kassyoku 027 『ジーンズ探しの苦労』 お気に入りのジーンズを先週駄目にした。膝が擦り減って横糸だけの状態でしぱらく履いていたけれど、その日履こうとした際、その膝をつま先が突き破り、勢いでビリビリと縦に裂いてしまった。 今日、新しいジーンズを買いに行った。 ただ、僕の場合、ジーンズ探しにはいつも苦労させられる。大抵は一軒の店で済むこと無く、何軒もの店を巡る事になってしまう。 それは別に、モノに何かこだわりがあるから…という訳では無い。 苦労させられるのは、サイズ探しだ。ウエストサイズだけでみると、僕にぴったりなのは28インチ。つまり73センチの細身のジーンズだ。でも、この28インチというのが、大抵の店では男物ジーンズの最低サイズなので、まともに扱っていない店も多い。だから、まずはそのサイズを多く扱っている店から捜さないとならない。 今回は2軒目で、そのサイズが揃う店を見つけた。 でも、すぐにまた次の問題が。ウエストが28インチでも、それはウエストのサイズに比例して尻周りや丈も小さく作られているので、決して小柄ではない僕が試着すると、裾がくるぶしのかなり上にあったり、尻がパンパンだったりする。そうなる事がもう判っているので、僕のジーンズ探しはいつも、タグに書かれたサイズの数値を見るだけ。デザインや色なんて、後回しだ。 今回も28インチで丁度良いサイズは見つからなかった。 でも、しばらくうろうろしているうち、以前姉貴が「貰い物だけど、大きすぎるから」といって僕にくれた婦人物のジーンズが、ウエストも丈も丁度良いのに尻周りにも余裕がある、そういう作りだった事をふと思い出した。 婦人物のジーンズの大きめのなら、良いサイズがあるかも。…そう思って、つい「レディース」と書かれたコーナーへ。で、そこでも少しうろうろしていたけれど、サイズの表記が男物とは微妙に違い、どれが自分に合いそうなのかが良く判らない。 「試着させて」とも、言えないしなぁ…。そう思っていると、親切な女の子の店員がニコニコしながら近付いてきて、僕にこう告げてくれた。 「あのぉ、こちらは『婦人物』のコーナーになっております…」 男性物はあちらになっております…と、彼女は先程まで僕がいたコーナーを指した。 いや、判ってるんだけど、ね…。 結局、買ったのはワンサイズ上の29インチ。 …妥協してしまった (2001/05/20) 『私はあなたの歌になりたい』 子供の頃。外で遊んでいる時計を持たない僕達に「家に戻るべき時間」を告げてくれたのは、近くの小学校のスピーカーから夕方の五時半になると流れてくる、オルゴールのメロディーだった。曲は「夕焼け小焼け」。開けた何も無い町だったから、かなり遠くで遊んでいてもその音楽は僕達の耳に届いた。 その音楽の中で、僕達は幾度その日の別れを繰り返した事だろう。 オルゴールの曲目としては珍しくないから、今でも時々オルゴールの「夕焼け小焼け」を聞く機会がある。オルゴールを扱っている雑貨屋でその曲を見つけた事もある。 でも、そのどれもが子供の頃に聞いていた「夕焼け小焼け」とは微妙に違っていた。そして、その微妙な違いが判ってしまう自分にも正直驚いた。 僕は今でも頭の中で、当時聞いていたオルゴールの「夕焼け小焼け」を一音一音正確に奏でることができる。ただ、反対に、その音楽と共にあった頃の記憶を、僕は殆ど亡くしてしまっている。 以前聞いた歌や音楽が、その当時の想い出よりもはっきり残っている…、そう感じる事が度々ある。ある人がとても好きだった歌。しばらくはその人を想い出すと必ずその歌も一緒に流れていた。 でも、やがてその人は僕の記憶から遠ざかり、今では残っている写真でかろうじて記憶を繋ぎとめている…そんな状態になってしまっている。 それなのに何故だろう。一緒に聞いたあの歌だけは今でも正確に口ずさめる。誰かがカラオケで得意だった歌。その誰かが思い出せないけれど、その歌だけはちゃんと憶えていたりもする。 想い出が記憶される領域と、歌や音楽が記憶される領域は、違うのだろうか。ひとつの話を思い出す。 ある痴呆男性の話。 彼の趣味は唄う事だった。 彼は自分の名前も言えず、多くの過去も、そして家族の顔すらも忘れてしまっている。それなのに彼は数多くの歌を憶えていて、それらをしっかりと唄う事ができた。家族も驚くほどの昔の歌も含めて…だ。 ただ、彼は、自分を世話してくれている妻が自分にとって何者なのか理解できない。…想い出よりも強い歌。時には、そんな歌に取り残されて哀しい思いをしている誰かがいるのかも知れない。 彼の妻は、昔の歌を唄う自分を知らない夫の姿を見て、どう感じたのだろう。もし、自分がそうした立場だったら? 「私はあなたの歌になりたい」 …と、そう思うのかも知れない (2001/05/23) 『出逢いのカタチ』 出逢いを運命とか必然と感じられるようになるのは、その出逢いからずっと時を経てからの事だ。 最初は理由も無くたまたま出合った「誰か」。やがて共に時を過ごすうちに、その人が自分にとって大切な「誰か」となって、そうしてはじめて、その人との出逢いが運命や必然によるものだった…と思い返すことができるようになる。 運命や必然という詞は、過去の出逢いに対して付けられるものだ。 どんな人と何故出逢うか、は「全て偶然」によるもので、その出逢いが後々「運命だった」「必然だった」と感じられるようになるには、やはり出逢いのその後の経過が大切なのだと思う。 その「経過」より先に「運命」や「必然」を求めている人が、最近は多いのかも知れない。 そして、出逢いの前から、まだ見ぬ相手に対して何らかの理由を必要としているような、そんな「出逢い」を欲している人も、多いと思う。 趣味同好の相手を求る…といった、そういった形の「出逢い」の事を言っている訳ではない。 自分が充実した日々を送るためには「大切な誰か」が必要で、その「誰か」を得るための「出逢い」。 寂しさを癒すため、あるいは隠すためには「一緒に居てくれる誰か」が必要で、その「誰か」を得るための「出逢い」。 そういう「出逢いの形」を欲している人が、多いと感じる。 偶然ではなく、自分が必要とするニーズに応じた「出逢い」。 出逢いの結果が、出逢いそのものに先立っているような…。 そして、そんな「出逢いの形」に触れる度、僕はふと立ち停まってしまう。 これまで自分が望んで手に入れてきた様々なもののうち、今でも「大切なもの」として残っているのは、一体どれくらいあるんだろう。 絶対に必要だと思っていたのに、欲しくて仕方なかったのに、手に入れた瞬間に価値を失ったもの。 反対に、ふとしたきっかけでたまたま手に入れた、それなのに時を経るにつれてたまらなく大切に思えるようになったもの。 …そんな多くの「もの」の事を、考えてしまったりする。 他人が自分にとって持つ「意味」とは、それが善いものであれ悪いものであれ、共に時を過ごす中で育まれてゆくものだ。それなのに、そんな「意味」を、まだ出逢ってもいない「誰か」に、求め過ぎていないだろうか。 僕は立ち停まる。 必要に応じて「出逢い」を選ぶ。 今はそんな時代なのかも知れないけれど (2001/05/25) 『気持ちが繋がらない時』 曇っていて肌寒かった一日。 休みで出かけていたけれど、普段の仕事帰りよりも早く帰宅した。夕食はもう外で済ませてきたし、これから出かける用事もない。後は寝る時間まで自由時間と決めて、のんびり過ごす事にする。 窓を開け放つ。夕方の空気を室内に招き入れながら、窓際のベッドに座って本を読む。以前、川原で読みかけになって、そのままになっていた本だ。 途中にしおりが挟んであったので、その続きから読み始める。でも少し読み進めるうちに、すんなりと本に入っていけない自分に気付いた。 前回まで読んだ内容は憶えていたので、僕の中では文の筋も、その意味も繋がっている。でも、何となく、前に本を閉じた時の気持ちと、いま本を開いた時の気持ちが上手く繋がっていない。…そんな気分になった。僕は本を閉じる。 今回はあいた時間が長かったせいだろうけれど、何かをしている時、その意識が途中で一度切れてしまうと、僕はなかなかその続きを始められない。これは読書に限らず、ここの文を書いている時も同じで、書きかけのまま、何かの拍子で意識がぷっつりと切れてしまうと、後からその続きを書こうとしても、次の一行がなかなか書き出せなくなっていたりする。 そして、今もそんな「気持ちが繋がらない時」だ。 気持ちが繋がらない時。 普段ならそういう時、僕はその「やりかけ」のものをしばらく放っておく事にしている。放っておくと、ある時にふと、それをしていた時の気持ちと現在の気持ちが、上手く繋がっていることがある。…繋がっている、というより、以前にそれをしていた時と、気持ちが同じになっていることがあるのだ。 そして、そういう時なら、僕はすんなりと「続き」から本に入っていけるし、次の一行も自然に書き始める事ができる。 気持ちが繋がらないまま無理に再開しようとすると、大抵上手くいかない。だから、僕はできるだけ、自然と意識の繋がるその時を待っていたいと思う。 …ただ、そうして書きかけのまま、読みかけのまま放ったらかしにされている文や本が、結構溜まっていたりもする。 一度閉じた本を、僕は最初から読み始める事にした。 部屋を抜ける風が、冷たさを増している。 今夜は、ストーブが必要になるかも知れない。 窓を閉めて、僕は再び本を開く (2001/05/26) 『気持ちの端』 ひとりの女の子が泣いている。傷付いて。泣かせてしまったのは僕だ。ふとした拍子からその大切な友達に、もう一緒に遊ばない、と、酷い事を言ってしまったのだ。 ただ、そう言っておいて僕は後悔している。 それが僕の本心ではなかったから。 でも、その時は強がりが先にでて、謝る事はできなかった。 会う理由が無くなると、二人はやがて離れていった。 その後も何度か顔を合わせる機会はあったけれど、僕の口から「ごめんね」の言葉が出てくる事は無かった。 何度も言おうとは思っていた。 でも、結局は言い出せなかった。 その時も、それからもずっと。 あの時の「気持ちの端」が、まだそのままになっている。 そして今でも、こうして思い出してしまう。 僕はその時の気持ちを、長いロープのように今でもずるずると引き擦っている。やがて時が忘れさせて、その引き擦っているものが自然に擦り切れてしまう事を、僕は望んでいた。 でも、結局、そうはならなかった。 ある時ふと振り返ると、引き擦ってきた「それ」がまだ切れずに繋がっている事に気付いてしまう。 時間というものが、そうした感情を解決するための何の手助けにもならない事を、僕は思い知る。 そう。時間が解決の手段となる事など、在り得ない。 時間とは、その問題を解決するためにかかる「コスト」に過ぎない。 北海道の五月は、運動会のシーズンだ。車で通りかかった小学校の校門に「大運動会」という装飾された看板を見つけ、僕は早朝の花火の理由を知った。 看板は、紙で作られた色とりどりの花と、紙テープのリボンで作られた「鎖」で飾られていた。ただ、鎖の方は看板の端の片方が風に千切れ、反対方向にパタパタとなびいていた。 紙テープの鎖。それは元々、短いテープの断片だ。 でも、そのひとつひとつの断片が、「端」をしっかりと閉ざされる事でひとつの「環」になり、長い鎖として繋がれてゆく。 「気持ち」というものも、そうして何らかの形で「環」に閉じて、長く繋いでゆくべきものなのかも知れない。大事なのは「気持ちの端」をそのままにせず、閉じるべき時にしっかりと閉じて、そうして完結させた「気持ちの環」を、経験の鎖の一部として長く繋いでゆく事なのかも知れない。 「気持ちの環」を、閉じること。 そうせず、端をそのままにされた「気持ち」が永遠の後悔として、その後何度も僕の前に立ち現われてくるのだろう。 それは、ただ忘れようとした結果。逃げ出した結果だ。 あの時「ごめんね」と、言えていたら。 他にも多いのかも知れないね。 端っこがそのままの「気持ち」。 …閉じられなかった、その時の「気持ち」 (2001/05/27) |