kassyoku 017 『今はまだ、透明な時代』 時代を色でイメージする方法は、悪くないと思う。 神代の時代の、白。 原色が織りなす、原始の世界。 雅な平安の世は、円熟の紫。 戦国の赤。 桃色をした、太平の世。 時代の色。僕にとって、絵や言葉でしか知りえない大昔のイメージは、こんなにカラフルだ。でも、20世紀は灰色の時代だった。僕はそう思う。それは20世紀の主要な事件の多くが、モノクロの写真や映像で記録されていたから…そんな理由からなのかも知れない。 モノクロの写真や映像で知ってしまった歴史に、イメージの色を付ける事は難しい。玉音放送の日、空が抜けるほど青かったと知ったのは、経験者の話を通じてだ。でも、今に残る画像としての記録から、その日の空の青さをイメージする事は難しい。少なくとも、僕にとっては。 記憶に色が付き始めたのは、いつ頃からだろう。 突然そんな事を思って、僕は、ずっとちっちゃな頃の記憶を呼び起こしてみた。そして、当時の身の周りの世界の色を、思い出してみた。 記憶の中、当時の僕の周りの世界には、確かに様々な色がある。 でも、その色が何となく、くすんで見えた。今に残る色褪せた当時の写真そのままの色をしている。本当はもっと鮮やかな色を見てきたはずなのに、「記録」が「イメージ」の邪魔をしている…そんな気分になった。 今、写真や映像はカラーで記録されているけれど、そういったありのままの時代の記録は、やがて僕から「時代の色」をイメージする能力すらも、奪い去るのかも知れない。 それが良い事なのか悪い事なのかは、今の僕には良く判らない。 けれど、近年産まれた子供達は、「劣化しない鮮明な画像」で記録された、そんな過去を持つ事になる。彼らは一体、どんな色をした過去の記憶を持つのだろう。 再び、時代の色について考えてみた。 新世紀。新しい時代は、どんな色をしているのだろう。 ふと、「あお」が思い浮かんだ。 直感なので、それが何故かを上手くは説明できない。 でも、それは憂鬱のブルーではない。 風渡る空の蒼や、波伝う海の碧。 そんなイメージの「あお」だ。 …ねえ。 次の時代はどんな色になると思う? …いや。 「次の時代に、どんな色を塗りたい?」 今はまだ、透明な時代 (2001/01/22) 『ある(目的の無い)旅のひとコマ』 ラベルが貼られていなかったビデオカメラのテープ。 再生してみると、去年の道内旅行の記録だった。 映っていたのは旅先での宿探しの様子。薄暗い車内。車は僕の車だ。僕がカメラをまわしている。映っている人物はその時の旅の相棒。携帯電話とその街の観光パンフを手に、旅館と価格交渉の真最中だ。 「…朝メシだけ頂いて、幾らになりますか?」 日本海沿岸北上の旅。当初の目標「日本海に沈む夕日を見る」を果たした後だ。太平洋側に住む僕達にとって、太陽は常に水平線から昇り山の稜線に沈むもの。時には海に沈む太陽を見たくもなるのだ。 日没まで走れるだけ走った末に辿り着いた街。 画像の片隅に刻まれた時刻は午後の七時。 僕達の旅の宿探しはいつもギリギリだ。 「4500…」 相棒がカメラの方を見て小声で言う。電話口を片手で押さえている。 「どうする? 渋る?」 カメラを構えたまま、僕は頷いている。画面が小さく縦に揺れる。 相棒が電話口を押さえていた手を離す。そして「あぁ、『よんせんごひゃく』ですかぁ…」と言って、しばし沈黙する。電話の向こうでは宿の人が何か言っているらしいけれど、外には聞こえない。 しばらく相手の言葉に相槌を打っていた相棒だったが、突然笑顔になる。 「えっ、いいんスか?」 そう言って、再び電話口を押さえてこちらを見る。 「…値段、こっちで決めていいって。4000?」 画面には映っていないけれど、この時の僕は手で「下げ!」の合図を送っていたはずだ。 (…いってみる?) 相棒が無言で僕に確認する。 また、画面が縦に小さく揺れる。 「…じゃあ、3500円で」 音声だけの僕が噴き出している。 相棒も笑いを堪えながらの電話になっている。 やがて相棒がこちらを向き、親指を立てた。 面白かったのでこのテープは残す事にした。 ある旅のひとコマ。旅の見どころって、なんだろうね。 元々、目的の無い旅が多い。次の日、その旅館で決定された第2の目標「野生のアザラシを見る」をやっつけてから、僕達はひたすら北へ車を走らせた。するとその日のうちに大地が尽きた。 日程にはまだ余裕があったので次の目標を捜していると、沖合いの遥かなところに2つの島が望めた。 そのまた次の日、僕達は海を渡った (2001/01/23) 『何が死んで、何が生き残ったんだろう』 今週ずっと風邪気味で、週末までよく耐えていたけれど、ここに来て突然悪化した。出歩けそうにも無いので、仕方なく夜はテレビを見ながらぼーっと過ごしていた。 九時からの映画で『もののけ姫』をやっていたので、観る。実は、この作品を最初から最後まで通して見るのは初めてだ。国内映画の興行記録を更新した作品。「難解だ」という声も多く、上映当時、一度観ただけでは意味が判らずに何度も足を運んだリピーターも多かったと聞く。 で、観終わってから思った。この作品に、公開時よく言われたような「環境問題」や、「自然と文明との対立」という図式ばかりを当て嵌めて観ていたのでは、多分何度繰り返し観ても、この作品は『面白かったけど、何か意味が判んなかったなぁ…』で終わってしまうかも知れない。 確かに、物語前半はその図式で見る事もできる。 森から奪って生きる「製鉄集落」の人々と、「森の主」ともいえる、動物達との闘い。でも、問題はラストだ。終盤で動物達は死に絶え、森の神も、人々の集落も、そして、森そのものも、死んでしまう。 普通このテの作品では、自然の猛威に完敗した文明が、そんな自然と共存する生き方を模索し始める姿を、象徴的に描く。でも、その文明と対立する自然そのものを皆殺しにしてしまう作品も、珍しい。 どうして最後で物語を壊したんだろう? そう思う人も多いかも知れない。 でも、そのすっきりしない感覚は、先の図式でのみこの作品を観た場合、正直なものだと思う。…「難解」と言われていた理由も。 映画の感想は国語のテストとは違うので、その作品のテーマについて答えを求める必要はないけれど、僕にとってはこの作品のそれが、上映当時良く批評に使われていた「自然と人間との関わりやら対立」だとは思えなかった。 僕が個人的に好きだったのは、人が自然を憎むのと同じように、自然もまた人間を憎んでいる…、そういった視線でこの物語が描かれていた事だ。 そして、「生きるために森を壊すか」「生きるために森を護るか」の違いに関わらず、「森の神」は憎しみ合う双方から、その命を奪い去った。…憎しみのリセットだ。 物語の中で何が死んで、何が生き残ったんだろう。 『圧倒的な死を目前にしてなお「生きよう」とし続けた者だけが、 結局生き残ることができるのだ』 もののけ姫の破局的なラストには、そんな想いが込められているように感じた (2001/01/26) 『微熱もつ躰に触れる』 昨日から熱が下がらないので、今夜もおとなしく過ごしていた。僕が熱まで出すのは、本当に珍しい事だ。この風邪はヤバイかな…、そう思う。 何年か前、同じパターンで週末に熱を出して寝込んだ後、月曜日からケロッとして出勤していたら、その週から職場でインフルエンザが大流行しはじめた…そんな事があったっけ。 夜の10時。突然目覚まし時計のアラームが鳴ったので、驚いて停めに立つ。でも、この時間に目覚まし時計をセットした記憶が無い。 で、この時間に鳴り出した理由を考えた。そう言えば、昨日寝る間際に「せめて午前中には起きよう」と、10時にセットしたような気がする。 でも、僕はその時間には起きず、午後まで布団に入っていた。午前10時に鳴り出したアラームが全く耳に入らないほど、僕は寝込んでしまっていたんだろう。…普段より早く寝たにも関わらず。 そして、しばらく鳴り続けた後で勝手に停まったアラームが、時計の針が一周した後、再び鳴り出した訳だ。 …危なかった。これが平日だったら、無断の遅刻をしてしまうところだった。一人暮らしで病気なんて、やっぱりするもんじゃないな。 12時間以上寝ていたおかげか、症状はそんなにひどくない。元々、健康が資本の人間だ。小学生以降、病気が理由で学校や仕事を休んだ事はなく、病気で病院に行った事もない。 勿論、風邪も滅多にはひかない。 でも、風邪には強くても、僕は「風邪薬」には滅法弱い。 市販の風邪薬も、僕にとっては睡眠薬だ。特に相性が悪い『バファリン』なんか、用量を減らして飲んでも、ひどい目眩と吐き気に襲われる。滅多に飲まないから、薬に対する耐性が低いのだろうか。 でも、「薬」が病気を治すものではなく、症状をごまかすためだけのものだという事が、僕には良く判る。 …やっぱり、こういう時はあったかくして寝るのが一番。ストーブは点けたまま寝る事にし、居間の電気を消す。そしてベットのある部屋に引っ込む。 ここから見ると、暗くした隣の部屋の中を、反射式ストーブのオレンジ色の炎がゆらゆら揺らめき、動いている。それが、見た目にもなんだかあったかい。 でも、躰に触れる部屋の空気は、少し冷たい。 微熱もつ躰に触れる全てのものが、今日は普段より冷たく感じる。 微熱もつ躰に触れる手のひらも、何だか今日はひんやりしている (2001/01/27) 『思いがけず特別な日』 今日、誕生日を迎えてしまった。 自宅にある、古いワープロ。久しぶりにその画面を開いて電源を入れた。 その時、突然『ハッピーバースデー・トゥ・ユー』のメロディーが流れてきて驚いた。そして、現れたその画面には「お誕生日おめでとうございます」の文字。 それを見て、僕は気付いた。 『な〜んだ。今日は自分の誕生日だのか!』 …ま、そんな訳はない。 誕生日はまだ先の事で、ワープロの設定日時が1ヶ月ほど進んでいたのだ。そう言えば、2000年問題が間近に迫っていた一昨年の暮れ、ワープロのカレンダーに障害がでるかどうか、日付を早めてテストした事があった。 それっきり、日付の設定がそのままになっていた…という事。 思いがけず巡ってきた、誕生日。何だか、隙を突かれたような気分だ。 思いがけず…か。 年賀状も、クリスマスも、そして誕生日もそうだけど、僕は誰かから「何かが期待できる日」に、期待通りの「何か」を受け取る。 普段伝えられない言葉や想いを相手に伝える事が、公に許される日。 自分が相手を心に留めている事を、物や言葉に代えて贈る事ができる特別な日。 それはそれで素晴らしい事だと思う。少なくともその時点では、相手の意識が僕に向けられている、その事が確認できる訳だから。 でも、どうだろう。期待できる日付に、期待通り答えて貰う。 または、相手も期待している時に、自分も期待通り答える。 それだけの人付き合いが、増えているかも知れない。 何かが、期待できる日。 期待通りに答えて貰えた時の、安堵感。 期待を裏切られた時の、感覚。義理を欠いた事への後ろめたさ。 期待に答えるための、労力と時間…。 期待して待ち受けてなどいないその時に、思いがけず受け取った「贈り物」には、いつもハッとさせられる。相手の中に「自分の居場所」があったんだと、そう感じて、余計に嬉しくなる事がある。そして、日付に関わらず、その日は思いがけず「特別な日」になる。 「思いがけず」何かを贈るのも、たまにはいいかなと思う。 …義理は、欠くかも知れない。でも、期待通りに答えているだけで、相手が本当に必要としているものが、ちゃんと届くんだろうか。 「特別な日」に、僕はあまり倚りかかりたく無いのかも知れない。 もっと、心の随に (2001/01/29) |