kassyoku 038 『あの時と似た状況』 湾岸戦争の時。破壊された施設から海に溢れた原油により、無数の海鳥が死んだ。全身べったりと原油に覆われ「何でこんな事になったの?」といった表情をした海鳥の映像が全世界に放映された。「イラク軍の破壊行為によって」という注釈付きで。 あの映像は、破壊された戦車の中で焼け焦げになったイラク兵の死体の映像より、ずっと衝撃的だったと思う。あの映像を見て無数の人が「鳥が可哀想」と思い、多くの人が「イラクは酷い事するなぁ」と呟いた。当時ワイドショーや週刊誌がその論調で、イラクに対する敵意をこれでもかと書き立てていたから、そうした報道がきっかけでイラクに反感を抱いた人も少なくは無かったと思う。 でも、その後。原油流出の原因となった施設の破壊が、実はアメリカ軍の攻撃によるものだった…という報道が流れ、やがて真相はうやむやの中へ。そしてそれっきり、それまで散々反感を煽っていた人々もどこかへ消えてしまった。 見ない事の方が難しいほど連日繰り返し流されていた、ビルに旅客機が激突する瞬間の映像。その映像がパッタリと茶の間から消えて一ヶ月が過ぎた。その間に報復の空爆が始まった。そして、空爆を受けた側はそれまで閉鎖的だった国内情勢に関する報道姿勢を一転し、空爆による民間人の犠牲者の報道については、国民の生の声まで積極的に公開するようになった。 そして今。どちらも世論を味方にしようと必死だ。メディアを通じて。 一方は相手を「世界の敵」と呼び、世界中の人々に対して報復への支持と協力を求めている。また一方は相手を「イスラムの敵」と呼び、イスラム教圏の全ての人々に対し聖戦を呼びかけている。 言い分はそれぞれだ。でも、メディアを通じてやろうとしている事は双方同じ。人々の怒りや同情、正義感や哀しみ…といった感情に訴えて、自分が戦っている相手に対する「敵意」を、その報道に接する人々の中にも芽生えさせようとしている。 今はあの時と似た状況かも知れない。 誰かが何かを狙って「撃った」情報が、今、そしてこれから僕達が触れる無数の情報の中には、相当数含まれてくるだろう。そして、再び現われてくるのかも知れない。あの時煽るだけ煽っておいて、伝えられた真実に肩をすくめて隠れてしまった…そんな人々も。 今が未知の状況であれ、過去から学べる事は無数にあると思う。 情報に翻弄されてばかを見る事は、できれば避けたい (2001/10/23) 『裡なる海の潮騒』 一日中ずうっと海にいた日の夜。 僕は既に布団の中で、眠りに就こうとしていた。 そうしてうとうとし始めた時、耳の奥底で響き始めた音があった。 それは潮騒だった。 日中ずっと聞き続けていた潮騒が、寝しなの耳の奥底で蘇っている。 鼓膜を震わせる事無く、頭の中に直接響く潮騒。それが海にいる時そのままのように鮮明に聞こえていた。半分夢の中でそれを聞いていた僕は、その音の臨場感につられ、揺らぐ海面の姿までをも瞼の裡に見ていた。 ふと、僕は自分の居場所を錯覚した。 自分がまだ海にいるような、そんな気がした。 でも、そこで僕の意識は目醒める。ぱっと開いた目には暗い室内が映り、その瞬間、響いていた波音も消え去った。 そうして僕は自分の居場所を取り戻し安心した。でも同時に、記憶の中の海辺にもう少し身を置いていたかった…そんな気もして、残念に思ったりしていた。 …裡なる、海。 大古の昔、海で育まれた全ての生命。やがて進化の過程で、海とは関係の無い、遥か内陸でも生活できるようになった。 でも、彼等は決して海から離れた訳ではなかった。そういった生き物達の体の殆どの部分を占める水。その組成は、大古の海のそれに非常に近いらしい。 こういう話が僕は好きだ。海中に棲もうが陸上に棲もうが、生命は皆、大古の海の傍で生きている。海が外側にあるのか、内側にあるのか。ただ、その違いだけで。 浜辺に打ち寄せられている貝殻。それを拾い耳にあてると、波の音が聞こえるという。 でもその音は、実は耳の血管を流れる血液の音が、耳と貝殻の空洞の中で反響して聞こえる音…だという話を、以前に聞いた事がある。 そう言われてみると情緒的でもなんでも無いな…と、その時の僕は思ったりした。でも、それが体内を巡る血液の音ならば、それはやはり波の音なのかも知れない。 寝しなに聞いた潮騒も、今はもう聞こえない。あれはただの音の残像。 でも、潮騒ならいつでも聞く事ができる。両耳を掌で塞いだ時に聞こえる、「ゴー」という微かな音。それもやはり、耳の中の血管を巡る血液の音なのだという。 それは大古から抱いてきた海の音。 裡なる海の潮騒を、その時僕達は聞いている。 …そう。浜辺の貝殻だけでは無いんだ。 潮騒をその身に、宿しているのは (2001/10/26) 『夢から醒める時』 土曜日の夜。窓際に置いてあったベットの位置を変えた。寝ていると外からの寒気が窓から浸透し、寝ている僕の上に降りてくる。それがとうとう、耐えられない寒さになったので。 窓と平行に置いていたベットを、窓に足を向ける形で垂直に向け、それから眠りにつく。電気を消して布団に潜り、眼を閉じる。 どれくらい経っただろうか。 しばらくして僕は、ベットの向きが変わっているのに、これまでと同じ方向を向いて寝ているような、そんな錯覚に陥った。可笑しな話だけど、今までどおり僕の左側すぐの所に窓があって…という、その向きで寝ている感覚に…だ。 何故かは判らないけれど、その時僕は、確かにそう感じていた。頭の中ではついさっき、ベットの向きを変えた事は判っている。僕が今現在、どちらを向いて横になっているのかも判っている。でも、思考とは別のところにあるらしい僕の方向感覚が、その事を否定していた。 眼を開けてしまえば結論はすぐに出される。でも、それにも関わらず僕は眼を閉ざし続けている。そうして少しの間、頭を混乱状態に置き続ける。その間、理性は感覚に訴え続けていた。 「今はこっちを向いて寝ているんだよ」 ただ、一度狂った方向感覚は意外と頑固で、なかなか理性の言う事を聞いてくれない。 僕は根負けして、ぱっと眼を開く。左側に窓は無い。そして、右側に、壁。 その瞬間、今まで狂っていた方向感覚が、嘘のようにリセットされた。 前の潮騒の話の時にも書いたけれど、そうした夢見心地の感覚からパッと醒めた時、もう少しその感覚の中に身を置いていたかったな、と思う事がある。 夢を見ている時もそうだ。時々夢の中で、僕の意識が目醒める事がある。これは上手く言えない感覚だけど、夢の中で意識が目醒めた時、普段は客観的にしか見る事ができない夢の中で、僕は比較的自由に行動する事ができる。 時には空だって、自由に飛べたりもする。 でもそのうち必ず「これは夢なんだ」と言い聞かせる声が聞こえてくる。 そしてその声に、僕は思わず眼を開いてしまう。 夢から醒める時。 それは多分、夢の中で理性が目醒めた時。 説明のつかない居場所に不安を感じた理性が、目醒めた時。 でも、夢は夢としてそのままに、もう少しその中で遊べたら…。 そう思う事が、時々ある (2001/11/4) 『成長の仕方』 少しだけ積もった雪が、昼間になってもまだ、日陰の部分に少しだけ残っている。そんな初冬の街中。歩いていると意外と多く出会ったのが、街路樹の枝払い作業だった。電線工事に使われるような高所作業車を路肩に停め、高く掲げられたアーム先端のバケットに乗り込んだ作業員が、街路樹の高い所の枝をチェンソーで切り落としている。 街路樹の葉は、もう殆どが散っている。枝払いにはこの時期がちょうど良いのだろうか。そんな事を考えながら、切り落とされた枝が脇に積み上げられた歩道を通り抜ける。 進む先には既に枝払いを終えた街路樹が並んでいた。 その木々を見ると、どの木の枝も驚くほど豪快に、ばっさりと切り落とされている。車道にはみ出した部分が、大きな枝の根元からばっさり。歩道にはみ出した部分もばっさり。街路樹が枝葉を広げる事を許されるスペースは、意外と狭いみたいだ。 その中の一本、他の木と比べて一際背が低い木に目が停まった。 良く見ると、何故かその木だけ、幹が中ほどで断ち切られていた。 その切られた部分の上に目を向ける。そこには一本の電線が走っていた。 成長を続けるこの木の梢が頭上を走る電線に触れる事を、街路樹を管理している誰かが恐れたのだろう。そうしてこの木は、電線の邪魔になる部分を幹ごと断ち切られた。 それにしても、どうして街路樹と電線がかち合ってしまうのだろう。 木が先にこの場所にあったのならば、電柱の位置を数メートルずらす事で、木と木の間を通して電線を張る事ができたはず。電線が先にあったとしても、木が成長する生き物だと知っている人なら、電線の真下に木を植えるような事はしないはず。 でも、どうしてそれができず、いまさら幹を切ったりしているのだろう。 幹を断ち切られた街路樹。 改めて見るとその木は、断ち切られた幹の根元や中ほどから、細長い枝を無数に伸ばしていた。周りの他の木々には、そのような低い位置から伸びている枝は無い。恐らくこの若い街路樹は、本当は伸びるために使われるはずだったエネルギーをそちらに廻す事で、必死に成長を続けようとしているのだろう。 幹を断たれる事で、確かにこの木は成長を止められた。 でも、この木は決して成長を諦めてはいない。 …そうだね。 高く伸びる事だけが成長ではない。 枝葉を大きく拡げる、そういう成長の仕方もある |