kassyoku 033 『花火会場を流れる時間』 先週末この街で行われた花火大会。仕事帰りにそれにぶつかったので、河川敷へ寄り道した。打ち上げ会場はずっと上流なので花火は遠い。音が七秒ほど遅れて届く。迫力は全く無い。 それでも河川敷の堤防の上には多くの見物客がいた。僕は堤防の一番上、歩道脇のガードレールに腰掛ける。そこから見降ろすと、僕の真下には敷物を広げた中年女性のグループ。敷物の他にビールまで用意してきている。でも、そうして花火を見ているかと思えばそうでもない。お喋りばかりしている。 堤防の一番下は自転車道になっていて、時折、打ち上げの場所に向かう自転車が通り過ぎる。そこを浴衣の女の子グループが歓声を上げながら通り過ぎた。何人かは二人乗りをしている。 おばさん達の首が彼女達に合わせて動いた。その背中を見送った後、今度はおばさん達が歓声を上げた。 「前はだけているのに、みったくない」 …花火なんて全然見ていない。 おばさん達と少し距離をおいて一組のカップルが腰を降ろしていた。寄り添って座っているけれど、言葉を交わしている様子は無い。二人共、さっきからずっと黙ったまま遠い花火を眺め続けている。 ただ黙ったままで誰かと共有できる時間。 花火大会の会場には、そういう時間が多く流れている。 誰かと同じ所にいて、誰かと同じ事をしながら、その誰かと同じ時間を過ごす。それは簡単なようだけど、日常では意外と難しい事だと思う。 例えば買い物。絵画や写真展、図書館。誰かと一緒にそういう所に行っても、そこで何かをしている時、その「誰か」と時間を共有する事は難しい。そういう所では人それぞれに見る順序があり、見所があり、見方がある。そして、それは必ずしも一緒にいる「誰か」と同じでは無かったりもする。 一緒に楽しめるのはごく一部で、残りは誰かに合わせて行動している、そんな時間になってしまっているのかも知れない。合わせよう、と口数ばかり多くなってしまったり、気疲れしてしまったり。…そうなってしまっている事も、意外と多いかも知れない。 でも花火見物なら、たとえその「誰か」と気持ちを共有できていなくても、お互い何も話さなかったとしても、同じ事をしながら同じ空間と時間を共有する事ができてしまう。 花火は「誰か」と一緒に見るのに向いているもの、かも知れない。 ただ黙ったままでも共有できる時間が、そこには流れている (2001/07/29) 『人生のリセットボタン』 とある人生の途中。 僕はどうにも立ち行かない、そんな状況に陥ってしまっている。 そんな時、僕はふと「リセットボタン」を見つけた。 TVゲーム世代の僕達にとってリセットボタンはやり直しボタンだ。 僕は魅かれるように、そのボタンに手を伸ばす。 状況から逃れる事しか頭に無かった僕は、そのボタンを押す。押した途端に世界の全てが真っ白になり、それは濃い霧のように僕を包み込んだ。心も躰も、そして記憶も、次第にその白の中に融け込んでゆく。 やがて僕は、今まで持っていた全てのモノを失う。最後まで残っていた意識の欠片も、泡のように弾けて、その白の中に消え去った。 そうして僕は産まれ変わった。 産まれた世界は前と同じかも知れないし、別物かも知れない。でも、新たに産まれた僕にとって、それはどちらでもいい事。前の人生で得た全てのモノを、僕は失っている。リセットして産まれ変わった、その事すら僕には知る由も無い。 僕はリセットされたやり直しの人生を、新たに踏み出した。 自分でもそうとは気付かぬままに。 それがゲームなら、迷わずリセット。 でも、人生でそんな状況に陥ってしまった時、目の前にリセットボタンがあったら、それを押す事ができるだろうか。 「今すぐにでも押してしまう」という人も、多いかも知れない。 でも、状況から逃れる事しか考えずにそれを押しても、全てを忘れ去った僕は、やり直しの人生のその途中、また同じ所で何事も立ち行かなくなる、そんな状況に陥ってしまうだろう。 逃げ出した経験からは何も学べない。 乗り越える術も、回避する術も。 そうしてまた同じ状況が、後々の僕の人生に再び立ち現われる。 …「やり直しの人生」を歩んでいる僕。 その途中、僕はどうにも立ち行かない、そんな状況に再び陥っている。 そんな時、僕はふと「リセットボタン」を見つけた。 TVゲーム世代の僕達にとってリセットボタンはやり直しボタンだ。 僕は魅かれるように、そのボタンに手を伸ばす… 現実の僕自身、もしかするとそんな永遠の繰り返しの中を彷徨っているのかも知れない。既に押したのかも知れない、人生のリセットボタン。やり直しの人生の途中に、今の僕はいるのかも知れない。 自分でもそうとは、気付かぬままに (2001/07/30) 『青空の1ピース』 先週実家に帰省した時、以前は僕の部屋だった部屋の壁に、アルミの額縁に収められたジグソーパズルが飾られているのを見つけた。20×30センチくらいの小さなパズル。確か中学生の頃に姉から貰って作ったものだ。 そしてこれは恐らく、僕が一人で完成させた唯一のジグソーパズルだ。僕はそういう作業が苦手な子供だったから、この小さなパズルは「ひょっとしたらこのサイズならあんたでも」という気持ちで姉がくれたもの…だったのかも知れない。 絵柄の真ん中を横切る水平線が、空と海を上下に分かつ。そんな浜辺の風景のパズル。ちょっとだけ懐かしい。でも、作った時の苦労や完成させた時の喜び…といった感情は、残念ながら僕の記憶にはもう残っていない。 ただ、その絵柄を改めて見ると、海には白波が刻まれているけれど、空は本当に「青一色」。作るのに当時の僕は随分苦労しただろうな、と思う。 濃淡のない青空を刻んだ、似たような形の無数のピース。 バラバラの時、それらは皆同じように見える。 でも、皆が同じ色をしているから簡単にひとつに纏まる…という訳ではない。それに、同じ色で似た形だからと別のピースを嵌めてみても、上手くいかないのがジグソーパズルだ。 それを組み立てている時、僕は上手く繋がらない事に苛立ったり、反対に上手く嵌まった事にいちいち喜んだりしながら、それぞれのピースがおさまる場所を捜して試行錯誤していた事だろう。 …きっと気の遠くなるような作業だっただろうな。 よく完成させたもんだ、と、自分でも感心した。 ま、最後は全てのピースがおさまるべき所におさまり、ひとつの絵柄として完成した。その時の僕は、作っていた最中には全てが同じ青色に見えた多数のピースが、完成した青空の中では微妙なグラデーションを描いている…その事に気付いただろうか。 青空の1ピース。 似た色をしているけれど、それぞれ微妙に異なる色。 似た形をしているけれど、それぞれ微妙に異なる形。 でも、そんな青空の1ピースにも、ぴったりと納まるべき居場所がちゃんとある。そしてそのひとつひとつの居場所は、どんなに似た他のピースをもっても代える事はできない。 …ひょっとしたら、人も大きな絵柄の一部なのかも知れない。 そして、きっと誰もが「どこかに必要な1ピース」なんだと思う。 他の誰にも代えられない、自分がおさまるべき居場所。 そういう居場所が、人にもきっと、あるのだと思う (2001/07/31) 『夏に欲する夏』 冬が寒くない、というのは結構な事だけど、夏が暑くならないというのは何か変な感じだ。 夏はもう折り返しだというのに、この街は全然夏らしくならない。7月も夏らしい青空が拡がったのは何日かで、あとは何だかどんよりとした天気が続いている。そういえば今夏、この街ではまだ「真夏日」の記録がないらしい。ま、夏だから日中の気温はそこそこ上がるけれど、夜はかなり肌寒くなる。寒暖の差が激しい。内陸…というよりは、高地に住んでいる感覚だ。 今日、過去に書いたここの文章を少し整理した。今年の上半期分だ。 過去に書いたものを改めて読むと、3月半ばのある日付の文には「ダイヤモンドダスト」の記述があった。ダイヤモンドダストが見られるのは、気温が大体マイナス20度以下の朝だ。その文章の日付から4ヶ月半ほどしか経ていないのに、今では、その気温のプラスとマイナスが逆転している。気温差は50度近い訳だ。 そう考えると、やっぱり今は夏なのかなぁ…と思う。さらに過去の文を見ていくと、先月の文章の中、こんな感じの記述があった。 『北海道には「梅雨」はない。でも、太平洋沿岸部の一部には「梅雨」のように雨の降り続く時期があり、それは「蝦夷梅雨」と呼ばれている。でも、それは本州に梅雨をもたらす「梅雨前線」とは関係ない…』 と、そんな内容の事を書いている。 それを読んで、ちょっと考えた。例年ならその記述は正しいけれど、今年に限って言えばそれは全くのデタラメだった。現在続いているこのどんよりとした気候。それには思いっ切り梅雨前線が影響している。 昨今よく耳にする「異常気象」という言葉。例年よりも冷え込みが厳しかった昨冬。「冬の寒さが厳しい年の夏は暑くなる」という諺のようなものもあるけれど、それに関しても今年は見事に外れだ。 もう、気候について例年通りに語る事は難しいのだろうか。 …いや。春は例年通りに巡ってきたから、ひょっとしたら帳尻合わせの暑さがこれから訪れるのだろうか。 でも何となく季節の秩序が乱れているように感じる、この頃。 暦は夏の真っ盛りなのに、僕はまだ夏を欲している (2001/08/04) 『時計が再び動き出す』 仕事から帰って、すぐにかかってきた電話。出てみると聞き憶えのない女性の声。卒業後は全くやりとりの無かった高校の同級生からだった。盆の帰省時期に併せてクラス会をやるんだけど…、と言う。 僕は今春、高校を卒業してから五回目の引越しを済ませたばかり。よく電話番号わかったね、と訊くと、実家に電話してみたら、応対した母親がすぐに教えてくれた、との事。 実家には僕の知らない高校時代の「友達」やら「同級生」と名乗る人物から結構頻繁に電話があるので、実家にはそういう電話があった時、相手の名前と電話番号を訊いて「こちらから掛けさせる」と言うように頼んである。 でも、彼女は実家も近所同士で、小、中、高校とずっと同じ学校だった。そのため母も「ああ、あのコなら…」という感じで、何の疑いも無く教えたのだろう。 「じゃ、実家の電話番号変わっていたらアウトだった訳だ」 「そう。卒業アルバムの住所見ながらかけまくってるんだけどね。『現在使われていません』っての多くて…」 少し雑談する。成人式に併せて最初に行われたクラス会には参加できなかった。そしてクラス会はそれ以降も何回か行われたらしい。…でもそれは初耳。こっちも行方不明だったからね…と、電話口で笑う。 ふと、微かに子供の声。 という事は、彼女が最初に名乗った姓は旧姓だったんだ。 訊ねてみる。 「うん。久々に旧姓名乗ってるから、変な感じ…」 …ま、変な感じがするのはこっちも同じだ。 朧げな記憶に残る彼女の姿と、電話口の向こうの彼女の姿のギャップを、今の僕は埋められない。最後に会ったその瞬間のまま、時計が停まっている…そんな感じがする。相手には相手の時間が流れている。それにも関わらず、僕は時を刻む事を止めた僕の中の時計の時間でしか、彼女を見る事ができないのだ。 まぁ、それは彼女にとっても同じ事なんだけど。 今のところ参加者は全体の1/3程らしい。卒業以来始めて会うメンバーが殆どだ。その日の予定は未定だけど、何とかするという事で参加についてはOKの返事をした。 でも、八年ちょっと振りに会うって、どんな感じがするのだろう。 僕の中には時を停めたままの無数の時計がある。最後に会ったその時のまま、時を刻む事を停めた時計。そしてその日、そのうちの幾つかの時計の螺子が巻かれ、再び時刻が合わせられる。 時計が再び動き出す。 その瞬間が楽しみだ (2001/08/07) |