kassyoku 013



『綺麗な土では無毒な果実』


 各メディアが伝える若者の『携帯文化』。
 でも、その中にはそれに批判的な内容のものも多い。
 携帯電話の問題論は以前から色々あったが、最近はその論じられる中身の傾向が変わってきているように思う。以前は「使用時のマナー」が殆どだった。でも、今では「携帯によるコミュニケーションの内容」を云々する中身のものが多くなっている。

 「携帯で交わされる、若者達の空虚な言葉」
 「現代の希薄なコミュニケーションを象徴する光景」
 これは、そんな問題を扱う文面に出ていた言葉だ。

 でも、これらの批評も、その中身はこれまで他の物に対して言われてきた批判の言葉と、何ら変わりない。「若者達の空虚な言葉」はポケベルのメッセージに対しても使われていたし、「希薄なコミュニケーションを象徴する光景」は「いただきますが消えた家庭の食卓」にも使われていた。批判の内容は、いつの時代も大して変わらない。その都度、批判が向けられる対象が変わっているだけだ。

 でも、大上段に構えた大人が「若い世代」を前に批判の鉄槌を下す、ああいった趣向は止めた方がいいと思う。
 今の社会を作り出したのは、大人だ。そして、そんな社会に適応するために若い世代が築いた、「文化」。
 大人が、そんな子供や若い世代の文化を批判する際には、よっぽど慎重になる必要があると思う。軽々しい批判は反対に、自分達が築いてきた社会をも否定してしまう事になるから。

 若者の携帯文化を批判する大人が、「じゃあ、どうしてそんなもの作ったのか」と反論されたら、彼らは何と答えるのだろう。…そんな事を思う。商品を作って売り出したのは、大人の責任だ。「作ったのは自分ではない」とでも、言うつもりなのだろうか。
 大人達が作った社会で、子供達は育つ。社会に問題があるならば、子供達にも問題が起こる。…そんな簡単な事実から、意外と多くの眼が背けられている気がする。

 土が毒を持っていれば、そこに育つ果実も毒を持ってしまう。それと同じ。
 そして、土を入れた者がその毒から眼を背け続けていると、やがて果実に蓄積された毒は、彼ら土を入れた者自身を襲うことになる。

 ま、その兆候はもう始まっているのかも知れない。
 今年一年、本当に様々な事件が起きた。

 綺麗な土では、無毒な果実。
 土から眼を背けてはならない




『足りないブロック』


 師走のデパート。クリスマス色に飾り付けられた店内。
 玩具売り場を過ぎる時、並んでいた『ブロック』に眼が停まった。蓋付きのバケツのような半透明の容器に、いっぱいに詰まった色とりどりのブロック。何だか懐かしい。何種類かのプラスチックのピースを、好きなように繋げて好きな形を創る玩具。幼い頃は僕も良く遊んだ。買ってもらった記憶は無いので、誰彼からのお下がりだったと思う。そのためか、お互いが連結しない、全く違う種類のブロックの混交だった。

 今売っているものは、あらかじめ作るものが決められていて、大型のパーツや人形などがセットになった物が多いようだ。でも、僕が持っていたブロックは「ピース」だけだったので、何を創るのにも一から始めなければならなかった。
 色々創った。家や車、人や動物。合体するロボットや、ロボットの基地。そして、その敵の怪獣…。そういった物を創る遊びは、僕を飽きさせなかった。

 でも、何かを創ろうとすると、いつもブロックの数が足りなかった。
 ロボットは出来ても、敵はいない。基地はあっても、発進するものがない。頭の中に設計図はあっても、完成させるための部品がいつも足りなかった。
 空想を現実に擦り合わせる作業の原点が、そこにはあった。
 友達の中にはより沢山の、パーツのいっぱい揃ったブロックを持っている子もいて、羨ましかったのを覚えている。


 今なら、好きなだけ買えるんだよな…。ふと、そんな事を考える。
 でも、もしあの頃、足りない時に望むだけブロックが与えられていたら、どうだっただろ。
 想像の足りない部分を補ってなお有り余るブロック。それは幼心に何をもたらしただろう。
 …多分、幾らあっても足りないと感じてしまう、そんな気がする。
 恐らく僕は、ブロックの数だけ無意味に大きな物を作りながら、「まだまだ足りない」と言い始めるのだろう。

 幾らあっても、足りないと感じるもの。
 幾ら与えられても、満たされないと感じてしまうもの。
 ブロックも、そんな厄介な物のひとつかも知れない。

 足りないブロックから僕が学んだのは、不満や妥協ではない。
 それは、実際にあるもので何が創れるのか、という事。そして、「何となく満たされないもの」と「実際に足りないもの」。その違いについても。

 足りないブロックから、僕は色々と学んでいた




『愛って、何?』


 「両親から、愛されていると思う?」
 過去に「キレた」経験を持つ子供達に、キャスターはそう訊いた。
 そして、訊かれた彼女達は即座に答えた。

 「…愛って、なに?」

 キャスターは困惑する。苦笑いしながら「いつもそう言われるんだよなぁ…」と、言葉を濁す。結局、訊いた本人にも判ってないのだ。


 11時過ぎのニュース番組をかけながらぼーっとしていた時、そんなやり取りがふと耳に入った。画面に眼を向ける。一人の男性キャスターが、数人の女の子に質問する趣向だ。でも、質問する立場とされる立場はすっかり入れ替わり、彼女達は口々に「愛」についての疑問を彼にぶつけていた。

 愛って、わかんない。
 まとめて、受け入れるって事?
 …認めるって事?

 『愛って、なに?』


 日常的に使われる割には、その意味が漠然として捉えどころのない言葉。イメージだけで成り立ってしまっている言葉。どうせ辞書を引いても、ろくな意味付けはなされていない。
 意味を持つ以前に、一人歩きしてしまう言葉。
 そんな言葉に、僕達はいいように振り回されてしまう。

 愛とは何か、について、自分の考えを整理してみようと思った。
 それについて、言葉上の意味付けをする事が大して重要とは思わない。でも、それについて自分の考え方を持っている事は、決して意味の無い事ではないと思う。そして、それについて大して考えた事もないのに、その言葉を口にする事もしたくない。


 『愛って、なに?』

 愛とは判り合うことだと、僕は思う。感情ではなく、行為なのだと。
 それは相手を全て知るという事ではないし、相手と全く同質になるという事でもない。異なる存在としての相手と判り合うことだ。それは人に対しても、動物や物に対しても同じ事。
 そして、「愛する」とは「判り合おうとすること」だと思う。
 それも、相手を知りたがる事とは違うし、相手と同調する事とも違う。それぞれ違う相手が、互いに判り合おうと努めること、だ。

 ただ、人と人とが完全に判りあう事は難しい。
 そもそも、それは無理な事かも知れない。
 だからこそ「愛を手に入れる」という言葉は、人にとっての究極の目的であり続ける。

 でも、全てが判り合えなくても、いい。
 判り合うまで、判り合うための努力を続けられるのなら…

 それが「愛し続ける」ということ

(2000/12/18)




『喉を潤す水が飲みたい』


 白く姿を変えた水が、辺り一面を覆っている。地面が深い雪に覆われるこの時期は、ある意味、一年で最も水豊かな季節だ。
 でも、空気中の水分すら液体として存在できないこの時期は、反対に一年で最も乾燥した季節…でもある。そういえば、外にいると唇が乾く季節。

 水は豊富にありながら、潤いは得られない季節。それが冬なのかも知れない。
 そんな事を考えながら、ふと思う。今の時代もそんな「冬」なのかな。

 「豊かな時代」に、僕達は育った。「今の子供達は恵まれている…」なんて言葉を、これまで何度聞かされてきただろう。
 身の回りに溢れる「豊かさ」の象徴。そして、雨のように降り注ぐ「豊かさ」。
 でも、そんな「豊かさの雨」に全身ずぶ濡れになりながら、「喉の渇き」を感じてしまう、そんな気がしてしまうのは何故だろう。

 喉を潤す、水が飲みたい。
 豊富な水に囲まれながらそう叫んでいる人は、意外と多いかも知れない。無数の高価なモノを与えられながら、そう思っている人がいる。自分宛てに届く無数のメールを掻き分けながら、そう訴えている人がいる。

 でも、その渇きの理由が、なかなか見つからない。
 『どうして喉が渇くの?』そんな疑問だけが、いつも心に浮かぶ。


 水を得ようとして、雪や氷ばかり集めている…それはひょっとしたら、そんな状態なのかも知れない。雪や氷は手に取る事も、形に残す事もできる。見た目も綺麗で非のうちどころが無い。でも固体の水では結局、冬の乾燥の中で乾いた人々の喉を潤すことはできない。

 白く姿を変えた水に埋もれながら、喉の渇きを訴える人々。必要なのは両手で抱え込んだり、埋もれたりする事じゃない。どれだけ持てるか、なんて関係ない。
 そう。そんなのはもう、充分だろう。本当に必要なのは「喉を潤す水」なんだ。

 喉を潤す、水が飲みたい。 
 形ある豊かさに満たされない時代の雰囲気が、確かにある。
 でも、満たされないのではない。…潤わないんだ。「それ」では。


 この季節、樹々はその葉を全て落とし、無口になって、水豊かな冬の乾燥を耐え抜く。
 やがて、春のあたたかな陽射しが足元を覆う雪を融かし、樹々を潤す「水」に変える。
 乾いた雪を「喉を潤す水」に変えるもの。それはやはり「あたたかさ」なのだろうか。

 満たされないものを、埋めるもの。

 それもきっと




『とっさの判断』


 今日は一日雨が降っていた。日中は水浸しになっていた路面は日没を過ぎた頃から凍り始め、やがて路面はスケートリンクのようにツルツルになった。
 こういう路面では当然、事故が多い。家へと向かう道程。30キロほどの間に、路肩に落ちていた車が3台、中央分離帯に突っ込んでいたトラックが1台あった。また、僕が信号で停止した時、後続の乗用車が停まりきれなくて、斜めに歩道に刺さった。ま、この車はバックしてすぐに元の車線に収まったが。

 余り好ましい事ではないけれど、この時期はこういった事故の光景に慣れてしまっている。その事故で傷ついた人も多いはずなのに、次の当事者は自分かも知れないのに、僕はまるでテレビの映像を見ているような感覚で、その光景をただ、眺めている。その事が少し、怖い。

 過日。やはり凍結した夜道を走っている時、数十メートル手前の路肩から狐が飛び出した。対向車の有無も判らない、緩い下りのカーブ途中。僕はギアを落とし、ブレーキをタイヤがスリップしない程度に軽く踏む。狐は必死で車の進行方向に走っていたが、差はどんどん詰まる。
 夏なら急ブレーキもかけられるし、急ハンドルでかわす事もできる。でも、このような路面でそんな操作をしたら、車はすぐに制御不能に陥り、路肩か対向車線に飛び込んでしまう。対向車がいれば、アウトだ。

 こういう場合に取るべき、行動。
 …鉄則は「狐を避ける事で事故を誘発するな」だ。

 減速はエンジンブレーキのみが頼りだが、殆ど効果はない。狐との差が詰まる。パニック状態でジグザグに走る、狐の姿がライトに浮かぶ。
 今なら対向車線でかわせそう。…そんな事を考えた矢先、前方に対向車の光が見えた。
 僕は狐を轢く事を覚悟する。
 でも、狐の方が突然現れた対向車のライトに驚いたようで、間一髪のところで路肩にジャンプして逃れた。…やれやれ。


 道内では飛び出してきた小動物を避けようとして死亡事故を引き起こすケースが少なくない。が、とっさの判断としては、とにかく眼の前の命を助けようとする判断と、起こるべき事態を天秤にかけての判断、どちらが正しいのだろう。

 飛び出してきたのが、人間だったら? 僕は自ら路肩に突っ込めるのだろうか?
 自分だけならまだいい。でも、その時隣に同乗者がいたら?
 僕はどちらを優先すればいい?

 とっさの判断は、自分でも予測がつかない。
 普段どうすべきかは判っていても、だ


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