kassyoku 040 『海を見詰める墓石』 砂浜が続く海岸線の平坦な道を、右手に海を眺めながらひた走る。やがて、砂浜から短く突き出した岬が見えてくる。道路は岬の付け根で上り坂になる。その頂付近で車を右折させ、未舗装の脇道に入った。岬の突端へ向かう小道だ。でも、先端までは通じておらず、すぐに行き止まる。 僕はそこで車を停め、新雪の上に降りる。岬を含めた一帯がひとつの丘陵になっていて、ここがその最頂部だ。様々なものが見渡せる。岬の右側は小さな船着場になっていて、磯舟が何艘か陸揚げされている。そして、その周辺には小さな集落。昔は船着場を中心に漁師が多く住んでいたらしいけれど、今は近くに立派な漁港があるので、ここはもう漁の拠点ではない。 そんな景色を眺めながら、林の中。数人の足跡で踏み分けられた道を歩く。少し歩くと視界が開け、海原を見晴す場所に出る。林の中でここだけが拓かれ、広場になっている。ここは墓地だ。十柱程の古い墓石が疎らに立つだけの、海を望む小さな墓地。 殆どは、この辺りに昔住んでいた漁師の家の墓なのだろう。 誰かからそう聞いた訳では無いけれど、以前、そう思った事があった。 始めて足を踏み入れた時。僕は他の墓地には無い違和感を、この墓地に感じた。入り口から入って来る人に対して、墓石が皆背を向けていたからだ。 普通は、お参りに来た人を出迎えて、帰る人を見送る向きで、墓石は置かれているものだと思う。でも、ここの墓石は違った。正面では無く真後ろ。遥かに拡がる水平線を、墓石は見詰め続けていた。 僕はその時、こういう場所では、海を背景にして立つ姿が自然だと思っていた。もし、こうした場所に墓地を得て、自分や誰かの墓を建てるとするなら、きっと多くの人がその背景に海を置くと思った。海を背景に、多くの人が記念写真を撮るように。 でも、背後に海、というのは結構落ち着かないものだ…という事を思い出す。 釣り場でもそうだけど、海を背後に立ち続ける事に、僕は何となく恐怖にも似た抵抗を感じてしまう。漁師ならその気持ちはなおさらだと思う。海を背にした墓の中では、きっと背後の海が気になって仕方ない。それに、生活の場だった海に背を向けるより、こうして海と永遠に向き合う事を、彼等は望むだろう。 だから僕は、ここにある墓が漁師のものだと思った。 …で、僕が墓場で何をしていたか? 初日の出を見るには、穴場だと思ったので (2002/01/04) 『種』 時が傷を癒す事はない。時は癒しにかかるコストに過ぎない。 癒しは与えられるものではない。求めて得られるものでもない。 その傷を他人が癒す事はできない。癒せるという人を僕は信じない。 癒しは、自分の能力だ。 でも、他人の癒しの能力を高めてくれる人はいる。 そんな本当の癒し手は、一体、何処にいるんだろう? 心にはサイズなんて無い。 ただ、明かりを手に進んだ事がある明るい領域と、 あとは、それ以外の闇の領域が無限に広がっているだけ。 きっと、誰かが見ていてくれる。 そう思えるから、続けられる。 沈黙の中、僕達は駆け引きを続ける。 指先ひとつの動きにも意味を持たせようと。 そういう時、唾を飲み込む音にすら気を遣う。 その贈り物は、相手が本当に欲しいと願っているもの? それとも、あなたが相手に持たせたいもの? 人に優しさを与える事で、逆に自分の心が貧しくなってしまう、そんな事がある。 自分の心に借金してまで、相手に与える優しさ。己の限界を超えた、優しさ。 人に優しくするのなら、自分に充分な優しさがある時にする事だ。 人なんて、信じない。人なんて、信じられない。 そう言って、自分が人を信じない理由が、 他人の側にあるように思い込んでみる。 でも、結局、信じたい。信じない信じられない信じたい。 語るなら、自分自身の言葉で。 あなたは鏡ではないのだから。 最高のものは時々、夢という形であらわれる。 時には寝ている時の夢の中。時には、起きている最中の夢の中。 束縛のない、心地よさ。絆のない、寂しさ。 逃げ出したものと、求めたものは、多分、どちらも同じもの。 束縛と、絆。どちらかを求めようとすると、どちらかを避けようとすると、 結局、両方を失ってしまう。 意識的に、意識しない。 誰かといる事で覚えた、新しい「寂しさ」の感覚。 こんな思いをするなら、初めから一人の方が良かった。そう思わせる。 結局、この世界を生きて抜け出せる奴なんて、誰もいない。 ぐるぐると円軌道をえがいていた考えが、その軌道の中心に突き当たった。 それ以上突き詰められない、一点。それはひょっとして、真実だろうか。 何故、殺すの? 生かすより、簡単だから。 旅する心を忘れませんように。 でも、人生の全てが旅路の途中には、なりませんように。 去年の末頃、更新が滞っていた時期。 僕はこんな言葉を「メモ帳」に書き残していた (2002/01/06) 『1月のポインセチア』 通勤前にゴミを出そうと、団地の入り口のゴミ置き場へ。各家庭から出された様々なゴミで、ゴミ置き場は既に山になっていた。カラスが何羽か、近くの電線に集まっている。 今日は「燃えるゴミ」の日。この街では生ゴミも燃えるゴミとして、一緒にその日に出されている。ゴミの山に掛けられていたカラス避けの網を持ち上げ、自分のゴミを投げ込む。ゴミの山が目に入った。出されているゴミは全て半透明ゴミ袋に入れられているので、自分のゴミも含め、出されているゴミの中身が丸見えだ。 そして、それは生ゴミについても同じなので、袋の底に得体の知れない色の汁が溜まっていたり…と、そういう姿も目に入ってしまう。低い気温のお陰で悪臭はしないけれど、好んで見たくは無い光景。僕は努めてそこから目を逸らすようにしていた。 でも、ゴミを投げ込んだ後で網を掛け直している最中。 その中のひとつの袋の中身に、ふと目が停まった。 その袋の中には植物が入っていた。 鮮やかな緑色の葉と、真っ赤な花弁のような葉を持つ植物。それはクリスマスの花だった。その二色の葉が、一緒に詰められた他のゴミに押され、ぺたっ、と薄白色のビニール面に押し付けられていた。 店々では少し前まで、この花の鉢植えが大量に売られていた。特設の棚の上に並べられ、綺麗にラッピングされた姿で。店内や通りに面したウィンドウ内にも、この花は無数に飾られていた。 そして、多くの人がクリスマス期間中、この花を買い求めた。窓辺に飾って、室内にちょっとしたクリスマスの彩りを添えるために。または贈り物として、様々な想いを花に託し、誰かへと伝えるために。 売り物として、飾り付けとして。そして、贈り物として。 クリスマスという期間中、人々から己に課せられた様々な役目を、立派に務め上げてきた無数の鉢植え達。でも、役目を終えた彼等は今頃、一体どうしているのだろう。 クリスマス商戦を売れ残った花達は、一体どこへ消えたのだろう。すっかりクリスマス色が消え去った今、あの時無数に飾られていた花達は? 年末年始の帰省シーズン。長期間不在の家々も多かったかも知れない。そんな家に買われ、水も火の気も得られぬまま、冬の室内でその命を終えた…そんな花もあったのだろうか? 花の育て方を知らない相手に贈られた花の数は? 数日持てばいいからと、ただその年のクリスマスの「飾り付け」だけのために買われていった、花の数は…? 今でも元気で愛されて育っているなら、それでいい。 でも、ここにはその花が、確かに「生ゴミ」として捨てられている。 鉢から引き抜かれた、そのままの姿で。 1月のポインセチア。それが最も意味を持つ…そんな時期はとっくに過ぎてしまった。 今でもみんな、元気なのだろうか (2002/01/11) 『除雪徒然』 朝起きると少し雪が積もっていたので、車の雪降ろしに向かう。外へ出ると、朝の空気がしばれていた。「しばれる」は「凍れる」と書くらしいけれど、この、ぴしっと身を引き締めてくる朝の冷気の感覚。それはひょっとしたら「縛れる」と書く方が正しいのかも知れない。 団地の駐車場に並ぶ、車の列。積雪の量はそれほど多くは無かったけれど、夜中に敷地に入った除雪車が掻き分けていった雪が、車列の前に線になって積み上げられている。自分の車を見る。周りの車よりも少しだけ、その上に積もっている雪の量が多い。昨日も少し雪が降ったけれど、車に乗る用事もなかったので、雪降ろしをさぼっていたからだ。 この街に引っ越してからは、以前ほど車には乗らなくなった。通勤も徒歩だし、大抵の用事も近所で事足りる。この街には徒歩で行ける範囲に色々な店があり、当然、土曜日曜でも営業している。公共のバスや列車が数時間に一便、というような事も無い。 それを「楽になった」と言うべきか。どうなのだろう。 自分の足で歩く距離は、以前の車中心の生活よりも増えているけれど。 でもまぁ、除雪だけは確かに楽になった。以前は、自分の駐車スペースから最寄の道路まで十数メートルの距離を、自分の手で拓く必要があった。けれど、ここで必要な除雪の面積は、自分の駐車スペースだけ。そのスペースも殆ど車が占めているから、もう本当に「除雪=車の雪降ろし」になっている。 それはもう、比べ物にならないほど、楽。ただ、自分用に割り当てられた外のスペース。それが随分ちっちゃくなってしまったな、とも感じる。 除雪車が置いていった車の前の雪を除けてから、車の上の雪を降ろす。普段は隣同士の車の間隔が狭くて、その間に落とした雪を除けるのに結構苦労する。でも、今日は右隣の車が不在だったので、そちら側の空いたスペースに全ての雪を落とす。そうして山になった雪を一気に「スノーダンプ」でさらってゆく。 そうして自分のスペースの除雪はお終い。 さ、戻ろう。 …と思ったけれど、そこで隣の駐車スペースに積もった雪が気になった。数日不在のようで、その不在間に積もった雪が、もう15センチほどの厚さになっている。そうして、僕が今除雪した所と明確な段差ができてしまっている。 そこがちょっと気になった。こういう時は、どうすればいいのだろう。自分のスペースだけをやっておけばいいのか。それとも、隣の雪も一緒に片付けてやるべきなのか。車が隣同士とはいえ、その持ち主と顔を会わせる機会は滅多に無い。そういう相手なので、ちょっと迷った。 そういう所で立ち停まった時、自分がどうするべきかは判っている。どうせ大した労力では無いのだから、隣の雪も一緒に片付けてしまえばいい。 でも、どうするべきかは判っていても、僕にはここでのそうした時の慣習がよく判らなかった。慣習、というか、相手がそれをどう受け止めるか、その事がよく判らなかった。 自分に与えられたスペース「だけ」をきちっと片付け、隣は隣に任せる。それはそれでいいと思うけれど、何となく後ろめたいような気もする。かといって、あまり綺麗に隣の分まで除雪してしまうのは、どうなのだろう。何にしろ、お互いに相手の事をよく知らないのだ。ろくに知りもしない相手にそうされてしまうのは、どんな気分がするものだろう。 まぁ、いいや。 まず、隣の駐車スペースの前の、除雪車が積んでいった雪を除けた。それから、隣の駐車スペースの除雪にとりかかった。でも、あまり綺麗にはやらない。雪の上にさりげなさの痕跡が残るように、ささっ、と片付ける。そうして、少しだけ雪を残して、隣の除雪を終えた。何だかんだ言って、結構、綺麗に片付けてしまった。あまり変な気遣いをさせなければいいけれど。 でも、どのみち互いの領域を示す駐車ラインは、ツルハシを用いないと割れないような、固く凍てついた雪の下に埋もれて、見えなくなってしまっている。 どこまでが「自分の領域」か…なんて、どうせこの季節には判りっこないのだ (2002/01/20) |