kassyoku 030



『スタンス』


 無数の種がある。
 新しく手に入れたものもあるし、昔から大事に取っておいたものもある。でも、その全てはどこかで拾ってきたり、誰かから貰ってきたりしたものだ。

 何の種なのかは、咲いてみるまで判らない。
 僕は種を植え、育ててみる。種の種類は様々で、あるものはじっくりと手をかけてやらないと育たないし、またあるものは放っておいても勝手に育ったりする。

 勿論、上手く育つ事もあればそうでない場合もある。
 放置しすぎて枯らしてしまったり、反対に水をやり過ぎて駄目にしてしまったりもする。


 上手く育って花が咲いたら、僕はそれを一本ずつ摘み取る。
 そして、集めたものを、ひと掴みほどの大きさに束ねてゆく。
 その束には様々なアレンジを加える。自分が育てたものに、野山や身近な所から摘み取ってきたものを加える場合もある。反対に、摘み取ってきたものの中に、自分が育てたものを加えてみる場合もある。
 そうして一本一本、束から抜いたり、束に加えたりを繰り返しながら、僕はその束を、自分が気に入るひとつの形に仕上げてゆく。あとはちょっとした装飾を加えて、出来上がりだ。

 育てたものを、そうして形に束ねる理由。
 売り物にしようとか、誰かにプレゼントしようとか。そういうつもりでやっている訳ではない。
 せっかく育てたものを、僕はそのまま枯らせてしまいたくない。
 僕はそれを残したい。自分に一番合ったやり方で…だ。


 そうして出来上がったものを、僕は道端の、自分用の小さなスペースに並べてみる。自分にとっての価値が、道行く他人の眼にはどう映るのだろう。

 人々が行き交う中。多くの人は目もくれずに通り過ぎる。
 でも、中には立ち停まってくれる人がいる。それを手に取ってくれる人もいるし、たまには「いいね」と言ってくれる人がいる。


 目を停めてくれた全ての人に、感謝します。
 ありがとう。
 気にいったものがありましたら、喜んで差し上げます。
 束の中の、たった一本だけでも。


 僕が育てた種は、僕自身のものではない。
 全てはどこかで拾ってきたり、誰かから貰ったりしてきたものだ。

 だから、ここに並べたものは、ご自由にお持ち下さい。
 僕が育てたのは、あなたから貰った種かも知れないので

(2001/06/21)




『頭の衣替え』


 桜の後はライラックの花が咲き乱れ、そして散っていった。
 この街には「リラ冷え」という言葉がある。本州の「花冷え」にあたる言葉なのだろう。
 リラとはこの街の街路や民家の庭先に多く植えられているライラックの別称で、その言葉通り、このライラックが咲き誇っていた時期は本当に寒かった。気温が10度を切ることもしばしばで、天気もぐずつきがちだった。

 花と季節の絡む言葉。
 こういう言葉は、何故か嘘をつかない。


 今はそのライラックに替わって「アカシア」の花が満開だ。今時期は街路に、白い花を房状に咲かせているこの樹が目立つ。「この道はいつかきた道」という歌の中で「アカシアの花がさいてる」と唄われている道の風景も、実はこの街のものらしい。
 ただ、この街に咲いているアカシアは、本物のアカシアではない。この街に今花を咲かせているのは「ニセアカシア」というもので、アカシアとは全くの別種なのだという。
 「ニセアカシア」。電子広辞苑によれば、本名は「ハリエンジュ」というらしい。「ニセ〜」というのは、あくまでもハリエンジュの別称だ。ついでにアカシアも調べてみる。するとそこには「別属のニセアカシア(ハリエンジュ)の別称」と書いてあった。

 …ややこしい。


 とにかく、咲いている花がライラックからアカシア(ニセ)に替わって、気温も初夏らしくなってきた。
 今週の初めに短く切った髪も、やっと季節相応になった気がする。前髪が鼻に被るほどの長さだったものを、ばっさりと「ごく短いスポーツ刈り」にしたので、先週は職場でちょっとした話のネタにされていた。
 こういう髪の切り方をすると「…何かあった?」と訊かれることが多い。
 僕にしてみれば、夏場は毎年こういう切り方をしているので、そう言われる事が可笑しい。

 髪を短くするのは、夏だから。
 僕にとっては、一種の衣更えだ。
 …でもまぁ、新しい職場だから仕方ないか。今回初めて行った床屋の人にすら「本当にいいのかい?」と、念を押されたのだ。


 先日も、出張帰りで一週間ぶりに顔を合わせた同僚が、突然短く刈られた僕の髪型を見て、眼を丸くしてこう言った。

 「…何か悪い事したの?」

 自分の髪を撫でながら、僕は答えた。
 「いや、便所で隠れ煙草してたら見つかって…」

 そうして、互いにニヤリと笑い合う。
 …何か、過去に心当たりでも?

(2001/06/23)




『花の上を歩いた日』


 ニセアカシアの白い花が歩道に散っている。歩道に寄り添って立つ大きな樹。その拡がる枝葉がちょうど影を落とす歩道の部分に、白い花が積もっている。真っ直ぐに伸びる歩道。見通すと、その木陰の部分だけが、まるでシーツを掛けたように、落ちた花に白く彩られている。

 ニセアカシアの花が散る。
 でも、散るといっても、この花は桜のように「ひらひら」と風に舞い散る訳ではない。ニセアカシアが花弁を散らす事はない。この花は、原形を留めたそのままの姿で花を落とす。花には花の重さがあるから、それほど風に流される事もない。だから、この花はポタリと真下に落ち、自らの足元…その木陰を白く覆う。
 辺りの民家の屋根よりも高く育っている樹々だから、落とす花の量もかなりのものだ。樹の下の歩道の上に、縁石の部分まで敷き詰められた、白い花の絨毯。

 歩道を歩き続けて、僕はやがてその花の絨毯にさしかかる。
 枯葉の上を歩く時と違い、生の花の上を歩く…というのは、余り気持ちの良い感覚では無かった。靴底から伝わる感覚が、急に柔らかくなる。今までコツコツとアスファルトを打っていた靴音が消え、靴底が花を踏み潰す「ぷちぷち」という音に変わる。そして、アスファルトと靴底の間で花が潰れる度に、その芳香に鼻を突かれるような気がした。
 元々芳香が強い花だから、辺りにはその花の香が漂っている。香は風の加減で、濃くなったり薄くなったりする。そのためかも知れないけれど、何となく「ぷちっ」と音がする度に香りが強くなる、そんな気になった。


 そうして気持ちは躊躇いがちに、僕は花の上を歩いていた。
 シャーッと音がして、僕の脇を自転車が追い越していった。
 花の絨毯の上に、一本の線が刻まれる。
 轢き潰された花の芳香が、再び鼻を突く。

 自転車が花の上に刻んだ轍に、眼を落としてみた。歩道に散らばった花には、多くの蟻が集まってきていた。この香りと花の蜜に魅かれて、路上に集まってきているのだろう。
 でも、その時まで足元の蟻には全然気付いていなかったから、僕は花と共に、蟻も相当数、踏み潰してしまったかも知れない。


 …蟻は踏み潰される瞬間、何を思うのだろう。
 ふと、そんな事を考えた。

 突然、頭上に影がさす。その影が、今まさに己を踏み潰そうとしている靴底のものだという事を、蟻は知る由もない。
 晴れた日。足元の地面に、ふと雲の陰がさした時の僕達のように、その時蟻は空を見上げるのだろうか…。

 それから先は、蟻ばかり気にしながら歩いていた。

 花の上を歩いた日

(2001/06/25)




『充電』


 僕の仕事上、6月という月は期末にあたり、仕事がどうしても立て込んでくる。月の終わりになると月末の仕事とも重なってしまう。仕事に限らない。こういう時に限って、身の周りでも色々な事が重なり、休日もそちらに時間を取られてしまったりする。

 書くことにはとことん向いていなかった6月。
 そうして日中あたふたしていると、どうしても夜、帰ってからは何も手につかない…そういう状態になってしまう。

 ただ、そんな時にも「全く書いていなかった」という訳では無かった。でも、少し書き出すとすぐに頭がぼーっとなってしまう。見ている世界は普段とさほど変わりないけれど、その中に何も「見えていない」状態。…上手く言えないけれど、そういう状態だ。
 そして、そうして何も考えられずにいるうちに、時間だけはどんどん過ぎてしまう。ここに載せている文章を書いているのは大抵夜中だから、そのうちに寝る時間の事も気になり始める。明日の仕事の事も頭を過る。


 何となく、そういう状態が続いていた。そして、月末が近くなってからは僕の中で「バッテリー残量警告表示灯」みたいなものが灯り始めた。「充電が必要だよ」という事を告げる警告ランプだ。
 言葉を紡ぐ心が、空っぽになってきている。そんな心を搾り出してまで、言葉を連ねる事が意味のある事とは思えない。
 継続して書くことに意味があるのなら、無理をしてでも書き続ける方が良いのかも知れない。でも、満ちている時に溢れた分だけを書き残すくらいが、僕にとっては丁度良いみたいだ。

 そんな気がして一週間、書くことを止めていた。
 その間、今までは書くために割いていた時間を「読む」時間にあててみる。読むものは本だったり、ネット上で誰かが書いている文章だったりもしたけれど、得たものは後者からの方が大きかった。
 自分の容量が少ない時には、そこに溢れる言葉に普段より素直に満たされてゆく。そう感じた一週間だった。僕は空っぽだったものを、そうして充電していたのかも知れない。


 月末と期末の仕事も、今日でやっと一段落した。
 6月末の日付けの仕事から解放され、今日になってようやく新しい月を迎えられた、という感じがする。

 今日は久しぶりに書いてみた。
 「警告ランプ」も、ようやく消えていたような気がしたので

(2001/07/03)




『闇夜に燈る雨蛙』


 あるホームページで、蛍の話題に触れていた。
 北海道にも蛍は棲んでいて、僕も闇夜に燈る蛍を、ほんの何度かだけど見た事がある。…その事を思い出す。でも、僕の記憶に残っているのは蛍の光だけ。蛍そのものを見た訳では無いから、その記憶は何となく曖昧なものだ。

 ほたるなす、仄かな光の記憶。それは本当に蛍のものだったのだろうか。そんな疑問が頭を過る。
 僕が見ていたのは、何者かが放った「光」。闇夜の厚い壁を貫いて、その光だけが僕の元に届いた。でも、闇夜の厚い壁に阻まれて、その光を放つ存在が何者なのかを、僕は確かめる事ができなかった。
 記憶の中。放たれた「光」だけが、僕の心に残っている。
 でも、本当の意味では、その光の主が何だったのかを僕は知らない。


 小学生の、ある夏の夜。

 誰と一緒に居たのかは憶えていないけれど、僕は、道路沿いに点々と燈っている外灯を巡りながら、クワガタ捕りをしていた。ひとつの外灯の元でクワガタ捜しを終えると、次の外灯に向かう。田舎では外灯の間隔も密ではないので、次の外灯までの間、しばらく闇の中を歩く事になる。

 その途中。僕は自分の目の前の道路の上に、ぼうっと光を放つ「何か」が落ちているのを発見した。僕が近付くと、光を放つそれは「ぴょん」と跳ねて、脇の草むらの中へと逃げ込んだ。僕は屈んで草を掻き分け、それを追う。その手から逃れようと、微かな光もぴょんぴょん跳ねる。

 でも、闇の中でその身体は光を放ったまま。
 ほどなく僕は、それを掌の中に追い込んだ。


 手の中で蠢くそれを、僕は懐中電灯で照らしてみた。
 僕が捕らえたのは親指くらいの、小さな普通の雨蛙だった。

 僕は首を傾げる。

 足を掴み雨蛙をぶら下げたまま、懐中電灯を消してみる。すると、雨蛙は確かに光を放っていた。
 でも、雨蛙の体そのものが光っているという訳では無い。僕はその事に気付いた。雨蛙の腹の白い部分を透かして、何かが光を放っている。ゆっくりと明滅する淡いその光が、雨蛙の姿を闇夜に浮かび上がらせている。


 雨蛙の内に燈った光は、己が喰らった命だった。
 食されても、なお輝き続ける命が、そこにはあった。


 蛍呑み、闇夜に燈る雨蛙。
 ひとつの消えゆく命が、別の命を輝かせていた。
 そしてその雨蛙の命を、今は僕の手が握っている。

 僕の掌の中で、捕われの雨蛙が「うるる」と鳴いた

(2001/07/05)


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