kassyoku 009



『玉虫色を見る、複数の眼』


 人には二つの眼球がある。それぞれの眼球が見る映像には僅かなズレがあり、その微妙な認識のズレがあるからこそ、人は何かを立体的に見る事ができる。つまり、違った視点から見るもう一つの眼を使う事で、僕は初めて、そのモノの奥行きと「真の形」を見ている訳だ。
 でも、これは右眼左眼に限った事ではない。例えば、ある人に対して僕が悪い印象を抱いている時に、別の人からその人に関する良い噂話を聞いたとする。そうすると、今まで悪い印象しか抱いていなかったその人物に対して、僕はそれまでとは違った見方をするようになるかも知れない。…ひょっとしたら、いい人なのかも。そんな感じだ。少なくともそれまでのイメージとは違う姿を、僕はその人に見出そうとするだろう。

 『 あのね。キミは大して嬉しくも無いのに笑う時、右の口の端だけで笑うの。
  …フン、って感じで。これは本当に嫌な顔。自分では気付いて無いと思うけど 』

 ある人にそう指摘された事がある。自分で自分を見詰め続ける限り、気付く事は無い自分の一面がある。人に言われて初めて気付く、自分の癖や考え方、といったものだ。
 特に、それが自分の「嫌な面」の話になると尚更で、僕はそういった自分の一面からは常に眼を逸らそうとする。
 自分を見詰める上で僕にとって必要なのは、自分には見えない自分の姿を見詰める、そんな他者の眼だ。自分の最悪の顔は、鏡には映らないもの。自分について何か言ってくれる全ての人から、僕は何かしら学ぶ事ができると思う。

 自分に見えている世界。それが「真実」だと思い込んでしまう事が、一番怖い。自分の見ている世界が、他人にも同じように見えているとは、限らない。ある人は「青」だと言い、別な人は「緑」だという。そして僕には「紫」に見える。僕が住んでいるのは、そんな「玉虫色」の世界。世界も人も自分自身も、見る角度でコロコロ変わる。

 自分の眼を信じると同時に、むやみには信頼しない事。
 複数の眼と協力し、色々な方向から見詰める事。
 異なる価値観で見詰める眼を、否定しない事。

 それでも、「真の姿」には、辿り着けないかも知れない。
 そもそも、「真の姿」なんてモノは、存在しないかも知れない。

 でも、そうする事で、一歩一歩近付く事はできるはず。
 「玉虫色」の、真の色に




『銀の車に毛が生える』


 僕が住んでいる建物の正面に、樹高10メートル以上ある唐松が、何十本も並んで育っている。恐らく昔、防風林として植えられたものだろう。

 ただ僕にとっては、この時期の唐松林は天敵でしかない。
 唐松は「落葉松」と呼ばれる。その名の通りこの松は、夏にいっぱいに繁らせた葉をこの時期に一斉に落とす。ま、それだけなら他の落葉樹と大差ないが、唐松の場合、その落ちる葉の量が半端ではない。木枯らしが一晩中吹き続けた朝など、その唐松の木から半径10メートル程の地面は、その落ち葉で隙間無く茶色に埋められる。
 これは決してオーバーな表現ではない。何しろ一本の樹が、そこら辺の街路樹とは比較にならないほど大きい。そして、僕の家の前にはそんな唐松が何十本も立ち並んでいる。
 また悪い事に、僕の車の駐車スペースが、その唐松林の落葉範囲内…つまり半径10メートル圏内にある。だからこの時期、朝の出勤の際に車を見ると、車がとんでもない事になっていたりする。シルバーの車体が、降り積もった落ち葉に覆われ、真っ茶色になってしまうのだ。

 朝露に濡れた車体に、細い針のような落ち葉が隙間無く貼り付く。
 小さな落ち葉は運転席からエンジンルームまであらゆる所に、どこからともなく侵入する。そして、細い落ち葉はワイパーとガラスの間に挟まり、その機能を妨げたりする。
 隅々の落ち葉を全部落としてから出勤しようとすると、間違いなく遅刻する。だから僕は窓の落ち葉だけを掻き落とし、後は走行中に吹き飛ばされる事を期待して車を出す。でも、露で貼り付いた落ち葉は、たった2キロの通勤距離では容易に落ちてくれない。

 結局、僕は車体に無数の唐松の落ち葉を貼り付けたまま、職場に到着する事になる。
 先日の出勤の際、職場の駐車場で、そんな唐松の落ち葉だらけの僕の車を見た同僚が、こう言った。
 「お前の車、何で毛生えてるの?」
 確かに、茶色い毛をふさふさ生やしている様に、見えなくもなかった…。

 貼り付いた落ち葉も、夕方までにはきれいさっぱり、風に乾いて飛ばされてしまう。でも、また一晩経つと、同じ事の繰り返しになる。

 …負け、負け。

 結局僕は、唐松の葉が全部落ち切る時を、待つしかないのだ

(2000/11/09)




『川はどちらに向かって流れるか?』


 川は、上流から下流に向かって流れる。これは当然の事。
 でも、そんな常識に突然、疑問符を叩きつけられた事がある。学生時代。かつては学園闘争で機動隊に石を投げつけていた、というアイヌ民俗学の先生から、「アイヌの世界観」についての講義を受けていた時の事。

 講義の合間の余談の中で、先生はこう言った。
 「彼らの考え方では、川そのものは海から内陸に向かって進んでいるんだな」
 …海から陸に向かう川。何故そうなるのかを、その先生は言わなかったし、当時はこちらも大して気に留めなかったので、質問もしなかった。でも、今でもこの言葉が心のどこかにぴったりと貼り付いて、離れていない。

 『…川はどちらに向かって流れるか?』
 先生は、川の流れは海から内陸に向かって「進む」と言った。
 でも、川が「進む」って、何が「進む」のだろう?

 視覚的には、川は上流から下流に向かって流れている。でも、これは川の「水」の話だ。「進む」というのは多分、川にとっての「時間」の事なのだと思う。
 川の未来は上流にあり、過去は下流にある。そう考えると、川の時間は下流から上流へと進んでいることになる。そうすると、この時間の流れは、川の水の流れとは反対になる。要するに、下流から上流へと遡行しているのだ。

 「川の水」は、源流部で地下から湧き出し、その後は高低差に従って、自然と下流へ向かって「流れて」いる。でも、「川の時間」は、すでに過去となった下流から、新しい未来が生まれ続けている源流部を目指して「進んで」いる…。
 うーん。判るような、判らないような。
 時間を「進む」と捉えるか、「流れる」と捉えるかという、その違いなんだろう。それなら僕は進むと捉える方が、好きだ。流れるよりは進むの方がいい。川に限らず、それは人についても同じ事だと思う。


 人の一生もよく川の流れに例えられる。
 でも、人は、過去に流されて行く川の水ではない。人そのものが、一筋の川だ。
 過去もそんな川の一部。それは決して流れ去ったもの、という訳ではない。上流も下流も、それはその川の一部だ。
 そしてその川は、上流を目指して進んでいる。上流の最上流には、源流がある。源流とは、未来がこんこんと湧き出している場所。

 『…川はどちらに向かって流れるか?』

 海へ向かって流れるのは川の水だけで、川そのものは、やはり源流を目指して進んでいる。時間は過去から未来へと向かって「進む」もの。源流にこそ、川にとっての「未来」があるのだ




『一発の銃声が二度響く夜』


 この辺りには畑が多い。緩やかな丘陵を拓いて造られた大小の畑は、トウモロコシ畑や麦畑だったり、牧草地だったりする。だが、水田はない。

 もう過ぎてしまったが、そんな畑の作物が刈り入れの時期を迎える秋、夜中にある音が鳴り響くようになる。それは、「パーン」という、銃声だ。
 …でも、正確に言えば、その音は銃声ではない。畑に設置された「騙し銃」が立てる破裂音だ。騙し銃とは、稲作地帯ではスズメ等を脅して追い払うのによく使われている銃の擬音を発する装置で、爆音機とも呼ばれている。
 僕がこの装置を見た事があるのは、もう子供の頃の話だ。その時の記憶では、騙し銃の音は火薬を鳴らしているのでは無く、確か装置に接続されたプロパンガスの爆発によるものだった、と思う。でも、装置自体の仕組みは、当時の僕にはよく判らなかった。


 この辺りでの騙し銃による脅しの対象は、小鳥では無く鹿だ。
 実りの秋、夜に活動する鹿の群れによる食害を防ぐために、騙し銃は畑で一晩中、偽の銃声を一定間隔で鳴らし続けている。
 夜中に響く、遠い銃声。恐らくはかなり距離の離れた畑で鳴っている筈なのに、音を遮る建物も雑音も無いこの土地では、その音は驚くほど鮮明に、僕の耳に届く。

 銃声が突然、夜の静寂を破る。

 「パーン…」という銃声は、鳴った後もしばらくの間、余韻を残して響き続ける。響く余韻は夜の空気の隅々まで染み渡った後、やがて吸い込まれるように、闇の中へ消え入ってしまう。そして、辺りには静寂が戻る。
 だが、十何秒か経った後、先ほどの銃声が再び、小さく微かに響いてくる。それは、遥かに遠い山並みに反射して、戻ってきた銃声。…木霊だ。

 最初の銃声に、僕はこの土地の夜の静けさを知る。そして、しばらくしてから戻ってくる二度目の銃声に、この土地の夜の広さを思い知らされる。
 街中と違い、ここの夜は本当に静かで、広大だ。
 騙し銃の銃声は、鹿の群れと同時に、そんな夜の静けさと広さにも一晩中挑み続けている。そんな気もする。


 一発の銃声が二度響く、夜。
 …静かで、広大な夜。
 そこに産まれたささやかな音の寿命は、驚くほど長い。

 刈り入れの時期がとっくに過ぎた初冬の夜は、ただ静かに更けている

(2000/11/12)




『僕は真北に向かってキーを打つ』


 キーボードが置いてある机は寝室にある。パソコン本体とモニターは、机の左隣の五段タンスの上に載っているので、キーボードを正面にして座ると、僕は首を少し左に捻ってモニターを見る事になる。

 首をそのまま正面に向けると、部屋の窓がすぐ目の前にある。
 電球を消して窓を開けると、漆黒の外の景色。
 窓からの景色の下半分は、唐松の防風林が覆っている。そして、上半分は星空が覆っている。付近には民家もまばらで、星空を妨げる人工の明かりは少なく、僕は部屋の窓からでも天の川を見る事ができる。

 そして、この窓はほぼ真北を向いているため、正面の唐松の梢よりも少し上の位置に、僕は北極星を見る事ができる。天球の回転の中心だ。
 この部屋に越してきたばかりの、もう何年も前の事。煙草の煙を逃がすためにこの窓を開けたら、ちょうど北斗七星とカシオペアが見えたので、僕は小学校の頃に習ったやり方で、北極星の位置を割り出してみた。そうしたら、ちょうど正面に、北極星があった。


 少なくとも僕は、自分が今どの方角を向いているのか、判っている。
 ただ、普段の生活の中でそういう感覚に気を留める事は、余り無い。日常生活には大して関係の無い感覚だ。大抵の人も、いちいちそういう事に興味は持たないかも知れない。僕自身も以前住んでいた部屋では、どちらがどの方角かなんて全く気にしていなかった。

 でも、今の僕には、そういう身近な感覚が割と大切なものに思えている。
 パソコンを使って、部屋の中にいながら世界中とやり取りを交わせる時代。ネットに接続されたパソコンのモニターは、世界中のあらゆる方角に開かれた、窓だ。
 けれど、そんな窓に向かって座っている自分が、実際の「どの方角」を向いて座っているのか…。そのことを正確に言える人は、意外と少ないかも知れない。遠くを眺めるあまり、身近なものを疎遠にしてしまう。そういう例も、意外と多いのかも知れない。

 何事につけても、すぐに方向性を見失ってしまう。それなら、少なくとも今の自分がどの方角を向いているのかくらい、判っておきたい。
 幸い、北極星は動かない。古来から人は、北極星を見つける事で、自分の位置と、自分が進んでいる方角、そして進むべき行く先を割り出して来た。


 僕は真北に向かってキーを打つ。
 …皆さんは?

 東の空には、まだ起たぬオリオン


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