kassyoku 005 『うたたね』 午後六時頃に帰宅して、七時頃に新聞の集金が来て、その後ベットに少し横になって読み物をしていたら、そのままうたた寝してしまった。目が覚めたのは、日付の変った午前一時だった。 …寒い。Tシャツから剥き出しの腕が、驚くほど冷たくなっている。それにもかかわらず、まだ覚醒しきっていない頭を醒そうと、僕は窓を開けようとした。でも、固くなった腕が上手く動かない。自分の手ではない。何だかそんな感じがする。立ち上がったばかりの頭が、まだ「手」というハード・ウェアを認識していない、そんな状態にも思える。僕は、冷えきった腕を、曲げ伸ばししながら揉み解した。 まさか、この時間に目覚めの感覚を味わうとは、思っていなかった。…目覚めの感覚。それは、普段は目覚まし時計のアラームと、朝の忙しさの中にいつの間にか消え去ってしまう、そんな儚い感覚だ。 目覚めたばかりの僕は、まだ中断された夢の途中にいたりしながら、取り合えず重い瞼を開く。その時、まず僕の眼に映るのは、見慣れたはずの自分の部屋の景色だ。でも、目覚めたばかりの僕は、まだ自分がどこに目覚めたのか、すぐに理解できないでいる。部屋の中にある、様々な物。それらが見えてはいるのだが、それらが何なのかが判らない。見えているモノに対して、まだ意味付けができていない状態だ。 だが、そんな時間は一瞬で過ぎ、ただ見えていた「形だけのモノ」は、僕の意識が覚醒するに従い、それらが僕にとって持つ「意味」を急速に取り戻してゆく。生まれた時から長い時間をかけて行われた認識の過程を、今の僕達は、目覚めの一瞬の時間の中で繰り返している、そんな気がする。 朝に誰かの寝顔を見る機会があったら、その人の目覚めの瞬間に、じっくりと立ち会ってみるといい。 …寝顔を覗き込んで、目覚めを待つ。やがて、その人が起きる、「ぱっ」と眼を開く瞬間がくる。その瞬間、自分を見詰めるその人の眼は、「これなあに?」という時の幼児の瞳をして、まだ意味を持たない自分を、ただ、見詰めている。 だが、すぐに、その人にとって「形だけのモノ」だった自分は、その人にとっての意味を取り戻す。やがて、寝起きの顔を見られた事に気付いて、その人はくすくすと恥ずかしそうに笑い出す。 そして、その時にはもうその人の眼は、普段の自分を見る眼に戻っている (2000/09/27) 『ひとつ勉強になりました』 先日ある文章を書いている時、ひとつの言葉にひどく悩まされた。それは「ダントツの1位」という言葉。推敲前、僕はその文章の中で「ダントツの1位」と書いた。だが読み返して、何となくその「ダントツ」という言葉が引っ掛かった。 「ダントツ」って、漢字じゃなかったっけ? 試しに「だんとつ」と打って、変換してみる。結果はカタカナの「ダントツ」や、「段と津」なんて訳の判らない字まで出てきた。 うーん。「ダントツ」は、カタカナだったっけ? まだ疑問が拭えなかった僕は、ワープロの電源を入れた。このワープロはもう6年近く使っているもので、学生時代の論文やレポート(現代文から古文まで)に始まり、その後も長年使ってきたので、辞書はパソコンよりかなり鍛えられている。 「だんとつ」と打ち込み、変換してみる。すると、出てきたのは「断トツ」だった。 …「断トツ」? どうしても「カタカナ」が気になる。ひょっとしたら「断突」という漢字かも知れない。その時点でもまだ僕は疑問を抱いており、今度は辞書で調べてみることにした。 まず卓上国語辞典を引いてみた。たんとう、短刀、暖冬、単独、耽読…、段取り? あれ、過ぎてしまった。もう一度見直す。でも結果は同じだった。 …何と、辞書に「ダントツ」が載っていない! 僕は学生時代に使っていた、漢字の単語がほぼ全て網羅されているはずの「用字便覧」を引っ張り出して、「ダントツ」を調べた。しかし、ここにもやはり「ダントツ」は載っていなかった。 驚いた。普段何気なく使っているのに、辞書には載ってない言葉。 「ダントツ」って、一体何なんだ? …疑問はその日のうちにあっさり解けた。 普段使わないパソコンの添付品の中に、CD−ROM版の『広辞苑』があるのを思い出し、それを引っ張り出して検索すると、「ダントツ」があった。 『「断トツ」:断然トップの略−他を大きく引き離して首位にある意の俗語。』 …なるほど。俗語なら普通の辞書には載っていない。しかも和英混合の略字だったとは。和製の単語だと勝手に思い込んで、僕は一人でじたばたしていた訳だ。 でも、気付いて良かった。僕は最初「ダントツの1位」と書こうとしていた。 略さなければ「断然トップの1位」だ。危なく「トップの1位」なんて、アホな重複表現を書こうとしていたのだ。 ふぅ。そのまま書かなくて良かった 『最初に掴んだもの』 今は二歳になる姉貴の子供が、まだ赤ん坊だった時の事。寝ている赤ん坊の手が、開いたり閉じたりと落ち着かないので、少しちょっかいをかけるつもりで、僕は自分の指を握らせてみた。すると赤ん坊は驚くほど強い力で、僕の指を握り締めてきた。 僕は少し慌てて、指を引き抜こうとした。でも、なかなか離してくれない。無理に引き抜こうとすると、赤ん坊の上体が持ち上がってしまう。 …この握力の強さは、何なんだろう。困ってしまった僕をよそに、赤ん坊はすやすやと眠り続けている。でも、ずっとそうしている訳にもいかないので、僕はその小さな指を一本ずつ開いて、自分の指を抜いた。そして、指の代わりにシーツの端を握らせてみた。 赤ん坊は、今度はそのシーツの端をぎゅっと握り締めた。何も握っていない反対の手も握ったままだ。両手を握り締めたその状態でくーくーと、赤ん坊は気持ちよさそうな寝息を立てていた。 そんな様子を見ていた姉貴が、僕に言った。 『何か握っていると安心するんだよ』 猿の子供には生まれつき、いちばん安心できる場所…「自分の母親」にしがみついて離れない、そんな能力が備わっているという。それが人間の子にも、本能的なものとして伝わっているのだろうか。 …何かを握り締める事で、得られる安心。赤ん坊がその時握っていたのは、単なるモノではなく、「安らぎ」のようなもの、なのかも知れない。僕はそんな事を想った。眠っていても、赤ん坊は無意識のうちにそれを掴もうとし、一度掴んだら、それを強く握り締めて、離さない。 赤ん坊の握った小さな手のひらには、小さな安らぎが包まれている。 僕が生まれて最初に掴もうとしたもの。生まれて、最初に掴んだもの…それも多分、そんな小さな安らぎだったのだろうか。そして、大きくなって、この手が様々なものを掴むようになっても、本当に掴もうと求めているものは、赤ん坊の頃と同じなのかも知れない。 かつてはちっちゃな手で、力いっぱい握り締めていた。 でも、その手から、いつの間にかこぼれ落ちてしまった。 最初に掴んだ、小さな安らぎ (2000/10/02) 『ファインダーの中の幽霊』 仲間とある港街へ夜景を見に行った時の事。市内には頂上に放送用の鉄塔が林立した小高い山がある。僕達は車でその山を登った。 頂上には展望台や駐車場が整備されている。夜の8時頃だった。頂上に着き、僕達は一番高い所にある鉄塔下の展望台へと向かった。僕達はビデオカメラを持っていて、夜景を撮るつもりだった。 やがて、僕達は展望台に着いた。夜景は最高だ。足元を照らす照明があり、ここなら皆の顔も撮れるだろう。僕はカメラを構え、撮影を開始した。 …先程からビデオカメラの液晶ファインダーの中に、はしゃぐ仲間と一緒に、白い雲のようなものがちらちらと映っていた。 「逆光?」 僕はカメラを眼から外す。外にそんな光は無い。でも、再び覗くと、ファインダーの中には確かに白い影が映っており、左右にちらちらと動いていた。 「変なもの映ってる…」 僕は皆に言った。 仲間が集まり、一人が僕から渡されたカメラを覗く。 「うわ、何これ!」 カメラは次の人に渡り、皆が代わる代わる覗いてゆく。 やがて、一人が叫んだ。 「人、人映ってる!」 皆、騒然となった。 …まさか。僕はカメラを受け取り、再びファインダーを覗いた。映像の全体にノイズが掛かっている。そして、そのノイズの中に、確かに白い人影が映っていた。こっちを向いて、何かを片手でくるくる廻している…そんな人物の白い姿が。 「ね、いるでしょ!」 もちろん、外にそんな人はいない。が、認めるしかなかった。 皆、訳が判らなくなり、いいようの無い恐怖に駆られ始めた。 「絶対幽霊だって!」 「やばいって!戻ろう!」 僕はファインダーから目を離せなかった。その人影は、僕がカメラをどの方向に向けても、同じ場所にいた。つまり、その人影はカメラの外にではなく、カメラの中。ファインダーの中にいたのだ。 突然、映像は寸断され、直後、人物の後姿が顔前に現れた。びくっ、と、悪寒が背筋を走る。こちらに背を向ける白い服を着た人物の顔は、横を向いている。はっきりとは判らないが、頭に帽子のような何かを被っている。そして、その背には何かが書いてある。 僕は目を凝らす。 これは…! 「背番号だぁ!」 展望台のすぐ上にそびえる鉄塔は、テレビの放送用のものだった。至近距離から発せられる強力な放送の電波が、ビデオカメラに干渉していたのだ。 ゴールデンタイムのプロ野球、ナイター中継の映像。それをどういう訳か、ビデオカメラが拾っていた。 僕らがファインダーの中に見ていた幽霊…。 それは巨人の選手だった! (2000/10/06) 『漁火』 先週末も連休を利用して、実家へ帰省した。ま、帰省というより、海沿いの街にある実家は、僕の週末の海釣りの拠点にされている事が多い。 土曜の朝に家を出て、途中で寄り道や買い物をして半日過ぎ、午後五時半頃にようやく地元市内に入った。夕暮れの中、海岸線沿いの道を走る。砂浜の海岸線には所々、鮭釣りの竿が林立している。遅れていた鮭釣りの時期も、いよいよ本番だ。 やがて車は、海に突き出した、小さな半島を貫くトンネルを抜ける。波があまりに穏やかだったので、そこでまた寄り道する。半島の右岸は、磯舟の小さな船着場になっている。ここで、ちょっと夜釣りだ。 車に常備している竿とルアーを持って、僕は船着場の防波堤を渡る。幅が70センチほどしかない防波堤。高さは海面から四メートル程だ。薄明かりを頼りに、そこを渡る。時刻は午後六時を廻っていた。 その防波堤の上から、ルアーを投げて、巻く。 丁度干き潮の時刻が過ぎた頃だった。今日の潮の満ち干きは緩慢だが、これから徐々に上潮になるので、時間的にはいい条件だ。ここで釣れる魚は、昼間ならアブラコという魚。夜はソイという、外見はブラックバスに似た魚が釣れる。今回は夜釣りなので、こちらのソイの方を狙う。 辺りはやがて真っ暗になった。 半月の明かりだけが、足場の防波堤を闇に浮かび上がらせる。すぐ足元は、海。真っ黒な海面が防波堤の下でうねっているのが判る。真下の海は真っ黒だが、沖に眼をやると、さざ波のひとつひとつに無数の半月が反射して、黄色く帯状に輝いていた。 そして、遥か水平線には、月と明るさを競うように、漁船の白い灯が煌々と燈っている。 あれは、イカ釣り漁船の集魚灯。『漁火』だ。その数、10数個。今は、ちょうどイカ漁の季節だ。 手は習慣的に釣りの動作を繰り返している。僕は、漁火をぼーっと眺める。 それは星空を掻き消すほどの明るさだ。海上にスタジアムが何個か出現したような…。 宇宙から地球の夜を見た時、一番明るく輝いて見えるのが、これら漁火らしい。それもそのはず。イカ釣り漁船は水平線の向こうにあるのに、光だけは白い束になって水平線を越え、上空をたなびく雲の形までを夜空に浮かび上がらせている。 漁火に見とれて、ふと、吸い込まれそうな感覚になった。 防波堤の上でバランスを崩し、僕は慌てた (2000/10/10) |