kassyoku 032 『主のいない腕時計』 10mの高さから落下した衝撃にも耐え、水深50mの水圧にも耐える。そんな腕時計が僕の部屋にある。とはいえ、それは僕の物ではない。先月ふらりと遊びに来た友人が忘れていったものだ。 ふとその時計の事を思い出して彼に連絡をとった。少し雑談の後「そういえば、これどうすんだよ?」と、時計の事を切り出す。彼曰く、「いやー、最近腕時計して出歩かないから」との事。いつも携帯電話を持ち歩いていて、それには時計も付いているから、別に腕時計が無くても時間を知るのに不都合は無いらしい。 「なら貰ってもいいかね?」と訊くと「それは駄目!」。じゃ、いつにしようか、という話になったけれど、気軽に行き来できる距離ではないし、仕事の都合上、互いの休みも合わない。時計はまたしばらく僕が預かる事になりそうだ。 その時計。テレビの脇に一ヶ月程置きっぱなしになっている。 改めてそれを手にとってみる。本当、ごついデジタル時計だ。そうしながら、先に書いたこの時計の売り文句を思い出す。この時計がカタログ通りの「耐久性能」を発揮する時。それって一体、どんな時だろう? 昨年の夏。仲間数人と行った海水浴場で、彼の時計と同じモデルの腕時計を拾った事がある。シュノーケルを付けて泳いでいる最中、僕はその腕時計が海底をコロコロと、波に転がされているのを見つけた。拾い上げ岸へ上り、仲間内でその時計をどうしようか相談する。届け出るべき管理者も存在しない場所。近くに交番も無い。 仲間の何人かはその時計を欲しがった。でも、その時一人が言った。 「これ、ひょっとしたらここでお亡くなりになった人のものだったりして…」 海底の白骨の腕で、変わらず時を刻み続ける時計。思わず僕はそんな想像をしてしまった。その一言で何となく皆、いやーな気分になったのを憶えている。そして、その時計は結局、最初に欲しがった後輩に押し付られたのだった。 彼の時計。この時計がそのカタログ通りの耐久性能をいかんなく発揮する時、その主である生身の人間の方は無事では済まないだろう。腕時計はどんどん進化し、頑丈になってゆく。でも、生身の人間には、それほどの進化は無い。むしろ弱くなっているのかも知れないのに。 腕時計の頑丈さの売り文句として、こんなのも悪くは無いかも知れない。 『あなたが死んでも、時を刻み続けます』 …あ。「時間」とは元々、そういうものだっけ (2001/07/18) 『今年最初の釣行(1)』 地元の海へ今年最初の釣りに行こうと思い立ち、金曜の朝八時頃に出発。それから三時間程かけて、午前十一時頃に実家に到着した。 実家にはその日に帰るとは伝えていたが、何時とは決めていなかった。玄関を開けると母が出てきて「あら、あんた丁度いいとこに帰ってきたわ」と言う。丁度いいという言葉に嫌な予感を覚えながら居間に入ると、居間にあるストーブの煙筒が、壁向こうの集合煙突に繋がる眼鏡石から引き抜かれていた。そして、その眼鏡石の穴からは、何かの紐が床まで垂れ下がっていた。 これは大掃除の途中だったか、と思って母に訊く。丁度いいって、そういう意味かい。母が答える。「…いや、掃除じゃなくって」 『煙突にトリ、落ちてるんだから!』 朝の五時頃、煙突からの「バタバタ…」という音に叩き起こされ、以来六時間、救出活動中なのだという。 僕は椅子の上に立ち、眼鏡石の穴を覗いて見た。直径十数センチの穴。奥行きは三十センチほど。穴はそこで外壁の外の集合煙突に繋がり、上下に分かれている。そして、その下側の深さ約三メートルほどの底に、トリが落ちているらしい。 石炭ストーブや薪ストーブの場合、集合煙突の最下部には「灰取り口」が付いているけれど、実家は石油ストーブなので、そのようなものは付いていない。だから、救出はこの眼鏡石の穴から何らかの手段で行うしかない。 …これはちょっと難しいかな、と僕は思った。 眼鏡石の穴から集合煙突までの連結部分の長さが結構あり、底を直接覗く事はできない。深さも相当あるので、手では絶対に届かない。 眼鏡石の穴から垂れていた紐を引き上げると、プラスチックのタッパーを天秤の皿のように紐で吊った、急ごしらえの「救出装置」が出てきた。これを下まで降ろして、トリが乗ったら引き上げる方法を試していたらしい。…そんな単純な、と思ったけれど、それでもトリが何回か乗ったという。でも、引き上げる途中で暴れて落ちてしまうのだと。 ただ、そうして乗ったり落ちたりを繰り返し、既に六時間経過。 僕が来てからは、穴の底からは何ひとつ物音は聞こえていない。 最初の数時間は頑張ったらしい親父も、もうすっかり諦めムードで、庭で野良仕事をしている。 「もう乗る元気も無いのかねぇ…」と母が言う。 そうかも知れない、と僕は思った (2001/07/22) 『今年最初の釣行(2)』 「水でも入れたら浮いてくんでネェの?」 そんな事を言いながら、僕は一度引き上げた救出装置を再び底まで降ろし、何か当たる気配はないかと上下させてみた。でも、しばらく続けたけれど手ごたえは無かった。やがて、僕もすっかり諦めムードになる。ひょっとしたらそのうちに乗るかも知れない、と、その救出装置を降ろしたままにしておき、僕は予定していた釣りの準備を始めようと椅子を降りた。 その時。『バサバサ…』と羽音が聞こえた。 羽音は五秒ほど続き、止んだ。集合煙突の中は二十センチ程の径しかない。翼が伸びきらないこのスペースを、垂直に何メートルも飛び上がってくる事は、いかなるトリにも不可能だろう。僕は急いで降ろしていた救出装置を引き上げてみた。でも、軽い手ごたえ。乗っている様子は無い。 トリが再び静かになってから、僕はしばらく別の方法を考えていた。救出装置の皿の径を大きくする? …駄目。これ以上大きくすると、皿が煙突の内径ギリギリになってしまい、トリが上に乗る事ができなくなる。水を入れるなんてもっての他。煙突の外壁に穴を空ける訳にもいかない。 どうしようか。そう考えているうちに時間がどんどん過ぎる。でも、放っておく訳にもいかない。少なくとも、トリはまだ、生きようとしているのだ。 あれこれ考えているうちに、ふとある方法を思い付いた。 思い付きのきっかけは、魚網に絡まったカモメと、地元で見た「ウニ獲り」の道具の記憶。僕は救出装置2号の製作に取り掛かる。新聞紙梱包用のビニール紐。それを六十センチ程の長さに何十本も切り、縦に細かく裂く。裂いたものは二つ折りにして、泡立器の針金のような「輪」の形に束ね、両端を縛る。束ねた所には釣り道具から出してきたリールの糸の端を結び、軽めの錘をガムテープで取り付けた。 そうして出来上がったのは、釣り糸の先にチアガールが手にする「ポンポン」のような、ビニール紐の繊維の塊が付いた物体。地元ではウニを獲る(密漁する)ために、これのもっと大きなものが使われる事がある。錘を付けてこれをウニのいそうな所に投げ込んで引いてくると、そのポンポンの部分にウニが絡まって揚がってくるのだ。 これはそのウニ釣りの応用だ。 ひょっとしたらトリだって、釣れるかも知れない。 僕は眼鏡石の穴からポンポンを降ろす。 手にしたリールから釣糸を繰り出す。 そうしながら、今日が今年最初の釣行…だった事を思い出していた (2001/07/22) 『今年最初の釣行(3)』 ポンポンが底に着く。ばさっ、と音がしたけれど、底からは何の反応も無い。恐らくポンポンが疲れ切ったトリの上に被さった、そんな状態だろう。もうひと暴れしてくれれば、と思う。…いや、願う。暴れるか、もう一度頭上の光を目掛け飛び上がるかすれば、トリがビニール紐に絡まる可能性は高くなる。 でも、この先全く動く気配が無ければ、この仕掛けにトリが絡む事は無い。生きようとする意思の無い者を、救ける事は難しい。他のどんな場合でも、これは同じだ。もう一度「生きよう」という意思を示してくれないと、それでないと「救ける」なんて、できっこない。 反応が無いので、僕はポンポンを降ろしたまま、しばらく置いておく。 もう僕が来てから二時間が経過している。トリが煙突に落ちてからは、既に八時間。もし、トリが先程の羽音を最後に生きる事を諦めていたら。…そんな事を思う。もう二度と羽音が聞こえなかったら、この仕掛けもそのまま引き上げられて、ある時点で眼鏡石には再び煙筒が嵌められる。 その時、トリはもう「死んでいる」かも知れない。 でも、生死の確認ができない以上「生きている」かも知れないのだ。 先程の羽音。正直、聞きたくなかった、と思う。 更に一時間ほど経過した。僕は釣りの準備を続けている。 釣り針に糸を結ぶ作業に集中していると、羽音が聞こえた。急いで椅子に飛び乗って、ポンポンに結び付けられた釣り糸を手繰る。すると重い手ごたえ。更にポンポンを引き上げると「バサバサ」と音がして、暴れるトリの感触が糸を通して伝わって来た。 「掛かった!」 一気に糸を引き上げる。穴から白いポンポンの端が覗く。 眼鏡石の穴に手を突っ込み、それを鷲掴みにする。その瞬間、手に生き物の温かさを感じた。僕は穴からそれを引き擦り出す。 片羽を広げた格好で見事に絡まっていたのは、煤で薄汚れた姿をしたムクドリだった。散々暴れた割には怪我も無く元気で、羽と足と首に絡んだ紐をハサミで切っている最中にも、盛んに手を突付いてくる。すぐに放しても問題はなさそうだった。 ムクドリを手に玄関へ向かう。 掌の中でムクドリが元気に暴れている。 今年最初の釣果、ねぇ…。 そのまま外へ出て放す前に、掌の中のムクドリの頭を指で三回ほど小突き、それからポーンと空に放った。ケケッ…と短く鳴いて、ムクドリは元気に飛んで行った。遊んでいた近所の子供が、僕の手から突然放たれた鳥を見て「ぽかん」としていた。 …そんな海の日の出来事。 その後行った本物の釣りの成果は、さっぱりだった (2001/07/22) 『誰も停まらない赤信号』 よく食料品を買出しに行くスーパー手前の交差点に、誰も立ち停まらない信号機がある。車は殆ど通らない。それなのにそこには歩行者用の信号機も設置されており、一定間隔での赤青点滅を、無意味に繰り返している。 今日その交差点を通った時。横断歩道に差し掛かる手前で正面の歩行者用信号を見ると、青の点滅中だった。普通なら思わず駆け出すタイミングだ。ただ、僕には急ぐ理由も無い。誰も停まらない赤信号で僕は立ち停まってみた。 車は殆ど通らないけれど、人通りは多い。ヒールの踵を鳴らしながら、スーツの女性が僕の脇を抜けていった。歩みを停める事は無く、キッと前方を見たままの表情で横断歩道を渡ってゆく。向こうからは中学生が渡ってくる。その表情も今の女性と同じだ。赤信号には眼もくれず、ただ進む方向だけを見据えている。 自分が立ち停まってみると、その表情が、通る車も無い赤信号で立ち停まる事には堪えられない…という、そんな表情に見えてしまう。皆が行く先には頑とした「目的」があって、急いでいる。こんな無意味な信号に煩わされたくない…そんな表情にも見えてしまう。 赤信号で立ち停まる事にすら、こういう状況では重圧を感じる。 見知らぬ街の駅の改札を抜けた時のような気分。他の皆が目的地に向かって一直線に流れる中、自分だけが行き先も判らず取り残されているような、そんな気分になる。 僕は頭の後ろで両手を組んで、赤信号をぼーっと見詰めた。買い物に来た主婦らしい女性が、僕の脇。渡ろうかという所でちらっと僕の方を見て、そのまま足を停めた。横目で見ると、いかにも渡りたいけれど僕が立ち停まっているので渡れない、そんな表情をしている。 過ぎる車も無いまま、青だった車道の信号が黄色に変わる。 立ち停まっていた主婦が、その瞬間に渡り始めた。その時の顔はやはり前方に眼をむけたまま。そして、その口は固く結ばれている。こんな表情をどこかで見たな、と、ふと思った。昇りのエスカレータ上を昇ってゆく人々。動く歩道の上を更に前へ進もうと歩く人々。…何となく、同じ顔をしているように感じた。 誰も停まらない赤信号で立ち停まる。 そうしてみて、初めて見えてきた「表情」がある。 それは余りいい貌とは言えない。 でも、自分がそんな表情をしている…その事に誰も気付かない。 僕も普段はそんな顔をしているのだろうか。 信号が青に変わり、僕は歩き始める (2001/07/24) |