kassyoku 039



『袋越しに触れたもの』


 クリスマス前の街角。混雑した歩道を歩き、ある店の前に差し掛かる。硝子窓に白くスプレーされた、クリスマスの祝辞。大きなツリーも飾られている。

 ツリーの脇には、サンタさんが一人いた。そこの店員なのだろう。時折歩道に出て、人々にチラシか何かを配っている。でも、肩に担いだ大きな袋に片手を塞がれて、その仕事もやりにくそうだ。袋を担ぐため折り曲げた腕の肘にバスケットを下げ、反対側の手でそこから何かを取り出しては、道を過ぎ行く人々に手渡している。


 やがて一息ついて、サンタさんは店の軒先に戻った。
 でも、先程から子供が二人、休憩にはいったサンタさんに纏わりついて離れない。店の軒先には椅子が用意されていたけれど、サンタさんはそこに腰を降ろす暇もなく、子供達の相手をさせられていた。

 子供達はといえば、別にその衣装が気になったり、ヒゲが本物かと引っ張ってみたり…と、そういう事をしている訳ではない。ただ、サンタさんが担いでいる大きな袋。それがずっと気になっている様子だ。子供達はサンタさんの後ろに回り込み、しきりにその袋に手を伸ばす。その中に何が入っているのか。それを確かめたくて仕方ないのだ。


 最初は子供達から逃げ回っていたサンタさん。でも、子供達が諦めずに纏わりついてくるので、ついに根負けしたようだ。担いでいた袋を降ろし、片手にそれをぶら下げた。そうして、袋を子供達の好きなように触れさせた。袋越しに、子供達は中に入っているものを掴む。何かゴツゴツした箱のようなものが入っているようだ。

 ただ、サンタさんは決してその袋の口を開けなかった。
 やがて傍で見ていた母親がやってきて、子供達を連れて行く。
 子供達の相手をしてくれた、サンタさんに一礼を残して。


 子供達は袋越しに、一体何に触れたのだろう。
 中身は謎のままだけれど、子供達にとってはその袋の中。びっくりするようなものがいっぱい、詰まっていたのかも知れない。
 でも、こういう時。僕達の場合なら、きっと必要以上にその中身を確かめたくなってしまう。時にはそういう事もせず、袋のサイズだけでその価値を判断してしまう事もあるだろう。その時、中身に思いを馳せる事は無い。そこに想像力が入り込む余地は無い。


 「発砲スチロールでも詰めているのさ」
 …そう言ってしまう事は、よくあるけれど

(2001/12/25)




『愛を詠った歌』


 百人一首の歌の中。「愛」を詠った歌がこんなにも多いのに、それらの中に「愛」という言葉はひとつも出てこない。…何故だろう。学生の頃、百人一首の講義を受けている時、そう感じた事がある。

 「愛」という言葉自体が、当時は存在しなかったのだろうか。いや、「愛」という言葉は存在していたけれど、単に歌人達が用いなかっただけだろうか。
 愛を詠った歌。その中には「恋」や「思」、「乱」や「忍」といった言葉が無数に出てくる。「愛」が「愛」という言葉で表現できるほど生易しい言葉ではなかった…そういう事だろうか。それとも、「愛」という言葉の意味付けが、当時と今とでは全く違ったのだろうか。

 そんな事を、色々考えた。
 でも、とにかく。今の僕達は、平安鎌倉の歌人達が詠ったそれらの歌。
 それらを一括りにして「愛を詠った歌」と呼んでいる。


 愛という言葉は、袋のような言葉だと思う。
 あらゆる感情が、その袋には詰まっている。喜びもあれば悲しみもあり、恋しさもあれば憎しみ…も混ざって入っているかも知れない。
 そして、その袋に詰められているものは、それぞれの愛によって違う。詰められているものの、その量も違う。中身が何なのか、それ自体見えない事もある。

 でも、時々。僕達はその袋の方に目がいってしまう。
 中身よりも袋のサイズを気にしてしまう…そんな事もある。
 愛という言葉の前に、立ち停まる時。僕達は何でも入るその袋を前に、中に何を満たせばいいのか、何を満たして欲しいのか、その事が判らずにいる。


 百人一首の歌の中には、恋愛の歌以外にも、四季折々の風物…「自然」を詠ったものが多い。でもやはり、それらの歌のどれをとってみても、その中に「自然」という言葉は出てこない。
 現在の意味で「自然」という言葉が使われるようになったのは、最近の事らしい。昔の人々にとっては自然が余りにも身近なものだったので、それを一括りにして表す言葉は必要なかったのだという。身近に溢れる四季の風情。それをさらっ、と詠えば、それが自然を詠った歌になっていた。「自然」という言葉を用いる、その必要も無く。

 現在の意味の「自然」という言葉が産まれたのは、人々の身近からそれが失われてからの事だ。だから、わざわざそれを伝えるための言葉が必要になった。失われたそれを書き残すための言葉も、必要になった。

 もし、「愛」という言葉が同じ理由で産まれたのなら

(2001/12/26)




『冬の猫』


 夏頃、近所で茶虎の猫を見かけた。団地のごみ捨て場のすぐ傍だ。
 その時僕は立ち停まり、ちっち、と猫を呼んでみた。でも猫はその場で動きを止め、じっとこちらを見詰めたけれど、決して歩み寄っては来なかった。

 ああ、そういう猫なんだね。

 それからも度々出会ったけれど、それっきり僕はその猫に構うことはなかった。猫は僕に対し元々無関心。たまに互いの距離が近過ぎる時、猫の方が逃げてゆくだけだ。でも、こちらも猫に対し何かしよう、という気持ちは無かったので、猫と僕との関係は、街の見知らぬ通行人同士のような関係だった。

 ま、通行人というよりは、歩行者と車のような関係か。
 僕はそうでは無かったけれど、猫はこちらを常に警戒していたから。


 やがて雪の季節を迎え、雪上の足跡を見かける事はあったけれど、その後しばらく猫の姿は見ていなかった。
 そうして年の瀬を迎え、仕事納めを前に職場の忘年会が行われた。
 夜の空気が凍れつく中の、その帰り道。僕は、久しぶりにあの茶虎の猫に出会った。

 住んでいる団地の敷地の入り口に、例のごみ捨て場はある。猫はそこで餌を漁っていたらしい。生ゴミ収集日は翌朝だったけれど、ゴミは前夜からも捨てられている。で、餌漁りに熱中していたせいか、積もっている雪で僕の足音が小さかったせいか、猫と僕が互いに気付いた時の距離は、驚くほど近かった。過去最短の距離だ。
 僕は立ち停まって、その距離で猫と目を合わせながら、どうしようか…と思った。近づくにしろ離れるにしろ、一歩動けば逃げ出しそうな猫の姿勢。

 何か邪魔したようで悪いみたいだ。
 と、思っていると、猫が歩きだした。
 尻尾を立てて、こちらへトコトコと歩いて来る。

 ちょっと意外な行動だった。猫は僕の手が届く距離まで来て、足元を半周してから立ち停まると、僕を見上げて鳴いた。


 僕は猫に手を伸ばす。猫はその手を受け入れた。
 猫の体は、思ったよりも冷たかった。毛を掻き分けると温もりを感じるけれど、その表面のぺたっとした毛並みの温度は、外気とそんなに変わらない。腹や足の毛には雪の塊が、数珠の玉のように凍り付いてぶら下がっている。

 お前、いつも逃げてただろうが…。
 猫をゴロゴロ言わせながら、そう思う。
 でも、そうして少しだけ、猫のペースの時間を過ごした。

 お互い、冬はぬくもりが恋しい季節

(2001/12/29)




『今年の終わりに』


 帰省中の実家はもう寝静まっている。既に日付は大晦日。外は吹雪で、全道的に交通網は散々な状況。今夜帰省する予定だった姉も出発を見合わせた。帰るかどうかは明日の天候次第になっている。

 ここの文も、今年分を締めようと思っていたけれど、吹雪のためか瞬間的な停電が断続しており、なかなか実家のパソコンを起動できずにいた。強風の日は送電線同士が接触し、こういう事が割と起こる。

 ただ、今は少し、吹雪もおさまっている。


 今年は春先に転勤して、職場も住居も新しくなった。
 人口比、三百何十倍もの街の間の引越し。それに伴って、身の回りの様々な事も大変動した一年だった。常に新しい出来事の前にいた気分だ。


 これまでにも何度か、僕は自分が身を置く状況を変化させてきた。
 そして以前の僕は、自分自身の変化は、周囲が変化する事で得られるのだと思っていた。新しい出来事や世界に触れる度、自分自身の世界も拡がってゆくのだと。思えば、実家を出た時もそうだった。僕は僕自身を変えたくて、新しい環境に居場所を求めた。

 でも、今の僕の考えは、少し違ってきているかも知れない。
 環境がめまぐるしく変わったところで、触れられる世界は僅かだという事。
 自分が変わるためには自分が変化する、その必要があるという事。
 そして、そのために自分の外ばかり見るのでは無く、自分の内側に目を向ける…その必要もあるという事。

 これは、こうした文章をここに書き続けているうちに、仄かに感じ始めた事だ。
 変化し続ける世界に身を置きながら、僕は時々、それらの中に同じものばかりを見続けようとする。でも、そうである限り、周囲がどれほど変わったところで僕自身の見る世界は拡がらない。

 何と言えばいいんだろう。ただ、何となく。
 内面との対話を重ねるほどに、拡がる外の世界もあるのだと思う。


 思考を中断し、外へ出て一服。実家は禁煙だ。
 吹雪は止んでいた。星が二つ三つ、雲間から覗いている。明日は姉貴も帰ってこれそうだ。でも、相変わらず強い風が粉雪を巻き上げ、顔に吹き付ける。僕は早々に家の中へと引き返す。

 居間に戻る途中の玄関先に、姉貴が使っていた勉強机があった。鉢植えの台として再利用されているその机の上には、花の種が置かれていた。

 種は種類毎に封筒に小分けされ、菓子箱の蓋を器に並べ置かれている。
 整理された花の種が、そこではもう、次の春に備えている

(2001/12/30)


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