kassyoku 012 『真冬の冷蔵庫』 昼間は晴れていたが、気温がプラスに転じる事はなかった。 週の初めに降った雪が、3日経った今でも減らずに残っている。恐らく、この雪が根雪となるだろう。季節はいよいよ真冬を迎える。 真冬を迎えると、僕の生活も一部が冬仕様に変わる。 朝の降雪に備えて、目覚まし時計を早めにセットする。寝る前には一度外を見て、翌朝が大雪にならないかどうかを確認する。そして夜、歯を磨いた後には全水道の水抜きをする。凍結させないために。 今は、それらを全て済ませた後だ。 これからの時期、僕の家の中には、室温が氷点下の部分と、常に20℃程度に保たれる部分のふたつが同居するようになる。 僕が普段居場所にしている2階は、常にストーブが焚かれている。でも、台所とトイレと風呂場がある1階は、長時間いる事がないので暖房を入れていない。そのため、古い家ということもあり、火の気のない1階の室温は屋外と大して変わらない寒さとなる。 暖房の入っているスペースでの生活は、冬も夏もそれほど違わない。でも、直に冬の気温に曝される部屋では、夏場には気にも留めない個所に、いちいち気を使う必要が出てくる。それは「凍るもの」への対処、だ。 冬に凍るのは、水道だけではない。風呂洗剤やシャンプー類、衣服の柔軟材も凍る。トイレの芳香剤も、液体のものは殆どが凍ってしまう。こういったものに「寒冷地仕様」は無い。粉末と固体が頼りになる時期だ。 そういえば。塩素系トイレ用洗剤は意外と凍らない。食器用洗剤には凍るものと凍らないものがある。…と、こうしたちょっとした発見もある。 でも、台所の床に置きっぱなしのコーラやオレンジジュースは凍る。最悪の場合は破裂だ。でも、凍るからといって暖房の入った部屋に置いておくと、今度はぬるくなってしまう。 飲み物の凍結を防ぎつつ、適度に冷やされる場所を見つけるのは難しいと思った。冷蔵庫は氷点下の台所にあるので、その中では余計に冷やされ、冷蔵庫の中で大惨事が起きてしまうはず。 …と、以前はそう思っていた。でも実際に使ってみると、室温が氷点下でも、冷蔵庫の中の物は凍らない温度に保たれる事を知った。冷蔵庫というのは必ずしも、物を冷やすためだけに存在している訳ではないのだ。 この季節、造られた目的とは全く反対の使われ方をしている冷蔵庫。 氷点下の冷蔵庫は、庫内を設定温度まで「温めよう」と、日夜頑張っている 『くびれた現在を砂が流れる』 砂時計は、何となく好きだ。 未来の残量と、経過した過去の量が、見た目ではっきりと判る。 ひっくり返せば、過ぎた時を戻す事もできる。 少し目を離すと、いつの間にか砂が落ち切っていたりする。 知らぬ間に尽きる未来の砂に、何かを教えられているような気がする。 時間とは、永遠に繰り返すものではない。 少なくとも、僕にとっての「時間」とは、そういうものだ。 他の時計と違い、砂時計はそんな事を、僕に気付かせてくれたりもする。 定量の未来を落とす砂時計。 未来は減る一方だけど、僕にはその残量が判らない。 そして、過去を積もらせる砂時計。 『時は流れない。それは積み重なる』 …そんなコピーのテレビCMが、以前にあったっけ。 過ぎ去ったと思っていた時。 忘れ去ったと思っていた時。 でも、失くした時は全て、自分が得た時だ。 降り積もった砂の上に、今の自分は立っている。 そして、この瞬間も絶え間なく、砂は降り続け、未来を減らし続けている。 やるべき事は多いのかも知れない。 知らぬ間に砂が尽きる、その前に。 砂時計を眺める。 上下の拡がった部分が、砂時計にとっての未来と過去だ。 では、砂時計にとっての現在は? …それは、その瞬間を流れる砂が通る、真ん中の細い部分だ。 未来も過去も、大きく拡がっている。 それなのに、現在の部分だけが、くびれた芯になっている。 どうしてだろう。 砂時計を覗き込む。 未来と過去の拡がった部分には、僕の顔もはっきり映る。 でも、砂時計のくびれた芯には、はっきりとは映らない僕の顔。 過去や未来の自分以上に、現在の自分を捉えることは難しい。 くびれた現在には、僕の顔も歪んで映る。 そして、そのくびれた現在を、砂が窮屈そうに流れ続けている。 砂時計は、何となく好きだ 『けあらしの夜』 こちらでは、海霧のことを「ガス」と呼ぶ。「海霧」と漢字で書いて「ガス」と読む人も結構多い。僕は沿岸部の出身なので、霧といえばこの「ガス」しか知らずに育った。 他の種類の霧を知ったのは、内陸部に移り住んでからの事。 海霧の届かない内陸部の霧は「ガス」とは違う。山間部によく発生する普通の「霧」と、川沿いに立ち込める「川霧」で、普通はどちらも「霧」と呼ばれている。 ただし、冬の川霧だけには違う呼び名が付いている。この時期、夕刻に急激に気温が下がると、気温と比べ温かい川面からは、霧が湯気のように溢れ出す。そんな冬の川霧は「けあらし」と呼ばれている。 昨夜はそんなけあらしの夜だった。 職場から帰宅の際、そのけあらしの発生源である川を渡った。 けあらしの橋の上は、不思議な空間だった。10メートルも届かないうちに掻き消されてしまうヘッドライトの光。それが乱反射してできた光の球が、車を包み込む。左右を見ても視界に入るのは欄干だけで、他は一面「白」の世界。黄色いフォグランプだけが、かろうじて足元を照らす。でも、雪が積っているのでセンターラインは見えない。 橋を越えても、霧の濃さは変わらなかった。 気を抜くとすぐに、全ての感覚を失ってしまう。速度、位置、方角…、それらを比較するものが窓の外に何も見えない。一面が真っ白の世界。飛んでいるような、何処へでも走って行けそうな感覚になる。 居場所も忘れてしまいそうだ。心地よいほど。 本当の意味の「自由」とは、ひょっとしたらこんなものかな。…ふと、そんな事を思う。 ただ、ここには確実に路肩があり、道を見失うとそこに落ちてしまう。 このような状況で自分の感覚は、余りあてにはならない。僕は速度計と、フォグランプの明かりが照らし出す他の車が付けた轍を頼りに、そろそろと車を走らせる。 薄くはなっていたが、川から溢れたけあらしは、川から結構距離がある僕の家の辺りまで届いていた。玄関の除雪をしながら空を見上げると、周囲には霧が立ち込めているにも関わらず、星空が顔を覗かせていた。 でも、地上に見える明かりは全て、霧に霞んでしまっていた。 敷地の入り口に立つ街灯の白い光が、霧の中に「ぼーっ」と燈っている。 霧に柔らかく包まれた光の球が、丸くなって支柱の頂きに載っている。 それが何だか、綿毛を咲かせるでっかいタンポポのように見えた (2000/12/08) 『舌触れて蘇った傷口』 先週末。職場でダンボール箱を開梱する際、箱に捲かれていたプラスチック製の「締め付けバンド」で手を切った。左の人差し指の付け根だ。でも幸いそれほど深い傷ではなく、今日一日は、その傷の事もすっかり忘れていた。 それで、もうすっかり治ったと思っていたが、先ほど何故か傷口が気にかかり、改めて指を見てみた。すると、もう血の出る気配はないが、何となく傷口が塞がり切っていない、そんな感じがした。 こういう事は一度気にしだしたら、もう放ってはおけないものだ。僕は「舌」で傷口に触れる。舌は一番身近な癒しグッズだ。 …でも、止めておけばよかった。 唾液に濡れて傷口は再び活性化し、それからずっとひりり、ひりりと痛んでいる。大した痛みでもないが、今も気になってしょうがない。癒しの舌が触れて、せっかく忘れていた傷の痛みが呼び醒まされた。小さな傷口は、やっぱり放っておくのが一番だ。 過剰な癒しが、知らなくてもいい傷口までひりひり痛ませる。 巷に溢れる「癒し」という言葉。それもそんな過剰な癒しなのかも知れない。本当は何に対して癒されたいのかも良く判らないのに、癒しという言葉だけが、まるで流行のように溢れている。 癒されるためには、まず傷ついている事が前提になるはず。 でも、それほど癒しが必要な傷って、何だろう。そう思う。本当に癒しが必要になる傷とは、自分の治癒力では治りきらないような、大きな傷口。 人間って、そんなに傷つきやすい生き物だったっけ。 癒しが傷口を求めているのか、ささいな傷までもが癒しを求めるようになったのか、判らなくなる。でも、恐らくはその両方なのだろう。 傷つく事に全てが敏感な時代。そういえば「傷つく」も最近流行っている語だ。 でも、安易な癒しは、忘れていた痛みまでもを新鮮なものにしてしまう。 そして、癒されて始めて知る傷口もある。 癒しをかけられなければ、気付くこともなかった小さな傷口。 とにかく、癒しの舌が傷を塞ぐことは無い。必要なのは傷口を乾かすことと、いじらずに放っておいて自己の治癒力に任せることだ。これは幼い頃に学んだ傷ついた時の鉄則。そうすれば大概の傷は自然に治る。 ま、心の傷も似たようなものかも知れない。 痛みは、必ず癒えるもの。…傷跡は残るのかも知れないけれど、ね。 舌触れて蘇った傷口は、まだひりり、ひりりと痛んでいる 『絵本の片隅』 図書館実習を受けたのは、もうずいぶん前の事。 図書館司書の資格をとるためには、本物の図書館で2週間程度の実習が必要だ。でも、たった2週間で覚えられる事はごく限られている。図書館の職員もその事は承知済みで「せっかくの機会だから、多くの本に触れていきなさい」などと言う。 実習を受けた図書館はさほど大きな所でもなく、平日の昼間など利用者の少ない時間、本に触れる機会は結構あった。それで、どうせなら普段読めないものをと思い、僕は「絵本コーナー」の絵本を、片っ端から読んだ。 勿論、そこには子供もいる。「絵本を読む兄ちゃん」は彼らの眼にどう映ったのだろう。…でも大した時間を経ずに、僕も子供達も互いに慣れて、僕達は一緒に絵本を覗き込むようになる。 時には絵本を読み聞かせたりもした。ひとつのページを読み終えると、僕は一息ついて子供達の反応を見る。僕は文章の中身をよく理解し、その後の子供達の疑問や質問に備えている。でも大抵、子供達からの疑問や質問は、僕の予想とは全く異なる方向へと向けられた。 「この子の服のボタンは、どうして一つだけ色が違うの?」 「この石の下に、蟻の巣はあるの?」 …お話の中身なんて、まるで気にしていない。 絵本の中で子供達が好きなのは、絵だ。しかも、物語の筋とは関係のない、絵本の片隅の絵が大好きだ。 「これ、なぁに?」と子供達はそんなところばかりを指差す。それは道端にさりげなく置いてある石だったり、何気なく絵本の中を飛んでいる虫だったりする。そして、彼らは絵本の中の石を持ち上げてその下を覗いてみたり、僕には動かない点にしか見えない虫の種類や、その後の行動を、言い当ててしまったりする。 僕には見えないものが、彼らには結構、見えてしまうのだ。 最初はそんな彼らに戸惑った。「これ、なぁに?」と言う時の、真っ直ぐに見詰める子供の眼にドキリとして、思わず眼を逸らしたりもした。 でも、何日か彼らと接していると戸惑いも消え、僕は子供達と一緒にそんな「絵本の片隅」を楽しめるようになった。ま、僕もかつては些細な絵本や日常の片隅に、いちいち感動する子供だった訳だ。 で、そんな僕の中の子供の部分は、ずっと隠れん坊していたらしい。 でも、彼らにはたやすく見つけられてしまった、そんな気がする。 そう。それは「失くしたもの」では、なかったんだ |