kassyoku 024 『カンペンとランドセル』 朝の歩道。前から小学生が歩いてきた。擦れ違う際、ランドセルを背負った子供の背中から、何かの音が聞こえた。 「カタカタ…」 歩みに合わせて楽しそうなリズムを刻む音。 笑い声のように微かに響いている音。 ランドセルの中から響くその音をたてているのは、恐らく筆箱の中の鉛筆だろう。僕達が「カンペン」と呼んでいた、鉄製の筆箱が立てる音。僕も小学生のうちは使っていた。他の多くの子供達も、最初に手にした筆入れはこの「カンペン」だっただろう。 でも、僕の持ち物から「カンペン」が消えて久しい。 子供の頃、最初は何の疑問も無く使い続けていたカンペン。それも学年が上がるにつれて、次第に子供達の文房具の中から姿を消していったように思う。僕も同じだ。 カンペンを持たなくなったのは、子供の頃のいつ頃からだろう。 僕はいつ頃からか、カンペンの中身がカタカタなる度に、せっかく削ってきた鉛筆の芯が折れてしまうのではないかと心配するようになった。何かを叩いて凹ませて、使い物にならなくしてしまう事も、カンペンの場合は多かった。そして何より、授業中にうっかり落としてしまった時の、あの音。教室内の時間を一瞬停めてしまう瞬間、そして皆の視線が集中する瞬間は、やっぱり恥ずかしかったな。 …そんな事からだろうか。次第にカンペンを持つ子供は少なくなり、筆入れの主流は布やビニール製の、チャックで開け閉めする「袋状」の物になっていった。これなら中身が暴れて、鉛筆やシャープの芯が折れてしまう事はない。変形もしないし、授業中に落としても誰も気付かない。やがて僕もカンペンは持たなくなり、それからはずっと布製の筆入れを使い続けた。 ひょっとすると、子供が「カンペン」を持たないようになるのは、子供が「ランドセル」を背負いたがらなくなる頃と同時期なのかも知れない。 与えられただけの自分の持ち物に、疑問を持ち始める時期。そして、周りが自分と違う物を持ち始める事に、何となく不安を感じ始める時期だ。そういう時期。集団の中でそうした道具が消え去るスピードは、恐ろしく速い。 子供の背中が弾む度、鉛筆がカンペンの中で踊る音がする。 「カタカタ…」 遠ざかる音に、僕は耳を澄ませる。 カンペンと、ランドセル。 あの子供はこの先どれくらい、それを使い続けるのだろう (2001/04/17) 『春の最終走者』 昨日は本当に暖かかった。気温が20度を越えていたという事を、今日の新聞で知る。初夏の陽気だ。 …フキノトウが満開だ。でも、そのすぐ脇の建物の日陰に、冬の間の「雪かき」で集められた雪が、まだひっそりと残っていたりする。日々青味を増す、まだ丈の短い芝草の上に、冬の間雪に埋もれていた茶色い落ち葉が、僅かながら残っていたりもする。その落ち葉の主は「白樺」の木だ。葉はまだ開いていないけれど、その枝には、遠目には新緑と見間違う薄緑色の花が多数付いて、風に揺れていた。 複数の季節の色が様々に織り混ぜられた、今はそんな季節。 こんなパッチワーク柄の季節が好きだ。 遠くの山並みに眼を向ける。まだ雪の面積が多いけれど、山々の「雪」もやがて「残雪」と呼ばれるようになり、そして消えて行く。 黒々とした山裾の部分と、まだまだ深い雪を被っている、頂きから中腹にかけての白い部分。それが、見事なコントラストを描き始めている。雪融けが確実に山麓から進んでいる。 野山の春ってどんな感じだったかな? と、ふと思う。 残雪を割るようにして、山にはまず「フクジュソウ」が黄色い花を咲かせる。その後「フキノトウ」が顔を出して、黄緑色の花を咲かせる。 少し遅れて、雪融けが済んだ場所から、赤紫色の「カタクリ」の花が咲き始める。子供時代を過ごした環境の中で、何年にも渡って繰り返し見てきた春の景色だ。 春を代表する「桜」の花が咲くのは、その更に後のはず。 桜が咲けば、春真っ盛りだ。春の指標として「桜前線」というものもある。 でも、春の到来を告げる花は、何も桜だけではない。桜に先立って咲く「フクジュソウ」や「フキノトウ」といった早春の花。そういった野の花に「前線」は無いのだろうか。 …雪融けを伝える「フクジュソウ前線」や、早春の到来を告げる「フキノトウ前線」。それは長い冬の終わりと、待ち望んでいた春の到来をいち早く伝える「前線」だ。今は「フクジュソウ前線」と「フキノトウ前線」が過ぎて、「カタクリ前線」を迎え始めている時期だと思う。開花予報によると、北海道の主だった所で桜が咲くのは、5月に入ってからの事らしい。でも、もう季節は確実に「春」だ。 桜は「春のアンカー」なのかも知れない。 春を伝える様々な花の「前線」。 その中で「桜前線」は最も遅い部類に入る (2001/04/19) 『珍客、来訪』 玄関のチャイムが鳴る。夕方6時。意外と来訪者が多い時間だ。 引っ越してきた当初は新聞の勧誘が多かった。引越しの初日から、部屋に荷物を搬入している最中の僕に声を掛けてきた勧誘員は、それからも頻繁にこの時間になるとやって来た。「三千円のところですけど五千円(分の粗品を)付けますから」などと言って。 「W杯の入場券付なら…」などとあしらっていたら最近来なくなっったけれど、それでもクリーニング屋や古紙回収業者や他の新聞の勧誘員が、入れ替わり立ち替わり、この時間にはやって来る。 玄関へと向かう。ドア越しの返事に応答は無い。今度は何が来たのやら…。そう思いながらドアを開けると、そこには一人の男。小さく「こんばんはー」とだけ言い、彼は身分証を僕に差し出す。でも、ラミネート加工されたその表面に玄関の照明がテカテカと反射して、良く見えない。 あんた誰? という顔をした僕に、彼はようやく小声で身分を名乗る。 「あのー、NHKの集金なんですけど…」 …どうりで外から名乗らない訳だ。 小声の理由も、これから周る他の家に悟られないためだろう。 NHKの受信料。実は、過去5年間で支払ったのは一度だけだ。 でも、それは僕が支払いを拒否していたからでは無い。過去5年間で僕の家に来たのが一度だけだったのだ。 で、すっかり存在を忘れていたけれど、支払う事にする。彼にとっては初来訪の家。もし「支払い拒否されたらどう喰い下がろう」と考えていたのなら、「あ、どうぞ…」とあっさり言った僕の反応に拍子抜けした事だろう。 …そう言えば「NHKをこうして撃退した」という話を、自慢話のように語る人がたまにいる。でも、僕はそういう話を聞かされる事が苦手だ。特に、喧嘩腰に相手を追い返した…なんて「武勇伝」を聞かされるのは。 料金を払い、領収書を書いている彼に言う。 「前の所、5年間で一回しか集金に来なかったんですよね」 「…エッ、何処にいらしたんですか?」 地名を言うと、彼は納得する。 「あそこは近くに放送局が無いですからねぇ…」 …NHKも、集金効率の悪い所には人手を割いていなかったらしい。 口座振替を勧められたけれど、来てくれたら払いますから、と断る。 でも、会わなかった場合は今までどおり…だ。 必ずしも集金が公平に行われている訳では無い事を、僕は知っている (2001/04/21) 『街の距離感』 新しい生活にも慣れてきたので、休日中の行動も、引越し後の「第二段階」の時期に入っている。引越し直後、家の中や近所、そして各種手続き等で必要な個所に行動が絞られているのが「第一段階」。第二段階というのは、それよりさらに広い範囲を自由に探検して回る時期の事だ。 ちょっと可笑しい。大人になっても、そういう過程は幼児期の子供と大して変わらない。 午後、そんな探検に出かけようとして、車で行こうか、歩いて行こうか、と考える。車で行くと距離は稼げるが、自由がきかない。歩きはその正反対。こういう所では自転車が便利なのかも知れないけれど、残念ながら、それは引越しの際に処分してきてしまった。 その時処分された自転車は、前の住所での5年間一度も使用された事が無く、物置にしまわれたままだった。前の住所では、日々の行動半径を自転車でカバーする事は、事実上不可能だった。CD一枚買いに行くのにも、20キロ以上離れた所へ行かなければならなかったからだ。 20キロ…と言うと、えらく遠いと感じる人も多いかも知れない。都市部で生まれ育った人なら尚更だと思う。この街の場合、地下鉄の始点から終点までの距離だってそれよりは短いかも知れない。 でも、僕にとって20キロは、それほど長い距離ではない。公共交通機関の始点から終点まで、という言い方をすると、それは途方も無く長い距離に感じるけれど、僕の場合、その20キロという距離は、高校時代の自転車通学の一日の距離と同じでもある。育った環境などで、人の距離感というものは変わるものだと思う。…距離感、というよりは「近い」「遠い」の感覚か。 結局僕は車で出かけて、半径5キロほどの周囲をぐるぐる回って戻ってきた。収穫はそこそこ。夏場の駆け足に丁度よさそうな河川敷もあったし、この街の主要な中心街も家から片道5キロのその範囲に大体収まっている事が判った。 ま、5キロというのは、駆け足でも20分程度で行き着く距離だ。 でも、高い密度であらゆる物が詰め込まれたこの街の半径5キロは、確かに数字上の距離よりも長く感じてしまう。 …どうしてだろう。 僕は今、自分の距離感に少しだけ不安を感じている (2001/04/22) 『秘めた内側、さらけだす時』 新しい職場での配属先が今月に新編されたばかりの部門なので、今月はちょっとした修羅場を体験した。その上、追い討ちをかけるように歓迎会などの諸行事も重なる。今週は特に忙しく、帰宅してからは夕食を食べて寝るだけの生活になっていた。…ま、今週の忙しさの一部は、「連休をフルに休むため」でもあった訳だが。 『褐色に浸る時間』も、今月はそうした現実の時間に随分と縛られたけれど、仕事の方は順調に軌道に載ってきているので、これからは徐々に元のペースに戻してゆく事ができるだろう。 久しぶりに春に眼を向けると、少し前まで裸だった樹々の枝に燈りはじめた無数の緑。街路樹の根元の僅かなスペースに植えられている「クロッカス」の紫の花が満開だ。和種のタンポポも咲き始めている。そして、所々見かける桜の木も、蕾が桜色になって、次第次第に大きく膨らんできている。今にもほころびそうだ。 主役の花が、ようやく咲き始める。 蕾が開く時…。今は桜がそういう時期だ。満開の桜も散りゆく桜も、それはある程度持続する光景だけど、花が開くその時は本当に一瞬だ。あっという間に一斉に開いてしまうので、僕なんかは例年、その時期をつい見過ごしてしまっている事が多い。 でも、花開くその一瞬が重なるこの時期が、桜にとっては最も肝心な時期なのだと思う。固く結んだ蕾の中、誰の眼に触れる事も無く、桜は長い時間をかけてずっと準備を重ねてきた。 そうして迎えるこの花開く一瞬に、桜は全力を注ぎ込む。 咲かせてしまえば、後は何とかなるのが花だ。 満開の花は、桜がそれまで成してきた事の結果に過ぎない。 そして、蕾は開く時、その秘めていた内側をさらけだす。 …だから、咲く花は綺麗なのだと思う。 明日がこの街の「桜の開花予想日」だ (2001/04/27) |