kassyoku 011 『何となく誰かと一緒にいる、という事』 週末。家に学生時代の仲間が集まり大騒ぎだった。それぞれ職場も住んでいる所もバラバラなので、近い者でも僕の家から90キロ、遠いものは300キロ彼方の街から、車で何時間もかけ集まって来た。 皆の住む地理的な位置関係上、僕の住んでいる所が仲間内で最も集まりやすい場所なので、年に何回か皆の休みが重なった時、僕の家を会場にこういった集まりが行われる。 今はもう、皆が帰った後だ。狂乱の後の、静寂。 …それにしても、卒業してから5年も経つのに、よく皆こうして集まるものだ。 普段、頻繁に顔を合わせたり、電話を掛け合ったりする訳でもない。歳月がそれぞれを変えているはずなのに、その変化を感じさせずに、一片の違和感もなく再会できる面々。僕も含めてよっぽど進歩の無い連中なのか、それとも。 同じ学生時代を過ごしたある女の子に話すと、僕達のこうした関係が「羨ましい」と言う。彼女の話によれば、学生時代、授業も食事も、サークル活動も一緒だった同じグループの面々とも、今はほとんどすっかり音信不通になってしまったらしい。 「結構、仲良さそうだったじゃない?」 当時の記憶を頼りに、僕が訊く。 「でも、『ただ何となく一緒にいた』っての、あるよ…」 何となく、にしては、当時の彼女達のグループは、結束が強かった気がする。それに「何となく」というのは、今の僕達が集まる理由と大して違わない。 そういえば今回集まった連中は、学生時代に学校外ばかりを見ていた面々だ。そんな点で「何となく」気が合っていた仲間。何だか可笑しい。そちらの方が結局、長続きしている。 ただ。当時、彼女達のグループを結びつけていた「何となく」は、卒業してからはその意味を失ってしまうものだったのかも知れない、と思う。例えば、学校という不特定多数の集団の中で上手くやっていくための「結び付き」といった。そして、卒業と同時にそうして結び付いている理由も必要無くなった。そういう事なのかも知れない。 ま、彼女も今では新しい「何となく」で誰かと一緒にいるはずだし、僕自身も改めて考えると、そういったグループの一員なんだろう。 何となく誰かと一緒にいる、という事。それは多分、自分が身を置いている状況の中で、少しでも上手くやっていこうとする能力なんだと思う。 習性かも、知れないけれど 『機械の心』 人の体の仕組みは、よく機械に例えられる。現在なら、コンピューターだ。 僕たちは情報を取り込み、変換し、記憶媒体に書き込む。記憶された情報は頭の中の色々な領域に格納され、必要に応じて出力される。 また、頭の中身を最適化したり、他人とインターフェイスしたりもする。時には忙殺されメモリ不足が起きたり、熱暴走やクラッシュだって起こり得る。ま、初期化する事だけは難しいけれど。 人が機械に例えられるのは、人が機械的だからでは無い。多分、捉えどころの無い自分自身を、自らが造り上げたものに投影し、モデル化して捉えようとしているだけだと思う。それは鏡に自分を映してみる事と、大して変わらないこと。 最近は人間や動物によく似た機械が話題だ。仕草が動物に似ている玩具や、二足歩行可能なロボット。今の所はまだ「動きが良く似ているだけ」という段階だが、将来的にはどうなるのだろう。やはり生身の生き物に限りなく近い機械が、造り出されるのだろうか。 ただ、動きは表現できても思考は難しいはず。心を持つ「アトム」や「ドラえもん」に、機械は何処まで近づけるのだろう。人間自身、まだ自分の心についても良く判っていない。それは鏡にも映らないし、何かに置き換えてモデル化する事もできないものだ。 結局は、心がナニモノか解明されるまで、心を造る事はできないのだと思う。未知のモノを、人は造れない。現在の人間型ロボットはまだ立ち上がったばかりの幼児。「心」の形成はずっと先の話だ。 ただ、「快と不快を表現する機械」の実験は、もう始まっているらしい。 そのうち機械が幼児の眼で、「これなあに?」 なんて、訊いてくる。そんな時代になるのかも知れない。 限りなく生き物に近い機械。でも、何もかもが生身と同じ機械を造ってもあまり実用的ではない。仮に造られてもそういった機械は「技術力の結晶」という形になり、一般に普及する事は無いだろう。 吼えたり、噛み付いたり、部屋を汚す「動物型ロボット」 時には人の心を傷つけたり哀しませたりする「人間型ロボット」 生身が持つそういった一面まで、人が機械に求めるとは思えない。 人が求めているのは常に、生身が持つ二面性のうちの片面だけだ。人が機械をいかに人間に似せて造っても、人はやはり、そのまま単独では人間に存在しない「片面」を、機械に求め続ける。あくまでも「道具」として。 …でも。機械が心を持つようになったとしたら。 「機械の心」に、人は一体、何を求めるのだろう (2000/11/28) 『大人のがらくた入れ』 車掃除のついでに、車内の小物入れの中を整理した。しばらく放っておいたので、その中は凄い事になっていた。…紙屑だらけだ。 大半は給油のレシートだが、たまに訳の判らないものが混じっている。「稚内→礼文島香深間」のフェリーの半券。駅伝大会の参加賞の手拭。ガムや喉飴。旅先の店の『お買い物クーポン』。そして、その裏にメモ書きしてある謎の数字。 何だか、今年一年を発掘しているみたいだ。捨ててしまうのが、何となく惜しくなる。もし誰かが一緒にいたなら、これらの物それぞれのちょっとしたエピソードを、しばらく話してあげられそうな、そんな物達ばかりだ。 普段日常の中で得た些細な物が、訳も無く溜まって行く場所。そんな場所を、僕は他にも持っている。 例えば、財布の中。小さなポケットの隅々まで中の物を全部出してみると、何で取ってあったのか説明できないような物がいっぱい出てくる。期限の切れたボーリングの1ゲーム招待券、滅多に行かない店のポイントカード、貰った人の顔も思い出せない名刺にスロットのコイン。カード用のポケットからは、学生時代に撮った免許更新用の顔写真の残りまで出てきた。 あと、写真がもう一枚。僕が姉貴の子供を抱いているポラロイド写真だ。夏に遊びに行った際に貰ったのを、すっかり忘れていた。知らない人が見たら子持ちだと誤解されるな、こりゃ。 机の中もそんな場所だ。でも、ここは恐らくもっととんでもない事になっているので、今回は手を付けない。 ただ、ここの文章を書く際に使った「メモ」が、机の上に結構溜まっていたので整理する。文章の大筋は大抵手書きから始めているので、その枚数は多い。用が済んでも捨てられずに、溜め込んだメモ。改めて読み返すと、その時考えが纏まらず文章にならなかった言葉も多い。 訳もなく物が溜まる場所。大掃除のついでにそういう所に眼を停めてみるのも、面白いかも知れない。なぜ溜めこんでいるのか、なぜさっさと処分できないのか、自分でもその理由が上手く説明できないモノにはっとさせられる事が、きっとあるはず。 そう。そこは『がらくた入れ』だ。大人のがらくた入れ。 誰だって子供の頃は、そういうスペースを持っていたんじゃないかな。 訳もなく物が溜まる場所。 ひょっとしたら意外な宝物だって、見つかるかも知れない 『もう二度と会わない人への手紙』 コンビニで年賀状が売られているのを見た。年賀状の注文のチラシが入っていたのは、もうずっと前の事だ。書き終えて後は投函するだけという人も多いのだろう。 年内に元日の日付の年賀状を書く事に、僕は何となく抵抗がある。 まだ実家にいた頃、死者から年賀状が届いた事がある。その年賀状が配達された当日、母方の祖父が亡くなった。元旦に、だ。そして、その時の本人の状況とは関係なく、祖父の名の年賀状は実家に配達された。訃報と共に。 その妙な元旦の光景を、僕ははっきり覚えている。 そして、その年から僕は、年賀状を年内には出していない。 年が明けてから出す年賀状には「メリット」もある。年賀状を出すか出さないか、そんな微妙な立場の相手がいても迷う必要がない。その相手からの年賀状が届いていれば、その時点で自分も出せばいい。早い話、「来た人」だけに出せばいいのだ。…まぁ、実際にはそうはいかないけど。 今年の始めに届いた年賀状を見た。今年一年顔を合わせなかった人が結構いる。近況のやりとりが年賀状だけになってしまっている人もいる。どちらかが年賀状を出すのを止めてしまえば、もうそれで終わりになりそうな相手だ。 以前は身近だった人々も、今では頭の中に相手の居場所があるのかさえ、怪しくなっている。10代の頃、家に何泊もさせてもらった友達。他人が呆れるほど長電話したた相手。かつて僕の前で涙を見せた人。そんな人達も、僕にとっての意味を次第に失っている。 きっと相手も同じなんだと思う。終わりなんて、いつもこんなものかも知れない。突然という例外を除けば、終わりというものはいつもこうしてフェードアウトしてゆくもの。 何度か味わった、ゆっくりとした別れ。 それもいいね。一番ダメージが少なくて済む。 これから年賀状を出す相手のうち、何人が「この先二度と会わない人」になるのだろう。…ふと、そんな事を思う。 もう二度と会わない人への手紙。行間に潜むサヨナラ。 でも、次に会う可能性が皆無ではないから、年賀状だけは交わしているのかも知れない。何かと理由を付けながら、どちらかが出さなくなるその時まで。 もう二度と会わない人への手紙。 それは、また逢う事があるかも知れない人への手紙。 最後の一枚は、自分から出す方がいいのかも知れない (2000/12/03) 『書きたい事を忘れた日』 運転している時にふと思った事があった。そしてその事を表現する言葉も「ぽっ」と浮かんで、頭の中でその言葉を転がしているうちに、何となく文章になりそうな題材に仕上がった。でも、運転中にそれを書き留める事もできなく、他の事に気を取られているうちに、すっかり忘れてしまった。 僕は車を降りてしばらく経ってから、「何かを思い付いた」という事だけを思い出した。でも、その中身が何だったのか、今でも思い出せない。 特に忘れっぽい人間ではないが、ふと思った事をふと忘れてしまう、そんな事が結構多い。夜、寝る間際に思い付いた、ちょっとしたアイデアや言葉。それらは自分でも結構気に入ったりするけれど、朝になるとすっかり頭から消え去ってしまっている。それなのに「何かを思い付いた」という、その事だけはしっかり覚えていたりする。もどかしい。 ただ、そんな消え去ってしまったはずの思考も、実際はしっかりと頭の片隅に記憶されている。大抵は「すぐに思い出せない」というだけで、ある日何の脈略もなく、その時に思った事が突然蘇ったりする。 自由に引き出せる記憶と、そうではない記憶。僕は二種類の記憶を持っているようだ。 記憶はやはり「引き出し」に収められていて、それを取り出すためには「鍵」が必要なんだと思う。大抵の記憶は、引出しと鍵がセットになっている。頻繁に開く、思い通り自由に中を覗く事ができる引き出し。それは日常生活に必要な情報が収められた引き出しだ。 でも「ふとした想い」は、どこの引き出しか、鍵がどれかも憶え切らないうちに収められてしまっているらしく、開けたい時に開けない。それなのに、ふとした事が鍵になって、ある時突然開いてしまったりする。 …「感じる」とは、そういう事なのかも知れない。 例えばクレヨンを見て、「あ、懐かしいな」と感じる。その時、鍵になったのは「クレヨン」で、懐かしさと共に引き出されたのは、それで夢中になって絵を描いていた頃の、奥底にしまわれていた記憶だ。 そして、「勘」というのも、そういうものなのかも知れない。 状況からふと呼び覚まされるイメージ。それが勘なのだと思う。今置かれた状況が鍵になって、その状況に似た過去のイメージが経験という引出しの中から取り出され、それが突然心に浮かぶのだ。 引出しは僕の中に存在し、鍵は身の回りに無数に存在している。 何が鍵になるのかは、予測がつかない (2000/12/04) |