある。この時間の僕の脳は誰のためでも、何のためでもなく、ただ物狂おしく活動している。傍から見ると、一日最後の煙草を吸いながらぼうっとしているだけかも知れないが、僕はこの時間、ベット脇の机で、その日一日を思い返したり、ずっと昔を想い出したり、後悔したり希望を持ったりする。時には一人で討論会が始まったり、批評家になったり、哲学者が現れたりもする。本当に訳もなく色々な事が心に浮かぶ。よく考えると不思議な時間だ。 …思うに、この褐色に浸る時間は、心の中にあるたくさんの引出しにしまわれている記憶やら知識やら、そんなものを色々引っ張り出してきて、新しく手に入れたものと併せて、よく使うものは手の届きやすいところに、そうでないものは心の奥深くに整理してやる、僕にとってそんな時間なのかも知れない。ハード・ディスクの最適化作業のようなものだ。でも、コンピューターではないから、その片付けの際に引っ張り出してきたものが、いちいち新鮮だったり、懐かしかったりして、その都度それらに気を取られてばかりで、片付けの方はちっともはかどらない。しかも、ただでさえ整理のつかない心だ。 8月21日。少しは心の整理の手助けになるかと、褐色に浸る時間の思考をメモに残そうと思った。未整理のメモが増えたら、それを文章にして日記のように書き溜めていこうと思う。効果はあまり期待していないが、夜の思考を白日の論理のもとに晒すことが何となく楽しみだ。引出しから何が出てくるかは、自分でも判らないのだが (2000/08/21) 『泥水に群がるアゲハ』 この夏、北海道ではカラスアゲハが異常発生している。青みがかった黒い大きな羽を持つ、綺麗な蝶だ。例年はめったに見られないのに、今年は確かに多い。田舎道を車で走っていて、今日もこの蝶を何度も見かけた。彼らは優雅に道路を横断していたり、ひらりひらりと道端の花の周りを舞っていたりする。 カラスアゲハは百合の花が好きなようで、その周りには特に多く彼らは集まる。確かに、子供の頃にこの蝶を捕らえようとしてよく待ち伏せしたのは、実家の庭に咲く百合の花の傍だった。僕の記憶の中で、カラスアゲハと百合の花はいつもセットだった。オレンジ色の大きな百合の花と、綺麗なカラスアゲハの組み合わせは、絵になるほど申し分ない組み合わせだった。 夕方、帰宅の際に面白い光景を見た。家に至る砂利道の途中、草むらと道との境に水溜りがある。一週間以上前の雨で出来た水溜りだが、ここ何日かの晴天で、もう避けて通る必要のない程に煮詰まっている。そんな泥水の水溜りに、彼らは群がっていた。暑さを癒すために、泥水をすすりに来たのだろうか。 とにかく蝶嫌いが見たら卒倒しそうなその光景は、僕がカラスアゲハに対して抱いていたイメージ、例えば百合の花との取り合わせが生む「気高さ」、黒い色で優雅に舞うその「気品」、普段の珍しさから感じていた「孤高さ」、といったイメージを見事にぶち壊してくれた。 彼らに対する僕のイメージ。泥水に群がるアゲハ。 その時、イメージがそこに集まる彼らを許せなかった。 …でも、泥水に群がる姿こそ、カラスアゲハの本当の姿なのかも知れない。いや、それだけではなく、今まで見てきた彼らの姿も、どちらもカラスアゲハにとっては本当の姿なのだ。イメージはいつも一人歩きする。それは何に対しても同じだ。対象の本質を知らないほど、イメージは外観や噂だけで増大してしまう。 周りを見渡してごらん? 自分を見つめてごらん? 人々の中の自分。自分の中の人々。 …全てがイメージだ。判っているつもりで、何も判っていない (2000/08/22) 『釣り合う距離を探るシーソー』 日付はかなり遡るが、ある公園の夕方の風景。提灯の下がった櫓が中央に立っている。町内会のテントも見える。これから盆踊りの会場となるのだろう。浴衣の子供たちが何人かいて、スピーカーを積んだ軽トラックの周りで法被姿の大人が何人か作業し、子供盆踊りの音楽を流していた。 ふと公園の隅に目をやると、普段は主役なのだろうがこの日ばかりは見向きもされない、鉄棒やブランコといった遊具たち。でも、砂場の脇のシーソーでは、一組の親子がギッコンバッタンと遊んでいた。小学校低学年位の女の子と、その父親なのだろう。 二人ともシーソーの端から少し真ん中に寄った位置に座っている。でも大の大人と子供が互いに同じその位置で、シーソーがうまく出来るはずがない。さっきから娘の方は宙に浮いたまま、父親はシーソーの端が地に付いたまま、父親が地面を蹴ってジャンプする事で、何とかシーソーらしくなっている状態だった。 そのうちに二人は新しい遊びを始めた。互いの座る位置を変えて、何とかシーソーを釣り合わせようとしている。 父親が娘の方に寄って座る。駄目。娘が少し離れる。もう少し。…しばらくそんなやり取りを眺めていた。やがて、娘はシーソーの一番端に、父親はかなり真ん中に寄った位置に座り、そうしてようやくシーソーのバランスが取れて、二人の足が地を離れた。 人と人が釣り合う距離は難しい。特に父と娘になると尚更だ。父の腕に抱かれてシーソーに乗っていた娘は、やがてシーソーの反対側に座るようになる。それを釣り合わせようと、父は娘に寄り、娘は父から離れる。 その距離が近過ぎても駄目。離れすぎても駄目。 どちらかが寄りすぎても、離れすぎても駄目。 いつもそうして、互いに寄ったり離れたりしながら、親子は釣り合う距離を探り続ける。 そしてその間、シーソーは軋んだ音を立てながら、ギクシャクと不安定に揺れ続ける。 そうした事を繰り返し、きっといつかは釣り合うのだろう。 互いの取るべき距離を知った、その時に 『ポケットの中に笑顔をひとつ』 今朝は大慌てしてしまった。さて仕事に行くか、という時間になって、身分証明書と運転免許証が一緒に入ったパスケースを何処に置いていたか判らなくなった。十分ほど捜しても見つからなかったので、結局そのまま出勤してしまった。 帰宅してから、家の中の大捜索をする。部屋、階段、便所、車の中、玄関。机の中から昨日履いたズボンのポケットまで。そこまで捜して、ふと考えた。大抵、こうやって大騒ぎした後、どうってこと無い場所から出てくるのだ。そう思って、捜索範囲を居間に絞る。 …やっぱり。部屋の片隅に畳んで積んである古新聞の山。その一番上の昨日の日付の新聞の間からパスケースは出てきた。ま、探し物とは大抵こんなものだ。 ようやく捜し出したパスケースの中身を取り出し、無事を確認する。職場の身分証と運転免許証。どちらも顔写真入りの証明書だ。改めて自分の顔写真を見る。余り気に入らない。いつも思う。どうしてこんなに堅苦しい表情をしているんだろう。 でも、これは自分に限ったことではない。他人の証明書の顔写真を見せてもらうと噴出しそうになることがある。大抵、そういった写真にはその人が普段見せることのない、真面目くさった堅苦しい顔がある。 だが、それはそれで冷やかしの対象になったりして面白い。「変な顔しているから絶対見せない」という人もいるが。 証明書の写真の表情とは、それが例え滅多に人前に出すことが無くても、常に「真顔」、つまり「無表情」であることが暗黙の内に求められる。 でも、そんな写真が、本当に自分を証明する顔だとは思えない。笑顔の写真ではいけないのだろうか。自分を証明するのなら、こちらの方がよっぽど良いのだが。 例えばあるひとつの会社が、社員全員の身分証の写真を、全部笑顔の写真にしてみるとする。社長も強面の管理職も、新入社員も全員笑顔の写真に撮り直すのだ。 ぎこちない笑顔でもいい。普段笑わない人は何とか笑わせて撮り、普段笑顔の人は、はちきれんばかりの笑顔を撮る。そしてその顔写真で身分証を作り直し、それを常に携行させる。…ポケットの中に笑顔をひとつ、だ。人に見せることが何となく楽しくなる身分証。これは意外と面白いのではないか。 そこまで考えて、今度の免許更新では笑顔の写真を持って行こうかと考えた。 免許証を見た。『平成16年の誕生日まで有効』 あと4年間、この顔と付き合わなければならない… 『もしもクラブのエースが四つ葉なら?』 一番簡単なトランプ占い。四種類のエースを抜き出して、シャッフルして、裏返しに並べ、その中からカードを一枚引く。そして出たカードの図柄で、その日の運勢や恋愛運を占うものだ。人によって多少の違いはあるかも知れないが、ジョーカーを混ぜない場合、カードの図柄による幸運の度合いは ハート > ダイヤ ≧ クラブ > スペード というのが一般的だと思う。 以前、友人四人で何かの順番を決める際、この方法を応用した。最初に僕がカードを引いた。出た絵柄はクラブのエース。先の式に従うなら上から三番目だ。最下位よりはましだが、嬉しい絵柄ではない。 その時、その中の一人が僕に言った。 「四つ葉のクローバーなら良かったのにね」 今、ふとその時の事を想い出している。そして考えている。 『もしもクラブのエースが四つ葉なら?』 もしもクラブのエースが四つ葉なら、トランプ占いにおける幸せの絵柄の概念は変わっていたかも知れない。ひょっとしたら、四つ葉のクローバーを探す新しいゲームが生まれていたかも知れない。 トランプ発祥の時期からクラブのエースが四つ葉だったら、カードゲームのルールも今とは違ったものになっていただろう。 僕は考える。ルールが違うのならば、これまで生きてきた無数の人々の、様々な局面でのカードゲームの勝敗も、実際とは違ってくるだろう。様々な偶然が折り重なって紡がれる人生。カードゲームの勝敗は、その人の人生にも影響したかも知れない。それらが積み重なると…。 もしもクラブのエースが四つ葉なら、歴史も少し変わっただろうか? トランプの絵柄を一つ変えただけで、出てくる『もしも』は数知れない。 だが、それは考え出すと「きり」がないこと。 もう止めよう… (2000/08/25) |