kassyoku 042



『新しい癒し』


 木々が傷口を洞や瘤に変えながら成長するように、全ての生命は自分で自分を癒しながら成長する。癒しは自分の能力だ。それは誰かから与えられるものでも、誰かに求めて得られるものでもない。生けるもの全てに生来備わっている、不具合から立ち直るための能力だ。

 でも、最近はその「癒し」という言葉の意味が、それとは違った意味を帯びていると思う。自己に内在する能力であるはずの「癒し」が、いつの間にか自分の外に求められるものになり、外から与えられるものになっている…そう感じる事がある。

 「癒し」という言葉が、自分の能力を指す言葉では無くなったのは、いつ頃からだろう。「癒されたい」と、癒しを切に求める無数の人々がいる。そうして求められる癒しの方も、様々な具体的な「カタチ」を伴って、身の回りに溢れている。
 物だけではない。「誰かを癒したい」と望んでいる人も多いし、その中には「癒せます」と言い切る人までいたりする。そして、そうした物や人に、実際に「癒される」と言っている人も多い。


 自分の能力としての「癒し」と、外から得られるものとしての「癒し」。前者の従来の意味での癒しの他に、確かに別の、新しい意味付けの癒しがある。
 最近出会う事が多くなった「癒し系」や「癒しグッズ」といった言葉。それらに使われている「癒し」もそうだ。
 そして、その新しい「癒し」という言葉に触れる時。
 僕は時々、その言葉の前で立ち停まってしまう事がある。


 そういう「癒し」って、何なんだろう。
 少し考えてみた。

 例えそれが医者であっても、「誰かを癒せる」という人を、僕は信じない。
 人以外でもそうだ。「病気を治す薬」というのも、僕は信じない。僕が信じるのは、病や傷を正確に診断し、適切な処方をしてくれて、その上で安静を勧めたり相談にのってくれたりする「医者」や、症状を緩和してくれる「薬」だ。

 それは、自身の持つ癒しの能力を高め、回復の手助けをしてくれる存在。
 そういう意味での「誰かを癒せる」人や物の存在なら、僕は信じられる。

 そして何よりも、僕は自分自身の癒しの能力を信じている。
 いくら治療を施されたところで、僕自身に癒しの能力が無ければ、僕に癒しが訪れる事はない。言葉上の意味付けに過ぎないけれど、僕にとっての癒しとはそういうものだ。癒されるべきその人の裡に、癒しは存在している。


 でも、「何かに癒されたい」と言ってしまう時。
 その人は一体、自分以外の何に「癒されたい」と言っているのだろう。

 心和むメロディーに、癒される。
 物言わぬぬいぐるみに、癒される。
 やさしい言葉に、癒される。

 …それは「やさしさ」なのかな。それとも「あたたかさ」なのかな。
 そんな事を思う。でも、微妙に違うような気もする。
 よく癒し系と呼ばれている、人や動物を模したキャラクター達。それらを可能な限りの数、頭に思い浮かべてみた。
 でも、その姿から「やさしさ」や「あたたかさ」を感じることは、僕にはできなかった。大抵は喜怒哀楽が判らない無表情なキャラクターだったし、時にはもの言う口すらつけられていなかったので、気持ちを伝える言葉や鳴き声さえ、イメージできないものも多かった。


 感情も持たず、それを訴える手段も持たない、そうしたキャラクター達。
 それが「癒し系」と呼ばれ、「癒しグッズ」として人気を博している。
 何故だろう。何故、そうした心を持たない相手にまで、人は癒されてしまうのだろう。

 …ひょっとしたら、それは「傷つかないため」の癒しなのかも知れない。
 やさしさもあたたかさも、それは人を傷つけない。
 表情も持たず、何も言わないキャラクター達。
 心が無いそんなモノ達に、人が傷つけられることはない。

 それに接することで、傷つけられる可能性がないもの。
 もしかしたら、そういったものが「癒し系」や「癒しグッズ」と呼ばれているモノ達…なのかも知れない。


 何かに癒されたい、と、つい漏らしてしまうような、そんな時。人は、傷つきそうな自分の心に堪えられず、傷つきやすい自分の心に堪えられず、そして、傷つくことへの予感に堪えられず、そうした「癒し」を求めてしまっているのかも知れない。

 傷つかないために施される、新しい「癒し」。
 それは、傷つくことへの「予防」だ。

 傷つくことに、全てが敏感な時代。
 癒しはとうとう、傷を負う前に求められるようになってしまったのかも知れない

(2002/02/05)




『人との係わりを終える時』


 真昼間に掛かってきた電話。出てみるとセールス電話だった。当社は何とかというキャンペーンを実施中で、それにあなたが選ばれました。大変お得に商品が購入できるチャンスなので、是非一度お越し願えないでしょうか。というものだった。

 部屋の電話番号は、電話帳に掲載されている。そのためだろうか。こうした業者からの電話がけっこう頻繁に掛かってくる。勧められるのは宝石や通信講座、最近多くなってきた投資の話など、様々だ。
 で、今回電話を掛けてきた業者が扱っているのは、電化製品だという。20代独身男性を対象としたキャンペーンで、その数多くの対象者の中から、特別に僕が選ばれて…しまったらしい。

 それにしても。どうしてこちらが20代独身男性だという事を、相手は知っているのだろう。ちょっと気になったので訊いてみると、少し戸惑った様子。でも「私共の間では年代ですとか既婚、未婚ですとか、そういった内容が掲載されたリストが流通しておりまして、今回はそちらを参考にお電話致しております」…と、答えてくれた。律儀な方。
 でも、勧誘の方はうるさかった。最初の「お越し願えませんでしょうか」に「結構です」と答えても、理由を訊ねながら食い下がってくる。それでもなお断り続けていると、「商品の購入は結構ですから、是非足だけでも運んでいただけないでしょうか」と。

 こういう勧誘を受けて、電話の女性の声に釣られてノコノコ出掛けていくと、現地で厳ついお兄さん連中に取り囲まれてボコボコにされて、変な契約書に無理矢理署名させられた挙句、身包み剥がされて街角のゴミステーションに放り出される…、という事を、僕は知っている。なので、断る。もうすっかり煩わしくなっていたので、強い口調で「結構です。必要ないので…」と。

 でも、その言葉を最後まで言い切らない内に。

 「ガチャ」

 そこで電話を切られてしまった。


 ツーツーと鳴る受話器を置いて、一息つく。
 ガチャ切り。無作為に掛かってくるセールス電話の中には、相手が話しに乗ってこないと判った途端、こういう切り方をするところがたまにある。
 僕にとっても今回、これが初めての事ではない。またか、という感じだ。徐々に、こうした事に鈍感になってきてるような気がする。

 でも、どうだろう。ガチャ切り。その後で相手の中にどんな感情を残すのか、それに眼を向ける事無く、途中で断ち切ってしまう、こうした終わり方。
 幾ら顔を合わせる事が無いとはいえ、一度っきりの電話だけでのやり取りとはいえ、もう少しマシな終わり方はないのだろうか。

 電話の彼女は、次に掛けた相手に対しても、断られる度にガチャ切りを繰り返すのだろうか。それは彼女が編み出した、短時間でより多くの相手に電話を掛けるためのテクニックなのだろうか。そうするように、と教わっていただけなのだろうか。
 ガチャ切りの後で、彼女自身は何かを感じているだろうか。もうすっかり慣れてしまって、そうした事にも無感情でいられるほど、心が遠くなってしまっているのだろうか。それとも、そうした感情に煩わされないように努めている、それだけなのだろうか。

 …などと、そんな事を思っていた。


 初めて出会う人に対して、僕達は第一印象を良くしようと努める。
 出会いのその後の経過も、できるだけ良くしようと努める。
 でも、途中で上手く行かなくなったりして、やがて別れが訪れた時。もう二度と会わない相手に対しては、僕達は意外と冷たいのかも知れない。相手の中にどんな感情を残したままか、自分の中にどんな感情が残ったままか、それに眼を向ける事無く、そのまま眼を閉ざしてしまうことも多い。

 そして大抵、その時に残した感情は、後々になっても残ったまま。忘れたつもりでいても、断ち切ったつもりでいても、そうして残された感情は、後悔や次の別れの際の新たな失敗、という形となって、再び自分の前に立ち現われてくる。

 人との係わりが始まる時。係わりが続いている時。そして、係わりを終える時。
 もう少し、人との係わりを終える時の感情に、眼を向けたいと思った。
 出会いとその後の過程に感謝して「ありがとう」。もう二度と会わない相手のこれからが、善いものでありますようにと願って「おげんきで」。そう思えてそれくらい言えれば、それだけで充分だ。

 勿論、どちらか一方だけではなく、お互いに。
 ガチャ切りの彼女も、もし、電話を切る前に「お時間とらせて失礼しました」とでも言ってくれたなら、こちらからも「おつかれさま」で終わる事もできていた。

 たったそれだけでも、充分だったのに。
 でも、ああいった電話をしている時の彼女。
 そういう締め括り方には、あまり慣れていないのかも知れない。

 ガチャ切りで終わるよりは、そちらの方がよっぽどいいと思うけれど。
 それは簡単なようで、意外と難しい事なのかも知れない




『警戒心』


 町内会の回覧で「マルチまがい商法」に対する注意喚起のパンフレットが回ってきた。住んでいる所が一棟に何十戸も入居しているアパート群が建ち並ぶ場所なので、そういう勧誘が結構頻繁にやって来ているらしい。
 ただ僕の場合、日中は仕事で常に不在しているので、ここでそういう勧誘に出会った事は無かった。さっさと次に回してしまおうと確認欄にハンコを押す。でも、そうしてからふと興味をひかれ、ついその中身にじっくりと目を通していた。

 パンフレットには「これがマルチまがい商法の仕組み」という、トーナメント表のような図式が描かれていた。頂点に元締めがいて、その下に複数の「総代理店」という人がいる。そして、その下にその何倍かの数の「代理店」の人々がぶら下がっている。「代理店」の下には更に数が倍増した「特約店」と呼ばれる人々。これが末端の販売員の事らしい。上から下まで四段階のピラミッド構造だ。
 このピラミッドの段階が決まっているかどうかで、法律で禁じられている「マルチ商法」と「マルチまがい商法」は区別されているのだという。
 ピラミッドに底辺が無く、段階が無限に続く場合、それは「マルチ商法」となって法律で罰せられる。でも、ピラミッドを数段階の小さなものにして、それを元締めが無数に持つ場合は、罰則の対象外になるようだ。

 …でも、その違いがややこしくてよく判らない。
 法律がどうこういう話も、難しくてよく判らない。

 ただ、何となくそうした商法の仕組みに、僕はある種の匂いを感じていた。
 例えば「〜店」という呼称。元締め以下の個人を「会員」や「社員」とせずに、個人が事業主の「〜店」とする事には、どういう意味があるのだろう。

 その事を少し考えてみたけれど、あまり好意的な結論は出てこなかった。

 この図式に表された組織の場合、通常なら「会員」や「社員」であるはずの個人が全て「〜店」で、それ自身が事業主になってしまっている。穿った見方かも知れないけれど、そういう手法をみると、元締めは末端に対して何ら責任を負うつもりが無い…そういう意図があるように思えてしまう。

 代理店から上は、末端の「特約店」に商品を卸すだけの立場でしかない。商品の品質に関しては元締めも責を負うのだろうけれど、こうした商法でよく問題になっているのは、商品そのものよりも、その販売方法だ。
 でも、末端で商品がどのような手法で販売されていようと、それは「特約店」が独自にしている事。元締めがそれに関して責を負う必要は無い。

 そうしてこの組織では、責任の所在が、階層の上に行くほど薄くなってしまう。
 それにも関わらず、利益だけは階層の上に行くほど、多く集まる仕組みになっている。
 そしてそれが、いざという時には末端を切り捨てやすいようにつくられている…そんな組織のような気もした。企業が社員に対して持っているような雇用責任のようなものも、経営者以下が全て「事業主」になっているこうした組織の場合には、多分存在しないだろう。
 両者の間に存在するのは、無数の「代理店契約」だけだ。それは、解雇するにも経営者が責任を負わなければならない「雇用関係」とは、確実に違う。


 …って、何だろう。この警戒心。
 そこまで考えて、少し可笑しくなった。
 全てがそうではないだろう、という事は判っている。
 そこにやりがいを見つけ、そこに全力を尽くしている…そう言っている人が多数いる事も、僕は知っている。

 けれども。

 抱きかけた感情をそこで呑み込んで、僕は上の階へ回覧版を渡しに行く。
 こういう感情は、僕にとってあまりプラスにはならないような気がした。

 考える事は、大事だけれど

(2002/02/18)




『ひとつの命があるために』


 「マルチ商法」と「マルチまがい商法」を説明しているパンフレットに描かれていたピラミッドのような図式を見ていた時、ふとある事を思い出していた。

 今月上旬、祖母が他界した。
 その葬儀の席での、坊さんの説話。

 『…今を生きているあなた、その一人の命が産まれてくるためには、お父さんとお母さん、二人の命が必要でした。そして、お父さんとお母さん、その二人の命が産まれてくるためには、それぞれのお爺ちゃんとお婆ちゃん、四人の命が必要でした。

 四人の命が産まれるために必要なのは、八人の命。
 八人の命が産まれるためには、十六人。
 十六人の命が産まれるためには…

 …今を生きている命はたったひとつでも、その命はかつて他の無数の命があったからこそ、成り立っていられるものなのです。今話したご先祖様の命の他にも、私たちは無数の命を頂きながら、生きています。

 例えば、食べ物。
 米の一粒には、ひとつの命。
 魚の一切れにも、ひとつの命。

 食事を頂く前に「いただきます」と手を合わせる理由を、ご存知ですか…』


 「マルチ商法ピラミッド」もそうだけれど、そのような「ピラミッド」や「トーナメント表」のような図式で説明される組織や系図を見る時、僕は何となく、その頂点にいるものが「親」だと思ってしまう。「マルチ商法ピラミッド」の場合は、「元締め」がその頂点にいる。「元締め」は時に「親」とも呼ばれる。そして、その下には「子」。更にその下に「孫」が連なる。その数を倍増させながら。
 ピラミッドの頂点に、親。これは他の場合もそうだ。親たる社長は頂点に立ち、子である社員を抱えている。犯罪組織の親分はその下に子分を抱えている。親会社は子会社を抱え、子会社は更に孫会社を持つ。
 そういう系統を図で表す時、僕は自然と親を頂点に置いたピラミッドを描く。国民年金のパンフレットも、そうだったかも知れない。確か、頂点の親を、無数の子や孫が支えている図式だった。


 僕はそうした「親」を頂点にもつピラミッド形に、慣れ親しんでいる。
 一段下がる毎にその数を倍増させる「子」に、そうしたピラミッドは常に支えられているように思う。

 そんな「子が支えるピラミッド形」に、先の坊さんの話を当て嵌めてみた。
 今度その頂点に置かれるのは、「親」ではない。「自分」だ。自分を頂点に、その下に二人の親をぶら下げる。そして、その下には四人の親。更にその下には八人の親…。
 そうして、一段下がる毎に、倍増する「親」が延々と底辺を重ねてゆくピラミッドをイメージしてみた。頭の中で親の数を計算してゆく。すると、十段目で底辺の親の数は512人に達した。もう暗算では厳しい数字だ。

 でも、それ以上の計算をする必要は無かった。中学校の数学教材の「豆知識」に、『初日に一円、次の日に二円、その次の日には四円…と、前の日の倍の金額を貯金してゆくと、一ヶ月で一億円以上になる』…という話が載っていた。計算が面倒なので、その豆知識の数字を採用すると、そのピラミッドも三十段目くらいには、底辺の人数が一億以上に達する事になる。
 三十段、という事は、三十世代。一世代をまぁ大体で三十年とすると、九百年ほど自分の系統を遡った時点で、親の数は一億人以上になる訳だ。九百年ほど前、というと、平安か鎌倉時代だろう。有史以前の話ではない。由緒正しい家系なら、充分遡ることも可能な年代だろう。

 今を生きる「ひとりの命」のために必要だった親の数。
 九百年前のその時点だけで、おおよそ「100,000,000人」。
 でも、これはピラミッドの底辺だけの数字だから、そのピラミッドの中に含まれる全ての親の数は、その倍以上になるはず。あと十世代ほど遡ると、この数字は一体、どれほどの数に膨れ上がるのだろう?


 このピラミッドも、底辺が無限に広がる訳ではないから、遡って遡って、人類の根源に近付くにつれて、やがて底辺は収束してゆくのだろう。結局はある一点を境に、それまでとは逆のピラミッド形を描きながら、一人の親に辿り着くのかも知れない。

 でも、その「人類の親」の対極にある頂点に「今の自分」がいる事。
 その始まりから今の自分まで、その間のピラミッド形の中にいる全ての親が、今を生きる自分ひとりのために必要だった事。そして、その中の誰一人欠けても、今の自分は存在し得なかった…という事。

 それだけは、真実だ。


 ひとつの命があるために、必要だった親の命の数。それだけの親の命と、今の自分の命を維持するために、必要とされた他の命の数。それは、思わず逃げたくなるほど大きな、重たい数字だ。

 でも、その数字は、今を生きるひとつの命が背負っている命の数ではない。
 今を生きるひとつの命を支えている、そんな命の数なんだと思う。

 『今を生きている命はたったひとつでも、その命はかつて他の無数の命があったからこそ、成り立っていられるものなのです』

 ピラミッドの頂点に、僕は自分自身を置いてみる。
 そうして、今の自分自身を支えているものに、思いを馳せてみる。

 ありがとう

(2002/02/20)




『つま先で感じる季節』


 今月は積雪らしい積雪も無く、いい陽気が続いていた。車道の雪もすっかり消えて、路肩の雪の嵩も随分と低くなってきている。
 今日もいい陽気だった。先週の土曜から日曜にかけて、久しぶりに除雪が必要な程の雪が降ったけれど、その雪も余り長く留まってはいられないみたいだ。
 上着が必要ないほど暖かかった、日中の街中。その幹線道路沿いを歩く。歩道の上は、融けて水混じりになったザクザクの雪に覆われていた。一歩を踏み出すと、靴がくるぶしの辺りの深さまで、その固体とも液体ともつかないザクザクの雪の中に沈みこむ。

 そんな路上を歩いている時、靴の中のつま先に湿り気を感じた。歩き続けているうち、次第にその湿り気の感覚が靴の中を拡がってゆく。
 何年か履いていた冬靴。つま先が少し傷んできているようだ。融けかかった水混じりの雪の上を歩いて、その事に始めて気付いた。今冬、積もった雪の中を歩いている時でも、この靴の中が濡れる事はなかった。という事は、雪は侵入できないけれど、水なら染み込んでくる…この靴のつま先に、そんな微細な傷が開いてしまっている、という事だ。

 水が浸透し、濡れるつま先に不快感を感じながら、季節が変わり目を迎えつつある事を感じていた。ああ、もうこの靴の季節ではなくなるんだな…と。
 水が雪や氷といった固体でしか存在しない時期なら、靴に水も染み込んで来ず、何も問題は無かった。
 でも、これから本格的な雪融けの季節を迎えると、こうしたザクザクの水混じりの雪と、ややしばらく付き合わなければならない。
 そうした路面を歩く度、つま先に不快感を感じる事には堪えられない。
 そろそろ靴替えを検討してみようか…と、そんな事を思っていた。


 自分自身の些細な変化に気付く事で、はじめて身の回りの環境の変化に気付かされる、そんな事がある。逆に、身の回りの環境が変化する事で、はじめて自分自身の些細な変化に気付かされる、そんな事もある。

 そういう事が、この季節の変わり目。
 僕の場合はつま先レベルで起こっていた。


 つま先にまず訪れた、今年の春

(2002/02/25)


<< 041  2002_index.  043 >>
kassyoku index.   kaeka index.