kassyoku 010 『カメさんがいっぱい!』 朝、上司と同年代の同僚と3人で、焼却炉へ書類を燃やしに行った。 焼却炉は鉄板の屋根に覆われている。点火後も僕らはその屋根の下で、ゴミが燃え切るのを待っていた。やがて火が回り、炉の周辺は、傍に寄れないほど熱くなる。 そんな時だった。焼却炉の屋根や煙突部分から、ポタリ、と茶色い何かが降って来た。それは、地面に落ちてモゾモゾ動いている。 虫だ。しかも、カメムシ。 カメムシは集団で越冬する。この場合は、焼却炉の余熱に惹かれてきた大量の群れだ。周辺の至る所をカメムシが這う。避けて歩く事も難しい中、上司が炉の裏へ周り、状況を確認した。そして、彼は叫んだ。 「うぉう! カメさんがいっぱい!」 上司はカメムシを「カメ、カメ」と言う。そのうち僕達もつられて「カメ」と呼ぶようになっていた。炉の裏を覗き見ると、そこには炉の壁一面に張付いたカメの群れ…。僕達は事務所へ戻り、対策を考えた。 「外だからバルサンも効かないな」 「ガスバーナでカメ、焼きます?」 「うわ、ひでぇ…」 事務所には作業に参加していなかった年配の職員が、パソコンを操作しながら僕等の話を聞いていた。でも、眼は画面を見詰めたまま、口は出さない。 「壁一面のカメを、誰が焼く? それに天井のカメ、自分に降ってくるぞ?」 「ダメっスか?」 「…ダメ!」 「あのまま全開で燃やしておけば、そのうちカメ、いなくなるんじゃない?」 まぁ、どうせ吹き曝しの焼却炉で冬は越せないでしょう、という事で、話は大体纏まった。 「お前ら後でカメ掃いてきてくれ」 と、そう言い残して上司は席を立ち、事務所を離れた。 その時、ずっと黙っていて話には参加していなかった年配の職員が、突然口を開いた。 「さっきから聞いていたんだけど、お前ら何の話してるんだ?」 「は?」…同僚と僕は、顔を見合わせる。 「カメ、カメ…って、何言ってるんだ、お前ら?」 あ、まさか! 「カメ…って、亀、じゃないっスよ」 僕は答えた。彼が怪訝そうな顔をする。 「…カメムシ」 しばし沈黙の後、彼が「なぁんだ」と笑った。 「俺ァてっきり、縁日の『亀』かと思ったわ! ガハハ」 …やっぱり。でも、「縁日の亀」だと思ってそれまでの話を聞いていた彼は、一体どんな光景を想像していたんだろう。 『亀さんがいっぱい!』 僕にその「絵」を想像する事は、ちょっと難しかった (2000/11/14) 『度量衡換算表』 ずっと使い続けた手帳がある。でも、住所録も一杯になり、見た目も酷くなっているので、新しいものに更新しようと思った。 捨てる前に必要な部分を破り取るつもりで、手帳を開く。改めて見ると、手帳には今まで大して気に留めなかった色々な情報が載っていた。見開きの「世界主要国地域時差比較表」に始まり、手帳の後半には「贈答のマナー」「手紙の書き方」「市外通話局番表」等々。 それを見て僕は少し感心したが、よく考えたらいちいち手帳で調べる必要のない事柄ばかりだ。厚い割に、無駄なページが意外と多い。 そんな時、手帳の最後の方に見慣れない題の表を見つけた。 『度量衡換算表』と書かれているその表は、世界各国の様々な「単位」を、それぞれ他の「単位」に換算するためのもので、「1m」は「3.3尺」で「39.3701インチ」で「1.09361ヤード」で…といった具合の一覧が載っているものだった。 見ていると面白いが、これも普段の生活には余り必要ないものだ。 でも、何となく気に入り、僕は『度量衡換算表』を切り取った。 万物それぞれ、異なる尺度を持って生きている。 樹と人、人と小動物、大人と子供…。それぞれ、その時間の尺度は違う。一方が他方を見て、ひどく忙しなく生きているように見えても、相手は自分の尺度で生きているだけ。違う価値観や考え方を持つ人々もそうだ。その人はその人固有の物差しで世の中を捉えているだけ。自分だってそう。自分の尺度で相手を計り、勝手に相手に対して違和感を感じているだけ。 異なる尺度を否定しないで認め合う事の大切さは、判っているはず。 それなのに、僕達は違う尺度の持ち主を、身の回りから遠ざけてしまいがちだ。 理解しようと試みる、その前に。 人の心にも『度量衡換算表』があればいい。万物それぞれが持つ異なる尺度を、一目で自分が使っている尺度に換算してくれる表だ。 それは、異なる者同士が判り合うための換算表。例えば、一歩の尺度。誰かと二人で歩いている時、相手は僕の歩みが「速い」と言い、僕は相手の歩みを「遅い」と感じる場合。僕は時々立ち止まり、相手は時々、小走りになる。そんな事を繰り返し、やがて僕達は苛立ってくる。お互いに対して。 でも、二人の歩幅は違っても並んで歩く事はできる。 気持ちが合えば、歩く速度も自然と合ってくるはず。 …そう。相手を判る気持ちがあれば、心の換算表は自然と見えてくる。 そして、その表にはこんな事が書かれている。 『 相手の3歩 = ゆっくり歩く僕の2歩 』 『記念写真の前と後の光景』 身分証や免許証の「顔写真の表情」が気に入らない、という話は以前に書いたが、もう一つ、全体的に気に入らない表情の写真がある。それは「記念写真」だ。 学生時代の卒業写真がある。各組毎の集合写真だ。色とりどりの袴やスーツ。皆、日常とは違った服装で着飾っている。でも、表情は身分証の写真なんかと同じで、何となく真面目くさっている。 これほどまでに皆が無表情になった瞬間を、僕はこの時以外、見たことが無い。学生時代最後の「真面目な式典」とはいえ、その時のその場所にはもっと色々な表情があった。記念写真の順番待ちをしている時のざわめきや、写真撮影の後、着慣れないものを着た窮屈な撮影から開放された時の、やれやれといった表情…。 結局、そういった表情が写真に収まる事はなかった。 でも、写真には残らなかったそんな皆の顔の方を、今の僕はよく覚えている。 記念写真の前と後の光景。 記念写真を撮られる瞬間の表情よりも、記念写真の前と後の表情の方が、皆、いい顔をしている。 七五三や入学式での子供の記念撮影の場合も、多分そうだろう。大抵は綺麗な着物を着せられて、緊張していたり、照れた面持ちの子供の写真を何枚か撮る。最近は衣装も貸してくれる写真屋で、そんな記念写真だけを撮って「はい、終わり」になる。 そういった写真も、確かに記念にはいいのかも知れない。 でも僕は、その飾り付けられた一瞬よりも、その一瞬の前後の表情にこそ、ピントを合わせて数多くシャッターを切って欲しい。衣装付けの最中、滅多に無い出来事にはしゃぐ表情。慣れない出来事に泣き出してしまう事も、あるかも知れない。その辺りの表情を狙って、シャッターを切る。勿論、本人には気付かれないように。 そして、記念撮影の後、緊張から解き放たれてホッとした表情をまた、撮る。こちらも本人には気付かれないように、撮る。「撮るよ」なんて、声はかけずに。 記念写真から、なかなか抜け出せない。 …何となく、飾ろうとしてばかり、だ。 ありきたりの記念写真なら、僕はいっぱい持っている。 アルバムに残っているスナップ写真も、何となく身構えた一瞬ばかり。 でも、思い出に残っている表情やエピソードはどれも、記念写真の枠からは、少しはみでた所にある。 ふとした日常のスナップは、意外と少ない 『気分』 今住んでいる所。自然環境は申し分ないが、若者には退屈極まりない土地。 実際、ここで育った子供達が、この地に職を見つけて留まる例は少ない。農業や畜産などの一部を除けば近所に大した産業は無く、就職口もない。だから、若い世代はひたすら減って行く。 今住んでいる土地の「風土」や「景色」について書いたり話したりすると、「羨ましい環境」だと言われる事がある。 確かに、周りに広がる風景は都市部に無いものばかり。その中に「いいもの」は多い。 でも、この土地で生まれ育った人にとって、それは当たり前の環境だ。そういった当たり前のものをわざわざ取り立てるのは、僕のような他所から来た者だけかも知れない。 勿論、いい点もあれば、そうでない点もある。 この土地は、若い世代が流出する一方で、僕のように他から流入してくる同世代は殆どいない。そのため結局、この地の住人は古くから住んでいる者ばかりになる。 そして、そうした彼らは頑とした「地域社会」を、この土地に構成していたりする。僕はもう五年間ここに住んでいるが、まだまだ彼らにとっては「よそ者」だ。 僕がこの地に来たのは、ほんの偶然。 就職したらこの地に配属された、それだけの事。 結局僕は、ここを拠点に生きてはいるけれど、この土地に根ざして生活しているとは言えない人物だ。そして、この土地に根を張る気持ちも、持ち合わせていない。 …まるで楓の種。 風まかせの偶然で飛んではきたけれど、周りには年輪を重ねた大木ばかりが生い繁る。僕はちょこっと芽を出して、陽射しを求めて空を見上げる。でも太陽は古木の枝葉に遮られて、ちっとも見えない。日当たりの悪い地面で辺りを見廻すと、若木はちっとも育っていない。元からいる古木の種子ですら、この地で芽を出そうとはしていない。 ここで満足な陽射しを得ようと思ったら…。 自分も長い歳月をかけて巨木になるか、今ある巨木に巻きつく蔓になるか。 暗い木陰の下草となるか、『ヤドリギ』のように、巨木の梢の一部になるか…。 途方に暮れて、僕は出しかけた芽を引っ込める。 羽の付いた種子は、次の風に乗るつもりだ。 この地が嫌いな訳では、無いけれど。 週末。今年初の本格的な積雪があった。 今、外は15センチほどの積雪で、真っ白に覆われている。 この地での5回目の冬。 でも、6回目は、無いかも知れない。 …そんな、気分 『命を奪える存在』 今年は家の天井裏にネズミが入っている。夜、耳を澄ませると、頭上でカリカリという音が聞こえてくる。足音もする。小さな足音。ドブネズミでは無い。まず間違い無くヤチネズミだ。夏の間は床下に出入りしていたのが、この季節になって暖気の溜まる天井裏に移動してきたのだろう。 でも、すぐに駆除しようにも道具が無い。さて、どうしようかな。 幸いまだ実害は出ていない。室内に出てきた形跡は無いし、電気配線も今の所は無事だ。元々野生のヤチネズミは天井裏でもひそひそと慎ましく暮らし、大した騒動を起こさない事が多い。そのため放っておいても良いが、被害が出てからでは遅い。 どちらにしても頭上でカリカリやられるのは気分悪いので、駆除を真剣に考えた。 普通、ヤチネズミには粘着式のネズミ捕りを使う。体長10センチに満たない彼らに対しては、金網製の「カゴ型」のネズミ捕りでは、餌だけ取られて逃げられてしまう事が多い。 ネズミの駆除の仕方を、僕は良く知っている。 実家にいた頃、小学生の時からネズミ退治は僕の仕事だった。 駆除の仕方とは、「捕え方」と「殺し方」の事。そう。捕らえて殺す方法を、僕は良く知っている。無数にそうしてきたからだ。 普通、そういう事はタブーにされていて、決して公に教わる事は無い。勿論、学校でこういう事を教わることは無く、普通の家庭でもまず、こういう事に触れられることはない。 僕がそうした所で教わってきたのは、実際に自分がしていた事とは全く正反対の一面だけだ。『生き物を殺すのは、悪い事』 という、その一面だけ。 殺す事を学んだ僕は、悪い子供だったのかも知れない。 でも、誰もが何ものかの生き死にに、間接的に手を貸しているのだ、ということ。 そして、誰もが他の命を奪う事ができる存在なのだ、ということ。 そういうことも、僕は良く判っている。 今週、デスモア(殺鼠剤の諸品名)を分けてくれると言う人がいた。でも毒物を使うと何処で死なれるか判ったものではないので、断った。 年末年始、一週間ほど家を空けるので、駆除するかどうかはそれ以降に決める事にした。火の気が無ければ天井裏も、氷点下20℃の外気に直接さらされる事になる。それで出て行くかどうか、だ。 相変わらず頭上ではカリカリ音がする。 下に住んでいるのは虫も殺せない人間ではない。 出て行った方が身のためだ。…その点、察してくれればいいんだけど。 僕は音の真下の天井を拳で打つ (2000/11/23) |