kassyoku 020



『取り残された気分』


 休暇。友達の買い物に付き合ってから、喫茶店へ。窓際の席。コートを脱いで、向き合って座る。彼女は紅茶とケーキらしいもの、僕はエスプレッソだけを頼み、そのまま話し込む。
 話の最中で突然、彼女の携帯が鳴る。聞き覚えのある旋律だけど、何という曲なのか判らない。彼女は隣の椅子に置いたバッグから、着信音を奏でている電話を取り出す。そうして、ボタンを押してそれを耳に当てる前に、ちらっ、とこちらを見る。

 …ちょっとゴメン。
 そういう眼をしていたから、僕も小さく頷く。構わないよ、と仕草で答える。
 でも、この瞬間は好きではない。何だか、取り残された気分になる。

 僕は正面から眼を逸らし、窓の外を見る。夕暮れの街角を音も無く歩く、硝子の向こうの人々。その足元がおぼつかない。日昼に融けた雪が再び凍り、路面を光らせている。くすっと笑った彼女の声が耳に入る。僕は彼女の会話から努めて耳を逸らそうとする。なぜそうするのかは、自分でも良く判らない。

 背中合わせの後ろの席の会話が、急に大きくなる。風景にあわせていた焦点がずれ、硝子に自分の顔が映る。テーブルを挟んで、彼女の姿も映っている。彼女も窓の方を向いて喋っているので、顔はこちらを向いている。でも、視線は下に向けられているので、表情は見えない。ふと、硝子越しに彼女を見ている気分になる。

 煙草に火を点ける。コーヒーカップを手にし、コーヒーの水面を見詰める。
 褐色の水面に映っている照明の光の点を、波間に揺るがせてみる。
 そうして煙草の長さが半分ほどになった頃、彼女の話の中に終わりの雰囲気が漂ってきた。普段は気にしないと言うけれど、煙草を吸わない彼女はこの臭いを気にするので、僕は彼女が僕との時間に戻ってくる前に煙草を消す。

 彼女の話が終わる。電話をバッグの中に戻して、彼女はようやくこちらを向く。僕も会った事がある、彼女の友達からだった、と言う。
 「何だってさ?」
 先ほどまでのもやもやをリセットし、僕は少し関心のある素振りをする。
 別に。…でも、もう殆ど毎日かかってくる。彼女はそう答え、メール使えるようになればいいのに、と言って笑う。
 「どうせ大した用事じゃ、ないんだからさ」

 …ま、そうだろうね。

 僕は携帯を持たない。
 時々、コミュニケーションに取り残されている気分になる

(2001/02/23)




『日記ついての原風景』


 小学校では日記を書く事が宿題だった。その日起こった事を書き連ね、翌日の朝提出すると、担任は出された児童の日記に眼を通し、余白に何らかのコメントを朱書きして返す。学校の終わり際の「帰りの会」では、その日の優秀作が発表される事もあった。

 今は残っていない日記。何を書いていたかは憶えていない。そして、僕の日記に対して担任がどういうコメントを寄せていたのかも、憶えていない。

 …憶えていない。
 でも、実はひとつだけ、書いた内容も担任からのコメントもはっきり憶えている日記がある。
 小学6年生。雨の日の通学途中。玄関までもう少しという時、校門のすぐそばで交通事故が起きた。ブレーキ音と何かがぶつかりあう音。その後悲鳴があちこちから上がり、先生達が学校から飛び出し、通学中の僕や他の子供達も、その音がした方へ走っていった。
 僕がその時に見た光景については、書かない。ただ、その光景を間近に立ち竦むしかなかった僕の耳には、「登校中の児童は全員校舎に入りなさい…」と繰り返す、校舎からの放送の声だけが聞こえていた。

 結果だけいうと、通学中の児童の列に、カーブを曲がりきれなかった車が突っ込み、下級生の一人が下敷きになって即死した。他の何人かも怪我を負った。
 机の上に置かれた花。全校集会。皆が啜り泣く声。異様な一日だったが、日記はその日も普通どおりに書かされた。でも、僕は事故の事は書かなかった。朝に見たものの事は、何も書けなかった。その日の日記には、確か「帰ってから友達と川へ行き、空き缶を浮かべて石を投げ、沈めて遊んだ」と、その事だけを書いたはずだ。


 翌日の帰りの会。担任は事故について書いてきた児童の日記を幾つか読み上げ、コメントした後、皆に日記帳を返した。
 そして、僕に日記を返す時、担任は「キミは悲しくなかったんだね」と言い、キッとした、怒りをはらんだような眼で僕を見た。
 僕にはその意味が判らなかったが、帰ってから日記帳を開くと、その日の日記の最後に『おかげで楽しかったというわけだね』という一文が、担任の手で朱書きされていた。

 その一文に、それから随分苦しまされた。
 川では友達と、ただ『畜生、畜生』って以外は何も喋らずに石を投げつけていた。でも、その川に石を投げた時の想い…言葉にできなかった想い、は、結局、あの女先生には伝えられなかった。


 あの時、何を書けば良かったんだろう?
 悲しみを越えた感情を表す言葉を、僕は未だに知らない

(2001/02/24)




『尻と石鹸』


 午後8時過ぎ、銭湯へ。
 夜になって降り始めた雪が激しい。対向車がすれ違う度、新雪が嵐のように舞い上がって僕の視界を奪った。ホワイト・アウト。その瞬間、僕はセンターラインも路肩も見失う。生きた心地がしない。

 そうして銭湯に着く。
 そういえば、今日は身体を洗うのに石鹸を持ってきた。ここに石鹸を持ってくるのは初めてだ。銭湯には備え付けのシャンプーとボディソープがあるので、普段はそれを使っている。
 家では手洗いくらいにしか使わない石鹸。ここしばらくは買った記憶も無い。それなのに、家の石鹸の数は何故か増えていく。大抵は何らかのイベントの記念品として、詰め合わせで貰ってきた物だ。
 そうしてたまりにたまった石鹸を、今日から風呂で使い、少しづつ減らそうと思った。ま、ボディソープも石鹸も、汚れを落とす機能に大した差はない。僕は普段通りに身体を洗う。ついでだから髪も洗ってしまえ、と、石鹸を頭に擦りつける。そうして髪を洗い終え、泡を流し去る。

 眼を開け、顔を洗おうと再び石鹸を見た。一本の髪の毛が、石鹸の表面に貼り付いていた。気になって髪の毛を指で取ろうとする。でも、完全にこびり付いて容易には取れない。石鹸に貼り付いた髪の毛は、本当に取りにくい。手拭で何度も擦ってみたが、それでも取れない。僕は少し苛立つ。

 だが、その時。ふとある方法を思い出した。
 以前友人から聞いた、石鹸に付いた毛を簡単に取る方法。聞いたのはずっと前だったけれど、これまで試した事が無かった。

 その方法とは、「毛の付いた石鹸を尻で擦る」というもの。
 試すなら、今をおいて他には無い。


 …試してみた。
 尻の側面で、勢いよく石鹸を擦る。傍から見るとかなりマヌケな絵。
 でも、そうやって5〜6回擦り、石鹸を見る。すると…。

 おおっ! 髪の毛が見事に取れている!

 話は本当だった。
 余りにも見事だったので、少し感動してしまったくらいだ。
 勿論、体の他の部位のどこでも良さそうな事なので、背や腹でも試してみた。でも、やっぱり石鹸は尻と一番相性がいいみたいだ。とにかく尻で擦ると良く取れる。

 うん。なかなか役に立つではないか。尻。
 これはちょっとした発見だった。他の人も、ぜひ一度…

 試さないか。普通は

(2001/02/25)




『葛藤の無い絆』


 仕事がバタバタと忙しない月末。年度末の慌しさも加わり、消化不良の毎日を過ごした。そんな中、昨夜熱を出す。仕事中から悪寒はあったが、喉や鼻に風邪の症状は無かった。そのため、そのまま仕事をこなしていたけれど、帰宅後熱を計ると38度。午後8時、夕食もとらずそのまま寝込む。

 その後、朦朧とした意識の中、電話が鳴る音を何度か聞く。鳴る度に僕は起こされたけれど、電話には出ない。電話の音に苛立ちさえ覚えながら、僕は頭から布団を被り、耳を塞ぐようにして電話が鳴り止むのを待つ。そうして、僕は自分に向けられた「誰か」からの意思を、全て黙殺した。

 電話にはどこか、押し付けがましい所がある。
 電話をかけるという事は、相手に自分と同じ時間を共有させる、その事を強要する行為だ。ひょっとしたらその時、相手は取り込み中かも知れない。酷く不機嫌かも知れないし、昨夜の僕のように、電話にはとても出る気分ではないかも知れない。

 誰かに電話をかけようとして、ふと思い止まる事がある。
 それは電話をかける際、無意識のうちにそんな相手の事を考えてしまっているから、なのかも知れない。

 その点、メールはいい。送っておけば、受け手は自分の見たい時に見る訳だから、相手の「今」に対する気兼ねは必要ない。こういった手段は気楽でいい。
 それに、言葉や想いもある程度推敲したものを相手に送る事ができる。以前は手段がパソコンしか無く、それがネックだったけれど、今では携帯電話でもメールの送受信ができる。場所の制約も少なくなった。


 鳴り続ける電話に耳を塞ぐ。向けられた誰かの「意識」を、僕は無視し続ける。ただ、その事に僕は少し罪悪感を覚えている。嫌な感覚。
 メールならば、こんな感情は抱かずに済むだろう。
 気兼ねなく済ませられるやり取りの手段が増えているのは、当然の事かも知れない。メールの爆発的な普及。話さずに済ませる電話。それらは、人と人がやり取りを交わす上で必ず湧き起こる、抵抗感や束縛感といった要素を、大幅に軽減してくれる。

 相手を縛る事もなく、縛られる事もない「手段」。
 葛藤の無い絆。そんなモノを、求めているのかも知れない。人も時代も、僕自身も。でも、判っている。そんなモノは、恐らく有り得ない。

 一夜明けると、熱はすっかり下がっていた。
 セットしたままの留守電には、何のメッセージも吹き込まれていなかった

(2001/03/01)




『寄生樹の果実』


 山道を走る。葉を落とした沿道の寂しい樹々の梢に、枝葉を球形に拡げた「ヤドリギ」の姿がポツリポツリと見える。夏場は樹々の緑に埋もれているヤドリギだけど、冬でも葉を落とさないらしい彼らの姿は、この季節になると一際目立つ。
 ヤドリギは寄生樹だ。宿主の体から養分や水分を得、その上、宿主の「高さ」を利用する事で、存分な陽射しを我が物とする。多くの植物が森の中で陽射しを得ようと地道な努力を重ねる中、ヤドリギは寄生という手段を用いる事で、自らは伸びる努力もせず、陽当たりの良い高みへと登りつめる。

 既成のものを利用するだけで、自らは何も為さない。それでいて、日の目だけは存分に得ようとする。人であっても、そういうタイプは嫌われるもの。ヤドリギもどちらかといえばそういうイメージで、人から「害樹」と評されている事も多い。
 ただ、ヤドリギは単に、宿主から搾取するだけの存在ではない。ヤドリギが実をつけるのは、冬。餌不足がピークとなっている時期。木の実を主食とする鳥達にとって、ヤドリギの果実は、冬の間命を繋ぐ貴重な糧になっているはずだ。
 
 彼らがそうするのは、種を樹上に運んでくれる鳥に対する「自分の価値」を、より高いものにするためなのだろう。一番必要な時に、必要なものを与える。そうする事でより確実に、ヤドリギは樹上に芽吹く事ができる。
 高みで陽射しを得ようと思うなら、やはりそれなりの価値が必要だ。そして、その価値を磨くための努力を、ヤドリギは惜しんでいない。
 一見ただの寄生者に思えるヤドリギも、こうして自然界の次のサイクルに繋がる役割を持っているからこそ、森の中での居場所を得られているのだと思う。もしヤドリギが、自分が満足する事だけに気をはらい、与えるべきモノの価値を磨いてこなかったなら、森は早々に彼らの存在を抹消していただろう。
 
 ヤドリギの実には、秋に実る他の果実のような「目を引く」ための派手な着色は無い。熟す前のグズベリに似た、緑色の、本当に地味な円形の果実だ。
 それでも、ヤドリギの実には鳥達が集まってくる。
 それが鳥達にとって『本当に価値あるモノ』だからだ。
 
 認められる価値があって、そうして初めて。
 ヤドリギは陽射し豊かな樹上に芽吹く事ができる

(2001/03/02)


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