kassyoku 045 『うぐいしゅ、ないた?』 自転車置き場に自転車を入れようとしている時。ここらではちょっと珍しい色柄をした小鳥が一羽、僕の目の前を掠め飛んで、少し離れた立ち木の枝先に停まった。 …あ、ウグイス。 その小鳥を見て咄嗟にそう思った。でも、こんな街中にウグイスなんて棲んでいるのだろうか、という疑問も同時に頭を過った。色柄はそっくりだけど、どうだろう。そう考えると、少し自信が無くなった。 一声鳴いてくれればすぐ判るけれど、枝先のその小鳥はずっと黙ったままだ。 ひょっとしたら反応があるかも、と思い、ほーほけきょと口笛を鳴らしてみる。 実は、ウグイスの鳴き真似が結構得意だ。ウグイスが鳴いている所で上手にウグイスの鳴き真似をすると、縄張り意識からか、ウグイスは鳴きながらこちらに近付いてくる。…そういう遊びを子供の頃によくしていたので、いつの間にか鳴き真似が上手くなって、時に人を騙せる、そんなレベルにまでなっていた。 そういえば。 ウグイスの鳴き方は、地域によって違うみたいだ。 僕が真似できるのは、子供の頃住んでいた地域のウグイスの鳴き方。少し高めの音で、文字にすると「トートケキョ」といった感じになる。でも、去年まで住んでいた土地で聞いていたウグイスの鳴き声は、それよりももっと低い音程で、リズムも全く異なっていた。文字にすると「ローロロロケキョ」といった感じ。 これは「方言」みたいなものなのだろうか。 とにかく。札幌のウグイスがどう鳴くのかは知らないので、僕は自分ができる鳴き方で「トートケキョ」とやってみた。でも、枝先の小鳥に反応は無かった。 その小鳥は、やはりウグイスには違いなかったけれど、ひょっとしたら彼らとこちら「ウグイス語」が違うのかも知れない。それとも、単にこちらの真似が下手なだけか。 …そんな事を勝手に思いながら、もう一度「トートケキョ」とやってみる。 枝先の小鳥の方は、相変わらず完全無視。 でも、反応はそれとは全く別の方向からやってきた。 自転車置き場で、補助輪が付いた自転車を引き出そうとしていた女の子が、僕の「トートケキョ」に、辺りをキョロキョロ見廻した。アパートのコンクリート壁の間で音が反響するので、その声が自分のすぐ背後から出されている事に気付かないみたいだ。 で、その後姿が可笑しかったので、もう一度「トートケキョ」とやる。 その女の子も、今度は「ぴっ」とこちらを向いた。 そうして僕と眼が合って、女の子が一言。 「…うぐいしゅ、ないた?」 ちょっと間を置いてから、うん、と頷いた。 ほら、あそこ。うぐいしゅ。…まだ小鳥が留まっている木を指さすと、女の子の顔もパッとそちらを向いた。そうして、少し経ってからようやく枝先の小鳥を見つけると、女の子は再びこちらを振り返った。 「うぐいしゅ、いたぁー!」 そう言って、女の子は「えへへっ」と嬉しそうに笑っていた。 僕はただただ、ごまかし笑いだった。 …でも、まぁ、いいか。 この街の「ウグイス初鳴き」より、ちょっと早かったかも知れないけどね (2002/04/17) 『移動という休息の中で』 市内の中心部を流れる川。その川沿いの道路を、バスは上流へと向かって走る。車窓から望めるのは、風強く吹く春の街角。風と向き合いながら前のめりになって歩く人々と、背をかがめながら風に押されて歩く人々とが、歩道の上で交錯する。 向かい風の中、自転車を漕いで走る高校生達が、停留所で停まったバスの脇をすり抜けて行った。このバスは先程、彼らを追い越したばかり。でも、数百メートルおきの停留所で、すぐにこうして追いつかれ、再び追い抜かれてしまう。…そんな事を繰り返していた。 バスの脇を抜ける高校生の顔が、窓の外。僕の視点とさほど変わらない高さで通り過ぎた。彼ら三人共、自転車の立ち漕ぎで、今日の強い風に抗している。今日の風は強く、そして冷たい。間近を通り過ぎた彼らの横顔にも、ほんのりと赤みがさしていた。 乗客を少し入れ替えて、バスは再び走り出す。 街角のあちこちに、先週末から咲き始めた桜の花が目立っていた。僕自身、連休前にこれほど桜が咲いているのを見たのは、始めてだ。そしてこの風に、もうその花びらが舞い散り始めている。 今年は例年になく早咲きの桜。 この街でも例年より二週間ほど早く、それは「記録的な早さ」なのだという。 でも、どうなのだろう。 ひょっとしたら、暦にしがみつく人々の方が、実際の季節から二週間ほど取り残されてしまっている。…ただ、それだけなのかも知れない。 川沿いを上流へと、バスはこの街の郊外を目指して走ってゆく。 平野にあるこの街も、こうした外れの方まで来ると、道路脇にまで小高い山並みが迫る。山肌の斜面は隙間無く樹木に覆われているけれど、まだまだ目立つほどの緑は、そこには無い。 そんな山肌の所々に、斑状の白い色の部分があった。 その白は、コブシの花だ。そこでは枝を大きく拡げたコブシの木が、無数の大きな真っ白い花を咲かせている。そうして、まだ葉の色が見えない暗色の山肌に、ぽつりぽつりと白の彩りを映えさせている。 それがふと、まだ山の斜面に残された「雪」のように見えた。 まるで残雪のような、コブシの白。 降車地点を告げるアナウンスが、車内に流れる。 途端に、意識が車内の自分の中に戻ってくる。ハッとして、降車を知らせるブザーのボタンに手を伸ばす。でも、先に誰かに押されてしまう。僕は一度伸ばしたその手を戻し、そのままポケットの中の小銭を探る。 停留所が近付く。バスは路肩に寄り、ぐぐっと減速する。 座席から立ち上がる前に、再び車窓から外を眺めた。雨予報の曇り空。相変わらず、風が強く吹く街角。風に花ごともぎ取られた桜が数個、歩道の上をコロコロと走っている。 そして。 バスは彼らをいつの間に追い越していたのだろう。 車窓の外。あの立ち漕ぎの高校生達が、停止したバスの脇を再びすり抜けてゆく (2002/04/24) 『月を見てたら海に行きたくなった』 午後六時の帰宅の際に見た月は、もうかなり高い所まで昇っていた。午後六時の空よりも明るく輝いている、もう殆どまんまるな月。左下がちょっとだけ欠けている。 もうすぐ満月だ。明日昇る月は、今日よりもっと満ちている。明日の月は今日よりも遅れて昇り、二、三日後の土曜日か日曜日には、日没とほぼ時を同じくして、まんまるな月が顔を出し、昇り始めるだろう。 …そう。満月は、沈む太陽と入れ替わるようなタイミングで昇ってくる。 満ちてくるにつれて月の出の時刻は日没の時刻に近付き、満月を境に、月の出は再び、日没の時刻から遠ざかってゆく。次第にその姿を細らせながら。 満月以降の古の月の呼称が好きだ。 満月の後、月の昇る時刻が日没から遅れるにつれて、月の呼称は「立待月」、「居待月」、「臥待月」、「寝待月」…と変わって行く。昔の人は待っていたのだ。次第に夜更けにずれ込んでゆく、月の出を。 最初は立って待ち、次の日は座って待ち、その次の日は臥して待ち、終いには、寝てまでも待つ。そうしてとことん待つほどに、昔の人にとっての月は、電気も無い時代の闇夜の中の、重要な位置を占めていたんだな、と思う。 月に対しては、その満ち欠け以外に、僕はもうひとつの見方を持っている。 海がまだ、歩いて行けるほど本当に身近にあった、子供の頃。月が満月を迎える頃の海に遊びに行く事が、すごく楽しみだった。 満月と新月を迎える時。同時に海は「大潮」となる。潮の満ち引きが一番大きい時期だ。で、大潮の海が干潮を迎えると、普段は海面の下に隠れている岩場などがあらわになって、普段は行けないような所に渡れたり、潮引きに取り残されている蟹だとか貝だとか、そういういろいろなモノを捕らえたりする事ができる。海岸線が大きく後退するので、潮干狩りにも一番向いている時期だ。 そういう訳で、子供の頃は満月と土曜日曜とが重なると、海に行きたくて本当にうずうずとばかりしていたような気がする。 …いや。今でも変わらないのかも知れないけれど。 満月に近い月を見て、「あー、そろそろ大潮だよなぁ」と、そんな事を想う。月に寄せる想いは人それぞれだけど、中にはそういう事を考えている人もいる。 ほら。月を見てたら海に行きたくなった。 連休中には絶対、海に行くんだ (2002/04/25) 『復讐』 大型連休の前半。皆、郊外のどこかへ出掛けてしまって、街中は以外と空いているだろう…と思ったけれど、そうでもなかった。公園の芝生には何組かの親子連れや、子供達のグループが遊んでいる。所々にあるベンチには、大人。本を読んだり、公園の風景をスケッチしたり、煙草をふかしながらただ座っていたりする。他には、餌を与える人の周りを囲んでいる、鳩の群れだとか。 僕は先程から一羽のカラスを見ていた。 公園の水飲場。その蛇口の脇に針金のフックが取り付けられていて、そこに洗車用のブラシが掛かっている。そのブラシに、さっきからずっとカラスが飛びかかっている。ブラシとカラスが戦っているようで、その光景が面白かった。 カラスがブラシ相手に何をしているのか。飛びかかって、数本のブラシの毛を咥えては、バサバサと飛びのく。毛を引き抜こうとしているのだ。勿論、巣づくりの素材にするため。でも、なかなか簡単にはその毛が引き抜けないようで、カラスは人目もさほど気に留めない様子で、ひたすらブラシに挑み続けている。いつもなら鳩に与えられているパン屑を遠巻きに狙っているような、そんなカラスの姿は、今日のこの公園には無かった。 何度目かのアタックを終えて、地面に降り立ったカラスの動きが、ふいにピクッと停まる。それから、引き抜いたものを咥え直す事もせず、唐突にバサバサ…と遠くの枝へ飛び去ってしまった。間を置かずに、それまでカラスが立っていた地面の上を、一本の木の枝がコロコロ…と転がってゆく。 枝は水飲場のコンクリートにカツン、と辺り、動きを停めた。 カラスに向かってそれを投げたのは、子供だった。可愛い帽子を被った、けれど、やんちゃそうな男の子。高みへ逃げたカラスをじっと見つめた後、投げた棒を拾いに行こうと駆け出す。でも、それを母親が止める。…駄目だって、と、母親が子供を嗜める声がここまで聞こえてくる。微笑ましい光景。 けれど、次に母親が言った言葉に、ふと耳が停まった。 …カラスは「復讐」するんだから、ね 突然出てきた、「復讐」という言葉。 その言葉だけが、この新緑の公園の風景の中、何となく生々しく響いた。 カラスは時々、人に復讐する。 巣に悪戯された時や卵を割られた時。雛を獲られた時。石を投げられたりした時。カラスは自分や家族に危害を加えたり、危害を加えようとした人の事をずっと憶えていて、無数の人々の中からその人だけを識別し、後々まで執拗に攻撃を加えてくる。 …母親が子供に言った「カラスの復讐」とは、多分、こういうものだろう。 でも、カラスのそういう行動は、「復讐」なんていう感情に突き動かされたものではない。カラスの復讐。それが「復讐」に見えてしまうのは、カラスの中に復讐という感情があるからではない。それを見る人の中にある「復讐」という感情。情念。それをカラスのその行為の中に、人の側が見てしまっている…それだけなのだと思う。 カラスにしてみれば、危害を加えられた人間を「敵」と判断して襲っているか、危害を加えそうな人間を自衛のために襲っているか、そのどちらかだ。時々、物語の中に見る、動物達の復讐劇。それも同じ。その時、人は自分達の中にしか存在しない「復讐」という感情を、それを持たない動物の中に、見出してしまっている。 無数の動物の種の中で 「復讐」なんて感情を持っているのは、人間だけだ。 目の前で猫に自分の雛を獲られた親雀が、猫に対する復讐を誓う事はない。しばらくは哀しそうに辺りで囀っているけれど、その後はただ、その事実を受け入れるだけ。敵わぬ相手だからと、諦めてしまっているのか。それとも、相手のその行為を許しているのか。…どちらも違う。 相手を許すとか許せないとか、そういうものを超越した、あるひとつの価値観。 そんなものを、彼らは持っているんだと思う。そして、動物達はずっとそれをひとつのまま持ち続けてきたけれど、人はいつしか、進化の過程でそれを「許せる」と「許せない」の二つに分けてしまった。そんな気がする。 「様々な価値観を持つ人類が、この限られたサイズの地球上で、これからずっと平和に、仲良く暮らしてゆくためには、相手を『許す』、その心が必要です。例え肉親を殺されようと、恋人を殺されようと。復讐は報復を産み、報復は新たな復讐を産むだけです。この連鎖を断ち切るためには、どこかで、誰かが、自分の敵も含めて、他人の全てを『許す』。…その事が必要なんです」 そう誰かが言うと、必ず誰かが、それにこう反論する。 「あなたは何も知らないから。本当に目の前で自分の大切な人を殺された、そういう経験がないから、あなたにはそういう事が言えるんです」 同じ台詞を、そう。これまで必死で護ってきた雛の育つ「巣」を、目の前で公園の管理者に撤去されたばかりの親ガラスにでも、同じように伝えられるだろうか。…カラス相手には、そんな気すら起きないだろうか。カラスが人に復讐心を抱くには、充分すぎるほどの動機だけれど。 でも、それをカラスに伝えたところで、伝わったところで、カラスは何も答えない。答えずに、また新たな巣を作りにかかる。カラスは前者のような、悟りにも似た思考を経てきた訳ではない。後者が言うような経験を経てきているけれど、その事を声高に叫んだりもしない。 ただ黙々と、カラスは新たな次の世代を育む、その準備を続けるだろう。 目の前で大切なものを奪った相手を、許すとか、許さないとか。…そういった感情とは無縁な世界が、ごくごく身近なところに、こうして確かに存在している。 そう考えると、人間って面倒だなと思う。 様々な感情を、無数に持ってしまった、その分だけ。 僕はカラスを見続けている。 子供がいなくなるとカラスは再び降りてきて、またブラシと取っ組み合いを始めた。そうしているうちに、ブラシはやがて掛け金から外れ、地面に落ちた。 カラスは両足でその柄を地面に押さえつけ、ブラシに馬乗りになるような姿で、首を左右に激しく振りながら次々と毛を引き抜いてゆく。 そうして、嘴に挟みきれるだけの毛を抜き終えると、カラスは地面にばらばらと散らばったままのそれらを器用に集め、ひとまとめにして咥え直し、そのままどこかへと飛び去って行った。 コンクリートの水飲場の蛇口の下に、置き去りにされた青い洗車ブラシ。 周囲にまだ何本か散らばる、残された黒いナイロンの毛。 子供が放った、枯れ木の枝。 動きを停めたそれらを残し、公園は少し静かになった (2002/04/29) 『蝶々貝』 連休後半の海。行楽地の賑わいをよそに、人影まばらな漁港。 釣りをしに来たけれど、まだちょっとシーズンには早い。そんな事は判っている。判っているけれど、こうして海へと足を向ける。 正直、釣りなんてどうでもいい。ただ、釣り竿が必要なだけ。 ほら。沖合いに真っ直ぐに突き出した防波堤の先端で、いい歳した大人の男が一人、ぼーっと立ってただ潮風に吹かれていたり、立ち現われてはその形を留める事なく消し去りながら、移ろい続ける波を見詰めていたり、青空を眺めて物思いに耽っていたり。…そういうのって、傍目を考えると少し気恥ずかしいだろう? でもね。釣り人になればそんな事気にせずに、僕はこの魚港の風景に融け込める。誰が見ても違和感を感じる事の無い、海の風景の一部になれる。 海で同じ事をしていても、釣り竿があると無いとでは大違いだ。 釣り竿無しでたった一人海にいて、テトラポットに腰掛けて頬杖ついて、ぼーっと海に沈む夕陽を眺めていたりしたら、傍から見ると「この人何かあったのかな?」と、余計な事を思わせてしまうかも知れない。でも、手元に釣り竿があるのなら、「あー、この人全然釣れてないんだな」くらいで済んでしまう。 まぁ。どちらにしても、やっている事には余り差はない。 釣りをしている、と言っても、僕の場合。海にいる時間のうち、「本当に釣りをしている時間」というのは、ごく僅かなのかも知れない。僕は海にいる殆どの時間を、ぼーっと立ってただ潮風に吹かれていたり、立ち現われてはその形を留める事なく消し去りながら、移ろい続ける波を見詰めていたり、青空を眺めて物思いに耽っていたり…して過ごしている。 釣り…だなんて、海にいるための単なる理由付けに過ぎないのかも知れない。僕はこういう時間が、ただただ好きなだけなんだ。 防波堤の外海側に積み上げられたテトラポットの上を歩いていた時、そのテトラポットのひとつの上に、ぽつんと二枚の貝殻が乗っているのを見つけた。淡い紅色…桜色をした貝殻。蝶々が羽を広げたような形をしている。 この貝殻。その名も「蝶々貝」だ。 観光地の「えりも岬」近くに、稀にこの貝殻が打ち上げられる事で有名な浜がある。でも、その浜に打ち上げられているものは、砂に洗われて欠けたり、色が落ちていたりして、完璧な形で発見される事は珍しいのだという。だからこの貝殻は「幻の貝」として結構名が知られていて、えりも岬周辺の観光案内の中などで、写真入りでその名を見かける事もある。 確かに。僕はこの貝殻、浜辺で見つけた記憶はない。 けれども、僕にとっては「幻の貝」というほど珍しい貝殻、という訳でもない。 釣りに行った際、僕はこの貝殻を良く見つける。ただ、僕がこの貝殻を見つけるのは、いつもこうしたテトラポットの上や防波堤の上。海面からは高く離れているそうしたコンクリートの上に、この貝殻はいつも何枚か固まって、まるで誰かがそこに残して行ったかのように、ぽつんと置かれている。 そして、そこにそうしてある「チョウチョ貝」は、浜辺に打ち上げられるものの殆どがそうであるように、欠けたり、色落ちしたりはしていない。「今死んだばかり」といった美しい色と、完璧な形を保ったまま、ただ、その場所にひっそりと置かれている。 …何故? そんな「幻の貝」が、様々なものが打ち寄せる海岸にではなく、こうして水際から離れた防波堤やテトラポットの上に、完璧な姿形のままで置かれている理由。 そういう事を考えてみるのも、それはそれで結構楽しかったりする。 普段は見つけても余り気に留めていなかったけれど、今回は何となく、その二枚のチョウチョ貝を拾い上げ、ポケットに入れた。お持ち帰りの魚は無かったけれど、それでも海は、魚という獲物以外にも時々、こうした素敵な贈り物をしてくれる。 浜辺に打ち寄せられた「宝物」を見つけた時の子供のような、少しだけそんな気分で、僕はその貝殻を持ち帰った。 そうして今も手元にある、チョウチョ貝。 桜色の羽を開いた、蝶の形をして。 明日からまた、海とは縁の無い日々が始まる (2002/05/06) |