kassyoku 043



『脈動する屍』


 仕事からの帰り際。歩いていると、歩道と車道の間の路側帯に、横たわっている一匹の猫を見つけた。顔見知りではない三毛猫。四肢を冷たいアスファルトの上に投げ出した姿勢で、瞳を閉ざし、人が「ちいっ」とやる時のように歪んだ口元から、白い牙を覗かせている。事故に遭ったばかりなのだろう。毛並みが綺麗なままだ。轢かれたタイヤの跡も、その体には無い。轢かれたのではなく、跳ね飛ばされたようだ。

 死体は車道の上ではなく、歩道の縁石のすぐ脇に横たわっている。この位置なら、死体を更に轢いてゆく車もないだろう。そう思って、死体は動かさずに、そのままにしておく。
 午後八時。人目に触れる事も少なくなる時間。翌朝、人々が見つけた時には、死体はカラスに食い荒らされているかも知れない。その後は多分、前の家の住人か誰かがしかるべき所に連絡を入れ、誰かの手によって片付けられる。ひょっとして飼い猫だったら、飼い主が見つけて引き取ってゆくのかも知れない。

 とにかく、街中では、こうした死体は一日も経たずに消え去ってしまう。朝の死体も、夕方までには綺麗さっぱり、痕跡も残さずに消えている。街中に死体は相応しくない。すぐに誰かがやってきて、死体を袋に詰めて、車で運んでゆく。

 でも、その後死体はどうなるのだろう。埋められるのか、焼却されるのか。
 ゴミとして処分されるのか、手厚く葬られるのか。
 大体の想像はできるけれど、実際に見た事は無いので、よく判らない。


 人々の生活空間の中ではこうして抹消されてゆく、動物の死の、その後の姿。
 死体がどのような過程を経て、土へと還ってゆくのか。それを、つぶさに観察し続けた事がある。子供の頃の話だ。

 通学路の途中。やはり歩道を歩いている時に、路肩の法面の茂みの中まで跳ね飛ばされた、新しい狐の死体を見つけた事があった。それからしばらく、通学の途中にその狐の死体を観察する事が、僕と当時の仲間達の日課になった。
 僕達は死体を恐れつつも興味津々で、棒で突っ付いてみたり、どれだけ近付けるか試した後で、飛び立つ蝿に驚かされて「わっ」と逃げたりと、そういう事ばかりしていた。

 朝に見る狐の死体は、毛並みが露に濡れていた。それが夕方になると再び乾いて、ふかふかの毛並みに戻る。そのような繰り返しで、狐の死体は数日間、変わらない姿で茂みの中に横たわっていた。
 やがて全体的に黒ずんできて、眼球の部分が窪みはじめた。毛皮は剥製のようにぺったりとし、長い尻尾も風に揺れなくなる。実際に触れた訳では無かったけれど、日を追う毎に、死体がそうして徐々に「固く」なってゆくことがわかった。

 それでも、狐の死体はしばらく原形を留め続けていた。
 でも、どれくらい経ってからだろう。ある日、死体を改めて観察していた僕達は、見た目カチカチになっていた死体に訪れたある異常な変化に気付いた。

 前日に見た時と、外見上は何の変化もなかった。
 でも、良く見ると、ゴワゴワの毛並みに覆われたその皮膚全体が、まるで死体が小刻みな呼吸を繰り返しているように、ピクピクと細かく脈打っていた。


 野ざらしの狐の屍が、脈動している。

 それを見て僕達は死ぬほど驚いた。
 一瞬、この狐が息を吹き返したのかと思ったから。
 でも、一度死んだものが生き返るはずはない。しばらく観察しているうちに、死体を脈動させているものの正体が、死体の皮下に宿った無数の新しい命だという事に、僕達は気付いた。


 そして、それから死体が土に還るまでの変化は、一瞬だった。
 死体を糧に育った命が、何時、どの瞬間にそこから旅立っていったのか。それを僕達は見逃した。羽化して夜中に飛び立って行ったのか、それとも土の中へ潜っていったのか、そこら辺は良く判らない。ただ、彼らはほんの一晩のうちに、一斉にその場から姿を消していた。

 そうして、屍の脈動が収まった後。
 皮下の無数の命が旅立って行った後。

 残された死体は、乾いた白骨に疎らに毛皮を残しただけの、ただのカスカスの存在に変わっていた。


 生き物は、最初に宿った命を送り出した後で死体になる。
 そうして、死体に宿った二度目の命を送り出した後で、抜け殻になる。

 そういう事を、僕はその時に知った。

 路上の猫の死体は、この後どうなるのだろう

(2002/03/16)




『三日月』


 夕方に空を見上げたら、まだ明るさを残す夜空の高い所に、月が輝いていた。右下に弧を描いている、細い月。それを見ながら歩く。月が変わらぬ位置で追いかけてくる。建物や電柱、街路樹といった街の景色が、次々とその前を過ってゆく。

  あれは、これから満ちてゆく月ですか?
  それとも、これから欠けてゆく月ですか?

 細い月を見上げながら、僕は自分に問い掛ける。そうして、自分自身でその問い掛けに答える。大丈夫。ちゃんと判っているよ。あれは、これから満ちてゆく月だ。月は右側から満ちて、右側から欠けてゆく。だから、今出ている月は、右側から満ち始めたばかりの月だ。これから欠けてゆく月では無い。

 そう。これは「三日月」。新月から数えて、三日目前後の月だ。
 まだ、大丈夫。ちゃんと判っているよ。


 昔は月の満ち欠けを基準に暦が作られていたくらいだから、月の満ち欠けや動きの中にも、ちゃんとした周期がある。ほぼ30日のサイクルの中で、月は満ち欠けを繰り返す。そして、どのような形の月がどの時間に昇り、どの時間に沈むのかも、そのサイクルの中では大体決まっている。
 ただ、今の僕達は、そういう「月の周期」には、余り目を向けない。少なくとも、太陽の周期ほどには。
 暦が月を基準にするものから太陽を基準にするものに変わってから、そういうものに関心を持たなくなったのか。それとも、夜空を見上げる事。星や月の動きと、自分自身をとりまく現実の時間との繋がりを知る事に、興味を無くしてしまったのか。

 どちらにしても、今の僕達が生活を続けてゆく上で、月の周期を知る事なんて、余り役には立たない事。学校でもこういう事については教わらなかった。天文に興味があるなら知っていてもいいけれど、そうでないなら、特に知っておく必要もない事だ。
 それでも僕は時々、自分に対してそういう問い掛けをする。そうして、それにきちんと答えられた時、その事にちょっとだけ安心する。

 街中に住んでいると、時々そうした感覚を忘れそうになるんだ。
 感覚というか、そういう身近なものに対する「繋がり」のようなものを。


 月に関する質問。


 沈む太陽と入れ替わるように昇ってくる月は、どんな形をしていますか?
 明日の同じ時間に見上げる月は、今日の月の前後、どちらにいますか?
 真昼間の空の一番高い所にぼうっと燈る満月は、見る事ができますか?
 新月を見た事がありますか?

 その場所から月が昇る方角を、指さす事ができますか?

(2002/03/18)




『言葉豊かな闇夜に』


 彼らは世界に語りかける事で、世界を見ている。
 彼らの言葉は、世の中のあらゆるものに語りかけるための言葉。
 そしてその言葉で、彼らは世の中のあらゆるものに、その居場所を訊ねる。

 そこにいたら返事をして。
 あなたはどこにいるの?

 そんな彼らの問いかけには、世の中のあらゆるものが、答えを返さずにいられない。夜の木立が「ここだよ」と、洞窟の岩肌が「ここにいるからぶつからないで」と、彼らの問いかけに答えている。闇を紛れ飛ぶ羽虫までが、ついつい「ここにいるよ」と、彼らに答えてしまう。そうして、彼らの耳にその姿を曝してしまう。彼らの食事にされるとも知らずに。


 僕達もまた、彼らに言葉を返す存在。彼らに居場所を問われた僕達も、彼らに言葉を返している。でも、彼らが僕達に向けた言葉も、僕達自身が彼らに返している言葉も、当の僕達本人には聞こえていない。

 僕達は豊かな言葉を持っている。その中に無数の意味を収め、仲間に語りかけるための複雑な言葉を。でも、彼らのような「あらゆるものに語りかけるための言葉」を、僕達は持ち合わせていない。そして、自分達に返ってくる「あらゆるものからの語りかけの言葉」を聞くための耳も、僕達は持ち合わせていない。


 彼らの世界では、言葉が世の中を照らし、耳が彼らに世の中を見させている。
 そんな彼らにとって、「光」はあまり重要なものではない。世の中のあらゆるものに居場所を問えば、彼らの問いかけを聞いたあらゆるものが、自ずから彼らに、自分達の居場所を知らしめてくれるのだから。

 だからあんなにも自由に、彼らは夜を羽ばたく事ができる。月の光も無い闇の中でも、その居場所を見失う事なく。僕達は光の中に生き、語りかけるための言葉も、言葉を聞くための耳も持っている。でも、僕達は時々、その光の中ですら自分の居場所を見失ってしまう。

 何だろう。彼らにはあって、僕達には無いもの。


 彼らは闇夜に飛び立つ。
 あらゆるものに語りかけるための言葉を、口にしながら。
 あらゆるものから返されてくる言葉を、耳にしながら。

 そうして、彼らは闇夜に生きる。

 僕達には沈黙に支配されているとしか思えない、言葉豊かな闇夜に




『雪融けの公園で』


 住宅街の中にある公園。一ヶ月ほど前に通った時は、雪ですっぽりと覆われていた。ブランコは垂らした鎖を雪の中に沈め、鉄棒はハードルのようになって、雪の上にちょっとだけ顔を覗かせていた。五段のジャングルジムは二、三段になり、シーソーなんて雪に埋もれて、その姿も無かったっけ。
 そうして、遊具たちは雪の中で休息していた。近所の雪捨て場にされていた公園の中。子供達の足跡は、除雪で積み上げられた雪山の周りにばかり集まっていた。無数のソリの軌跡と共に。
 でも、そんな遊具達の冬休みも、そろそろ終わりに近付いている。
 今の積雪はもう、僕の膝下の高さほどまで減っている。滑り台や鉄棒やブランコの支柱の周り、公園の木々の周りから、円を描くように雪融けがどんどん進んでいる。

 所々では地面や芝が顔を覗かせていた。芝が覗いている所を見ると、雪の中から現われたばかりの名も知らぬ草が、もう青さを見せている。青さを保ったまま、雪の中で春を待ち続けていたのか。それとも、雪融けを見越して、雪の中で芽吹いたものなのか。それは判らない。
 でも、どちらにしろ、こうした草々。何ヶ月もの長い時間を暗く冷たい雪の下で過ごしながら、その冬の後に必ず春がやって来る、という事をちゃんと判っている。判っているから、雪の下でも枯れずに堪え続ける事ができ、雪の中でも芽吹く事ができる。

 それがすごいな、と、正直思う。

 自分なら、どうだろう。絶望的な深さの雪に埋もれ、それが何時まで続くかも判らない。そんな状態で雪の下、青さを保ったまま堪え続ける事なんて、できるだろうか。いずれは春がやって来る、その事を理解はしていても、本当にそれを信じて待つことなんて、できるだろうか。もし春が来なかったら枯れてしまう新芽を、全力を振り絞って雪の中で伸ばす、そんなことができるだろうか。

 そういう勇気を、持てるだろうか。


 陽の光も射し込まない、深くて暗い雪の中。
 何時まで続くのかも判らない、長くて冷たい冬。
 そんな先が見えない冬の間、やがて春が訪れることを本当に信じて、それを待つことができる者だけが、信じた通りの春を迎えることができるのだと思う。陽光溢れる暖かな、待ち焦がれた幸せな春を迎えることができるのだと。

 そして、それができない者にとっては。
 春はただ、流れ去るひとつの季節に過ぎなくなるのかも知れない。


 ふと見上げると、公園の木々。
 白樺の枝々が、茶色い蕾の房を、無数にぶら下げている。若葉よりも先にひらく花だ。風が吹く。蕾の房がさわさわと揺れる。ようやく動けるようになったばかりのブランコも、風に吹かれて僅かに振れる。

 蕾をつけた白樺の枝には、冬を耐え抜いた二枚の枯葉が残っていた。
 枯葉は枝先に留まったまま、蕾と共に風に揺れている。

 公園に吹く風は、まだまだ冷たい




『誰かに何かを背負わせることで』


 遅くまで寝ていたのでその来訪には気付かなかったけれど、起きてから朝刊を取ろうと郵便受けを覗いたら、そこにはある宗教団体のパンフレットが差し込まれていた。
 パラパラと捲ってみる。フルカラーのパンフレット。水彩画のような淡い筆致のイラストが、様々な言葉と共に、その随所に嵌め込まれている。

 ページを捲りながらイラストだけを見ていると、弟子達に教えを説いているキリストらしい人物が描かれていた。それから何枚か捲ると、十字架に手足を打ち付けられたキリストの姿。あまり詳しくはないけれど、「人類の罪の全てを贖った」という、その姿が描かれていた。


 「他の無数の人々の罪を、その一身に背負う」

 …その言葉とその感覚は、ちょっと僕の理解を超えている。
 彼と彼を慕う仲間達に何らかの理由で向けられた、粛清という名の権力者の暴力。それを彼が、仲間を救うために自分の一身に引き受けた…というのなら、なんとなく判るのだけれど。

 「誰かに何かを背負わせることで、他の多くの人々が平常に生きられる」
 そう言い換えた方が、僕にとっては判りやすい。


 …そんな事を考えていた時。
 ふと何かに思い当たったような気がして、僕はパンフレットを閉じる。

 何という名だったかは忘れてしまったけれど、ある種の遺伝子の突然変異が引き起こす、先天的な病気。発生は確率的なもので、何千人にひとりの割合で必ず誰かが発病するという、死亡率の高い病気。
 そういう病気がある、という事を知った時、僕は自分が「運が良かった」のだと、その病気に罹ってしまった人は「運が悪かった」のだと、単に正直、そう思っていた。

 でも、それは違うのかも知れない。

 運ではなく、その病気を発症するかどうかは、数学的に計算された「確率」によるものだ。その数字もはっきり憶えていないけれど、仮に「4000分の1」なら、4000人の内のひとりは確実に、その病を負って産まれてくる事になる。

 誰かひとりがその病を負って産まれてきた。
 だから、残りの3999人は平常に生きていられるのだ。


 再び開いたパンフレットに、人類の罪を全てを贖ったという男の姿が描かれている。そして、十字架を背負ったその彼を遠巻きに見詰めている、無数の人々の姿も。

 誰かが何かを背負うことで、他の多くの人々が平常に生きられる。 
 定められた確率で出現するという、ある種の遺伝子疾患。
 それも、ひょっとしたら、そういうものなのかも知れない。


 誰かに何かを背負わせることで、僕達は平常を生きているのか


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