kassyoku 044 『春風のステンド・グラス』 道路の雪がすっかり消えてからも、しばらくの間、自転車置き場は雪に埋もれていた。でも、ふと見るとその雪も消え失せていた。今日は自転車初日。久しぶりに引っ張り出した自転車は、雪に埋もれていたせいか、あちこちが錆付いていた。その上、先週の黄砂で埃まみれ。タイヤの空気も抜けてしまって、まぁ乗れなくは無いけれど、ベコベコの状態だった。 自転車用の空気入れを持っていないので、近くの自転車屋へ向かう。この自転車を買った店だ。自転車屋もようやくシーズン入り。ビニールを被せられたままの新品の自転車が、軒の路上に所狭しと並べられている。 歩道に自転車を止め、店内へ。硝子の引き戸を開けると、チリンチリンと鈴が鳴る。店の主人が出て来る。空気入れ貸して欲しいんスけど。そう告げると、愛想もなく「そこ」と指さされた。見ると入り口の脇に、小さなポストのような、変な形をした電動式の空気入れがあった。 そして、さらによくよく見ると、そこには「50円」の文字が。 カネ取るんかい。…ここで買ったんだぜ? と、自転車に貼られている店のシールを指す。ああ、そうかいそうかい。それなら。と、笑顔になった店の主人は、レジの机の下から普通のポンプ式の空気入れを出してきた。それを受け取ろうとすると、いいからいいから、と止められた。そうして、主人自らシュコシュコと空気を入れてくれる。アフターサービス、なのだそうだ。 あちらの雪もそろそろ無くなっただろうと思い、その後、河川敷へ向かう。冬は雪に埋もれていた自転車道も、もう完全に姿を現していた。 走りながら眺める川沿いの樹木。細枝をぐんぐん伸ばしている。まだ葉は見えないけれど、その芽が大きく膨らんでいる。所々枝先が白いのは、猫柳の芽だ。纏っている毛皮は灰色に近い銀色をしているけれど、見る角度によっては、陽射しに真っ白く輝いている。まるで、枝先に小雪を載せているみたいだ。 風が結構きつかった。向かい風の時にはペダルが極端に重くなる。埃っぽい風だ。近くに埃を巻き上げるような土の地面はないけれど、これもひょっとしたら、先週の黄砂の名残だろうか。 そして、そんな埃っぽい風の中、時折薫っていたのが、湿った土や芝の匂い。風を切って走っている時にはまだ冷たい風だけど、立ち停まった時にはふとした暖かさも感じた。もうすっかり春の風だ。 土埃だとか、匂いだとか、暖かさだとか。 春に吹く風は、そうした様々なものを共に運んでくる。 風が何かを混じえて吹くようになると、春なんだなと感じる。長く続いた冬の風は、純粋だった。だから余計にそう感じるのかも知れない。 冬の風には混じり気が無かった。風が孕む土埃や、薫りの源になる地面も、氷や雪に厚く覆われている。そして、吹く度にぴしっと身を締め付けてくる凍てついた風の中には、暖かさも無い。純粋な風。風の本来の姿とは、こうした冬に吹くような、混じり気の無い冷たい風なんだと思う。 そして春になると、ようやくそうした透明な冷たい風に彩りが添えられ、様々なものの息吹が載せられ、暖かさが加えられるようになる。 そう。冬の風が無色透明な窓ガラスなら、春風は様々な色彩を持ったステンドグラスだ。透明だった風に、淡い色彩が加えられる季節。それが春なんだなと思った。 春風越しに見る街の色彩も、徐々に豊かになってきている (2002/03/30) 『あて先不明』 この街に引っ越してから、この時期でちょうど一年目になる。引越しでの生活環境の変化は劇的だったけれど、どうだろう。一年前と比べて、自分自身は何か変わったのだろうか、と、そういう事を少し思っていた。 この一年、自分ではっきり判るほどの大きな変化は無かったけれど、客観的にはどうなのだろう。変わっているのかも知れないし、何も変わっていないのかも知れない。ひょっとすると、同じ事の繰り返しをずっと続けて、時間をやり過ごしているだけなのかも知れない。 ただ、自分の変化を自身で計ることは難しい。 僕を見るその人によって、僕は変わっていたり、何も変わってなかったり、色々なのだと思う。 そういえば。引っ越してから一年目、という事は、引越し前に郵便局で住所変更の手続きをしてからも一年目、という事だ。郵便局で手続きをしておくと、古い住所をあて先に送られた郵便物も、きちんと新しい住所へと転送してくれる。 で、その転送をしてくれる期間が、確か手続き後一年間だった。いよいよ期限切れだ。今もって新しい住所…というより、引っ越したという、その事自体を知らせていない相手が何人かいて、最近になっても結構な量の郵便物が前の住所で転送されて来ていたけれど、それもこの春で、もうお終いになる。 まぁ、その殆どはダイレクトメールなので、放っておいても問題はない。知らせる必要のある相手には、既に新しい住所を伝えてある。でも、そういう相手のリストからふと漏れていた相手で、僕の前の住所しか知らない相手にとっては、僕はいよいよ「あて先不明人」になってしまう訳だ。 今年送られてきた年賀状。その中には、前の住所のままで送られてきた意外な相手からのものも、何通かあった。すっかりフェードアウトしていたと思っていたその相手との関係が、再びそれで繋がったりもしていた。けれど、そういう事もこれからは起こらない。自分から動かない限りは。 この一年間の、郵便物の転送期間。それは僕にとって、前の住所から今の住所へと引き継ぐ関係を選択する、そんな期間だったのかも知れない。 この春から、僕に前の住所で送られてくる郵便物は、全てが「あて先不明」となり、送り主に返送される事になる。可能性はあったのに、この春で切られてしまった、切ってしまった、そんな関係もひょっとしたらあったのだろうか。 そういうことを、ちょっと考えていた。 自分の出した手紙が「あて先不明」で戻ってきた時の事を、思い返しながら 『春のうららは春の霧』 朝方の街に、薄い霧が立ち込めていた。 その景色を見ながら、ふと「春うらら」という言葉を思い出す。春とはいえ朝夕の気温はまだまだ肌寒く、けっして「うららか」という感じではない。けれども、僕の中ではその霧立ち込める春の朝の風景と「春うらら」という言葉が、何となく結び付いてしまっていた。 「春うらら」の中の「うらら」という言葉に、僕はちょっとした想い出がある。 その「うらら」という言葉の意味が「暖かい陽気」や「春の陽射しの穏やかなさま」を指す「うららか」という言葉と同じ意味だ、という事を、子供の頃の僕はずっと知らなかった。 知らなかったというよりは、その意味を間違って憶えていた、というべきか。 僕はずっと「春うらら」の「うらら」を、「霧」の事だと思い続けていた。 だから、僕にとっては長い事、「春うらら」とは「春の霧」という意味だった。小学校での音楽の時間に『春のうららの隅田川』の歌を習った時も、僕はまず、「春の川霧が立ち込める隅田川」の風景を想像していた。見通しの悪い中なのに、舟を漕ぐ人は大変だなぁ…といった感じで。 「うらら」=「霧」 というのは、僕が勝手にそう思い込んでしまった事ではなく、誰かからそう教わった事のような気がするけれど、あまり良く憶えていない。でも、とにかく僕は、「うらら」=「うららか」という意味を知る以前に、その言葉の意味を「霧」だと、思い込んでしまっていた。 だから、天気予報などで「春うらら」という言葉に触れる度、僕は自分だけ、他の人とは違った風景を心の中に描いていたはずだ。皆が「暖かな春の陽気」を思い浮かべている中で、僕だけが一人勘違いして「春の霧」の風景を思い描いている状態。 でも、僕自身「春うらら」という言葉を使う事は余り無かったし、「春うらら」を「春の霧」と勘違いしていても、意味的にはそれでも何となく通じてしまっていたので、少し大きくなってその言葉の真の意味を知るまでの間、誰かに間違いを指摘される事も無く、僕の中ではずっと、「うらら」は「霧」という意味であり続けていた。 「うらら」の意味が「うららか」だという事を知ってからは、僕は自分がどうして「うらら」の事を「霧」だと思っていたのか…という、そんな事は忘れてしまっていた。単なる自分の勘違い。多分そう結論付けて、それからずっと長い事、僕はその事を思い出す事もしていなかった。 けれども。 学生をやっていたある日。僕は子供の頃に自分が知っていた意味での「うらら」という言葉と、長い年月を経て偶然再会する事になった。 アイヌ民俗学を扱う、とある講義の中で教材として使われていた、アイヌ伝承について書かれた冊子の中。アイヌ語と日本語の単語対訳が載せられていたページの一枚の中に、僕はかつて知っていたその言葉を見つけた。 『 ウララ 【urar】 = 霧、海霧 』 ずっと長いこと、僕の中で「うらら」は「霧」だった。そして、その言葉の真の意味を知った今でも、僕の中で「うらら」は時々「霧」になる。 春のうららは、春の霧。 立ち込める霧の中に、自分の身を包み込ませる時。 そんな時は「うらら」という言葉の響きの方が、僕は好きだったりする (2002/04/10) 『自己中心』 いいじゃないか。別に自己中心だって。世界の中心に僕は立っていて、他の誰も、その中心には立ち得ない。そして、その世界は常に、僕を中心として動いているんだ。 それを傲慢な考えだと罵るつもりなら、その世界の一番端を目指して歩き続けてみるといい。歩いて歩いて、その世界の果てを目指すんだ。できると思うかい。世界の果ての切り崖の縁に、立つという事。 歩いても歩いても、歩み寄った地平線の端からは次々と新たな地平線が立ち現われてくる。そうしてやがて大地は尽きて、海に足止めされる。そこで大海に漕ぎ出してみても、水平線の向こうからはまた新たな水平線が現われる。 どちらを目指しても同じ事。僕が一歩進めば、世界の果ても一歩遠のいてしまう。 そうして、この世界は決して、僕を中心から逃れさせてはくれないんだ。 そう。自分の世界でその中心に立つのは、常に自分自身だ。誰もそこから逃れる事はできない。そして、自分以外の何者も、その中心とはなり得ない。僕の世界の中心には僕自身がいて、そこにあなたが立つ事はできない。あなたの世界の中心にはあなた自身がいて、僕は決して、あなたの世界の中心に立つ事はできない。 …そういう事を、僕達はもっと良く知る必要があると思うんだ。 そうして、怖がらずに、遠慮せずに、逃れようとせずに、堂々と自信を持ってその中心に立つ。と同時に、自分の立っているその中心が、己の世界の中心に過ぎない事も知る。 自分の立ち位置を見失っちゃ、駄目だよ。立ち位置の曖昧な人が、時に自分以外の何モノかを自分の世界の中心に据えてしまったり、他人の世界の中心にその座を占めようとしたりする。そうしてちょっと、おかしな事を引き起こしてしまうんだ。 それから、全ての人にそれぞれの世界があって、それぞれの世界の中心にその身を置いている事を知る。世の中には無数の人がいて、それぞれの人がそれぞれの中心から、それぞれ違った世界を見詰めている。 時々、思うんだ。 無数の人がいて、 それぞれが皆違う視線で、無数のユニークな世界を見ているから、 だから世界は広いんじゃないかな…って (2002/04/14) 『今はまだ完璧な形の若葉達』 あちこちで桜が満開になって、この街にこんなに桜の木が多かった事に、改めて気付いた日。街中の公園で自転車を停め、一息つく。そうして、桜の木の下のベンチに座る。 花をつけた枝先が、すぐ目の前にあった。枝の先端には若葉が開いている。 他の木の若葉と違って、桜の若葉は緑色をしていない。シソの葉のような赤褐色だ。花はその先端の若葉のやや後ろ、根元の方に数輪、ぶら下がるように咲いている。ソメイヨシノは、葉を開くより先に花を咲かせるというから、この桜はソメイヨシノではない。多分、ヤマザクラの一種なのだろう。 枝先の若葉に目を向ける。今が盛りの花と違って、葉の方は二つ折りの状態から開き始めたばかり、という感じで、まだ初々しさがある。これから一年間、その木の生命を維持する役割を担うことになる、無数の若葉達だ。 産まれたばかりの今はまだ、図鑑に描かれているような完璧な形を保っている若葉達。でも、散る時には一体、どんな形をしているだろう。…そんな事をふと思う。やがて虫に喰われたり、陽射しに焼かれて色褪せたり、雨風に所々千切れたりしながら、葉はその一枚一枚、それぞれが唯一の形へと、その姿を変えてゆく。 最初は完璧な形で産まれ。成長の過程で様々な部分を欠けさせながら、葉は個性的な形となって散ってゆく。 産まれたばかりの時。人の心は「真っ白」だという。 真っ白。つまり、知識も知恵も、思考も思想も無い、「零」の状態なのだと。 でもそれは「まだ何も無い」という状態ではなく、無限に満たされた、完璧な状態、なのかも知れない。完璧な形を持って産まれてきた、この木の無数の若葉達のように。 そして、成長の過程で様々なものと接する度。最初は完璧な形だったその心から、人は何かを削り落としながら、生きているのかも知れない。 だとしたら。 人は最初は空っぽだった心に何かを満たしながら成長するのではなく。 最初は満たされていた心から、何かに接する度に何かを削りながら、それを成長と呼んでいるだけ、なのかも知れない。 人は完璧な形の心を持って産まれてきて、不完全な形の心を抱きながら死んでゆく。…ひょっとしたら、そういうものなのかも知れない。 今はまだ完璧な形の若葉達。 やがて秋に舞い散る時。若葉はどんな個性的な形に育っているのだろう |