kassyoku 019 『天気の境目』 晴天の中、車を走らせる。乾ききった快適な路面だ。自然と速度も上がる。でも、出てから2キロと進まないうちに雪が舞い始め、やがて路面に積もり始めた。 うわ、降ってきた…。 僕は舌打ちする。せっかく夏道気分で走ってきたのに。 晴れているから出掛けようと思って外に出たら、天気が急変する…という事は珍しくないけれど、このように狙いすましたように振り出されると、何となく気分が悪い。 でも、雪の積もり具合からみると、ここでは大分前から雪が降り続いていたらしい。僕は思い直す。僕が出てきた所は晴天で、雪の気配すらなかった。そして、ここでは雪が降り続いていた。…それだけの事。 雪が降り始めたのではない。 雪が降っている場所に、僕が突っ込んで行ったのだ。 5キロほど走り目的地に着く。役場や銀行の支店がある、この町の中心街。そこで所要を済まし、再び車に戻る。 帰り道。外は吹雪の様相を見せていた。午後になったばかりなのに、路肩の街灯が点灯している。擦れ違う車もライトを点灯している。 僕もフォグランプを点す。これは、かなり本格的な雪。今年は雪が少ないけれど、ひょっとしたらこれが帳尻あわせの大雪になるかも知れない。…そんな事を思う。正直、もうこの時期には降ってほしくないけれど。 吹雪の中をそろそろと走った。でも、やがて突然、雪は小降りになった。 窓を掠めて行く、まばらな雪。再び現れた、乾ききった路面。 そして、辺りが一気に明るくなった。開けた雲間から、青空が覗いた。 結局、出てきた所は、出てきた時と同じく晴天のままだった。 雪の気配すらない。何だか、騙された気分になる。 でも、自分が今来た方角の空は、暗い色をした雪雲に覆われていた。 …僕は『天気の境目』を通過して来た訳だ。 晴れと雨の境目。晴れと雪の境目。 天気の境目には明確な線がある。…そう思っていた時期もあったっけ。 天気の境目。 そこに立って、晴れの側から雨の側に手を伸ばすと、差し出した手だけが雨に濡れる。…そんな「天気の境目」があると、本気で思っていた時期。 天気の境目はどこだったのかな? これまで何度も通ったけれど、その度に見逃してきた。 今回もそう。いつも気付かずに通り過ぎてしまう、天気の境目。 境目を過ぎていた事に、いつも後から気付く。 いつも、だ (2001/02/15) 『逃げてゆくもの』 ある時、釣り場で僕のバケツを覗きに来た男。釣り人というよりは釣り士といった風格をした初老の男が、僕に話しかけてきた時の事だ。彼は僕の釣果を見て「まぁ、いいとこだな」と呟き、近頃は魚が少なくなった、と嘆いた後、僕にこんな話をした。 俺が子供の頃は 竹竿に縒糸を結んだだけの道具でも 座布団くらいのカレイが何枚も釣れたモンさ …彼の話は大体そんな内容だった。 「昔は魚が沢山いた」 こういう状況で、若い釣り人が必ずと言ってよいほど聞かされる話。それは、これまで何度も聞かされてきた、そんな話の一部だった。 でも、確かに魚の数は、過去に遡るほど多くなる。昔は海の色を変えるほど押し寄せた産卵期の鰊。身近な水田のメダカやドジョウ。ちょっとした郊外の小川にもいた、鮒や鯉。 それらが何故、今は少なくなったんだろう…と、そんな事を考えてみても、辿りつくのはありきたりの結論ばかり。問いかけを変えてみる。 どうして魚は過去に集まるんだろう? 過去に魚が集まる理由。それは、今よりも過去の方が、魚にとって住み易いからなのかも知れない。 僕自身、時にはそう思う事がある。今よりも過去の方が安住できる、と。 過去に得た自信や実績、経験。それらにすがりたくなる時がある。そして、過去の温もりに、ただ、浸りたくなる時がある。想い出の繭の中で、羽化も望まずにただ温まっている「蛹」のように。 今に居心地の悪さを感じる時、僕はそうして過去に逃げ込む事がある。勿論、身体ごと逃げ込む訳ではないから、僕の意識は何らかのきっかけで、すぐに今へと戻ってくる。それで得られるものは決して多くはないけれど、たまには過去から何かを得て、それが今に生きてくる場合もある。 過去への逃避。 魚達も、同じなのかも知れない。一匹、また一匹と魚達は逃げ出して行く。住みにくい「今」から安住できる「過去」に向かって、魚達も遡行を続けているのかも知れない。 ただ、僕は意識しか遡行できないけれど、魚達は身体ごと「過去」へと遡る。「昔は魚が沢山いた」 …何故? そう。魚は過去へと逃げ出した。今は住みにくいからと、逃げて行ってしまったんだ。時間を遡って、過去へ…と。 逃げてゆくもの。 今を逃げ出しているのは、魚だけではない。 そして今、この瞬間にも。 きっと何かが、今から過去へと逃げ出している (2001/02/17) 『狎つかれたいだけの人々』 職場の建物の下に猫がいる。誰彼となく餌を与えているうちに居着いて、一昨年の春には5匹の子猫を産んだ。猫達はやがてゴミを漁り、建物内を荒らし、所構わず糞を撒き散らすようになった。夏場、住処の建物内外には獣臭い悪臭が漂い、苦情も出始めた。 そんな状態になっても猫に餌を与え続ける人々が居た。野性を失った猫は、人の生活圏から糧を得るだけの存在になった。猫の人馴れは「人狎れ」に変わり、その態度は世に決して少なくはない猫嫌いの人々の反感を買った。 その年のうちに、6匹いた猫は親子2匹に減った。理由については「狐に狩られた」とか「誰々に捨てられた」などいった噂が流れていた。 昨年春。猫は再び5匹の子猫を産んだ。計7匹。「荒らし」は以前よりも酷くなり、多くの人の間に「猫に構うな」の風潮が生まれた。秋頃には各所に猫対策が施されるようになった。猫対策が行き渡った事で、猫の数は減るはずだった。でも、昨年1年間、猫は1匹も減らなかった。 やはり、隠れて猫に餌を与える人は居続けた。 彼らが表に出てくる事は無かった。 僕は彼らが「猫好き」だとは思っていない。彼らは馴つかれたいだけの人々。狎つかれたいだけの人々。僕は猫に餌を与えた瞬間に、その人には「保護者」としての責任が生じると思う。でも、得る事に夢中なだけの彼らは、決してその責任を負おうとはしない。 今月。猫の数は親と2世代目の子猫1匹の、計2匹に減った。今冬の寒気は例年の比ではないが、猫の住処の床下には水道の凍結防止のヒーターが入っている。それで寒さは凌げるようだが、満足な餌が得られていないらしい。 猫に餌を与え続ける人々は相変わらずだ。今朝もその床下の入り口にドライフードが蒔かれていた。でも、その乾いた餌は、猫達に全く見向きされていなかった。 床下から猫の眼が、ずっとこちらを窺っていた。 本当の猫好きなら、彼らが今本当に必要としているものが判るはず。何故、餌を与える人達は、それに気付かないのだろう。 昼、空の灰皿に水を満たして置いてきた。去ろうとするとガリガリになった猫がすぐに飛び出てきて、ピチャピチャと飲み始めた。 この時期、外に「水」は存在しない。 彼らの喉を潤すはずの水が、真冬の屋外では全てが「氷」に変わってしまっている。彼らがこの時期、一番必要としているのは、「水」だ。「ドライフード」ではない。 ただ与えるだけの行為が、より多くを殺したと思う。 棲息の許容を超えて、居着かせてしまった。 僕自身も、甘いかな…と思う。でも、餌まで与える気は無い。 猫自体は、僕は好きでも嫌いでもない (2001/02/19) 『何で書いているんだろう?』 ここに書いてきた文章は、ハードディスクの「日記」というフォルダの中に保存してある。今日、その中のファイル数を数えてみた。ひとつの文章が、ひとつのファイル。その数はいつの間にか100を越えていた。 100タイトル突破記念。今日は、自分が書いているこの「文章」について。 何で書いているんだろう? そう思った事がある。 何か書く、という、その事自体のきっかけを得たのは、短大時代。 国文科で、主な講義は古典や文学ばかりだった。でも、高校時代に元々進学する気が無く、そういった勉強に力を入れていなかった僕にとって、そのような授業では、他の学生達と元々のスタートラインが違った。 なので、できればそういった講義は外したかったけれど、大体が必修科目で避ける事はできなかった。 必修科目以外にも、所要単位を満たすための講義を受講する必要があった。苦手ではなかったけれど、僕は「国語」という科目や、その中の「見た事もない作者が書いたものに対してあれこれ論評する」といった内容の授業には魅力を感じていなかった。 で、僕は「創作課程」を受講した。創作ならスタートラインも同じ。就職試験の作文の練習にもなる。ペーパーテストが無い創作では、規定枚数の作品を書き上げさえすれば単位は貰えるはず。 …元々の動機は、そんなものだった。 2年間でラジオや映像シナリオ、小説のようなものを何作か書き上げた。でも、シナリオのはまあまあだったけれど、小説は散々の評価だった。 ただ、その散々の評価の中、採点の枠外では「良い部分は良い」と、先生や他の学生に評価して貰えた。また、その講義の先生も「駄目」な中にも必ず良い部分を見つけ出して、それを拾い上げて伸ばそうとしてくれる、そんな人物だった。 ペーパーテストでは、そんなことはあり得なかった。そして、そんな評価のされ方も僕にとっては初めての事で、それが嬉しかったのかも知れない。 ま、その時「駄目なものは駄目」と切り捨てられていたら、この『褐色に浸る時間』は存在していなかったのだ、と思う。 人生、何が後に影響するのかは、本当、判らない。 意味の無いと思っていた事が、後から生きる場合もある。 学校で学んできた事も同じだ。真に問われるべきは「学校で何を学んできたか」ではなく、「学んだ事が今にどう生きているか」という事だ。 …何で書いているんだろう? これからは、自信を持ってこう答えようと思う。 『こういう事、好きだから』 (2001/02/20) 『日常では難しいけれど』 一昨日からの2日間で少し雪が積もった。今日の午前の仕事は「除雪」だ。 除雪作業のため空にしてある駐車場へ向かった。皆それぞれの持ち場に散っていたので、僕は一人でそこに挑む事になった。広さはテニスコート2面分ほど。とても手作業は無理なので、車庫から除雪機を出してくる。ロータリーで雪を削り、角のような排雪口から削った雪を吹き飛ばすやつだ。操作は除雪機の後ろを追いて歩きながら行う。手押しの耕運機みたいなものだ。 歩くよりも遅い除雪機を従え、長靴の高さ程の雪に覆われた駐車場に着く。まだ誰も手を付けていない。真っ白なキャンバスの状態だ。 『面』の除雪はある意味、絵を描く事に似ているかも知れない。…どちらも始まりは「一本の線から」だ。まず、スペースの真ん中に真っ直ぐな線を刻んだ。ただ、今回は「全ての塗り潰し」になるので、突き当たりまで行ったら折り返し、また端まで行ったら折り返す。そうやって、切り拓いた道をスペースに変えてゆく。全面の除雪には、その往復作業を数十回、繰り返す事になる。 除雪機の操作は、意外と面倒だ。 エンジンのスロットル。速度と前後進切り替えのシフトに、左右のキャタピラを制御するレバー。ロータリーの回転スイッチと、ロータリーを上下左右に動かすレバー。削った雪を吹き飛ばす方向を変えるハンドルと、その上下の角度を変えるレバー。そして、走行モードと除雪モードを切り替えるギア…等々を、状況にあわせて操作する必要がある。 それに、気を遣わなければならない事も多い。 後ろから人や車が近付いても、機械の音で判らない。だから、周囲には常に気を配る必要がある。勢い良く噴出す雪や氷でガラスを割ったり、木の枝を折ったり、人を怪我させても駄目だ。 また、見えない物にも注意しなければならない。油断すると雪に埋もれた縁石や芝生を削ってしまう可能性がある。縁石を「ガリッ」とやると、機械が壊れてしまう事もある。 幾ら綺麗に仕上げても、何かを傷付けてしまったら、結果は後味の悪いものになる。 除雪中にはその事が自分でも驚くほど良く判っていて、僕は複雑な操作を行いつつも、何も傷付けないように常に周囲に気を配っている。危険にも気を配り、その上、自分の道を自身の手で拓きながら、僕は進んでいる。 …可笑しい。 日常では難しいそんな同時作業を、除雪中の僕は意外と器用にこなしている (2001/02/21) |